2023年10月31日火曜日

こころ 13 曜日の特定10-「二日余り」の意味

 ところで、保留にしていた、⑤「奥さんがKに話す」が水曜日である可能性について検討しよう。

 ここは、さりげない表現にも漱石の周到な計算が読み取れる、きわめて興味深い考察が可能な箇所である。


 「二、三日」と「二日余り」を足して「五日」になればいいのだから、⑤が水曜日だとしても、そこまでが「二日」で、その後の⑥までの「二日余り」が「三日」だとしても、計算は合う。

 つまり⑤は水曜日と木曜日のどちらでも良いことになる。

 先回りして結論を言えば、確かに⑤は水曜日と木曜日のどちらとは確定できない。先の「暫定的に」は結局便宜的な決定でしかない。

 だがまだ考えてみるべき点がある。この「二日余り」は、なぜ「二日」とか、他と同じ「二、三日」という表現でないのか? そこにはどんな意味があるのか?


 この問題を考える鍵は「勘定してみると」という表現だ。

 なぜこの表現が問題なのか?


 問題は、「私」がどうやって⑤の日時を推定したか、だ。

 言うまでもなく奥さんが「二日余り」と言ったわけではない。奥さんが「二日前にKさんに話した」と言ったのだとすれば、「私」は「勘定」することなくそのまま「二日前」と認識するのであり、そうなれば日程の方ではなく逆に曜日の方を数えることになる。

 では「木曜日」か「一昨日」だろうか。

 だがそれでは「勘定してみると」というもってまわった言い方は必要ない。「勘定」するまでもなく「二日」であることは明白だからだ。


 「勘定してみると」は、あえてそれを数える一手間があったことを示している。

 奥さんの態度の変化から推測したのだろうか?

 だが、それまで「私」に「突っつくように」催促していた態度が、④を境に変化したのは確かだが、「私」がそれを明確に意識することは難しい。「勘定」が可能な程の明確な変化として「私」がそれを木曜日と断定できたとは考えにくい。


 奥さんの話には、日程を示す直截的な表現は含まれてはおらず、同時に「二日余り」という「勘定」が可能な情報は含まれていたのだ。

 こうした条件に適う文言とはどのようなものか?

 具体的に、奥さんは「私」に何と言ったのか?


 考えられる可能性の一つは、奥さんが伝えた話に具体的な日時を推測する手がかりが含まれていた場合。

 奥さんがKに話をしたのは、当然「私」が不在の時に違いない。「あなたがあの日、学校から帰ってくる前に…」とか「娘が習い事に行っている間に…」などと奥さんが言ったとすれば、「私」は自分が下宿に不在で、Kと奥さんだけが下宿にいた機会を具体的に思い出し、そこから本日、土曜日までの日程を「二日余り」と「勘定」することができる。

 もう一つ考えられるのは、奥さんの話の中に「三日も…」ないし「次の日もその次の日も…」という言葉が含まれていた可能性だ。

 奥さんは談判のあった月曜日の夕食時に、すぐにでもそのことがKに公表されるものと思っていたはずだ。それが曖昧に過ぎてしまった後でも、「奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突っつくように刺激する」というのだから、奥さんはそれが直ちに公表されることを期待している。だから三日たった木曜日に思いあまってKに伝える際に「もう三日も経つのに、お友達からお聞きじゃないんですか」などと言ったのではないか。

 この可能性は大いにありそうなことだし、それを「私」に話した際(⑥)にも「三日もたったんだからもうKさんには話しているだろうと思って…」などと言ったというのは大いにありそうなことだ。そこから「私」は談判のあった月曜日から「三日」、つまり⑤が木曜であったことを特定し、さらに現在の土曜日までの経過を「二日余り」と「勘定」したのだ。


 では「二日余り」の「余り」というのは何のことか?

 単に水曜日かもしれないという意味を含んでいると、暫定的には考えていた。といって火曜では四日ということになり、「二日余り」という表現に含む候補としては遠すぎる。つまり「水曜日かもしれないがたぶん木曜日」というニュアンスだ。

 だがそれよりも、⑤奥さんがKに話したのが木曜の日中のことであり、一方⑥が土曜日の夕方以降だったことを意味している、と考えるのが合理的だ。

 もちろん上のような想像においてさえ、厳密には奥さんの言葉からは「私」が水曜日か木曜日という曖昧な推定をするしかない情報が得られただけだったのだという可能性は否定しきれない。Kが「私」より先に帰った日は水曜と木曜の二日ともであったかもしれない。となれば「二日余り」はあくまで「二日以上」でしかなく、先述の結論のとおりやはり「木曜か水曜」でしかない。

 だが重要なことは結論ではなくこうした推論過程の考察だ。

 そもそもこの一連の考察は、作者漱石があらかじめ各エピソードをカレンダー上に配置して書き進めているのではないかという想定に基づいている。とすれば、漱石にしてみれば「水曜日か木曜日」のような曖昧な想定をする必要はなく、単に木曜日と想定するのが簡便だ。

 だから蓋然性からいえば「私」は木曜と特定できたか、もしくは奥さんは「三日もたった」という表現を使ったと考える方が自然だろう。

 したがって今後は便宜上、⑤を木曜とする共通認識で話を進める。


 いずれにせよ、上の推論のような想定を、漱石が自覚的にしていたことは明らかだ。そうでなくて「勘定してみると」という表現が置かれることはありえない。

 なのにこうして考えてみるまでは、読者がその周到な計算に気付くことはないのだ。



2023年10月30日月曜日

こころ 12 曜日の特定9-運命の皮肉

 「二、三日」という日程が示されることの意味は、その終点に何らかの主観がそのカウントを一たん自覚したということであり、それはすなわちそこまでの「二、三日」とそれ以降に何らかの質的な差違があるということだ。

 それは何か?


