2025年11月9日日曜日

視点を変える 8 視点=スキーマ=記号

 言語論と貨幣論、広告論の対応は整理できてきた。

 さてこれをもう一度最初の「木を見る、森を見る」につなげる。

 今までに確認されたいくつかのテーゼを思い出そう。

  • 視点を変えると物事は違って見える。
  • スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。
  • 言語が違うと世界は違って見える。


 これをそのまま貨幣や広告にあてはめれば次のように言える。

  • 広告が違うと商品は違って見える。
  • 値段が違うと商品の価値は違って見える。

 これは納得しやすい。


 だがもう一歩、スキーマという考え方のポイントは「認識」という現象の成り立ちについてだった。

  • スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。

 これはそのまま言語についても言えることを確認した。

  • 言語がなければ世界を(言語的に)認識することはできない。

 齋藤亜矢が「チコちゃんに叱られる」で言っていた、人間以外の動物に絵が描けない理由はこれだ。

 ではこれも貨幣や広告にあてはまるのか?


  • 貨幣がなければ(広告がなければ)商品の価値はわからない。

 これは実感に合っているだろうか?

 素朴に言えば我々は商品の価値を直観的に(貨幣や広告を媒介せず)捉えているような気がする。

 だが本当にそうなのか? というのがソシュールの問いかけだったのだ。「羊」が先にいるという考えるのが素朴で直観的な捉え方で、それに対して、いや「羊」という言葉が、それを「羊」と認識させるのだ、という逆転の発想が斬新だったのだ。

 とはいえここでも、もうちょっと実感に寄り添った言い方をしてみよう。

 どう言ったら良いか?


 こういうときは「~ではなく」型の文にするのがミソ。

商品にそれだけの価値があるからその値段がつくのではなく、その値段がついているから、それだけの価値があると認識するのだ。

 これならば受け容れることもできる。

 ではこの場合の「スキーマ」と「ゲシュタルト」は何か?


 価値体系がスキーマで、それによってここの商品に値段がつくこと、あるいはその価値を認めることがゲシュタルトだ。値段・価値は、価値体系がなければ決まらない。


 「視点を変える」をキーワードに、「木を見る、森を見る」から、言語論、広告論、貨幣論をつないで考えてみた。

 ここで使ったスキーマとゲシュタルトという概念はまだまだ汎用性がある。この後はしばらく間を置いて、さらに使い回す。

2025年11月8日土曜日

視点を変える 7 恣意性・システム

 さて、次は3「恣意性」。

 AIの文章では恣意性について、2点に分けて説明している。それぞれ、何が恣意的だと言っているのか?

 既に提示してある下の対比項目と、先に確認した1「先/後」、2「差異」の問題と関係づけて説明しよう。

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの


 恣意性1は上の対比の左右の結びつきが恣意的であると言っている。

 言語で言えば「言葉/もの」の結びつきが、だ。犬が各言語でそれぞれ違った発音で表されているという例で説明されている。

 これを貨幣に適用すると?


 まずは商品にどんな値段をつけてもいいということだ、と言える。

 ここでは貨幣を「値段」と言い換えるところがミソだ。

 目の前のリンゴに200円の値がついていても、50万円の値がついていてもいい。その場合はミカンが30万円だったり、スイカが800万円だったりするかもしれない。現在の日本の通貨価値からすると超インフレということになるが、それも「システムの中の他の項との関係によって決まる」のだから、単に「高い」ということではなく、適正価格なのかもしれない。

 こんなふうに考えられるということが「恣意的」だということだ。

 これで4「システム・ネットワーク」にも言及してしまった。

 「貨幣/商品の価値」を「貨幣/貨幣の価値」と置き換えると次のような例もこれに該当する。

 ある価値を表す貨幣単位が「円」でも「ドル」「ユーロ」「人民元」「ポンド」でもいい。

 あるいは次のような例も挙げられる。

金のほかに、銀、銅、貝殻、石盤(中略)そして人間の奴隷といったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣として流通していた。そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣が貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。(岩井克人「貨幣論」)

 左右の結びつきは恣意的なのだ。金属(硬貨)でも紙(紙幣)でもいいどころか、電気信号(カードや暗号資産)でもいい。


 広告となればその恣意性はさらに甚だしい自由として表れる。もはや何でもありとさえ言える。よく言えば創造性を保証しているともいえる。ほとんど商品の登場しない、イメージだけが表現されるCMだって広告として機能する場合がある。


 恣意性2は、「差異」、つまり切り分け方が恣意的だ、というものだ。虹は3色でも7色でもいい。フランス語のように「羊」と「羊肉」を区別しなくてもいい。

 これを貨幣に適用すると?


