2022年10月28日金曜日

夢十夜 7 「物語」の構造

  我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?

 どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。

 さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?


 こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。

 「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落」「回復」と表現できる。

 物語は欠けたものを埋めようとして駆動(起承)し、埋め合わされることによって決着(結)する。

 知っている様々な物語(民話・神話・童話・おとぎ話)で、そのことを確かめてみよう。

 多くの民話・神話の主人公は旅をする。欠けた物を探す旅だ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」してお姫様と結婚する(ここでみんながどんなお話を例に挙げて考察したかは興味深い。教えてほしい。聞こえてきた「浦島太郎」と「マッチ売りの少女」はなかなか分析が難しいなあと思った)。

 一方で悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。

 「羅生門」では?

 確かに食も職も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない(下人が再就職する話ではない)。

 「主題」にからむように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後それは「回復」する(勇気が出る)。

 「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その理由がわかることが「回復」(この物語性はそれほど強くはない)。

 では「第一夜」は?


 言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。

 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。

 物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。

 もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。

 だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。


 こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。

 「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。



2022年10月26日水曜日

夢十夜 6 「物語」とは何か

  「主題」は作品が可能性として潜ませている抽象的な「意味」である。「第一夜」にそんなものはなくてもいいとも言える(あってもいいが)。

 だがそれでも我々は「第一夜」を「物語」として読むことができる。読んで、まるでとりとめもないイメージが散乱するばかりの、それこそ「夢」のようでしかない体験として読み終えるわけではない。

 『夢十夜』の「第一夜」は、夢の感触を鮮やかに再現しつつ、だが創作物としての小説として完結している。

 そして我々はこれを「物語」として読んでもいる。


 「物語」とは何か?

 「第一夜」が「物語」として捉えられるとはどのような意味か?


 「物語」という概念にはさまざまな側面があり、したがっていろいろな定義の仕方がありうる。だからこの問いには「物語」という概念を何と対比するかによって様々な答え方がある。

 授業ではさしあたり「新聞記事」「歴史の教科書」と対比させた。

 「新聞記事」「歴史の教科書」との対比によって我々が「物語」という概念に見出す要素は「虚構性」である。「物語」を「現実」と対比しているのだ。

 さらに一人称の語り手」「登場人物の心情なども挙がった。確かに。

 そこで対比に「日記」も加えた。日記は一人称で「私」の心情を語る。だが「物語」ではない。

 さらに「とりとめもないイメージの羅列」を「物語」の対比として考える。虚構性も、そこから「物語」を区別する条件にはならない。

 では?


 複数クラスで提起されたのは「流れ」という言葉だが、「流れ」って何だ?

 確かに「日記」や「とりとめもないイメージの羅列」には「流れ」が感じられないかもしれない。「羅列」は「流れ」ていないということだ。

 「流れ」とは、時間軸に沿って提示される情報の間に、何らかの因果関係があるということだ。複数の出来事が時間軸に沿って起こり、それをただ並列的に述べていっても、我々はそれを「物語」とは感じない。それは「羅列」だ。それらのエピソードをつなげて、それらの出来事間に何らかの因果関係を見出す時に、我々はそこに「物語」の気配を感じる。


 だがまだそれだけでは「物語」といえる感触を捉えるには充分ではない。

 さらに「起承転結」という言葉も各クラスで挙がった。各要素は「因果関係」をもち、そこに「起承転結」といえるようなまとまりが備わったときに、それを「物語」と感じるのだ。

 では「起承転結」とは何か?


2022年10月25日火曜日

夢十夜 5 第一夜は解釈しない

 「第六夜」についての考察は、議論を聞いていると期待以上に充実しているので、これは小論文としてまとめさせたいと思えてきた。

 だがすぐに結論を出してしまうのは惜しい。時間調整に、先に「第一夜」を読むことにする。

 「第六夜」について「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。

 同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、女は結局会いに来たのか?

 あるいは「真珠貝」「星の破片」「赤い日」「露」は何を象徴しているのか?

 そもそも「女」や「百年」「百合」は何を象徴しているのか?

 こうしたいかにも「謎めいた」ガジェットに意味を見出したくなる人情もわかる。文学研究の世界では精神分析の手法を使ったり、漱石の伝記的事実を調べたりして、様々な解釈が行われている。死んでしまう女には、漱石が密かに思いを寄せていた兄嫁のイメージが重ねられている、とか。

 だが結局のところ、これらの謎に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しは、授業者にはない。精神分析的解釈や伝記的事実に結びつける解釈はどれもこじつけじみて感じられる。小説を読む読者の感動と乖離している。

 あるいは普通の文学的解釈は?