 「二、三日」とそれ以降の「五、六日」終点までを区切って、それらを対置する要素はなかなか見つからない。

 この点にも関わる、もう一つの注目すべき着眼点が以前に授業をしたときに生徒から提出された(今年はこちらから提示したクラスが多いが、自分で気づいた者はえらい)。

 「五、六日たった後、」の直前の次の一節。

同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。

 ここで注目に値するのは「また」だ。

 「また」という反復を表わす副詞は、ある「立ちすくみ」と別の「立ちすくみ」が並列されていることを示している。読者がその並列を理解できることが前提されている。

 ⑥にいたる「立ちすくみ」と対置される「立ちすくみ」とは何を指しているか?

 やはりB説に戻って「二、三日」と「五、六日」が並置されている(連続している)と考えればいいか?

 だが「二、三日」の「立ちすくみ」は、どのような意味で「五、六日」の「立ちすくみ」と対置されるのか。④から⑥までは常に逡巡が継続していたのではないか。


 「また」が示す「対置」について、いくつかのクラスでは、次のアイデアが提示された。

 第一の「立ちすくみとは④「談判」以前を指しているのだ。

 「私」は④以前も、自分もお嬢さんを好きだとKに言わなければならないと感じているのに言えずにいた。そして行動を起こした④の談判=婚約の成立以降は、いよいよ言わなければならないという圧力は高まったというのに、それでも言えない。

 ④以前と④以降が対置されることを「また」という並列が表現しているのだ、という解釈は、長い文脈を一掴みにする力強い把握が必要だ。

 だが、読者にそれだけの視野を要求していると考えることには無理がある。


 ここまでくれば「また」の並列と、「二、三日」とそれ以降の差異とを結びつけるという発想は容易に浮かぶ。

 「二、三日」が第一の「立ちすくみ」であり、それ以降5日目の土曜までの残り「二、三日」が第二の「立ちすくみ」なのだ。

 これらはなぜ区切られ、対置されるのか?


 そのように読むためには、そうした解釈を導く本文の記述に基づく必要がある。

 そう考えてみたとき、にわかに一つの記述が注目されてくる。

 47章冒頭(135頁)の一段落は「私はそのまま二、三日過ごしました。」で始まり、Kに告白することへの逡巡の、基本的葛藤が語られる。

 そして二段落の冒頭(136頁)は次のように始まる。

私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。

 「そう言ってもらおう」というのは、お嬢さんとの婚約が成立したことを奥さんからKに伝えるという意味だ。

 だがこの思いつきは「しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変わりはありません。といって、拵えごとを話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問されるに決まっています。」と続く思考によってすぐに打ち消されてしまう。だから、読者にとってはこれも5日間の逡巡の一過程に過ぎないものとして読み流されてしまう。

 だが、「また」が示す並列を穏当に解釈するならば、この前後が第一/第二の「立ちすくみ」を指していると考えるのがすっきりする。

 つまり一段落の葛藤は、そのまま形式的に「二、三日」の期間を示し、これが第一の「立ちすくみ」を指し、二段落が「また」と対置される第二の「立ちすくみ」を示すのだ。

 自分で言おうと思って言えずにいるのが第一の「立ちすくみ」。

 奥さんに言ってもらおうかと考え、やはりそれもできずに動けなくなるのが第二の「立ちすくみ」。

 これが、「私」の主観から見た「二、三日」とそれ以降を区切る差異だ。

 

 この、第二の「立ちすくみ」の期間である残りの「二、三日」とは何か?

 これもどこかで気づく者が現れる。

 これはすなわち例の「二日余り」のことだ。

 つまり「二、三日」と「二日余り」を足したものが、月曜から土曜までの「五日」なのだ。「二、三日」は、この「二日余り」と「五、六日」の関係を読者に理解させるための補助的な役割を担っているとも言える。

 そしてこの「二日余り」と「二、三日」を分けるものこそ⑤だ。⑤が「二日余り」という日程の始点だからだ。暫定的な想定によればこれは木曜日に起こっていることになる。






 月曜日から順に「二、三日」とたどる主観と、土曜日から逆に「二日余り」と遡る思考が木曜日で出会う。その時、この5日間に起こったことを、裏表で重ね合わせることが可能になる。

 「私」は「奥さんに…言ってもらおうかと考え」、だがもっともらしい理由を付けた逡巡の挙げ句にその実行をやめた。

 ちょうどその頃、「私」の知らないところでまさに奥さんはそれを実行してしまっていたのだ。

 なんたる皮肉!


 詳しくは後の授業で再検討するが、「私」がKに言わなかったことがKの自殺という悲劇を引き起こした最終的な要因なのだ。談判したことが、ではない。談判したことを奥さんがKに伝えてしまい、かつそのことを「私」が知らないまま過ごした「二日余り」こそ、Kの身に起こった悲劇を理解する重要な要素なのだ。

 「私」が逡巡に打ち勝って直接Kに婚約の件を話していれば、そうでなくとも少なくとも「私」の依頼によって奥さんからKの知るところとなっていれば、おそらく悲劇は回避されていた。

 そう考えると、漱石がさりげなく置いた「二、三日」という途中経過にこめた、あまりに大きな運命の皮肉に、あらためて驚かされる。


2023年10月29日日曜日

こころ 11 曜日の特定8-「二、三日」の意味

 「私」が奥さんに、お嬢さんとの婚約を談判したのは、Kが自殺する土曜日から遡る五日前の月曜日であると結論しよう。

 漱石がプロットをそのように設定して書いていると考えることは、そう考えることによって細部の文章表現がそうであることの必然性に納得できるということだ。⑥が土曜日であることも、そのようにして結論づけたのだった。

 例えば「五、六日」は「経った」で「二、三日」が「過ごした」なのは「五、六日」がイベント間の間隔であることを示し、「二、三日」はその間の途中経過であることを示している、というH組S君のような説明も説得力がある。






 だがこれで疑問が解消したわけではない。

 「五、六日」の始まりが④の「奥さんとの談判」だとしても、「二、三日」の終わりが何なのかはまだ示されていない。

 「二、三日」と「五、六日」が連続しているとすると、「二、三日」の終わりは「五、六日」の始まりだ。それを区切る、カウンターをリセットするイベントが見当たらないから、両者は連続しているのではなく重なっていると見做したのだが、ではなぜ「二、三日」という途中経過が語られるのか?