 例えば貨幣単位は「円」以上でも、「銭」まで使ってもいい。

 あるいは、商品の個体差を何段階に分けて、まとめて同一の値段をつけるかも自由だ。全ての商品の、それぞれバラバラの値段を付けてもいい。値段に差がある商品同士は、違った価値を持つとみなされる。すべて100円で売られていれば、それらのリンゴの価値はすべて同一だということになる。その上で、一個800円のリンゴは高級品だということだ。

 「広告の形而上学」から、そのことを言っている文章を探そう。例えば次の一節。

広告と広告との間の差異――それは、広告が本来媒介すべき商品と商品との間の差異に還元しえない、いわば「過剰な」差異である。それゆえ、それは、例えばセンスのよしあしとか迫力のあるなしとかいうような、違うから違うとしか言いようのない差異、すなわち、客観的対応物を欠いた差異そのものとしての差異として現れる。

 これが言わば「広告の恣意性」を言っているのだとわかるだろうか?


 「広告と広告との間の差異」が「商品と商品との間の差異」に「還元」できるなら、それは「必然的」ということだ。商品に差があるのだから、必然的に広告にも差がある。

 あるいは「客観的対応物」があれば「必然的」だが、それを「欠いた差異」なのだから、それは「恣意的」だと言っているのだ。


 4「システム・ネットワーク」は?

 既に言及してしまってもいるが、まず言語については以下の一節。

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定される

 貨幣もまた、貨幣経済システムの中で価値を保証され、使用が可能になる。具体的には、値段は市場とか相場の中で決まる。


 広告における「ネットワーク」は?

(広告が示していると見なされている商品の価値は)「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしている

 「広告の巨大なる集合」が「システム・ネットワーク」にあたる。

 商品の価値も広告も、システムの中での他の項との差異によって価値が決まる。100円が高いか安いかは、システムの中で決定される。150年前なら結構な大金だが、今では100円ショップで買い物もできない(消費税分が足りないので)。つまり価値は相対的なものであって、それは比較対象との「差異」によって決まるということだ。

 そして、「差異」の体系としての「システム・ネットワーク」の中で、言葉の意味も商品の価値も、他の項との関係によって決まる。



2025年11月7日金曜日

視点を変える 6 アナロジー=類比

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの

 三つの項目は類比的だ。それは左右の関係に共通した構造があるということだ。

 それを説明するために、どのように考えを進めたらよいか?


 方針としては、既に言語論については考えてあるので、これを貨幣と広告に応用するとどのように言えるかを考える。

 さらに「広告の形而上学」の中で、対応する記述を探す。

 言語論では、ソシュールの考え方を明確にするために「カタログ言語観」が対比されていた。同様に、「カタログ言語観」的貨幣観や広告観とはどのようなものかを説明し、それとの対比でソシュール言語学的貨幣観・広告観を説明する。

 考える糸口としてもう一つの文章を読み合わせる。「ソシュール言語論における言語の恣意性」についてAIに書いてもらった文章だ。こういう、既に世の中にある言説をまとめるのはAIの得意とするところだ。本当に的確にバランス良く書いてくれる。

 ソシュール言語学における「言語の恣意性」

 フェルディナン・ド・ソシュールの言語論において中心的な位置を占める「言語の恣意性」という概念は、言語がどのように意味を成立させるかを根本から問い直すものである。

 ソシュールは、言語記号を「記号表現(シニフィアン、音響イメージ)」と「記号内容(シニフィエ、概念)」との対として定義し、これらの結びつきが必然的なものではなく、本質的に慣習的・恣意的であると主張する。

 ソシュール以前の言語観では、言葉は事物の「名前」であり、事物そのものに固有のラベルが貼られているかのように捉えられていた。例えば、「イヌ」という言葉は、現実の「犬」という動物と本質的に結びついていると多くの人が考えていた。しかしソシュールは、この素朴な見方を否定し、記号表現と記号内容の関係は、自然法則や論理的必然性によって規定されるものではないと主張した。

 そして、この記号表現と記号内容の結びつきが「恣意的」であるとは、具体的に以下の点を意味する。

 ある特定の音響イメージが特定の概念と結びつく論理的な必然性や、自然な因果関係は存在しないということだ。「犬」という概念を指し示すのに、日本語では「イヌ」という音を使うが、英語では「dog」、フランス語では「chien」と全く異なる音を用いる。もし記号表現と記号内容の間に必然的な関係があるならば、世界中の言語で同じ概念に対して同じ音が使われるはずだが、実際はそうではない。この事実は、音と概念の結びつきが、特定の言語共同体の間で確立された「約束事」に過ぎないことを示している。

