我々が「第一夜」を完結した「物語」として感じられる要因は何か?
どうみても「虚構」だし、展開は因果関係によって継起していく。墓を掘るのも待つのも女との約束だからだということは読者に了解されている。
さらに、ここには「物語」が持っている、ある普遍的な構造がある。それを「起承転結」などとそれを表現してもいいが、では「起」だの「結」だのがあると感じるとはどういうことか?
こういう本質的な「そもそも」問題は、いろんな切り込み方があって考えてみると面白い問題なのだが、ここではそのうちの一つの考え方を紹介する。
「物語」に広く見られる構造を汎用性のある言い方で言うなら「欠落」と「回復」と表現できる。
物語は欠けたものを埋めようとして駆動(起承)し、埋め合わされることによって決着(結)する。
知っている様々な物語(民話・神話・童話・おとぎ話)で、そのことを確かめてみよう。
多くの民話・神話の主人公は旅をする。欠けた物を探す旅だ。それを見つけて帰ることで物語が終わる。「桃太郎」は村から収奪された財宝を鬼ヶ島から取り返して戻ってくる。同型の「一寸法師」でも鬼から宝を取り戻すのだが、さらに彼の場合は身長が「欠落」していたのだとも言える。結末では打出の小槌によって身長が「回復」してお姫様と結婚する(ここでみんながどんなお話を例に挙げて考察したかは興味深い。教えてほしい。聞こえてきた「浦島太郎」と「マッチ売りの少女」はなかなか分析が難しいなあと思った)。
一方で悲劇の場合は、そのように期待される「回復」が裏切られることが、やはり物語の決着として感じられる。
「羅生門」では?
確かに食も職も「欠落」しているが、直接その「回復」が果たされるわけではない(下人が再就職する話ではない)。
「主題」にからむように構造を把握するなら、最初門の下で下人に「欠落」していたのは盗人になる「勇気」であり、最後それは「回復」する(勇気が出る)。
「第六夜」は、運慶が明治の世に現れている不思議が「欠落」で、その理由がわかることが「回復」(この物語性はそれほど強くはない)。
では「第一夜」は?
言うまでもなく女の死が「欠落」を生み、再会によって「回復」する。
このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。
物語前半の喪失による欠落が、試練の末に埋め合わされることで回復するというのは、「物語」の基本的なドラマツルギー(作劇技法)として完璧な要件を備えている。
もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく欠落補充の要請は、確かに満たされて終わる。
だから読者はこの小説を、一編の「物語」として捉えることができている。
こうした「欠落」→「回復」を大きな背骨とした構造を捉えることは、要約において必要な把握だ。だがそれは「意味」を捉えるような抽象化を伴っているわけではない。
「第一夜」は「主題」を考えることなく「物語」として読める。