 「二、三日」の後にあらためて「五、六日」を数え始めたにせよ、「二、三日」に続けて「四、五、六日」と数えていったにせよ、ともかくもその時点で「二、三日」と数える主観が存在するのは間違いない。

 「こころ」における語り手の主観とは何かというのはやっかいな問題を含んでいる。建前上は遺書を書いている「私」(「先生」)のはずだが、実際は多くの部分では大学生当時の「私」とみなしていい。つまり通常の一人称小説のように読める。そしてもちろんその両者の背後に作者という主観がある。

 ということは、少なくとも作者の中で何かが意識されているから「二、三日」という経過が示されたのだ。

 では「二、三日」の終点は何か?


 期間を示す言葉は、その始点と終点を必要とする、という切り口を示したが、もう一つ、次のような切り口が議論の中で提示されただろうか?

期間を示す言葉は、その間に何かが継続していることを表す。

 つまり「二、三日」は、ある継続があり、それ以降は何か状態の変化があったことを表している。

 時間経過が示されるにあたって何が継続しているかを判断するためには、ある程度の視野で展開を一掴みに把握する読解力が必要とされる。

 だが、あれこれ悩んで、ためらって、迷って、というなら、④から⑥の間はずっとそういう状態が継続している。

 では一体何が変わったというのか?


 奥さんの態度の変化を指摘する者がいる。

 ④の後の「二、三日」は、「その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突っつくように刺激するのですから、私はなおつらかったのです。」という状態だ。

 この奥さんの「調子」が、「二、三日」の終わりに変化する。奥さんは「私」を「突っつく」のを止めるのだ。

 なぜこんな推測ができるか?

 奥さんが「私」を急かしていたのは、婚約の話題を早くオープンにしたいからだ。だが「私」は一向にその話題を口にしない。業を煮やした奥さんは自らKに知らせてしまう。⑤だ。それを境に、婚約の事実は、もはやKにも知れた。もうこの話題はオープンな場で語られるはずだ。

 そう思って待っているが、やはり一向にその話題は語られない。奥さんは不審に思いつつ「私」とKの態度を、探るように観察しているはずだ。

 さらにこの後、Kの自殺が奥さんに衝撃を与える。奥さんは自分の⑤および⑥が、何らかの意味でKの自殺のきっかけになっているのではないかと恐れおののいているのだ。

 この奥さんの心理についての推測は強い妥当性もっていると考えられるが、改めてそう考えてみるまでは、全く読者の想像の範囲外にある。「こころ」が「私」の視点から見た物語として書かれているからだ。

 さて、なるほど、奥さんの態度は確かに⑤を境とする「二、三日」とそれ以降で変化するはずだ。

 だが「私」がこのことに気付いているかといえば怪しい。奥さんがいつの間に「突っつく」のをやめたのかは、それが明示されていない以上、「私」の意識に強く浮上したとは考えにくい。

 したがって、このことをもって「二、三日」の終わりが意識されていると考えるのは穿ち過ぎだろう。

 だがこの奥さんの態度の変化があったろうことに気づくことは、この状況について考えるための情報が的確に把握されているということであり、賞賛に値する(授業者は気づかなかった)。


 漱石はなぜ「二、三日」という途中経過を書き込んだのか?


こころ 10 曜日の特定7-「二、三日」と「五、六日」の関係

 奥さんと談判してから、奥さんがそのことをKに話したと「私」に告げるまで、何日が経過しているか?

 問題は「二、三日」と「五、六日」の関係を次のどちらかと考えるかだ。

A 「二、三日」と「五、六日」は重複している 

B 「二、三日」と「五、六日」は連続している

 それぞれを支持する者がいて、意見が食い違っているときに、お互いに「なんとなく」では埒が開かない。

 堅実な考察と議論のための着眼点、切り口を見つけよう。それはどのように是非を判ずる規準となりうるか?


 次のような認識が語られれば上出来だ。

  • 期間を示す言葉は、その始点と終点を必要とする。

 「二、三日」と「五、六日」の始点と終点はそれぞれどこか?

 また、それらは何が継続されている期間を数えたものか?


 先の「二日余り」ではこうした疑問が生じない。始点と終点ははっきりしている。「勘定してみると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。」は「奥さんがKに話をし」た日(⑤)から「勘定してみ」た日(⑥)の間を数えたことが明らかだ(それでさえ⑦の「Kの自殺」までが⑥と同日の出来事であることを確信するためには前述のような込み入った議論が必要となるのだ)。

 ではこの「二、三日」と「五、六日」についてはどう考えるべきか?


 A説もB説も「五、六日」の終点が⑥のあった日であることは争うところがない。また「二、三日」の始点が④「談判」であることも同じだ。

 問題は「五、六日」の始点がどこか、だ。

 A説はこれを④の「談判」の日だと考え、B説は、「二、三日」の終点だと考える。これはどちらが妥当性が高いか?


 A説支持者は「それから/さらに五、六日たった後」などと言うなら、Bのように連続していると考えられるが、それがない、と言う。だが同様にB説支持者は「談判から五、六日たった後」と言うならA説であることが明らかなのに、と言う。

 これは水掛け論のようにも見えるが、どちらの妥当性が高いかと言えばA説だろう。

 B説であることを明らかにする「それから・さらに」はなくしてしまうとにわかにどこが始点なのかがわからなくなる。だが④「談判」の日が始点だと考えるA説は、読者と作者の共通の了解事項に基づいていると言いうる妥当性が高い。

 「二、三日」と「五、六日」が重なっていないと見なすということは、途中にカウンターをリセットして日数を数え直す起点を認めるということだ。

 だがこれがその境目だと言いうるようなイベントは、読者と作者の間で共有されていない。

 したがって、A説のような時間経過を漱石が想定していると考える方が妥当だろう。






 とすると、Kが自殺した土曜日から遡ること「五、六日」前に私の逡巡が始まったのであり、この始まりはすなわち奥さんとの談判を開いた日(④)に他ならない。とすれはそれは日曜か月曜だ。

 だがこの二つの可能性は容易に一つに結論づけられる。

 なぜか?

