2022年10月16日日曜日

没落する「個」4 責任と個

 もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。

急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。

 個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。

 だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。


 まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。

 いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。

 とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。

 なぜ?

 何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。

 そのことから何が言えるのか?


 一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。

 だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。

 人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。

  「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。

 すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。

 そう理解すれば、

コンピュータ技術が「責任」を曖昧にする
したがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になる
という論理がたどれる。


 この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。

 同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。

 「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。

 「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。

 これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。

 これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。


 ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。

自己存在が情報の網目へと解体されていく

自己が情報によって組織化される

 連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。

 上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。

 個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。

欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない

 個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。

 情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。


2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎないそういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

没落する「個」2 比喩を分析する

 全体の把握と部分の解釈は相補的だ。全体の論旨は部分の理解の集積だが、逆に全体の論旨が把握できることで部分が理解できるようにもなる。

 そう思って全体の論旨を捉えた上で読み返してみると、どこかはすっきりしてかもしれないが、依然としてこの文章にはわからないところがあちこちにある。

 わからないことは、どんどん質問してほしい。むしろ鋭い質問で授業者を困らせるくらいのことをしてほしいところだが、ぼーっとしていると「どこがわからないのかわからない」などという腑抜けたことになる。


 あちこちから聞こえてくるポイントを全体で考えた。

 まず文末の比喩。

もとより個がそこへと溶解していく情報の網の目も、相互に依存し合い絶えず組み替えられ作られていく、非実体的なものにほかならない。そうだとすれば集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は、新たな別の大陸を見出したのではなく、せいぜいのところ波立つ大海に幻のように現われる浮き島に、ひとときの宿りをしているにすぎないのである。

 比喩と言えば「生物の多様性とは何か」の中の「自転車操業」について1クラスだけ考察を展開した。あれは面白かった。今回は全クラスで考えてみる。

 比喩を含む表現を考えるには、とりあえず、何が、何の、どのような性質・状態を喩えているか、を明らかにする。「綿のような雲」という比喩は、「綿」が「雲」の「白くてふわふわしているありさま」を喩えている。

 この部分で「綿」にあたるのは「大陸・大海・浮き島」だ。

 だが「何の」と「どのような性質」は表現が難しい。


 その中でもとりあえず文中の言葉に対応させられそうなのは「大海-情報」だ。「波立つ」という形容は「絶えず組み替えられ作られていく」イメージを喩えているように感じられる。

 「情報」が「大海」だとすると「網の目」が「浮き島」に喩えられているのだろうか?

 そう解釈しても悪くはないが、「網の目」でもまだ比喩なので、さらにそれが何を喩えているのかを考えよう。


 「大陸・大海・浮き島」の三つはどのような関係になっているか?

 「ではなく」型の文型は対比を示していることを忘れてはいけない。何と何が対比されているのか?

 「大陸/浮き島」だ。ということは、それがどのような性質を表すかも、対比的な形容で捉える必要があるということだ。

 どのように表現したらいいか?


 全体論旨の把握から使える形容としては「実体/非実体・虚構」がどのクラスでも挙がった。考え方としては間違っていない。上記文中で「非実体的なもの」だと言われているのは「情報の網の目」であり、上に述べたように「浮き島」が「網の目」を喩えたものだとも考えられるからだ。

 だが逆に「実体/非実体・虚構」を表そうとしたら、比喩として「大陸/浮き島」という喩えは想起しないはずだ。

 では?


 「個がそこへと溶解していく情報の網の目」と「集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は」は、「個」という主語と「溶解/解体」という述語が共通していて同一内容だと判断できる。すなわち「情報の網の目=集団性」ということになる。

 つまり「大海に浮かぶ浮き島=情報の網の目=集団性」である。

 ではこれはどのような性質・状態を喩えたものか?

