2022年7月6日水曜日

羅生門 15 「前の憎悪」

 老婆の答えを聞くと、下人はなぜかそれが平凡であることに「失望」する。それとともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 さてここで分析したいのは①「憎悪」と③「憎悪」の比較である。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 先に言及された「嘲るように」「かみつくように」についても注意を促しておきたい。

 「嘲る」は一般的には先に触れたように、老婆の自己正当化の論理が自分に対する害をも容認することに老婆自身が気づいていないことを嘲っているのだ、などと説明される。

 だがこの形容が③の「侮蔑」と響き合っていることを認めるならば、この説明を受け入れることはできない。「侮蔑」は老婆の長広舌を聞く前だからだ。

 そして「かみつくように」という老婆に対する敵意は「憎悪」から続いていると考えてもいいはずだ。

 したがって、「嘲る」にせよ「かみつく」にせよ、老婆に対する下人の感情は、老婆の長台詞の前にその要因が準備されていると考えられる。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。


 「引剥ぎ」という「行為の必然性」は、従来「極限状況」と「老婆の論理」によって説明されてきた。

 「行為の必然性」は、先に確認したように「変化の必然性」だから、これは物語の構造を次のように捉えていることになる。




















 だが「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。












つまり


 










という論理の中で捉えられるべきである。

 とすればその論理とは何か?


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