「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。
まずは下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。
- 「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)
- 「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)
- 「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)
- 「六分の恐怖と四分の好奇心」
- ①「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」
- ②「安らかな得意と満足」
- ③「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」
- 「冷然と」
- 「(盗人になる)勇気」
- 「嘲るように」「かみつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)
明らかに、問題は①の「憎悪」からだ。
この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。解釈を言葉にするのは容易ではないが、取り組む意義はある。この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるはずなのだ。
考察にあたって「この時の下人の気持ちを考えてみよう」などと問うつもりはない。考えるべき焦点がまるで見えてこない。
「なぜ憎悪が湧いてきたか」も難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。
そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。これでは「わからない」というしかない。
「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析するのだ。
だが、「分析」というのが何を考えることなのか?
そこでこう問う。
読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?
分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。
「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。
こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。
各クラスの授業で皆から提示されたのは次のような諸点。
- 激しすぎる。過剰。
- 憎悪の対象がなぜか一般化する。
- 自分に害があるわけでもないのに憤っている。
- 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
- 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。
これらの特徴は、相反する方向性をもっている。
対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。
下人の「憎悪」は不合理である。作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。
従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。
悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意識的であり、なおかつ意識的であることを読者に伝えようとしているのである。
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