 

 「安定/不安定」が挙がった。これは良い。もう一つ。

 「浮き島に、ひとときの宿りをしている」を利用するなら、「大陸」は「定住する」ものということになる。そこで「永続的・恒久的/一時的」という対比が想定できる。

 大陸/浮き島

 安定/不安定

永続的/一時的

 実体/非実体

 これでこの比喩全体を解釈できる。


 こういうことだ。

 個は情報の海に溶解していく。

 だがそこにある何らかの「集団性」に安住の地を見つけようと思っても、それは「大陸」ではなく「浮き島」のようなものだ。場所も移動してしまうし、下手をすれば沈んでしまうかもしれない。「情報」という「大海」に浮かぶ集団もまたそのような「不安定」で「一時的」なものなのだ(席替えをすれば今の班のメンバーはかわってしまうし、年度が替わればクラス替えをする)。

 こう言ってみれば、これはまったく全体の論旨そのままであることがわかる。

 丁寧に順序よく考えていけば、すっきりと腑に落ちるところまで考えることができる。


没落する「個」1 読むための技術

 第二回の一斉テストに出題した伊藤徹「柳宗悦 手としての人間」は東大入試で出題されたものだ。元の問題は「なぜか?」か「どういうことか?」を説明する記述問題で採点に手間だから、それを作り替えて、選択肢を作ったり、根拠や言い換えを文中から探させたりしている。

 これを出題したのは、高校一年生に東大の、しかもとりわけ読みにくい文章を出題してビビらせてやろうなどといった意地悪ではない。これもまた今まで読んできた文章の問題意識、認識と重なるところが多いからだ。

 テスト中には時間が足りなくてあまりに消化不良だったろうからと、テスト後の授業で読み返してみると、あちこち突つきき甲斐のあるところがあって楽しくなってきてしまった。1時限で終わるつもりが、どこのクラスでも2時限以上時間をかけてしまっている。


 それにしても読みにくい。これはもう原文が根っからそういう調子なのだということでもあるが、出題にあたっての切り取り方のせいでもある。問題文冒頭がもうわからない。それが後を引いてしまう。そこに、情報密度の高い、捻った表現が次々に出てくる。

 読みにくい文章を読むテクニックはいろいろあるが、意識的に使える技術として授業で三つ実践した。

 まずはテーマ・主題を定める

 これは掴み所のない物に把手をつけるということだ。丁度良い把手があればモノは扱いやすくなる。多少外れていても、把手が無いよりはいい。手がかりを見つけて、そこに手をかけて力が伝わるように(考えが集中するように)するのだ。

 10文字以内、2~3文節で、と指定したら、全クラスで中盤過ぎにある「集団への個の解体」が挙がった。最大公約数的にこれがテーマを表していると感じられるフレーズなのだ。

 そう思って冒頭を見るといきなり「個の没落」という言い方で、同じテーマが提示されている。2段落でも「個の稀薄化」とある。評論では、こうした言い換えが始終行われる。

 「個の解体」がテーマだと考えることで、まず「個の解体」と表現される事態がどのようなものか、なぜそれが起こったのか、それによってどのようなことが起こるのか、といったあたりに話が展開しそうだぞ、という予想が立つ。これが考える上での手がかりになる。

 ところで「没落・稀薄化・解体」はどれも一種の比喩だが、中でも「没落」が最もわかりにくい。「没落」? 前は貴族か何かだったのか?

 ここでは、「近代における個人の確立」が共通認識として前提されている。前期の授業で、そうした認識について書かれている文章をいくつか読んだ。「没落」という言葉は、裏にそうした認識があるという前提を理解していないと、何を意味しているかがまったく理解できない。


 もう一つの技術は対比をとることだ。

 「個」の対比は何か? 一段落に限定すると?

