2023年9月22日金曜日

こころ 1 準備

 後期、年内いっぱい「こころ」を読む。

 「こころ」は「羅生門」に次いで、その一部分とはいえ最も多くの日本人が読んでいる小説だ。

 既に著作権はフリーだから、「青空文庫」←リンクはもちろん、ほぼ全ての出版社が、文庫本のラインナップに「こころ」を入れており、その全てで累計では最大のベストセラーとなっている。

 たとえばこんなアンケートも。

東大生&京大生が選んだ『スゴイ本』ベスト30←リンク

 ここでは1位の「こころ」以外にも、4位に「羅生門」、7位に「山月記」も挙がっている。

 30位の「銀河鉄道の夜」の宮沢賢治は、代表作の一つ「永訣の朝」を年明けに読む予定。

 18位の「舞姫」は3年で読むことになる。

 東大生&京大生も、読書の入口はけっこう学校の国語の授業だったりするのだ。


 「こころ」という小説の全体像を把握しておこう。

 「こころ」は新聞連載小説で、各章の長さは連載一回分、1500字前後、原稿用紙4枚弱で揃っている。教科書本文中に挿入される「*」が連載一回分の切れ目を示している。これが合計110章、110日間、4か月弱、今から100年と少し前、毎日お茶の間に届けられたわけだ。

 全体が三部構成で、各部の章立ては次のとおり。

上「先生と私」  36章

中「両親と私」  18章

下「先生と遺書」 56章

 半分程が「下」であり、実際に「下」の内容が「こころ」として紹介されることも多い。

 教科書も、「下」の35章から49章までを収録している。

 「上」「中」で「先生」と呼ばれる人物が「中」の終わりに自殺することがほのめかされる。「下」は全体が「先生」の遺書そのものだ。したがって文中の「私」は、「上」「中」では「先生」より10歳ほど年下の大学生を指すが、「下」では「上」「中」で「先生」と呼ばれていた人物となる。だから授業で主人公を呼ぶときに「私」と言ったり「先生」と言ったりする(名前は小説中には明かされていない)。


 「こころ」全編を読むことは大いに推奨したいが、さしあたって教科書の収録部分は全員読んでから授業に臨むこと。

 そして読解も、基本的には教科書収録部分を対象に行う(時に、それ以外の部分を参考に示すこともあるが)。

 授業者は文庫本を複数持っているので、全編読みたい希望があれば貸す。

 またマンガ化されたものも複数持っているので、とりあえず全編をザッと辿っておきたいという人は申し出て。貸す。

 それから映画化された作品もあるので興味があれば(アマプラに古い実写映画が上がっている)。

 それよりも可能ならば見てもらいたいのは、以前、日本テレビでアニメ化した「青い文学」シリーズの中の「こころ」だ。

 毀誉褒貶あって、嫌いな人は嫌うが、授業者としては、アニメとしても質が高く、それ以上にきわめて興味深い脚色がされていてオススメ。配信やレンタルで可能なら是非。


 授業に入る前に二つの問いに答えておく。

問1 「こころ」の主題は何か?

 「こころ」を読んだことのない友達に「こころ」ってこんな話、と紹介してみよう。

 ただし「あらすじ」よりも抽象的な言い回しで言うようにする。この話は「どういう話」なのかが言えれば、それが「主題」だ。

 「こころ」とはどういう話か?


 小説の主題を考えるという行為は、そのテクストをどんな枠組で捉えるかを自覚するということだ。

 「主題の考察」といえば、世の普通の授業では、何時間かの読解の後に、最後の考察として取り組む課題だろう。

 だが、これを最初にやっておく意義は、現状の読みを自覚することにある。一読した皆ひとりひとりは、ひとまず「こころ」をどのような物語であると捉えたのか。これを自覚し、教室で共有する。

 そして授業の中では、この読みの変化を体験したい。

 変化しないのなら、授業で小説を読むことには意味がない。一人で読めばわかることを辿ってもしょうがない。

 といって、読者としてわからないことを他人から「教わる」ことにもそれほど意味はない。

 一人一人が読んで、考える。そのうちに、最初に一人で読んだときとは違った「意味」が立ち上がっていく。

 認識の変容を表わす「コペルニクス的転回」という言葉があるが、「こころ」はこれが起こるテクストだ。

 この、目眩がするような読解を体験してほしい。


 もう一つの問い。

問2 Kはなぜ自殺したか?