 どのクラスでも誰かが既に気付いている。「仮病を使って学校を休む」からには日曜日ではない。したがって月曜日だ(現在の曜日制はグレゴリオ暦を官庁が採用した明治六年から始まっているから、「こころ」の舞台である明治三十年代には日曜日は学校が休みだったと考えていい)。

 つまり④の月曜から⑥の土曜までは実際は五日だったということになる。遺書という体裁でそうした日数を正確に限定することは不自然だから、ここには「五、六日」という曖昧な表現が使われていると考えるのは自然なことだ。


 これで④は確定し、問題は解決したと見なして良いか?


2023年10月25日水曜日

こころ 9 曜日の特定6-④奥さんと談判したのはいつか

 問題は次の段階だ。

奥さんと談判したのはいつか?

 この推論の結果は⑥以上にバラつく。

 推論の根拠は135頁「二、三日の間」と136頁「五、六日たった後」という記述だ。どちらも日程は2日間に渡る曖昧な記述でしかないが、ばらつきはそれだけではない幅で生じているはずだ。

 なぜか? 推論過程にどのような違いがあるのか?


 まず④を特定するための起点が、ここまでの確認事項である⑤の木曜(か水曜)と勘違いしないよう注意する必要がある。起点は⑥の土曜日だ。

 そのうえで、結論は次の二択のはずだ。

A 日か月

B 木か金か土

 これ以外は単純な勘違いだ。起点が違っているか数え間違い。議論の中で整理されなければならない。

 では、A「日か月」説とB「木か金か土」説は、それぞれどのような推論に基づいているか?


 問題は「二、三日」と「五、六日」の関係がどうなっているかだ。ここが二通りの解釈を生じさせていたことが、上の二説として表れている。

 A「日か月」とは、土曜からの日程を「五、六日」と数えている。

 B「木か金か土」とは、「五、六日」に「二、三日」を足して「七~九日」と数えている。

 Aは「二、三日」が「五、六日」の中に含まれる(重なっている)と考えている。Bは「二、三日」と「五、六日」が連続した一連の日程だと考えている。

 A









 「二、三日」と「五、六日」は足すべきか、足すべきではないか? 「二、三日」は「五、六日」に含まれるのか、含まれないのか? 両者は重なっているか、いないか?


 先述の⑥と⑦は同じ日なのかという問題同様、自分の読みと違った読みの可能性については気づきにくい。他人と同時にテキストを読む、授業という場が、別の読みへの可能性を開く。

 現状ではABどちらを支持する者もいる。どちらが適切か、両者が合意に至るよう議論をしよう。

 重要なのは「正解=結論」ではない。結論にいたる推論の妥当性についての議論だ。


こころ 8 曜日の特定5-いつ「私」に話したか

 ⑥と⑦は本当に同じ日の出来事なのか?

 ⑥と⑦の間にはそれなりに時間が経っていると主張する者は、議論のために、そう考えるべき根拠を挙げる必要があるのだが、そもそもどうしてそうだと感じられたのだろうか?


 ⑥から⑦にかけて、日を跨いでいる記述がないから、という根拠を挙げる者がいる。だが日並み日記じゃないんだから、次の日になったかどうかが常に書いてあるとは限らない。実際にエピソード間は日程が跳んでいる。

 だが、実はこれは一つの有力な推論の手がかりでもある。

 論理的には、書いていないことは、あるともないとも言えない。つまり確定できない。すべての事実を小説が記述しているわけではない。

 だが、書く方が自然なことが書いていない場合は、それがないものと見なす方が自然なのだ。

 この考え方は小説を読む上では重要だ。この先何度も使われる考え方として心に留めておきたい。


 上の考え方を応用したのが例えば次のような考察。

 「しかし今さらKの前に出て」という表現からは、奥さんから話を聞いた(⑥)後、Kが自殺する(⑦)までに「私」はKと会っていないと考えられる、したがって⑥と⑦の間にそれほどの時間経過はない。

 これはかつての生徒からも出た意見だが、今年もいくつかの班から出た。これは妥当か?


 面白い問題だ。だがこれを⑥が土曜日であることの決定的な根拠とすることはできないと授業者は考えている。

 むしろ、⑥の後に「私」はKと会っていると考えるべきだというのが授業者の意見だ。

 奥さんはむろんKのいないときを見計らって「私」に⑤の件を話したのだろうが、その後Kは帰宅して、「私」と夕飯を共にしているはずだ。なぜならそれが日常だからだ。⑥が土曜だとすれば、その晩にKが自殺したのだから、Kが夕食時にいなかったという特別なことがあれば、それこそ書かない方が不自然だ。

 したがって、「私」はKが既に婚約の件について知っていることを知った上で、夕飯の席でKと顔を合わせているはずなのである。

 ただしこれは想像だに緊迫した場面だ。

 だがそうした場面は描かれない。といって、書かれていないから小説世界にそのようなものは存在しない、ということにはならない。あることが自然なことは、書かれていなくとも「ある」とみなすべきであり、特別なことは、書かれていない以上「ない」とみなすべきなのだ(Kが実は宇宙人である可能性については、書いていないからといって考慮する必要はない)。

 もちろんこの「自然/特別」というのは程度問題だから、「ある/ない」の見做し方も程度問題だ。「私」がKと顔を合わせる夕飯の席での心理ドラマこそ「特別」なのだから、それこそ描かない方が「不自然」だと言えなくもない。確かにそれは書かれるべき必然性のある場面ではある。

 この問題の結論として、以下に述べる推論から、やはり⑥は土曜日だと考えられるのだが、とすると「土曜の晩でした」という限定の仕方は、不自然をおしてまであえてそう書く必然性があったことを示してもいる。

 「土曜」という曜日の明示がなぜなされるのか?