 二つと指定して探させた。

 一段落では、「個(人)」は「判断の基盤としての」と形容されるから、「判断の基盤」として「個」ではない何が言及されているか、と探す。

  • 未だ生まれぬ世代・後の世代とのなんらかの共同性・時間的広がりを含み込んだ人類
  • 人間以外の生物はもちろん、山や川などさえも超えて、「地球という同一の生命維持システム」

 が見つかればいい。

 もちろん「個」の対比は「集団」で、この対比は中盤以降に明示される。

 つまり以下の対比がアナロジー(類推)になっている。

  個/集団

現代人/後の世代を含む人類

 人間/地球・生態系

 社会を問題にするなら「個/集団」という対比でいいのだが、一段落では環境問題について語られるため、こんなわかりにくい、ズレた対比になっているのだ。


 さてもう一つは要約だ。なるべく短く言ってみる。

 例えばテーマが「個の解体」ならば、「個は解体している」と言えば文になる。そこにさらに対比を導入する。

個は解体しつつあるが、拠り所となる集団もまた想像力によって作られた虚構に過ぎない。

 授業で30字以内と言っていたわりに上のは40字くらいになってしまった。

 まず、要約しようとすることが考えるための集中力を支えてくれる。「わかろう」とするのではなく、その先に「言おう」とすることが、途中経過の「わかる」を促すのだ。

 かつ、コンパクトに言ってみると、その後で何か考えるための取り回しが楽になる。


 以上三つの技術、いたずらに「わからない」と手をこまねいているよりも、意識的に使ってみる。


2022年9月26日月曜日

パンとバラ 3 詩を読む

 吉原幸子「パンの話」をとりあげたのは言わばオマケで、多くのクラスでは結局ほとんど時間をとれなかったが、実は「暇と退屈の倫理学」と「多層性と多様性」を「関連」させるより面白い考察になっただろうなあと思って残念ではある。プリントを配付したとたんでどこのクラスでもザワめくのが面白かった。E組Nさんが「これ日本語!?」と言ったのは可笑しかった。一読してみんな、わけがわからん、と感じたはずだ。

パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです


飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――

 「パンの話」が思い浮かんだのは、「暇と退屈の倫理学」の次の一節と呼応するからだ。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 パンとバラがセットで登場するところで、オッと思わされるのだが、それだけでなくそうした共通性は両者の読解にも参考になる。


 詩を読む上での作法、あるいは「お約束」と言っても過言ではないのは、詩の中の言葉は様々な象徴性を帯びているという前提だ。

 象徴?

 「羅生門」の主人公、下人の頬の「にきび」は単なる「にきび」ではない。ある具体物が、何らかの抽象概念を表していると考えられるとき、それは「象徴」と呼ばれる。「にきび」は下人を支配していた空疎な観念の象徴だ。

 「パンの話」において、そのように読むべきなのは何か?

 言うまでもなく「パン」と「バラ」である。


 「羅生門」の場合は、「にきび」は小説内現実に存在する具体物ではある。だがそれだけではない象徴性を持っているとわかるように、殊更に意味ありげに描写されていた。

 一方、詩の場合はそもそも詩中の言葉に具体性がない。「パンの話」でも「パン」も「バラ」も、最初から具体物としてのそれではないことが明らかだ。そうであればこそ「バラを食べる」などという表現を読むことができるのだ。

 こうした、最初から具体物ではない形で登場するモノは、象徴と言ってもいいが、比喩とも言える。「~ような」をともなわない比喩を「隠喩・暗喩・メタファー」などと言うが、「バラを食べる」という表現は、直接の言葉通りの意味ではなく、何事かを喩えているのだ。

 パンとバラにどのような象徴性を読み取り、詩全体をどう読むか?

 話し合いの中で「パン=生活必需品」「バラ=嗜好品・贅沢品」という対比が語られている様子が多くのクラスで見られた。

 みんなが持っている「ちくま評論入門」の姉妹本である「ちくま評論選」(2,3年生が持っている)に「暇と退屈の倫理学」の別の一節が収録されていて、その題名は「贅沢のすすめ」だ。とすれば國分がバラを顕揚していることは贅沢を奨めているということになるのだろうか。

 とするとこの詩はどのようなことを言ってると考えればいいか?