 この問いも、数時間の授業の後で考察するのが普通だが、上記と同じ理由で、今は一読した段階でどう捉えられているかを自覚する。


 物語の主要な登場人物の死が受け手に与える衝撃は、物語を享受する情動のうちでも最も重大なものの一つだ。ともかくも小説を読んで、その死が衝撃的であるような登場人物の自殺について、その動機を考えずに済ます読者などいない。だからこの問いは、一読してさえあれば、問うことが可能だ。


 例えば「羅生門」を読んで浮かぶ最大の問いは「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。「山月記」ならば「李徴はなぜ虎になったか?」だ。

 同様の問いは、「こころ」では「Kはなぜ自殺したか」のはずだ。

 それらの問いに対する答えが、その物語の主題の形成にとって最も重要な把握だからだ。

 Kの死をどう受け止めるかという問題と、「こころ」がどういう話だと考えるかという問題は、切り離して考えることはできない。


 さて「こころ」とは何を言っている小説なのか?

 Kはなぜ自殺したのか?

2023年9月19日火曜日

記号論・言語論 14 言語論を超えて

  以上の考察によって、言語論のエッセンスを把握してきたことを期待している。

 4クラスでだけ言及できた「チコちゃんに叱られる」の話もここに記しておく。

 チコちゃんからの問いかけは「なぜ人間だけ絵を描けるのか?」だった。チンパンジーに絵筆を持たせて、キャンパスに抽象画のようなものを描かせることはできる。だがチンパンジー本人は「絵を描いている」自覚はあるまい。赤ん坊にクレヨンを持たせても同様。目の前の色が自分の手の運動と共に変わっていくことに驚き、面白がっているかもしれないが、それは「絵を描いている」わけではない。ある種の魚は水底に模様のようなものを描くが、それは「絵」か? ならば風も砂に「絵」を描いているのか?

 ところが人間は3歳くらいになると「絵を描く」。他の生物にそれができないとすると、人間だがなぜそれができるのか?

 解説者は齋藤亜矢だった。聞き覚えがなければならない。「木を見る、森を見る」の筆者だ。

 彼女の答えは「人間は言葉を使えるから」だった。

 それが「お母さん」だったり「ブーブー」だったり「お花」だったりする「絵」は、そのような表象を子供が持つことを可能にする言葉の存在なくしては描かれない。

 名前を知らない「あれ」であっても、「あれ」という言葉によってしかそれは認識できない。認識したものしか「絵に描く」ことはできない。

 この解答は、今回の言葉と表象(認識)の関係がそのまま応用されていることがわかるだろう。


 さらにこの言語論の認識は、「山月記」の前の一連の考察にも関係のある認識がある。

 議論の中であちこちで聞こえていたが、今回の考察が「環世界」につながっていそうだという連想はみんな働いただろうか?

 「環世界」と言えば「フィルターバブル」だ。

 我々はみんなフィルターされた泡の中にいる。ネットが社会に与える影響を論じる際のフィルターは検索エンジンや広告のアルゴリズムのことだが、生物全般にとって、認識は常にフィルタリングされている。フィルターを通した世界しか認識していないことを示すのが生物学の「環世界」という概念だ。

 ではその場合のフィルターとは何か?


