2022年7月6日水曜日

羅生門 13 不自然な憎悪

 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、これはもっと読者の注意を引くはずだ。下人の「憎悪」を読者はそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがこうした理由は、この「憎悪」の不自然さを解消するだけの納得をもたらさない。

 そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に残す。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」だ。なおかつ「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 だが一方で半ばはわかるような気もする。確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だ。何か不穏なことが起こっていてもおかしくはない、といった読者の曖昧な納得を誘導する。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。

 といってそもそもこれが悪と判断する根拠なのかどうかも、文脈として明示されているわけではないから、厳密に問い質そうとすると「そんなことは言っていない」と作者は身を躱す。が、改めて考えてみればやはり変なのだ。


 さて、この表現には見覚えがないだろうか?

 注目すべきは、この表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 つまり下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 そしてその予断の根拠となる「この雨の夜に、この羅生門の上で」がなぜ根拠となるのか読者にはわからない。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような理解(「死者への冒瀆」)の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりにによくわからない理由(「雨の夜に羅生門の上で」)が置かれる。読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、相反する方向に引き裂かれて、ねじれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのである。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


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