 上の対比も悪くないが「パン=生活」にしておいて、「バラ」は「暇と退屈の倫理学」から、モリスの言う「芸術」を使うのが簡便。「贅沢のすすめ」の「贅沢」は「暇と退屈の倫理学」の「豊かさ」に近いニュアンスで、資本社会の与えてくれるモノと対比される物によってもたらされるから、例えば大量生産品ではない「芸術」などもそれにあたると考えていい。

  • パン=生活(貧しさ)
  • バラ=芸術(豊かさ・贅沢)

 「芸術」はさらに、画家なら絵画、音楽家なら音楽と考えると、吉原幸子にとってはがそれにあたる。とすれば「バラの花の話をする」「バラを食べる」は「詩を書く」ことを意味していると考えよう。

 これでこの詩の表現を論理づけられるだろうか。


 詩は理解すべきものではなく味わうべきものだ、というようなことを言う人が世の中にはいるが、味わう前にまず読むことが必要なのは言うまでもない。どの程度かはさておき、わからないものを味わうことはできない。読解の末に「わからない」という結論に至って、その段階でそれなりに「味わう」ということはある。全ての詩がわかるわけではないし、わからないと味わえないということでもない。だがわかろうとしていない詩を味わうことはできないのは間違いない。

 したがってまずは読まなければならない。

 読むということはテキスト情報を論理づけるということだ。そうでなければパンについてもバラについても詩人の思いについても、何事も受け取ることができない。


 この詩の趣旨を端的に表現するなら「詩人としての自負」といったところだというのが授業者の解釈である(こうした端的な表現がまた国語力の表れだ)。

 この表現を聞いて、ああなるほどと思えたろうか。もちろんそれは「正解」というようなことではなく、授業者の論理とあなたの「論理」が幸いにもだいたい一致したということだ。

 吉原幸子は、自分が詩を書く、書かずにはいられないことを「わたしが 不心得ものだから」と言っているのだ。生活に余裕があるからではなく「病気だから」詩を書かずにはいられないのだ。

 そしてそこに矜持もある。

 「だれよりもおそく パンをたべてみせる」とは、生活のことを後回しにしても、まず詩のことを第一に考えるのだ、という詩人としての自負を語っているのだと思う。

 ただ最後、3聯の2行がすっきりしない。特に「パンがあることをせめないで」は、誰が「責める」のか、何を責めているのか、どのような意図で「責める」のか、すっきりと解釈できない。

 このあたりをつっこんで考えていくともっと面白い読みにたどりつくかもしれない。

 ともあれ残り時間の少なくなった授業では上記のような読みを早口で語るのが精一杯だった。

 ただ、C組では指名したSさんが、ほぼこれと同じことを淀みなく語ってみせたのは、その読解の的確さも説明の明晰さも実に見事で、発表を聞いて、ほとんど感動させられた。周りで「鳥肌が立った!」というような声が聞こえたのもむべなるかな、だった。


 冬にもうちょっと詩を読む時間をとる。その時にはまたそれぞれの読解を語ってほしい。


2022年9月25日日曜日

パンとバラ 2 認識と主張

 まず「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」から考えよう。

 この「関連」は授業者が設定したものではなく、教科書編集部が「関連がある」と言っているものなので、どういう「関連」があると見なしているのかは推測するだけだ。だが読解というのはそもそも「正解」があるようなものではなく主体的に行われる一種の創作行為なので、こちらが納得いくように読めばいいのだ。


 共通して登場する言葉としては「豊か」や「退屈」がある。重要な接点だ。

 そしてもちろんここでも「近代」であり(「暇と退屈の倫理学」には直接は出てこないが)、近代の延長としての「現代」である。そして「近現代」の表れの一つである「資本主義社会」である。

 さてこれらの語をもちいて、両者を「関連」させよう。


 二人の主張を端的に取り出して比べてみる。まず「端的に」言うことが既に国語力を必要とする読解作業によって可能になる。さて。

 國分功一郎が言っているのは、生活はバラで飾られるべきだ、である。

 若林幹夫が言っているのは、多様である方が良い、である。

 これらは同じことを言っているのか? どう考えればこれらを「関連」させられるのか?


