下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることの証左だ。
だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。
老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。
だから「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。
ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」として説明した。
だがそれよりもむしろこれは、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。
つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられているのである。
あらためて、このような読解による「羅生門」とはどんな小説か?
「羅生門」の主題とは何か?
芥川本人による主題「moral of philistine」をどう考えたらよいか?
「羅生門」とはつまるところ、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する話、である。
芥川自身が「moral of philistine」について書きたいと言うのは、つまり世人の「モラル」に対する皮肉だ。「善」と「悪」をめぐる価値の対立こそ「モラル」である。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。
下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」を通して、我々の持っている「モラル」がそのような歪で浮薄なものに過ぎないことを描く。
それこそが芥川の意図する「羅生門」の主題である。
下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?
「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。
そしてここまでの結論でも、それを「道徳=モラル」と言ってもいい。ただし一般的解釈における「道徳」は「エゴイズム」に対立する、そのままのいわゆる「モラル」である。
だが芥川の言う「ペリシテ人のモラル」とは、空疎な観念に根拠づけられた歪で浮薄な、いわば「反モラル」である。
頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。
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