 このような恣意性は、単に語と対象の関係にとどまらない。ソシュールは、言語が現実世界を映し取る手段ではなく、むしろ現実を切り分け、構造化する枠組みそのものであると考える。たとえば、ある言語では色を七つに分類する一方で、別の言語ではそれを三つにしか分けないことがある。このような違いは、言語が世界に先立って存在する概念の名前を貼り付けるものではなく、むしろ言語が概念そのものを構成していることを意味する。つまり、人間が何を「物」ととらえ、何を「行為」や「状態」として認識するかは、言語の分節の仕方に依存しており、その分節のあり方には根拠のない選択の側面、すなわち恣意性が含まれている。

 「言語の恣意性」という概念は、言語を個人の心理現象や事物の反映としてではなく、「体系(システム)」として捉えるソシュールの視点を明確に打ち出した。言語記号の価値は、それが指し示す対象によって決まるのではなく、むしろ言語体系内部の他の記号との関係性、つまり「差異」によって規定されるとソシュールは考えた。例えば、「犬」という概念は、「狼」や「狐」や「狸」といった他の動物の概念との区別によってその輪郭が明確になる。個々の記号表現と記号内容の結びつきが恣意的であるからこそ、言語は柔軟性を持ち、無限の組み合わせによって多様な意味を表現することを可能にしているのだ。こうした視点は言語学の枠を超え、文化、社会、思想といった広範な分野において、現実が言語によって構築されるという構造主義的な思考の基盤を築くことになった。私たちは、この恣意的な記号の体系を通してのみ、世界を認識し、理解し、そして他者と共有していると言えるだろう。

 既に確認した趣旨、内田や今井の文章と重なる論旨も繰り返されている。

 そしてさらに「恣意性」だ。

 まず「恣意性」とはそもそもどういう意味か?

 辞書を引けば「気まま・自分勝手」と書いてあるが、言語が「自分勝手」とはどういう意味かわからない。

 こういうときは対比を用いる(ところで対比の考え方は、前回確認した差異が重要というテーゼと同じだ。それがそれであることは、それ以外との差異によって明確になる)。

 これはソシュール言語論の根幹をなす考え方だから、その対義語は、「カタログ言語観」の考え方を表していると考えられる。

 「恣意的」の対義語をネット検索すると「規則的」「機械的」「一貫」などが挙がっているが、「カタログ言語観」の考え方を示すにはしっくりこない。

 それより、「恣意性」に対して文中から対義的な言葉を探すと「必然的」がそれにあたることはすぐわかる。

必然的/恣意的

 この対比を使って説明する。


 これ以降、語るポイントを以下の4点に整理し、それを次の順番で語ろう。

  1. 先/後
  2. 差異
  3. 必然的/恣意的
  4. システム・ネットワーク

 順番に、言語について確認したらそれを貨幣と広告に応用し、次のポイントは前のポイントに関連させる。


 まず1「先/後」とは何か?

 これは「生得的/事後的」のことだ。

 何が? 主語は何?

 「意味」だ。

 つまり「言語/意味」が「後/先」だと考えるのがカタログ言語観で、「先/後」だと考えるのがソシュール言語学ということになる。

 先に「もの」(=意味)があって、そこに名前(=言語)がつくと考えるのがカタログ言語観。言語によって初めて「もの」が明らかになると考えるのがソシュール。


 これを貨幣に適用する。

先に商品の価値がわかっていて、それに適正な値段がついているのではなく、値段がつくことで商品の価値がわかる。

 ここでは貨幣を「値段」と言い換えるところがミソだ。


 これを広告に応用すると次のようになる。

商品の価値が先にあり、広告はそれを表現するものだというわけではなく、広告によって商品の価値がわかる。

 「広告の形而上学」本文ではそのことを言っているか。

 次の文章がそのことを言っている。

資本主義社会においては、人は消費者として商品そのものを比較することはできない。人は広告という媒介を通じて初めて商品を比較することができるのである。


 次は2「差異」。

 まずこれは何の「差異」のこと?

 「言葉は世界を切り分ける=差異化する」などというだけでは何のことかよくわからない。

 一つ目の「先/後」と関係づけることが肝心。

 カタログ言語観は先に「意味」が切り分けられていて、そこに言葉が割り当てられると考える。

 ソシュール言語学では、言葉が切り分けられるから、それによって世界が切り分けられる、つまり「意味」が生じるのだと言っている。

 例えば赤と紫、赤とピンクとの「差異」によって意味の範囲=幅が決まる。網を構成する糸が空間を仕切る(区切る)=差異化することでその両側に意味の輪郭をつくる。最初から赤という「もの」があるわけではない。


 これを貨幣に応用すると?

 先に商品の価値にそれぞれの差があるから、それに応じた差をつけた値段がつくと考えるのがカタログ言語観的貨幣観。

 値段に差があるから、商品の価値にも差があることになるのだ、と考えるのがソシュール的貨幣観。


 これを広告に応用すると?