 論には「認識」の要素と「主張」の要素がある。これはまあ強引に分ければ、といったところで、もちろんある「認識」を語ること自体がある「主張」であるほかはないのだが。

 しばらく前に説明文と評論の違いとして、「主張」要素が強いのが評論だと言及したことがある。

 「主張」だけを端的に切り取ると上の通り、どう関連しているのかが見えにくい。そこで「認識」の部分を比べてみる。

 二人はどのように共通した認識を語っているか?

多層性と多様性

現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

暇と退屈の倫理学

当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことに我慢ならなかった。

 もちろんここでいう「当時のイギリス社会」の姿は広く近代社会の姿だ。二人が描く近代社会についての認識は共通している。

 共通した認識を語る二人は、それぞれどのような主張をしようとしているのか?


 「暇と退屈の倫理学」では、単純に言うと、現代は暇で退屈になった、と言っている。それは上のような社会がもたらす「同じような豊かさ」では埋められない空虚だ。

 モリスの言う「芸術」がそれを埋める。バラとは「芸術」を喩えたものだ。それは「産業革命によってもたらされた大量生産品」と対比される。したがって、「芸術」がただちに多様であるとは本来言えないものの、この論で対比されるものが「均質的」な工業製品であるということは、それと対比される「芸術」には独自性・固有性がもたらす「多様性」があるはずだということになる。

 こうして二人の論の主張は共通した方向性を持っていることが論証できる。

 芸術がもたらす「豊かさ」は、工業製品がもたらす「同じような豊かさ」とは違う、「退屈」に陥らない「豊かさ」であるはずだ。國分の「バラで飾ろう」はそういう主張だ。

 とすればそれは若林が「均質・単一」で「退屈」な世界で、多様性は重要だと主張することと同じなのだ。


パンとバラ 1 「関連教材」

 前回までの問題は、参照すべき項目が多く、まとめることが難しいはずで、授業数の少ないクラスに合わせて、テスト後に引き続き考察する。

 一方「多層性と多様性」には、教科書編集部によると「関連教材」として國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」が挙げられている。

 「関連教材」というのがどういう意味かは定かではないが、単元「共に生きる」の三編は相互に「関連教材」ということになっている。当然だ。読み比べることが最初から意図された単元だからだ。だから今年度の授業は最初にその単元から入ったのだった。

 そこに「生物の多様性とは何か」を「関連」させたのだが、それは「関連教材」としては明示されていない。聞けば意識しているというのに、あまりに領域の違う文章を「関連教材」と銘打つのためらったのだろう。惜しいことだ。領域の違う文章を「関連」づけることにこそ意義があるのに。全く違った分野の問題に共通した構造を見出す時にこそ、世界に対する認識は拡がるというのに。

 そこから「多層性と多様性」に繋げるのは、またしても領域が違うから「関連教材」という扱いではない。さらに「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げるのも授業者が設定した問題だ。

 では教科書編集部が設定した「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」とは何か?


 実はそこにはそれほど豊かな読み比べの可能性が授業者には見出せないので、さらにそこに吉原幸子の詩「パンの話」をからめる。

 詩?

 パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください

パンの話をせずに わたしが

バラの花の話をしてゐるのは

わたしにパンがあるからではない

わたしが 不心得ものだから

バラを食べたい病気だから

わたしに パンよりも

バラの花が あるからです


飢える日は

パンをたべる

飢える前の日は

バラをたべる

だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで

バラをたべることを せめてください――

 この詩は現在2,3年生が使っている「現代文B」の教科書に収録されているものだが、授業者は授業でこの詩を扱ったことはない。今回も、単独でこの詩を読解しようと考えたわけではない。

 今年度の授業では、冬頃に詩をいくつか読もうかと思っている。が、そもそも「現代の国語」は詩を扱わない想定なのだ。それが唐突に、ごりごりの評論を理屈っぽく読んでいる最中に詩を読もうというのはなぜか?

 ここに唐突に詩をからめようと企画したのは、「暇と退屈の倫理学」を読んでいればピンとくるはずだ。

 さて、どのような読み比べが可能か?

よく読まれている記事