 これはなぜ曜日を土曜に設定したのかという問題と、なぜそのことを明示するのか、という問題を含んでいる。あるいはKはなぜ土曜日を選んだのかという問題と、作者はなぜ土曜日であることを読者に伝えるのかという問題でもある。

 まずKがあえて土曜を選んだとする。考えられる理由は、Kが翌日が日曜日であるような日を選んだということだ。平日は奥さんや下女が早くから起きる。ところが日曜の朝はゆっくりしているから、それだけ自殺した自分の姿を「私」に発見してもらうことのできる可能性が高くなる。実際に「私」が夜中に目を覚ましてKの自殺に気づき、教科書の収録部分の次の章では、明け方に奥さんを起こしにいくことになる。

 あるいはKにとっては内的な必然性のおもむくままにそれを決行したのが、たまたま土曜日だったとしても、作者が上記のような展開になることに必然性を与えようとして、そうした曜日設定にしたのかもしれない。


 だがこのようにして明示された「土曜」は、⑥をそれ以前の日のどこかであると読ませるほどには強く作用していないと思われる。

 それよりも強く⑥と⑦が日を跨いでいないと感じさせる理由は、先の引用と同じ、「私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも明くる日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。」という表現だ。

 どうしてここから、⑥と⑦が同日内の出来事であると言えるのか?

 以下に授業中に提出された推論過程を列挙する。


 「土曜の晩」でわざわざ時間帯を「晩」と明示することは、その陰でそれ以外の何かを「夕方」や「昼間」だと言っているように感じられる。つまり奥さんが「私」に話したのがその「夕方」や「昼間」だと言っていることになる。

 これは先ほどの「土曜であることをわざわざ言うときには、それ以外の、例えば⑥が土曜ではないことを感じさせる」と同じ論理の応用だ。⑦が土曜の「晩」というからこそ⑥は同じ土曜日の「夕方」や「昼間」なのだ、とも考えられるのだ。


 「ともかくも」という副詞は、それが当座の決定であることを示す。決定までに日を跨いでいたら「ともかくも」という表現は、今更何を、と感じられてしまう。だから逆に言えば、決定を迫られるような事態が生じた時点(⑥)から、まだそれほど時間がたっていないと感ずる。


 「明くる日」という時間経過を表す語は、その起点となる「本日」を必然的にかつ潜在的に前提する。それは筆者と読者に共有された認識のはずだ。となればそれがどの日であるかわからないような時点を前提するのは不自然であり、即ち⑥のあった日が「本日」として定位される。それは「明くる日」を迎えることのなかった土曜日に他ならない。


 ここでいう「進もうかよそうか」は、「話そうか黙っていようか」だ。この躊躇が日を跨いでいたとすると、そこまで既に「よ」しているのに、今更「進む」と「よす」が等価な選択肢になっているかのように言うのはおかしい。今まで「よ」してたのだから「進む」ことのみが「翌日まで待とう」という「決心」の内容となるはずだ。


 以上、いくつもの根拠を挙げることができる。このうちのひとつでも明晰に語ることができれば上出来だ(授業中にそれを発表した人たちには大いなる拍手を送りたい)。

 読者はこれらの細部を整合的に(だが無意識に)解釈して、⑥と⑦が同じ土曜日の出来事であると捉えている。


 繰り返すが、これは答えるには難しい問いだ。正しく読むことより、自身の読みの生成過程を自覚することの方がはるかに難しい(実際に、上の推論の根拠のいくつかも、授業者には思いつかなかったのを生徒が指摘したものだ)。


 さて、ここで一度宣言しておく。

 「曜日の特定」という課題は、このレベルの論理的推論とその説明を要求しているのだ、と。


2023年10月12日木曜日

こころ 7 曜日を特定する4 -奥さんが「私」に話したのは

 曜日の特定は、後ろから遡って考えるしかないから、まずは⑤⑥の曜日を考えよう。

  ⑤奥さんがKに④を話す

  ⑥奥さんが「私」に⑤を話す

土 ⑦Kの自殺  

 ⑦の土曜日が確定している。では⑤⑥はそれぞれ何曜日か?


 根拠になるのは「勘定してみると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。」という記述だ。

 ここから、⑤が水か木、という二択になるということがわかる…。

 いや待て。この結論はまだ早い。重要な未確定条件が考慮されているかどうか、検討されているか。

 どこ? 何?


 ⑤が水か木、という推論を話し合っている時点で、もうこの「未確定条件」について話し合っているらしい声もあちこちから聞こえてきた。気づいた人たち、素晴らしい。

 まず、手がかりとなる「二日余り」と「土曜日」から確実に言えることは何か、確認しよう。

 確実なのは次の二点。

  • 「奥さんがKに話す」と「勘定した」時点の日程が「二日余り
  • 決心した」のが「土曜の晩

 本文から、上の2点を正確に表現することが既に結構難しい。

 上の事実は⑤と⑥の間隔を表している。

 下の事実は⑦が土曜であることを表している。

 ここから⑤を木曜日だと結論するには飛躍がある。

 この推測には「勘定した」時点と「決心した」時点、つまり⑥と⑦が同じ日であることが前提されている。だがそれはどのようにして断定されるのか。

 ⑥は自然と土曜日であるように感じられ、むしろそれを前提として(そこには推論の根拠など述べずに)、⑤や④についての推論へ進んでしまう。

 だが、そこには上記のような論理の飛躍がある。我々読者はそれをどのようにして飛び越えたのか。


 いやむしろ積極的に、同日内ではないと感じる、という人もいたかもしれない。

 問題の曜日の記述(137頁)は「私が…待とうと決心したのは土曜の晩でした。」だ。「土曜の」という言及は、むしろ奥さんから話を聞いたのが土曜以前であることを感じさせないだろうか。同日内ならば「その晩」「その夜」という方が自然ではないか。

 一旦そう言われると、にわかに⑥が土曜日ではないように感じられてはこないだろうか。この「感じ」は皆で共有しておきたい。


 それでもなおかつ⑥と⑦が同じ土曜日の出来事であると読めるのか?