 実は中学校や塾の授業で「夢十夜」を教わったという話を聞いた。そこでは「第一夜」の主題は「永遠の愛」だと教わったのだとか。

 これは中学校や塾の先生のオリジナルな解釈ではなく、どこぞの大学の先生あたりが言っていることなのだ。

 だがそんな解釈は阿呆らしい。「第一夜」はこのような解釈を必要とせず、すでに「わかっている」ように思える。

 だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりはない。

 では何をするか?

 授業では「第一夜」を教材として、小説を読むという行為どのようなものかについて考察する。これは「『第六夜』とはどのような小説か?」という問いよりも抽象度の高い問いだ。


 「第一夜」を、一〇〇字以内に要約することを予め課しておいた。

 上に「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないと述べた。

 「第六夜」でやったのは、「主題」が何かを考える解釈だ。

 「主題」とは繰り返し言っているように「こんな話だ」という把握のことだ。

 一方で「要約」もまた、その小説が「どんな話?」という疑問に対して「こんな話だ」と答えるひとつの方法ではある。

 その過程にはある種の「解釈」が行われてはいる。テキストに書かれた何が重要な要素なのかという判断はある種の「解釈」だ。

 では「主題」を捉える解釈と「要約」する解釈はどう違うか?


 要約例をひとつ見てみよう。

百年経ったらきっとまた逢いに来ると言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(100字)

 ここには「第一夜」の「主題」が捉えられている感触はない。

 だがこれもまた「第一夜」とは「こんな話だ」と言っているには違いない。

 「主題」と「要約」はどう違うか?


 「主題」は作品から作者の言いたいことを部分的に抜き出したもので「要約」は全体を圧縮したものだ、という意見が各クラスで出た。そういう側面は確かにある。

 また、「要約」は本文をなるべく客観的に分析しているのに対して、「主題」を捉える解釈には、読者の主体的な考察が入るから主観的だ、という意見も出た。これもなるほど。

 「主題」と「要約」の違いを捉える上で、作者読者客観主観といった対比的な要素が抽出できたのは良かった。

 だがもう一言ほしい。

 「主題」と「要約」の違いを語る上で使いたい対義語は「具体/抽象」だ。

 「要約」に必要な解釈とは、物語の各要素の論理的な因果関係を判断する思考だ。骨として選ばれた要素が、物語中の具体レベルのままでもいい。

 一方、「主題」とは抽象化された「意味」だ。つまり「主題」を語る言葉は作品内情報のレベルより抽象度が高い。

 「主題」と「要約」は、その抽象度に違いがある(とはいえ実際の「こんな話」ではそれらが混ざっている方が良い。どちらかだけでは相手にどんな話かが伝わりにくいのだ)。


夢十夜 4 運慶とは何者か

  もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 伝記的事実はWikipediaでも何でも調べられる。確かに運慶と聞いてまるで見当もつかない読者は、この読解には参加できない。一般常識として運慶を知っている必要はある。

 だがそこが問題なのではなく、この小説で描かれる運慶が問題なのだ。

 実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取るのだ。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。何か?

③「運慶」は象徴するか?

 「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。一方の「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現できればいいというゴールが明確だが、飛躍を必要とする難しさもある。両方を適宜行き来して考えよう。

 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。


 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に運慶の集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い着眼点だが、この発想がどこに辿り着くのか、今のところ授業者にはわからない。それより注目したいのは次のくだりだ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。このように表現される行為は何を意味するか。


 考える、語り合う糸口として、ここでも問いを選択肢のある形に変形してみる。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない(この問題は後述する)。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

 「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


 話し合いの中で面白い視点を知ることができた。

 G組Aさんは「仁王とは?」を語っていた。これは授業者の発想にはなかった。

 ここで運慶の彫っているのが阿弥陀如来像や阿修羅像でなく鮭を咥えた熊などでなく、仁王像であることには意味があるのか?

 授業者はこの答えを持っていないが、それが結論まで結びつくならどんな着眼点も検討しても良い。

 もう一つ、「運慶が生きている理由」は「運慶にとって」なのか「自分(達)にとって」なのかと問うていたら、C組Tさんが「仁王にとって」という解釈を考えついた。仁王にとっては、自分が世に出るためには運慶さんが必要なのであり、それが「運慶が生きている理由」なのだ、と。

 それならばやはり「仁王とは何者か?」を問わねばなるまい。

 どういう解釈に決着するんだろうか?


