2022年7月9日土曜日

羅生門 17 結論



 空欄に入る語は何か?

 あちこちで「主観/客観」を挙げる声が聞こえる。

 だが聞いてみると、①③のどちらが「主観」でどちらが「客観」かは、班によってさかさまだったりする。

 どちらでももっともらしい説明ができてしまうのだ。

 つまりこの対比は有効ではない。


 「抽象/具体」も挙がりやすい。①の突然一般化された「悪」は確かに抽象的であると言ってもいい。一方③の、理由を聞いて認識される「悪」は具体的な老婆の行為を指している。

 この対比は適切だが、ここから主題の把握には距離がある。こうした下人の認識の変化がどのような主題を構成することになるのか。

 ①には、例えば「イメージ」などの言葉が入りうる。「虚像」を上げたのはH組K君。こちらからは「幻想」も挙げた。

 その上で、最も適切な言葉は「観念」だと思う。

 高校生はこの言葉を決して想起しない。言葉としてはみんなも知っている。だが「語彙」というのは「知ってる言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という語彙は高校生にはない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。「お前の考えはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、bに進む抵抗が強かったからだ。それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 としての悪」から「③ 現実 としての悪」に変わったからである。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。



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