ところで「メディアがつくる身体」は、「視点を変える」シリーズの流れで取り上げている。
そうであることを納得するには、文型を揃えればいい。
どんな文で表されるんだっけ?
視点が変わると世界観が変わる。
メディアが変わると身体観が変わる。
どんなメディアを手にしているかで、世界の見え方は変わる。スマホが存在するのとしないとでは社会に対する振る舞い方は変わる。それは我々の世界観が変わることを意味する。
さらに「視点を変える」シリーズということは、スキーマとゲシュタルトだ。何がスキーマ? ゲシュタルト?
これも文型を揃えればいい。
スキーマがゲシュタルトをつくる。
メディアが社会的身体をつくる。
題名がそのままそれを表している。
つまりメディアによってつくられる「身体」がゲシュタルトだ。
それはメディアのあり方に応じてそのあり方を変える。
スキーマが変わればゲシュタルトが変わる。
メディアが進歩すると身体イメージが変わる。
次のような対応であることは以上のような文型の比較によって明らかだ。
視点=スキーマ=メディア
世界観=ゲシュタルト=社会的身体
一方、「共に生きる」であるともいえる。
どういうふうに言えばそうだと思えるか?
例えば「共鳴し引き出される力」を思い出そう。
能力というのは私一人が持っているものというより、周囲の人々との共鳴によって引き出されるものだった。
同じように、この文章では、私の持っている能力は、メディアを使うことで、すなわち他人とのコミュニケーションによって形成されている。「社会的身体」とはそのような「能力」を持ったものだ。
あるいは「ほんとうの〈わたし〉とは?」もいい。
〈わたし〉とは完結した存在ではなく、他者とのつながりの中でさまざまな側面を持ったものとして存在している。そうした〈私〉を平野啓一郎は「分人」という概念で説明する。
同様に、〈私〉は、メディアを介して世界・社会・他者とつながった存在だ。
つまり「分人=社会的身体」なのだ。
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