2022年10月24日月曜日

夢十夜 3 問いを分解する

 前回の問い「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考えようとした。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。

 結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのだ。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」? むしろ「願望」?)。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。「運慶が考える、自身が生きていられる理由」「運慶が考える、自身が生きていなければならない理由」「運慶が生きていられると『自分』が考える理由」「運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由」である。


 同様に②についても分解・変形を試みる。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこで問②を次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「自分のせい」か、「木のせい」か?

 本文は「明治の木には到底仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を読み取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。そうでないニュアンスを読み取る可能性を検討した上で選んだわけではない。だから違った可能性も公平に考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならないことを互いに共有するのだ。

 あるいは主張の違いを利用して有効に議論を展開するのだ。


夢十夜 2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 いきなりこの問いに答えるのは難しい。時折この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだから何でもアリだ、そんなことに理由はないのだ、などと答えてもいい。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うているのだ。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?


 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の悟りによって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 「仁王は埋まっていない」とは、「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩である。だが隠喩で表される認識が「彫れない」という認識と同じだというわけではない。

 なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?


 論理の順としては②→①→主題だが、これは「全体の理解」と「部分の理解」のように、互いを根拠として成立する論理なので、補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。


2022年10月23日日曜日

夢十夜 1 第六夜は解釈する

 「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、来年度に漱石「こころ」、再来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、今年は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 教科書採録に際しては、以前は「第三夜」が収録されていることもあったが、近年は「第一夜」と「第六夜」のみの収録が一般的だ。できれば十編すべて読んでほしいとも思うが、今回の授業でもこの二編を読む。

 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 といって、授業で小説を読むことは、その小説の「解釈」を「理解する」ことではない。「羅生門」でも、「羅生門」の理解が目的だったのではない。「とりあえず」理解を目指すことでテキスト読解をすること、それにまつわる議論をすること自体が国語の学習なのだ。結果としてある種の理解もできたかもしれないが、それが「羅生門」にとって何か「正解」のようなものであるわけではない。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうるのである。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触がある。なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


2022年10月16日日曜日

没落する「個」4 責任と個

 もう一箇所、考える手応えがあって楽しいのは次の一節。

急速に広まった情報のネットワークを支えているコンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつことによって、「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえ曖昧になっているといわれる。近代思想のなかで「責任」が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだったことからすれば、「責任」概念の曖昧化は、自己存在が情報の網目へと解体されていくことを示唆する現象であろう。いずれにせよ、自己が情報によって組織化されるという、この傾向は、ますます一層促進されていくにちがいない。

 個人的な娯楽を目的としてこんな文章は読まないし、何かを学ぶための読書ならば、こんな読みにくい文章は勘弁してほしい。ましてテストを解かなければならない切迫した状況では、こんな言い回しは本当に迷惑だ(それでもこういう書き方をしてしまうのは、ある種の美意識なのだろう。こういうのがカッコイイと思っているのだ)。

 だが余裕のある授業ならばじっくり考えて、みんなと話し合いながら解きほぐしてく過程はむしろ楽しい。考えていった先に、風景がクリアに見える瞬間はカタルシスだ。


 まず「コンピュータ技術自体がプログラム上に原理的に欠陥をもつ」がピンとこないが、そこはそういうものだと受け取ろう。確かに何のことを指しているのかがわからない。授業者はゲーデルの不完全性定理(または→)のことを指しているのだろうと推測して読み進めた。気になってネットで「バグが無くならない理由」などと検索してみると、プログラマーの書いた記事が山のように出てくる。つまるところそれは「人間の作ったものだから」というのだ。プログラムは実用的な目的で作られるが、コスト的にどこかで切り上げて納期に間に合わせるしかないから、無限のテストによってバグ(欠陥)をなくすことはできない。だからプログラムにはバグが絶対にどこかに残るのだそうだ。

 いずれにせよ、そのままそういうものだと受け取って先を読み進める。

 とにかく、プログラムに欠陥があると「責任」が曖昧になるのだそうだ。

 なぜ?

 何せ「原理的に欠陥を持つ」のだから、誰かの「責任」ではないのだ。

 そのことから何が言えるのか?