 これは前田英樹の「物と身体」で、身体が生物にとっての世界認識の手がかりなのだと述べられていた。身体は認識の手がかりでもあり制約でもある。

 ドミニク・チェンが「未来をつくる言葉」で「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」と述べているのに対し、授業では「身体」に対比されるものとして「文化」という言葉を想起する考察を展開した。

 その際「文化」という語で示したいものの代表として「言語」を挙げたはずだが、それは今回の言語論を視野に入れてのことだった。

 生物は身体という制約によって世界認識を規定されている。さらに人間という生物は言語という制約によって世界認識を規定されている。

 同時に、身体がなければ生物は世界を認識することはできず、言葉がなければ人間は世界を「人間として」認識することはできない。


 さらにこの考え方は1年の終盤の考察にもつながってくるはずだ。それこそ齋藤亜矢だ。スキーマゲシュタルトがまさしくこの話と重なってくる。

 言葉はスキーマ(型・枠組み)であり、表象がゲシュタルトに対応する。「犬」は「犬」というスキーマにあてはめたときに「犬」というゲシュタルトを生成する。「犬と猫」というスキーマがなければ「犬」と「猫」という別々のゲシュタルトは生まれない。よって区別もつかない。


 本当はこの後「記号論と生のリアリティ」や「ことばへの問い」へ戻って、さらに読解をしなおそうとも思っていたのだが、結局時間がとれずに前期が終わる。

 「文字禍」解釈もお預けになった。引き返そうにも、授業者の想定の結論だけ言ってもつまらんし、どうしたものか。


記号論・言語論 13 どちらが先か

 言葉と表象、どちらが先か?

 結論は、示せる。みんなが納得するような結論が。

 その結論に至るために最後の謎かけをした。

鈴木 言葉が先で表象が後。

山鳥 表象が先で言葉が後。

 どちらが正しいわけでもない。どちらも間違っている


鈴木 言葉がなければ表象はできない。

山鳥 表象がなければ言葉は生まれない。

 これは、どちらも正しい。


 二つの見解を両立させるとしたら、結論は明らかだ。

 どう考えれば良いか?

 

 どちらが先でもない。同時なのである。

 言葉より先に表象はなく、表象を伴わない言葉もない。

 表象をともなわない発声は単なる無意味な音声だ。それは「言葉」ではない。

 表象が成立したときは、そこには既に出来合いの名称であれ仮称であれ、「言葉」が貼り付けられている。

 言葉と表象が結びついたときにそれは「言葉」になるのだから、それは「同時」にしか成立しない。


 まだ納得できない人がいるだろうか?

 例えば名前がついていない新種の鳥が発見されたとき、名前はないがそれは認識されている。つまり表象はある。どうみても「ソレ」は認識されており、ソレが「表象」となってから名付けが行われるはずである。同時ではない。明らかな前後がある。

 山鳥派からのこうしたもっともな疑問にどう答えたらいいか?


 この場合は「ソレ」という名前がついているのだ。「名前をつけるべき対象」が表象された瞬間、同時に「名前をつけるべき対象」という仮名がついているのだ。後で正式名称がつけられるとしても、それは単なるラベルの張り替えでしかない(この論点に対して、授業中にこのように的確な答えを瞬時に返した人たちは何人かいた。素晴らしい)。

 表象は言葉と同時にしか成立しない。言葉がない前は、「まだ名前を持たないもの」としてさえ認識されていないのだから言葉より前に表象は存在しないのだ(もちろん物理的実体はある。だが認識の中に「表象」としては存在していない)。

 例えば新種の鳥が発見されて、これから名前をつける場合は「新種の鳥」という名前がついている。それは「カラスでも雀でも孔雀でもペンギンでも…でもない鳥」である。つまり言葉による差異化によってはじめて「新種の鳥」は存在するようになる。言葉がなければ「新種の鳥」という表象は存在しない。それは「カラス(みたいな鳥)の、とある個体」にしか見えていないはずだ。


 鈴木の「言葉がなければ犬と猫の区別がつかない」も同じだ。

 言葉がなくても犬と猫を区別できているはずだと思う人は、言葉のない状態を本気で想像していない。

 もちろんそこにいるその小動物は認識できている。だがソレを「犬」として認識し、別のアレを「犬」ではない「猫」と認識することはできない。そこにはあれこれの個体があるだけだ。個体差はある。だがそれは「犬」と「猫」の差ではない。「犬」と「猫」の個体差は大きいが、チワワとセントバーナードの個体差も大きい。