 本当に⑥から⑦にかけて日を跨いではいないのか?

 ごく自然にそう解釈してはいるのだが、なぜそうだと思えるのかとあらためて問われてすぐにその根拠を挙げることは難しい。明確にそうだとはどこにも書いてない。

 議論のためには根拠を挙げる必要がある。国語科授業において重要なのは「結論=正解」ではない。どう考え、どう話し合うか、だ。


こころ 6 曜日の特定3-考察の方法と意義

 教科書に収録されている展開の中で起こるイベントは、それぞれ何曜日の出来事か?

 本当はそう問うて後はたっぷり時間をとりたい。考察の方法と手がかりについて、自分で発見し、試行錯誤を重ね、そしてそれを話し合うことがもう意義深いし、楽しい。

 とはいえそれをやっていると、この「曜日の特定」のくだりに数時間必要になる。残念ながら誘導して、みんなの進度を揃える。

 曜日を特定するために、どんな情報が必要か?

 本文で曜日が明示されているのはどこか?


 137頁に、⑦「Kの自殺」が「土曜日の晩」であったという記述がある。曜日が明記されているのはここだけだ。

 では、他の曜日を推定するための手がかりとなる記述は何か?

 本文中に以下の5カ所、「日程=期間=時間的隔たり」を示す記述がある。

  • 二日余り         137頁
  • 五、六日たった後     136頁
  • 二、三日の間       135頁
  • 一週間の後        130頁
  • 二日たっても三日たっても 130頁

 これらはテキスト中にマークして、いつでも参照できるようにしておく。

 これらの日程の記述を手がかりとして、明示された土曜日から遡りながら曜日を特定していく。

 これがこの後の読解にどのような影響を及ぼすか?


 一連の考察を通して得られる認識は、物語の展開に沿った登場人物の心理を読み取っていく上で、それを実感として想像したり議論の根拠としたりするために有益だ。

 たとえば「私」の逡巡がどれだけの日時に渡るものなのか、沈黙に隠れたKの苦悩が何日に渡るものなのか、奥さんはなぜその日に話したのか、Kはなぜその日に自殺を決行したのか、実感として想像する上で、出来事間の「日程」とともに、我々の生活を律する「曜日」の感覚もまた重要な手がかりとなる。「週末」や「週明け」、「週の中頃」といった感覚は心理に影響する。

 こうした、読解の前提を授業の最初期に教室で共有しておきたい。


 といって、考察の結論にのみ意味があるということではない。

 一連の考察を通して、テキスト中から必要な情報を探し出してそれを整合的に結びつけて、そこに生ずる意味を的確に捉えるという、読解の難しさと楽しさを、一緒に教室にいる人と味わってほしいとも思う。

 考察結果は必ずしも一致しない。その時、異なる考察同士を比較し、その考察過程を再検討する必要が生ずる。自らの読みの根拠が問い直される。

 そうして初めて、読解という行為の難しさが本当にわかるのだし、同時に、その豊穣さもまた、わかる。

 こうしたことは一人で読んでいてもできない。授業という場があって初めて実現できることだ。


こころ 5 曜日の特定2ーエピソードの混淆

 さて、以下の8つのエピソードが並んだだろうか?


 Kの告白       115頁~

①上野公園を散歩する     122頁~

②夜中にKが声を掛ける  128頁~

③朝、Kを追及する    129頁~

④奥さんと談判する    130頁~

⑤奥さんがKに④を話す

⑥奥さんが「私」に⑤を話す 136頁~

⑦Kの自殺               138頁~


 上記エピソードに、上のように番号をつけておく。議論するうえで、それぞれの項目を指す番号を共有する。

 それぞれが前の出来事をどのように受けている展開なのかは把握されているだろうか?

 プロットを流れる物語の論理が把握されているだろうか?


 長大な①に比べると②や③は小さなエピソードで、独立させて想起することは相対的に難しい。だがそれぞれに重要なエピソードであり、今後、考察の機会がある。


 興味深いことは、④と⑦の間に⑤⑥を別項目として揃えて挙げられる人がほとんどいないことだ。思い当たる者も多いはず。⑤と⑥をともに挙げられた者は、そうとう的確に物語の流れを把握しているといっていい。

 このことが難しいのはなぜか?


 総じて⑥の方が挙がりにくいようだ。

 ⑥は「話した」という出来事であり、⑤はそこで「話された」内容だ。⑤と⑥は入れ子型の階層構造をつくっている。その時、メタな階層にある⑥は背景に退いて盲点になってしまうのかもしれない。

 だが本文中に直接書かれている「場面」は⑥であって、⑤は具体的な場面として描かれはしない。

 一方、アニメ「青い文学」では⑤の場面が描かれる。奥さんとKが玄関先で話すシーン。そして⑥はアニメでは省略されている(それでDG組以外の人には⑤が挙がって⑥が挙がらないのかもしれない)。

 授業でこの展開をやると、⑤と⑥が別の出来事であることを初めて認識して、「あ、そうか!」という反応をしている人はけっこういて、その瞬間を見るのは楽しい)。

 この⑤と⑥の構造には、実は重大な問題がひそんでいる。何か?