 一方で「近代思想のなかで『責任』が、悪にも傾く自由をもった同一の行為主体としての自己存在のメルクマールだった」のだそうだ。こういう、当然それはわかってるよね? と読者の了解を前提にしてしまう言い回しが、その業界の中にいるわけではない読者にはいちいち抵抗になる。

 だが切り取ってここだけを理解しようとすれば、できないわけではない。

 人間は「自由をもった同一の行為主体」だ。近代において、人は宗教や伝統から解放されて、自分の意志で自由に行為できるようになった(ということになっている。既習事項)。

  「同一の」という形容は、昨日の自分も今日の自分も一ヶ月後の自分も全て同一の自分である、という「自分」の存在の確かさを言っている。「アイデンティティ」の訳語である「自己同一性」の「同一」のことだ。

 すべてが「自由」なのだとすればそれは動物と変わらない。あるいはもはやそれは人の行為と言うより自然現象だ。とりわけそれが「悪にも傾く」とすれば、動物や自然現象を「悪」として裁くことはできない。その時、何が人間を人間たらしめるかといえば、「責任」だというのだ。何をしたかではなく、したことに「責任」をもつことが、彼のアイデンティティのメルクマールなのだ。

 そう理解すれば、

コンピュータ技術が「責任」を曖昧にする
したがって
「責任」によって保証される「個人」も曖昧になる
という論理がたどれる。


 この部分では「責任」が「個人」の存在を証し立てる条件として取り上げられているのだ、という論理を把握する必要がある。「責任」が曖昧なら、個人の存在も曖昧になる。

 同じように、この前の部分では「欲望」が「個人」の輪郭を捉えるのに使われている。「個人」とは、その人にしかない「欲望」を持っていることによって保証される。

 「欲望」が「個人」に属するものならば、「個人」の存在は確かにあると言える。だが「欲望」も情報の網の目に生ずるものだから、「個人」の存在を証し立てることはできない(若林幹夫が「誰かの欲望を模倣する」で言っていたことだ)。

 「責任」も「欲望」も、個人の存在を証し立てることはできない。

 これは前回の考察で「合意」が「集団性」を保証する条件として取り上げられ、それが作りものであることを言うことで集団が作りものであることを論じた論理と同じなのだ。

 これもまた全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる感じを味わえるはずだ。


 ところでここを話し合わせているうちに面白い問題が見つかった。

自己存在が情報の網目へと解体されていく

自己が情報によって組織化される

 連続する二文の中で「解体/組織化」という、一見正反対の言葉が、何の説明も言い訳も無しにごく自然に置き換えられている。この奇妙さに、読者はついていかねばならない。

 上の二文は同じことの裏表なのだ。そのことが「そうだよな、当然」と思えることが、この文章を読めるということなのだ。

 個はそれ自体が独立した存在であるのではなく、情報によって組織化されたものだ。そのことは前にも言われている。

欲望の源泉は、相互に絡み合って生成消滅している情報であり、個人はその情報が行き交う交差点でしかない

 個人がそのように情報によって「組織化」されることで成立したものであるとすれば、「個」というものを捉えようとすれば、それはすなわち確固として既に存在していたものではなく、情報の中に「解体」されてしまうということにほかならない。

 情報によって組織化されることは情報の中に解体されるということだ。どちらも「確固として存在する独立した個」の対比として、同じ側の個のイメージを表現しているのだ。


2022年10月12日水曜日

没落する「個」3 ファケーレ/ファクト

 次の一節もひっかかるはずだ。

合意が達成され機能するとしても、それは当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく、「合意した」という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎないそういう意味でいえば、「合意」とはまさに形成されたもの、作りものであり、それが「事実」と呼ばれるとしても、作る作用(ファケーレ)に支えられた事実(ファクト)でしかないのである。


 下線部は、東大の問題では「どういうことか説明せよ」と出題されている。

 読んでわからないわけではないがどうすれば「説明」になるのかわからない、というのがこういう問題の常だ。

 そこが「わかる」としてもその後で「そういう意味でいえば」以降への論理的接続がよくわからない。「そういう」や「それ」の指示内容も曖昧だし、「ファケーレに支えられたファクトでしかない」という結論がどこから出てきて、何を言いたいのかもわからない。

 どこから解きほぐすか。


 「『事実』と呼ばれるとしても」の「としても」は「合意が達成され機能するとしても」を受けている。「事実」は前の行の「『合意した』という事実」を受けている。

 こういう論理関係の追い方は、もちろん無意識にも行っているだろうけれど、意識してやってみてもいい。

 二つの対応から、論理的に次のことが言える。

「事実」=合意が達成され機能する(こと)=合意した(こと)

 これは何を意味する?


 文末はおそらく「ファクト」という英単語は、ギリシャ語がラテン語の「ファケーレ」が語源なのだという知識を前提にしているのだろう。そう思って調べてみるとやはりラテン語だった。「ファクトリー(Factory)=工場・製作所」もなるほど「作るところ」だ。

 それがどうした?