 言葉がなければすべては「そういう個体」でしかなく、「犬」と「猫」を区別するためには、上のような仮名の想定も含めて、名付けが必要なのだ。


 ソシュールはもともと、実体が先にあってそこに名前をつけたのだ、という「カタログ言語観」に対抗する言語観を提唱した。鈴木孝夫や内田樹はそうしたソシュールの言語論の革新性を強調しようとするあまり、つい「言語が先」と口走ってしまう。

 一方で、そういう言語学者の表現を胡散臭く感じる認知学者の山鳥は「言葉の前に表象はある」と言いたくなる。

 だが時間的な後先を言おうとすると、どちらも怪しくなる。


  そしてまた、同時にどちらもが単独で先に「ある」のも確かだ。

 子供は言葉を発明するのではなく、大人の使う出来合いの言葉を真似し、その使用法の誤りを正されながら言葉を習得していく。その時、子供の認識も、既にある言葉の分節化の枠に沿って切り分けられていく。山鳥の「範疇化」も、山鳥が言うように子供の心が主体的にそれを行うのではなく、言葉がそれを主導する。

 だが同時に、完全に既存の言葉が分節する枠に沿ってしか人間の認識の「範疇化」が進まないのだとしたら、言葉が変化することもあり得ない。既に分節化された枠組と、現実に対する認識の間にズレがあると感じるからこそ、新しい言葉が生まれるのだ。

 確かに、言葉は認識より先にあるが、また、まだ言葉のないところに新しい認識の芽は萌え始めている。それを山鳥が「心のはたらきが先」と言うのならそれは間違ってはいない。

 どちらも、可能性としての「言葉/表象」は相手より先にありうるが、それらが結びつかなければ真に「言葉/表象」にはならない。


2023年9月15日金曜日

記号論・言語論 12 言語の習得

 すべての科学は、立てた仮説に基づいて現象を解釈することで成立している。

 仮説=モデルによって現象を説明する。万有引力の法則あるいは相対性理論によって、観察される事象を説明する。

 天動説は間違っているわけではない。現在地動説が「正しい」ということになっているのは、地動説の方が天体の運行の観測データをすっきりと整合的に説明できるというだけだ。

 自然科学はもちろん、社会学や経済学や心理学などの人文科学も同様だ。うまく説明できれば理論として認められる。

 山鳥モデルで「デンシャ」エピソードを解釈してみる。鈴木モデルで「センテンスの生成」エピソードを解釈してみる。どちらかが不自然だということはあるか、どちらに説得力があるか?


 山鳥は次男の言葉の習得過程を例に次のように言う。

まず、複数の事象間の関係を同時に一つのシーンとして表象する心の働きが生成し、そのシーンを言語記号で表現しようとしてセンテンスが出現する。つまり、心に単語一つではラベルできないような複雑な意味(思想)が生成され、その思想を複数の単語を使って表現しようとして、センテンスが生み出されたのである。

 単語レベル(もの)だけでなく、センテンスレベル(こと)においても、表象が先にできる、と山鳥は言う。

 これは本当か?


 授業者の印象を言えば、これはまったく結論ありきで説明を組み立てているに過ぎない、と思う。

 子供の心にそのような複雑な表象が先にできたとなぜわかるのか? 表れはそのようなセンテンスを彼が口にしたという事実だけだ。だがそこにいたるまでに、先に表象ができたと考えるべき根拠はまったくない。先に表象ができていると山鳥が想像しているだけだ。

 子供は、あるシチュエーションにおいて大人が使うセンテンスをまず聞く。それを自らも口にした時の大人の反応が、そのセンテンスの働きを学習させていく。つまりそれがどのような「こと」を表しているかは、後から徐々にわかってくる。センテンスとそれが表す「こと」=表象が一致するにつれ、彼はそれを的確に使うようになる。

 こう言ってしまえば、これは全く「言葉が先」のように聞こえる。


 あるいは丸山の「デンシャ」少女のエピソードを山鳥モデルで説明すると、とても奇妙なことになる。

 山鳥モデルに拠れば、この少女は「動くもの、そして柔らかく温かいもの」「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象を脳内に作って、それをそれぞれ「人間」「人形」と名付けたということになる。

 だがどうしてそんな都合良く、そうした表象に対応する言葉が少女に与えられると考えられるのか?