 読者は⑤と⑥を混同してしまうのである。

 この混同が、「こころ」全体の理解にとって重要な錯覚をもたらしている。

 それは⑤と⑦の時間的間隔についての錯覚だ。この「錯覚」については後で明らかにしよう(だが既にこの授業展開の中でH組Tさんからこの点についての的確な指摘があった)。


 さてこの後が考察すべき問題だ。

 ①~⑦の出来事があったのはそれぞれ曜日か?


 ここからは本文を見ながら、必要な情報を探す。

 どこからどんな情報を見つけて、どう考えれば、それぞれの出来事の曜日がわかるというのか?


こころ 4 曜日の特定1ープロットを立てる

 本文の精細な読解を始める前に、まず教科書収録部分の大きな流れを把握する。

 本文中で語られる出来事や、描かれている場面を、教科書を見ずに挙げる。どのようなエピソードがどのような順番で起こったか?

 教科書を閉じた状態で考えるというのがミソだ。ページを開いて探すのではなく物語全体を俯瞰してストーリーの流れ、出来事の因果関係を把握することが目的だ。

 「思い出す」というより「考える」。

 思いつく場面、出来事は、それぞれどのような順番で起こったと考えると、整合的な因果関係で捉えられるか?


 物語を短く要約したものを「粗筋(あらすじ)」と言うが、特にこのようなエピソード(イベント)を並べたものを、物語の脚本を考える際の用語として「プロット」と言う。

 漱石はどのようにプロットを立てて小説を書いたか?

 出来事も場面も、細かく挙げればいくらでも細かくできるが、「エピソード」といえるほどのまとまりを考えて、8つに整理する(授業で「イベント」という言葉を聞いた。そういえばゲームではこういうのを「イベント」と言うのか)。

 こう指定したときに、本文を読んでいるはずの全員が同じ8つを数えることができなければならない。話し合いながら、プロットを立ててみよう。


 だがそれぞれの想起するエピソードはなかなか一致しない。単に記憶が曖昧ということもあるが、問題は、何をひとまとまりにするかの切れ目が人によって違ってしまうからだ。印象的な小さな「場面」がいくつも挙がったりする。

 あるいは心の動きのようなことを挙げる者もいる。いや、今並べようとしているのは、心理の推移よりも出来事・場面・エピソードだ。

 話し合いながら、必要に応じて訂正や追加を行う。


 始まってすぐは、正月のある日、Kがお嬢さんへの恋心を「私」に告白するエピソードだ。

 そのあとはKの思惑についてあれこれ思い悩む「私」の思考が述べられるばかりでこれといった出来事も起こらず、わずかにKに対して直接問題の告白の真意を問い質すが、明確な答えを得ないという場面が二つほど描かれるが、それもKの答えが曖昧なためにはっきりとした事態の変化につながらず、エピソードらしい立ち上がりとしては弱い。

 さて、それに続く「出来事」「場面」を7つ書き出す。

 「Kの告白」に続く7つのエピソードに、①~⑦の番号を付して並べる。


 教科書本文は次のエピソードで終わる。

⑦Kの自殺

 いくらなんでもこれが想起できない人はいまい。

 さらに「Kの告白」と「Kの自殺」の間に6つのエピソードを挙げる。


 まず①、「Kの告白」の次に明確なエピソードとして把握できるのはこれだ。

①上野公園をKと散歩する

 この一部分を挙げてしまう人は多いだろう。①はかなり長い範囲を指している。印象的な「場面」がいくつもある。

 だが全体で8つとするまとまりを考えて、それらをまとめて①とする。

 さらにこの間に並ぶ②~⑥を班内で一致させよう。


 さて、①と⑦の次に挙げやすいのは、奥さんに、お嬢さんとの婚約を談判するエピソードだ。「ください、是非ください」は印象的だ。

 これは何番目か?

 それはそれ以外に何をエピソードとしてとりあげるかによる。だがこれ以外はどれも全員が容易に挙げられるというわけではない。上記三つに比べてエピソードとしての立ち上がりが弱い。

 それでも、「7項目」として挙げるなら?


2023年10月8日日曜日

こころ 3 視点を変える

 もう一つ有名な文学作品数編をアニメ化した、「青い文学」というテレビシリーズから、「こころ」の回の一部を視聴した(実はスペイン語字幕のついた全編がYoutubeで見られる。レンタルなどでも見つかるかもしれない)。

 アニメーションとしての質は高い。作画やカメラワークも巧みだし、とりわけBGMやSEなどの音響の演出と、Kを演じた小山力也の声がとても良い。ただ、かなり大胆なアレンジをしているので、原作ファンからは賛否がありそうである。これを見て「こころ」がわかった気になってはいけないのは「Rの法則」同様だ。


 だがこのアニメ化で注目すべきは、前後編2部構成にして、それを「私」の視点とKの視点から描き分けるという、きわめて興味深い試みをしていることだ(そこに賛否両論あるんだろうけれど)。今回は前後編を混ぜてストーリー順に編集したものを見てもらった。前編は夏を舞台にして、後編は冬を舞台にしているので、蝉が鳴いたかと思うと、次のシーンでは木枯らしが吹いたりする。

 この試みがとりわけ面白いのは、同じ状況をそれぞれの視点から描き分けた二つの場面が対比できることだ。教科書収録場面より少し前のエピソード、雨中のすれ違いの場面が、最初「私」の目から描かれる(三十三~三十四章。原作では雨上がりで泥濘の道をすれ違う)。

 これは「Rの法則」でも紹介されていたエピソードだ。「私」がKとお嬢さんの関係について疑惑を深めることになる印象的な場面である。

 その後、同じ場面が今度はKの目から描かれる。

 それぞれが、互いの目から描かれたときに、どれほどその相貌を変えることか!

 お互いに相手が何を考えているのかわからない「魔物のように」見えてくる(この表現は教科書118頁にある。Kを表したものだが、逆にKから見れば「私」もまた「魔物」だったのかも知れない)。


 「国語科」的な考察をしよう。

 すれ違いざまにKの言う「悪いな」のニュアンスが、二つの視点からそれぞれどう違っているか、的確に表現できるだろうか?