 「作る作用に支えられた事実でしかない」は、読者にある違和感を感じさせることを狙いつつ、その驚きの中でメッセージを伝えようという意図にもとづいた表現だ。

 「作る作用」と「事実」は日本語では反対のベクトルを持っているような印象がある。文中で繰り返し使われる「作りもの」は「非実体」「虚構」などの言い換えだ。それは本来「事実」と対立的な概念のはずだ。「事実=本物/虚構=偽物」なのだから。

 それが欧米語の語源に遡ると通じ合ってしまう、という豆知識をここでは「事実は作り物だ」と語るために用いられているのだ。 

 ではなぜ「事実は作り物」なのだ?



 下線部の終わり「~にすぎない」という言い方は、ある限定をすることで、それ以外の部分を否定的に想起させる表現だ。「これは始まりにすぎない」と言えば「始まり」の裏に「それ以降、終わりまで」が対比されていることを示すし、「そんなのは口先にすぎない」といえば「腹の底からの本心」が、その場限りの「口先」の対比として言外に表現されている。

 「『合意した』という事実だけが、それを合意として機能させているにすぎない」も、同じように、何かを限定をすることで言外の何かを否定している。

 ここにはどのような対比があるか?

 だが何を限定しているかも、言外に何を想起させているかも、表現することが難しい。ここを何とか言葉にしてみる。

本心/口先

の順に表現してみる。「本心ではなく口先に過ぎない」という文型に嵌まるように対比させてみよう。

 どう表現すれば良い?


 我々のテストでは、ここは説明ではなく、「これを表す例」を選択肢として出題した。正解率は6割くらい。これを利用する。正解と不正解の選択肢はどこが違っているか? 何が正解の目印なのか?

 使われている「臓器移植」「クローン人間」「人工妊娠中絶」「自動運転」といった例が問題なのではない。例自体には適否はない。

 ポイントは、②「価値観の一致に基づく」と、①「納得しているわけではない」、③個人の~観に反したもの」、④「解決を~放棄している」の違いだ。

 これが上記の「すぎない」の限定による対比と対応している。

 各クラスでそれぞれ試行錯誤して、この対比を表す言葉として挙がったのは次のような表現だ。

全員一致による合意/多数決による合意

  納得ずくの合意/不本意な合意

   本質的な合意/形式的・表面的な合意

 尤も、よく見れば下線部の前に「ではなく」があって、対比は明示されている。

当の合意が普遍的な基準を表現しているからではなく

 つまり「普遍的な基準による合意」だ。上記の左辺は適切であることがわかる。


 これが「ファケーレに支えられたファクト」と対応する。

 順序が逆だ。

事実/作る作用

 「『事実』と呼ばれる」のように括弧のついた表現は、そのニュアンスを適切に読み取る必要がある。「事実」は普通、本物のニュアンスだ。それは左辺のような合意でなければならないはずだ。

 ところが「事実」上、実際に機能しているのは右辺のような合意による。つまり「作りもの=偽物」なのだ。

 だから「事実」は「作る作用」に支えられていると言えるのである。


 ところで、なぜ「合意」が問題になっているのか?
 大きな文脈の中に位置付ける。
 「合意」は「社会的合意」として文中に登場する。
「社会的合意」の「社会」なるものが、いかに捉えどころのないものであるか
 つまり合意が「作りもの」であることを言うことは「社会」が「捉えどころがない」ことを言うことになり、それはつまり「集団」が不確かなものであることを言うことになるのだ。
 「合意」が作りものだから、その合意によって成立する「集団」も作りものだ。
 こうして全体の文脈に位置付けることで腑に落ちる。

没落する「個」2 比喩を分析する

 全体の把握と部分の解釈は相補的だ。全体の論旨は部分の理解の集積だが、逆に全体の論旨が把握できることで部分が理解できるようにもなる。

 そう思って全体の論旨を捉えた上で読み返してみると、どこかはすっきりしてかもしれないが、依然としてこの文章にはわからないところがあちこちにある。

 わからないことは、どんどん質問してほしい。むしろ鋭い質問で授業者を困らせるくらいのことをしてほしいところだが、ぼーっとしていると「どこがわからないのかわからない」などという腑抜けたことになる。