 「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象が作られたのなら、それは「ツクエ」でも「ペン」でもいいはずだ。「ニンギョウ」であるべき必然性はない。

 だから「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象は、どうみても「人形」を「人間」に対置した時に初めて生まれたもののはずだ。先に「人形」「人間」という言葉とそれに伴う表象が先にあったはずだ。

 さらに山鳥説ならば「動いても、冷たくて固い」という表象を心の中に持ち、「デンシャ」がそのどちらに入るか判断に迷うと考えたということになる。

 これはあまりに高度な分析的・哲学的思考だ。そんな表象が先に生じたなどという事態を想像することはどうみても無理だ。山鳥モデルではとても非現実的な事態が起こっているようにしか思えない。

 「人形」「人間」「デンシャ」という言葉は、いきなり少女の前に投げ出されるはずだ。母親が人形を刺して「ニンギョウ」と言う。母親と電車に乗る、踏切で目の前を電車が通過する、絵本で電車を目にする。その時に母親がソレを指さして「デンシャ」と言う。言葉はシチュエーションと共に子供に提示され、それが、そのシチュエーションの中に共通したソレと結びついて、次第に視覚イメージやら音声イメージやらになる。

 さらにそれが、自分の中に予めある「人間」「人形」の表象のいずれにも属さない「動いても、冷たくて固い」という表象として差異化されるのだ。その表象は、先にあった「人間」「人形」という言葉によって生じたのだ。それ以外に考えようがない。とすれば「言葉が先」にあったのだ。


記号論・言語論 11 言語の誕生/習得

 どこのクラスでも言語の誕生/習得の過程を思考実験してみることが、それぞれの論拠/反証になるのではないかという論点が挙げられた。

 ざっくり言えば、誕生を論拠にするのが山鳥派だ。人類が最初に言語を生み出した時のことを考えると、まだ言葉はないわけだから、先に表象ができたとしか考えられない。

 一方、習得の過程を論拠にするのが鈴木派だ。赤ん坊が生まれたときには既に言葉は周囲に飛び交っている。事実上言葉は先にあったのだ。

 だが個体発生は系統発生を辿ると生物学で言われるように、言葉の習得過程は言葉の誕生の過程とを分けて考える必要はないという意見もあった。

 あるいは現代の大人を例にしてこの問題は考えられないのか?


 さしあたり、鈴木派から山鳥への反論として挙がった意見を二つ紹介する。

 言葉は人類にとって、最初からあった。言葉がなかった時点というのは存在しない。言葉を持たない亜人類はすべて滅びて、ホモ・サピエンスが生まれたときには最初から言葉を持っていたのだ…。F組A君。

 言葉は最初、動物の鳴き声や周囲の自然音を口真似するところから生まれた。その時には表象は存在しないが、音声に対する周囲の反応から徐々にコミュニケーションが発達し、その過程で人類の脳内に表象が生まれた。したがって、先に言葉(の元になる発声)が先にあったのだ…。H組K君。

 どちらも巧みな反駁だ。

 どうだろう、山鳥派からの反論は?


 もう一つ、議論を展開するための材料として丸山圭三郎「ロゴスと言葉」に登壇してもらう。

 日本を代表する記号学者である丸山は、やはりソシュールの基本的な考え方をなぞっているように見える。それを確認したうえで、ここでは丸山の紹介する電車内の少女のエピソードを考察の材料としよう。山鳥の紹介する次男のエピソードと比較するのだ。

 どちらも「言語の習得」の際に起こることを例にしている。ここからどのようなことが言えるか?