 表面的には、狭いすれ違いで道を譲ってもらったことに対する「悪いな」だ(石畳を外れると水溜まりに足を踏み入れることになる。長靴に水が浸みこむ描写がある)。

 それが「私」の目からはまるでKが「お前の好きなお嬢さんをいただいてしまって『悪いな』」と言っているように感じられる(C組IさんM君からは、このシーンの「道を譲る」が「お嬢さんを譲る」のメタファーになっているという指摘があった)。

 ところがKからすると、自らの日頃の広言に反して女に心を奪われている自らの状況を懺悔しているように感じられる。

 この「視点が違うと物事が違って見える」という認識を、これからの読解では折にふれ思い出してほしい(そういえばこれは昨年度終盤の考察を貫くテーマだった)。

 それは、何が小説内「事実」で、どこに語り手の主観のフィルターがかかっているかを選り分けていく繊細な読解作業だ。

 あくまでテキストにある情報から、表面的に見えている「物語」とは別の「物語」を浮かび上がらせるのだ。


こころ 2 マヤカシの「問題」

  • 「こころ」とは何を言っている小説なのか?
  • Kはなぜ自殺したのか?

 二つの問いに答えるところまでが秋休みまでの宿題で、後期の授業第1回は二つの動画を視聴した。

 それぞれの動画には、それを見せることによって考えさせたい問題がある。


 NHKーEテレの「Rの法則」は、みんなと同じ高校生に「こころ」を紹介する番組だ。

 テレビ番組としては、ああいうふうに雛壇高校生にリアクションさせて一般視聴者の共感を喚ぼうとしているのはやむを得ない。

 だがあのようにして「こころ」を知った気になることと、「こころ」という小説を読むことはまるで違う。

 何が問題なのか?


 まず、小説本文を読んでいない高校生に、小説中の問題について考えさせることが無謀であることを番組は全く明示していない。だから、あたかも「こころ」ではああいった問題が主題となっているような印象を視聴者に与えてしまう。

 読書をして得た認識を、自分の問題として捉え直すことはもちろん大事なことだ。自分だったらどうするかを考えずに小説を楽しむことはできない。

 だが、実際に作品を読んでいない者に対して、物語の設定や粗筋を説明した上で、そこに描かれる問題を一般的な問題として問いかけるのは、作品の受容とはまるで別の営みだ。

 小説は精妙に制御された描写や形容によって、微妙な心理を描き出している。読者はそうしたテキスト情報から、「物語」を構築する。

 それなのに、本文を読んでいない者が「この時のこの人物の気持ちは…」などと語ることが、まるで当てのない好き勝手な憶測にしかならないという危険については、視聴者には伝えられない。これがまるで「こころ」という小説についての考察であるかのような誤解を視聴者に与えている。

 例えば「羅生門」の設定や粗筋をたどって「あなたは、生きるためにやむをえない悪は許されると思うか?」などと問いかけることが世の中で広く行われているが、そんなことは国語の授業としては間違っている(「道徳」の授業としてやるなら別にいいが、それなら別のお話を使うべきなのだ)。

 「羅生門」はそのような問題を読者に問いかけてはいない。「羅生門」の主題をそんなふうに捉えるのは、まるで小説として「羅生門」を読んでいない。

 「こころ」においても、設定や粗筋から想定される「問題」が、あたかも「こころ」の主題であるかのように語られることがある。

 「Rの法則」で取り上げられていたのは、まさしく典型的なそれだ。

 小説では全く問題になっていないことが番組では問題として取り上げられている。

 何が間違っているか?


 番組冒頭から「親友と同じ人を好きになったらどうする?」と問いかけられる。

 これは確かに小説中でも「私」が直面する問題だ。これを「三角関係」と表現するのも間違っていない。

 番組ではこの問題を「恋愛か友情か、あなたならどっちをとる?」と言い換える。始まって間もなく、そうした問いが字幕で視聴者に投げかけられる。高校生の一人が「友情の方が大事だ」などと言う。

 こうした語られ方に、視聴者は別段違和感を抱かない。そしておそらく、番組制作者もそれが特別おかしなことだとは思っていないのだろう。

 この何が問題か?


  • 親友と同じ人を好きになったらどうする?
  • 恋愛か友情か、あなたならどっちをとる?

 確かに上の問題は、小説中に設定されている。それを選択肢として置き換えたのが下の問いだ。

 上の設定からは、まずは具体的にはある行動の選択が導かれる。それを一段抽象化したものが下の問いだ。

 その抽象化が間違っている。

 では「私」はどんな行動の選択に迷っているか?


 教科書の収録部分で、「私」は一貫して「言う/言わない(打ち明ける/打ち明けない)」という選択の前で迷い続ける。

 これは「友情/恋」という選択か?

 そうではない。小説中で「私」は一度としてそんな選択に悩んだりはしていない。それは本文をその気になって読み返せばすぐわかることだ。これは、設定と粗筋から導き出されたマヤカシの「問題」なのだ。

 だが設定と粗筋を頭に入れて「こころ」という物語を思い返した時、そこで「私」が「恋か友情か」という問題に悩んでいたように錯覚することは、大いにありうることでもある。しかもそれは大衆の共感・関心を喚びやすい。

 そうした錯覚に基づいて「こころ」が語られ、そこで読者に突きつけられることになる重い「問題」が紹介される。出演者が「深すぎる」などと受け止める。

 だが「こころ」が読者に投げかける「問題」は本当はそれではない。

 「私」が何に悩み、そこでどのような問題に直面することになるか?

 それは本文の読解によってしか明らかにはならない。


 「Rの法則」は、一般的に「こころ」がどのように受け止められているかを知る上で簡便な資料だ。ここに語られる「こころ」と、授業で読解していくことによって浮かび上がってくる「こころ」がどれほど違うものなのかを実感するためにも、この印象を覚えておいてほしい。


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