 あちこちから聞こえてくるポイントを全体で考えた。

 まず文末の比喩。

もとより個がそこへと溶解していく情報の網の目も、相互に依存し合い絶えず組み替えられ作られていく、非実体的なものにほかならない。そうだとすれば集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は、新たな別の大陸を見出したのではなく、せいぜいのところ波立つ大海に幻のように現われる浮き島に、ひとときの宿りをしているにすぎないのである。

 比喩と言えば「生物の多様性とは何か」の中の「自転車操業」について1クラスだけ考察を展開した。あれは面白かった。今回は全クラスで考えてみる。

 比喩を含む表現を考えるには、とりあえず、何が、何の、どのような性質・状態を喩えているか、を明らかにする。「綿のような雲」という比喩は、「綿」が「雲」の「白くてふわふわしているありさま」を喩えている。

 この部分で「綿」にあたるのは「大陸・大海・浮き島」だ。

 だが「何の」と「どのような性質」は表現が難しい。


 その中でもとりあえず文中の言葉に対応させられそうなのは「大海-情報」だ。「波立つ」という形容は「絶えず組み替えられ作られていく」イメージを喩えているように感じられる。

 「情報」が「大海」だとすると「網の目」が「浮き島」に喩えられているのだろうか?

 そう解釈しても悪くはないが、「網の目」でもまだ比喩なので、さらにそれが何を喩えているのかを考えよう。


 「大陸・大海・浮き島」の三つはどのような関係になっているか?

 「ではなく」型の文型は対比を示していることを忘れてはいけない。何と何が対比されているのか?

 「大陸/浮き島」だ。ということは、それがどのような性質を表すかも、対比的な形容で捉える必要があるということだ。

 どのように表現したらいいか?


 全体論旨の把握から使える形容としては「実体/非実体・虚構」がどのクラスでも挙がった。考え方としては間違っていない。上記文中で「非実体的なもの」だと言われているのは「情報の網の目」であり、上に述べたように「浮き島」が「網の目」を喩えたものだとも考えられるからだ。

 だが逆に「実体/非実体・虚構」を表そうとしたら、比喩として「大陸/浮き島」という喩えは想起しないはずだ。

 では?


 「個がそこへと溶解していく情報の網の目」と「集団性のなかへ解体していったといっても、そこに個は」は、「個」という主語と「溶解/解体」という述語が共通していて同一内容だと判断できる。すなわち「情報の網の目=集団性」ということになる。

 つまり「大海に浮かぶ浮き島=情報の網の目=集団性」である。

 ではこれはどのような性質・状態を喩えたものか?

 

 「安定/不安定」が挙がった。これは良い。もう一つ。

 「浮き島に、ひとときの宿りをしている」を利用するなら、「大陸」は「定住する」ものということになる。そこで「永続的・恒久的/一時的」という対比が想定できる。

 大陸/浮き島

 安定/不安定

永続的/一時的

 実体/非実体

 これでこの比喩全体を解釈できる。


 こういうことだ。

 個は情報の海に溶解していく。

 だがそこにある何らかの「集団性」に安住の地を見つけようと思っても、それは「大陸」ではなく「浮き島」のようなものだ。場所も移動してしまうし、下手をすれば沈んでしまうかもしれない。「情報」という「大海」に浮かぶ集団もまたそのような「不安定」で「一時的」なものなのだ(席替えをすれば今の班のメンバーはかわってしまうし、年度が替わればクラス替えをする)。

 こう言ってみれば、これはまったく全体の論旨そのままであることがわかる。

 丁寧に順序よく考えていけば、すっきりと腑に落ちるところまで考えることができる。


没落する「個」1 読むための技術

 第二回の一斉テストに出題した伊藤徹「柳宗悦 手としての人間」は東大入試で出題されたものだ。元の問題は「なぜか?」か「どういうことか?」を説明する記述問題で採点に手間だから、それを作り替えて、選択肢を作ったり、根拠や言い換えを文中から探させたりしている。

 これを出題したのは、高校一年生に東大の、しかもとりわけ読みにくい文章を出題してビビらせてやろうなどといった意地悪ではない。これもまた今まで読んできた文章の問題意識、認識と重なるところが多いからだ。

 テスト中には時間が足りなくてあまりに消化不良だったろうからと、テスト後の授業で読み返してみると、あちこち突つきき甲斐のあるところがあって楽しくなってきてしまった。1時限で終わるつもりが、どこのクラスでも2時限以上時間をかけてしまっている。


 それにしても読みにくい。これはもう原文が根っからそういう調子なのだということでもあるが、出題にあたっての切り取り方のせいでもある。問題文冒頭がもうわからない。それが後を引いてしまう。そこに、情報密度の高い、捻った表現が次々に出てくる。