2023年9月14日木曜日

記号論・言語論 10 言語の恣意性

 各言語が、相互におおよそ対応していると思われる表象に対して、それぞれが全く異なった音声をあてている。

 また、言葉の示す表象はそれぞれ指し示す範囲が違う。

 この二つの事実は「言葉が先か表象が先か?」の議論にどう影響するか?


 前回見たとおり、どちらの根拠にもならない。ただ双方がそうした事実を自分の説で説明しているというだけで、反対の立場から同じ事実を説明することができる。


 両者が同じような例を用いているのは、実は現在目にする言語論のほとんどが、ソシュールの言語論に基づいていることによる。言語が、「連続体」である世界に切れ目を入れる、という表現や、「差異化」「分節」「網目」などという言葉が頻出しているのも、ソシュールが使った表現に由来する。

 そのソシュールの言語論の重要な概念の一つが「言語の恣意性」だ。

 「恣意」とは、勝手にしていい、どうとでもなる、という意味だ。

 各言語による名付けの例は、この「恣意性」を説明するためにしばしば用いられる。

 ある表象に対して付せられる言葉は言語ごとに違う。つまり言語は現実の表象に対して「恣意的」にどういう形態をもとりうる。

 それだけではなく言語は「水/Water」の例のように、対象の切り分け方についても「恣意的」だ。どうとでも切り分けていいのだから、言葉の示す表象は実体の態様に依存しているのではなく言語に依存しているのである。


 二つの「恣意性」は同じ原理から派生している。それは「言語は事象とは独立した構造をつくっている」ということだ。だから事象に対してどのような形態をもとりうるし、事象をどのように切り分けることもできる。

 このことをソシュールは「言語の恣意性」として提起した。

 ソシュールはなぜこんな説を唱えたのか?


 これはそれまでの「カタログ言語観」のカウンターとして提起された考え方なのだ。

 「カタログ言語観」では、事象はあらかじめそのように切り分けられて世界に存在し、人間はそれをそのまま認識し、そこに後から名前をつけた、と考える。つまり言語は事象に従う。

 だがソシュールは言語は事象から独立した独自の構造を作っている、と主張する。そのことを示すのが「言語の恣意性」なのだ。

 鈴木が「言葉が先」という言い方で主張したいのは、こうしたソシュールの考え方であり、山鳥はそれへの反動として「カタログ言語観」的な言語論を展開しているということになる。

 現在の言語学はソシュールの影響下にあるから、目にする言語論はソシュール的であることが多く、むしろ言語学の専門家ではない山鳥のような書き手が、一見、反動的な主張をする。

 だが主流でないことが間違っていることを意味するわけではない。


記号論・言語論 9 具体事例の検討

 前回記事最後で提案した、二人の論述で対応する部分を比較しよう。

 二人とも、各国語で同じ表象に対する語彙が違うという事実を挙げている。これはソシュール以降の言語論が必ず言及する事象だ。

 だが立場の違うはずの二人がなぜ同じ事象をとりあげるのだろうか?

 それは何を言うための論拠になっているのだろうか?


 この点について、いくつかのクラスでは「ディベート」の際に山鳥派への疑義として挙がった。

われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。

 「同じ表象」「同じ海、同じ空」と山鳥は言うが、そもそもそれは「同じ」ではない。翻訳を通して、比較的近い表象であることが両言語話者に了解されていくこともあるだろうが、その表象がずれている例はたちまち見つかる。例えば鈴木の挙げる「水/ウォーター」の例であり、内田の紹介するソシュールの「mouton/mutton」の例だ。あるいは長田の「玉葱/オニオン」もそうだ。

 したがって山鳥が推定の論拠とする事実は、そもそも存在しない。

 このことを的確に指摘した人たち、素晴らしい。ちゃんと文章を批判的に読んでる。


 だが、山鳥の書き方が不用意だったとして、では「大体同じ」ではいけないのか? 厳密に「同じ」ではなく、切れ目が違っていたりしても、「おおよそ同じ」表象を表す言葉が各国語に存在することは、やはり「表象が先」だと考える根拠の一つになりうるのではないか(という反論を直ちに考えたのはF組のKさん。鋭い)。

 

 一方で同様の事象を挙げる鈴木は、それが「言葉が先」であることの論拠だと言っているのだろうか?

