評論を読むためのメソッドとして今まで意識して実践したのは、例えば「一文要約」や「問いを立てる」だった。
一文要約は、その文章の最も重要なエッセンスを単文で表現しようとすることで、論理を把握することに頭を使うテクニックだ。一文にしておくと取り回しが楽なので、それを「使う」にも便利だ。
その単文における「主語」とはその文章の主題・モチーフであり、「述語」は結論だ。その文章は「何が―どうだ」と言っているのかを簡潔に表現する。そうしようとすることで頭を整理する。
「問いを立てる」は、その結論が、どのような問題意識から導かれたものかを明らかにしようというものだ。「どうだ」という結論だけを言われても、だから何? という印象にしかならない場合もある。その時、「問い」が何であるかを考えることで、筆者の思考をたどることができる。
さてこれらのメソッドを使ってみよう、と考えると、それが「鳥の眼と虫の眼」にはまるで使えないことがわかる。
何を主語として取り立てるべきかも、述語が何かも、まるで見当がつかない。
終わりの一文「つつましい便りを送ることができたらと願う」が何のことを言っているのか、まるでわからないのだ。これが結論かどうかもわからない。その前あたりの終盤も、どこかを結論として認定できそうな感触がない。
同様に主語にすべき何事もわからない。「主語にすべき」とは、文中で明示されているか、結論から遡って設定されるかだが、それらしきものが明示もされていないし、結論もわからないから、取り上げようもない。
そして結論がわからないから「問いを立てる」こともできない。
ではどうするか。ここはもう一つ、ここまで最も頻繁に実践してきたメソッドを想起しなくてはならない。
そう「対比」だ。
ところが考え始めるとすぐに一筋縄ではいかないことがわかってくる。
例えば題名から「鳥の眼/虫の眼」という対比がありそうだと見当はつくが、これが文中で登場するのは半ば過ぎだ。
まずはサン・テクジュペリ「人間の土地」から次の対比が挙がる。
主人公/不帰順族・モール人
その次は「大草原の~」から次の対比。
白人/黒人・先住民
「オリエンタリズム」からは「西洋/東洋」の対比が挙げられる。「東洋」とは西洋から見た「東」という意味だから、アジアだけでなく中近東を含む地域・文化圏を指している。
西洋/東洋
このうち
白人/黒人・先住民
西洋/東洋
は同じ軸上にあると言っていい。だがこれは最初の「主人公/」と同じではない。
3ページ目に次の対比がある。
主人公/異端者
「主人公/不帰順族」の対比は、これと同じともいえるが、「西洋/東洋」の対比と同じともいえる。だが、「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比はまるで違った対比だ。
なぜ?
「白人/黒人」と「西洋/東洋」が同じ対比軸だと言えるのは、両者を並べたときに、左右は対応していて、それを入れ替えることはできないからだ。
だが「主人公/異端者」と「西洋/東洋」は左右を入れ替えて対応させることもできる。「主人公」は「西洋」でも「東洋」でも、時によってどちらにも対応しうる。
「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比がどう違うかを端的に表現するのは難しい。がこういうときにこそ分析力や表現力を総動員した国語力が問われる。
たとえばこんなふう。
「主人公/異端者」は視点の違いを示す主観の対比
「西洋/東洋」は対象の対立を示す客観的な対比
最初の「主人公/不帰順族」の対比は、二つの対比が複合している。
「大草原の~」からは次の対比も抽出できる。
子ども/大人
だがこの「子ども/大人」は文中では二つの例を指している。
子どもの頃の松村さん/大人になってからの松村さん
ローラ/父親
この二つの対比は、同じではない。
なおかつ、これは上の対比のどれとも同じではない。
どうやら一つの軸上に並んでいるわけではないいくつもの対比が次々と登場する。
例えば次の二つの対比はどうか。
主人公/異端者
英雄/普通の人
これらはまたしても同一軸上には並べられない。
「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人」は対応しそうな気配はない。
例えば次の一節を参照してみよう。
その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。
「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。
後半、「近年の人類学」に話題が及ぶとようやく「鳥の眼/虫の眼」が登場する。
その直前に、「征服者/訪問者」という対比も文中から見つかる。
これはなかなかに解釈の難しい対比だ。
英雄/普通の人
征服者/訪問者
は並べられそうな感触がある。が「普通の人」と「訪問者」は対応しそうだが「英雄」と「征服者」には反対の印象がある。いや、共通性が見出せないこともないのだが。「反対」と見なすには共通の土俵が必要でもある。
また「白人/黒人」と並べてみると、「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。では「黒人」は「訪問者」なのか?
そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アメリカ人である白人のアリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。
これは対比の軸が違っているということだ。
対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。ここまでに挙げたいくつもの対比のうち、これにあてはまるのは「征服者/訪問者」だけだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。
では「征服者」とは誰か?
「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。
空からの視線は支配者の視線に通じる
「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。
それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。
だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。
「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっと、ある意味で正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味で」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。
そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているようには思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。
だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。
ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?
明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。
二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?
二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?
なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。
後は各自で考えて。
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