 読みにくい文章を読むテクニックはいろいろあるが、意識的に使える技術として授業で三つ実践した。

 まずはテーマ・主題を定める

 これは掴み所のない物に把手をつけるということだ。丁度良い把手があればモノは扱いやすくなる。多少外れていても、把手が無いよりはいい。手がかりを見つけて、そこに手をかけて力が伝わるように(考えが集中するように)するのだ。

 10文字以内、2~3文節で、と指定したら、全クラスで中盤過ぎにある「集団への個の解体」が挙がった。最大公約数的にこれがテーマを表していると感じられるフレーズなのだ。

 そう思って冒頭を見るといきなり「個の没落」という言い方で、同じテーマが提示されている。2段落でも「個の稀薄化」とある。評論では、こうした言い換えが始終行われる。

 「個の解体」がテーマだと考えることで、まず「個の解体」と表現される事態がどのようなものか、なぜそれが起こったのか、それによってどのようなことが起こるのか、といったあたりに話が展開しそうだぞ、という予想が立つ。これが考える上での手がかりになる。

 ところで「没落・稀薄化・解体」はどれも一種の比喩だが、中でも「没落」が最もわかりにくい。「没落」? 前は貴族か何かだったのか?

 ここでは、「近代における個人の確立」が共通認識として前提されている。前期の授業で、そうした認識について書かれている文章をいくつか読んだ。「没落」という言葉は、裏にそうした認識があるという前提を理解していないと、何を意味しているかがまったく理解できない。


 もう一つの技術は対比をとることだ。

 「個」の対比は何か? 一段落に限定すると?

 二つと指定して探させた。

 一段落では、「個(人)」は「判断の基盤としての」と形容されるから、「判断の基盤」として「個」ではない何が言及されているか、と探す。

  • 未だ生まれぬ世代・後の世代とのなんらかの共同性・時間的広がりを含み込んだ人類
  • 人間以外の生物はもちろん、山や川などさえも超えて、「地球という同一の生命維持システム」

 が見つかればいい。

 もちろん「個」の対比は「集団」で、この対比は中盤以降に明示される。

 つまり以下の対比がアナロジー(類推)になっている。

  個/集団

現代人/後の世代を含む人類

 人間/地球・生態系

 社会を問題にするなら「個/集団」という対比でいいのだが、一段落では環境問題について語られるため、こんなわかりにくい、ズレた対比になっているのだ。


 さてもう一つは要約だ。なるべく短く言ってみる。

 例えばテーマが「個の解体」ならば、「個は解体している」と言えば文になる。そこにさらに対比を導入する。

個は解体しつつあるが、拠り所となる集団もまた想像力によって作られた虚構に過ぎない。

 授業で30字以内と言っていたわりに上のは40字くらいになってしまった。

 まず、要約しようとすることが考えるための集中力を支えてくれる。「わかろう」とするのではなく、その先に「言おう」とすることが、途中経過の「わかる」を促すのだ。

 かつ、コンパクトに言ってみると、その後で何か考えるための取り回しが楽になる。


 以上三つの技術、いたずらに「わからない」と手をこまねいているよりも、意識的に使ってみる。


2022年10月3日月曜日

なぜ成績評価をするのか

  前期末でいったん成績評価をする。その具体的方法や基準については授業で説明するとして、その前提となる原理的な考え方について述べておく。

 成績評価とは何のためにするのか?

 一般的なイメージとしては、成績評価は、その学習成果(達成度や能力)に対する公的な保証、といったところだろうか。試験を合格したことで得られる免許や資格がそうだ。ここでは成績評価は単純に合否で二分される。

 入学試験なども同様に、得点は満点から0点までばらつくが、合否はどこかで線引きして二分される。合格した者は、その能力が公的に保証されたのだ。

 普段の学校の学習活動に対する成績評価にもこれと同じ機能もある。いわゆる推薦入試などでは、高校側が算出した成績評価が大学によって合否の判断に一部、使用される。

 だがそうした機能は、成績評価の一部でしかない。

 そもそも成績評価の機能とは、学習成果の評価を学習活動にフィードバックすることで、学習活動を修正することにある。より良い評価がされる学習活動は強化される。低評価の学習活動は見直される。学習評価はそうした反省のためのモニターである。