 あるいは上の比較から浮上してくる鈴木のもう一つの論点、「言葉の切れ目(言葉が指し示す概念)は各国語で違う」という事実は「言葉が先」の根拠になるのだろうか?


 言語によって言葉の示す「表象」がずれていることは、言葉が先であることの根拠にはならない。ある民族は、その風土、自然環境、生活習慣などから、対象を認識し、表現する上で、対象をある切り取り方で「表象」する。それが民族毎に違ったものになるのは自然なことだ。従ってそうして切り分けた「表象」に名前としての言葉を貼り付けるのだから、言葉の示す「表象」が言語毎にずれるのは当然だ。言葉の示す範囲・幅がずれていることは、「言葉が先」である証拠にはならない。「表象が先」だからだ、と言ってもかまわない。


 そのことをはからずも鈴木自身の文章から読み取ることができる。

日本人にとって、水や湯や氷がそれぞれ独立した、いわば別個のものであるのは、「水」「湯」「氷」のような、互いに区分が明確で、それぞれが独立した存在であることばの持つ構造を、現象の世界にわたしたちが投影しているからなのである。ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。

 前半は「言葉が先」と言っているが、後半で「切り離して扱う価値があると認めた」というのは山鳥の言う「心のはたらき」ではないか?

 とすれば先に「切り離」された「表象」が先にできたのではないか?

 前半と後半では論理が逆転しているような感じだ(この点を授業で指摘したのはE組のN君、H組のN君ら。これも、よく読んでいるからこそできる指摘だ)。


 山鳥は違った言語が「同じ表象」を「持ちうる」ことを根拠に「表象が先」と言い、鈴木は言葉の示す表象がずれている例を根拠に「言葉が先」という。

 だがどちらにも上記の様な反論ができてしまう。

 ではこれらの事実から何が言えると考えたらいいのだろう?


2023年9月8日金曜日

記号論・言語論 8 議論を咬み合わせる

 議論をかみ合わせることはとても難しいと、小論文を読んでも、クラスの議論を聞いても感ずる。

 どちらかの論に賛成することを説明しようとすると、単にどちらかの論の主張を再生するだけになってしまいがちだ。山鳥支持を唱えようとすると、単に「…と山鳥は言っている」ということを言っているだけにしかなっていない場合が多い。それはそうだが、それが山鳥の説が正しいことをなぜ根拠づけるのかが説明されない。

 これでは水掛け論だ。互いが、自分の信じていることを、感覚に基づいて主張し合っているだけである。


 議論を動かすために、まずは相手側の主張に対する疑義や異論を投げかけてみる。それによって互いに、相手がこちらの主張のどこに納得がいかないかを知ることができる。説明が足りなければ説明を追加してもいいし、例などを用いて説得力を増す語り方を考えてもいい。疑問に答えようとしているうちに、むしろ相手はこちら側の主張を受け容れるようになるかもしれない。

 例を挙げることは有効だ。自分の説の論拠として、相手の説の反証として。

 ただし、一つの例でそれができたとしても、別の例は自説への反証になるかもしれず、相手側も論拠となる別の例を挙げるかもしれない。

 ただ一つの例がすべてを解決するわけではないことには注意が必要だ。


 最も素朴な疑問は、山鳥派から鈴木派へのこのような問いだろう。

「名前をつける前のソレは存在しない」などと言っても、「ソレ」が存在しなければ、そもそも名付けが行われる動機がない。どうみても「ソレ」は認識されており、その認識=「表象」に対して名付けが行われるはずである。表象のないところに、まず名付けがなされるなどという説明は非論理的・非現実的である。

 こうしたもっともな疑問に、鈴木派はどう答えたらいいか?


 だが次のように言うこともできる。

山鳥の言うように〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉などというのなら、その名前はどこから来るのか。その表象ができた後でタイミング良くそうした言葉が天から降ってくるとでもいうのか。あるいは自分でその名前を作ったりしたら、他人に通じないオリジナルな名前が無限にできるばかりで、そのようなものを「言葉」とは呼べない。 

 山鳥派はどう答えるだろう?


 こんな風に論点を定めて議論する。

 あるいは議論をかみ合わせるためにには、両者を比較できる基準を設定して、そこで両者の是非を問う必要がある。

 たとえば次の部分。

ヒトはなぜ

 われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


ものとことば

 ヒトの多くの人は「同じものが、国が違い言語が異なれば、まったく違ったことばで呼ばれる。」という認識を持っている。犬という動物は、日本語では「イヌ」で、中国語では「コウ」、英語で「ドッグ」、…といったぐあいに、さまざまなことばで呼ばれる。…この同じものが、言語が違えば別のことばで呼ばれるという、一種の信念とでもいうべき、大前提をふまえているのである。/実は英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。

 上の二つには対応した要素がある。例えばこういう箇所を手がかりに両者を比較する。


記号論・言語論 7 対立を明確にする

 さて、山鳥重と鈴木孝夫の対立点を確認しよう。

 提出された小論文には、両者は対立していない、どちらも正しいという立場を表明しているものも多かったが、それは本当にそうなのか?

 単に両論を併記してどちらも正しいと言うだけならば簡単だ。

 だが対立が明らかであるときに、「どちらも正しい」ということはそれほど簡単ではない。まずそのことを明らかにする。

 

鈴木 ものとことば

ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている

わたしの立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。


山鳥 ヒトはなぜことばを使えるか

まず心があり、ことばがを追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。


 上の一節から、言葉の働きについての山鳥と鈴木の主張の違いを端的に表現してみよう。何度も言うが、シンプルに表現することは、問題を扱う上で利便性が増す(簡単に表現することでこぼれ落ちてしまうものがあることにも留意が必要だが)。

  • 鈴木 言葉が先にあってものが後
  • 山鳥 が先で言葉が後

 だが「言葉」は共通するとして、「心」と「もの」では比較できない。表現をそろえよう。

 鈴木の言う「もの」とは、物理的な実在ではなく、その存在を「もの」として認識している、その認識のことだ。「もの」に対する認識、ということなら山鳥の「表象」という言葉がそれに対応している。

  • 鈴木 まず言葉があって表象が存在できるようになる
  • 山鳥 まず表象があって言葉が後から貼り付けられる

 これで比較が可能になった。

 言葉が先か? 表象が先か?


 さらに両者の命題を論理学で言うところの「逆」にしてみる。

  • 鈴木 表象があるときには、まず言葉があるはずだ。
  • 山鳥 言葉があるときには、まず表象があるはずだ。

 さらにこの「対偶」をとる。

  • 鈴木 言葉がなければ表象は存在しない。
  • 山鳥 表象がなければ言葉は生まれない。

 「裏」「逆」「対偶」などの言い換えは、論理学的な真偽の判断にかかわる問題であり、「逆」「裏」は「対偶」とは違って元の命題と真偽が一致するわけではないが、ともあれ言おうとすることが、文の意味を精確に掴もうとすることにつながる。


 これで対立点が整理できた。二人の主張は真っ向から対立しているように見える。

 言語学者である鈴木が「ことばが先」といい、精神・神経学者である山鳥が「心が先」といっているのは、なんだか図式的にはまりすぎていて、そういう意味では納得されるが、じゃあ結局どう考えるのがタダシイのかと疑問は残る。

 このように対立を明確にして、それでも対立はない、どちらも正しいと言うためには、それなりに精妙な議論が必要なはずだ。

 問題点を「言葉がなくても表象は存在しうるか?」と表現してもいい。鈴木はで山鳥はだ。

 この問いの是非をめぐる対立をどう決着させるか?


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