 学習と評価は互いにフィードバックするサイクルを成している。


 新課程における成績評価は、文科省の定めた学習指導要領に基づいて、次の三つの観点をそれぞれA~Cの3段階で評価することになっている。

  1. 「知識・技能」
  2. 「思考力・判断力・表現力等」
  3. 「主体的に学習に取り組む態度」

 三つの観点は、学習にはそれぞれの側面がいずれもおろそかにされることなく重視されるべきであるという認識を、学習者と支援者(生徒と教師)が共有しようという理念をあらわしている。生徒は評価によって自らの学習態度を見直す。教師は三つの観点がそれぞれ必要な要素であることを自覚しながら授業を計画したり課題を設定したりして生徒の学習を誘導する。

 この機能は、教師がそれぞれの観点で生徒を評価することによっても働くかもしれないが、実際にそれぞれの学習成果において、123がどのように作用しているかを教師が判断することはできない。

 例えば「主体的に学習に取り組む態度」を評価することはどうすれば可能か?

 しばしば生徒の挙手の回数を数えるというような方法が、揶揄されるために例としてあげられる。それは滑稽で非現実的だ。そんなことを実際に行うのは甚だしく手間がかかる上に教育的でもない。それが馬鹿馬鹿しいことは誰もがわかっているのに、ではどんな方法が現実的に可能で妥当かは誰からも納得できるようには提案されない。せいぜい提出物や出欠席の数をもとに評価するくらいだ。それらは挙手の回数と違って算出可能だが、同じくらいに馬鹿馬鹿しい。例えば提出された論文の評価などはどうみても2「思考力…」によって評価されるべきだ。提出したかしないかを3「主体的に…」として評価し、内容を2で評価する? 可能だが不必要な二度手間だ。

 「主体的に学習に取り組む態度」などというものは、明らかに個人間でその強弱や濃淡、存否の差違があるにもかかわらず、同時に明らかに内面的なものであって、外側から適切に評価することは絶望的に不可能なのだ。

 また例えば12は、これもまたそれぞれに学習の別の側面であるにもかかわらず、外側に表れている結果(例えばテストでの得点)ではそれらが混ざった形で作用している。これを切り分けることの合理的な方法はない(例えばこの小問は「知識」で、こちらは「思考力」だ、などと振り分けることは可能だが多分に不合理だ)。そしてそこに3「主体的態度」が重なっている。高得点は12の能力が発揮されたからでもあるが、主体的に学習に取り組んだ成果でもある。テストの点数を123に分けることは原理的には不可能で、実際に設問によってそれを振り分けたりすることには、どうしたって現実的でない不合理が生ずるのだ。


 三観点を教師が適切に評価することは不可能だが、一方、生徒自身はそれを自覚できる。知識があるから漢字の問題を正解できたのか努力して正解できたのかは自分でわかる。知っているからできたのか、考えて正解に辿り着いたのか、あるいはまた自分が主体的であるかどうかは、自分にはわかる。

 学習へのフィードバックという評価の目的は、本人にそれができるならば機能はしているのだ。

 教師は、三観点に分けた評価に手間をかけるよりも、三つの側面を意識した授業や学習課題を企画することに注力すべきである。例えば一問一答式に瑣末な知識を問うような問題ばかりのテストで成績を評価するのは1に偏りすぎている。一方的な知識の伝達に過ぎない授業も、わいわい賑やかだが必要な知識の伝達されない授業も見直されるべきだ。

 三観点評価への移行には、そうした反省が期待されている。


 実際にこの学習評価とフィードバックが最も有効に働いているのは授業中だ。

 授業ではグループでの話し合いと、そこでの考察をクラス全体で検討する活動が繰り返される。話し合いに参加する姿勢や発表の意欲は3の観点から評価される。生徒同士は常にそれを評価し合っているし、当然自己評価もしている(授業者も内心評価しているのだが、全員に対する公平な評価はできない)。あいつは積極的に発言しているなあとクラスメイトを評価し、自分が評価されていることを明確に感じ取っている。

 そこでの発言は、ある時には「よく知っているな!」(1「知識」)、あるいは「ああ、なるほど、そうか!」(2「思考力・表現力」)などと、自分の発言に対する相手の反応で、常に評価され、フィードバックしている。

 いずれはこれらの評価が何らかのテクノロジーによって自動的に数値化される未来もあるだろうが、少なくとも現状でもこうした評価は常時、歴然と行われている。

 したがって、学習と評価のサイクルは充分効果的に機能している。

 例えば教師がひたすら講義していて、生徒はひたすら板書をノートに書き写している、というような授業ではこうしたフィードバックは起こらない。

 三観点評価はそうした昔ながらの一斉講義式授業の改革を企図しているのだ。


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