 これも、言い方は同じようなことになるので省略するが、問題は岩井もそう言っているか、ということだ。

もちろん、広告とは常に商品についての広告であり、その特徴や他の商品との差異について広告しているように見える。だが、人が、例えば、ある洋菓子店のウインドーのプディングの並べ方は他の店に比べてセンスがよいと感じるとき、あるいは、ある製菓会社のプディングのコマーシャルは別の会社のよりも迫力に乏しいと思うとき、それは、広告されているプディングどうしの差異を問題にしているのではない。それは、プディングとは独立に、「広告の巨大なる集合」の中における広告それ自体の間の差異を問題にしているのである

 「~ように見える」のところがカタログ言語観的広告観。カタログ言語観は、人々の素朴な見方を言っているのだが、ソシュールは、実は逆なんじゃないの? と言っているのだ。



2025年11月6日木曜日

視点を変える 5 広告の形而上学

 次にここにつなげて読むのは岩井克人「広告の形而上学」。

 これは厄介な文章だ。高校1年生に読ませる文章ではない。冒頭の段落から何のことを言っているのか、正直、わからないと感ずるはずだ。続く2段落がまたわからない。「広告の時代」とまで言われている現代、などと言われてもそう「言われている」という問題意識が高校生に共有されているはずがない。そこへもってきて「形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在」などという表現に目が眩んでしまう。


 だが実はこの辺りを「理解」すべくじっくり考察するつもりはない(「形而上学」「逆説」について考えたのは3クラスくらい)。この部分の考察は、この部分を「理解」するだけに終ってしまう。「理解」は授業の目的ではない。「わかる」ではなく「できる」が学習の目的だ。

 それより今は「視点を変える」の流れの中でこの文章を読もうとしている。すると「差異」といった言葉が繰り返し登場して、アレッと思う(思ってほしい)。

 そしてついには次の一節が登場する。

言語について、ソシュールは、「全ては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生みだす。」と述べているが、…

 ソシュール!

 実は「ことばとは何か」の方でも、続く文章中に岩井克人が引用され、ソシュールの言語論が経済学にヒントを得ていたことが語られている。

 関係づけて考えることは、何ら無理矢理なことではない。

 さてどこから考えるか?


 この文章で中心的に取り上げられているのは題名にある「広告」だ。

 ではこの文章で広告と類比的に言及されているのは何か?

 広告と同程度の抽象度で二つ。何と何?


 プディングではない。プディングは例として用いられているので当然類比的ではあるが、同程度の抽象度ではない(しかもプディングが広告に対応しているわけでもない)。

 「動物」も気になる。だがそれは貨幣の奇妙さを直感的に示すためにマルクスが用いた比喩であり、確かにこれが広告にも適用されてもいるが、比喩とその対象は抽象度が違う。だがこの論理によって、広告が何に類比されているかがわかる。そう、一つは「貨幣」だ。

広告というものも、貨幣と同様、いわば形而上学的な奇妙さに満ち満ちた逆説的な存在なのである。

 もう一つは?


 一つ上の引用で既に明らかだ。

言語について、ソシュールは、「全ては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生みだす。」と述べているが、それはそのまま広告についても当てはまる。

 この文章で、広告貨幣言語と類比されているのだ。


 この文章で広告について岩井克人が論じていることを高校生が理解したり考えたりすることは難しい。それは単にこの文章の表現だったり、内容だったりが難しいというだけではない。

 実はこの議論は、先に貨幣と言語の類比が論じられてきたという経済学と言語学の議論があり、それを前提に、ここで岩井克人は「広告もそうだよね」と言っているのだ。

ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。これは別にソシュールの創見というわけではありません。古典派経済学はすでに商品の「価値」と「有用性」が別ものであることを熟知していました。「商品の価値とは必然的に価値体系のなかでの一つの価値に過ぎず、一つの市場の需給関係が変化すれば、それは同時にすべての商品の価値を変化させてしまうことになる。」(岩井克人『貨幣論』)という経済学の知見はソシュールの「価値」という用語法に直接影響しています。(授業中に読んだテキストでは後半部分を省略してある)

 経済学における貨幣の知見をソシュールは言語に応用し、経済学者である岩井克人はそれを広告に応用する。そんな事情があることを高校生が知るはずもない。それなのに、この教科書でこの問題に初めて触れる高校生は、いきなり広告について考えることを強いられる。だからこの文章を高校1年生に読ませるのは無茶なのだ。

 とはいえ、「広告」という題材から、現代社会についての認識を得ることは、まあ有益なことだと言っても良いし、そもそも難しいということは、不可能であることを意味しない。難しいということは学習として有効な教材でもあり得るということだ。考えてみよう。


 広告と貨幣と言語が共通した性質を持っているとは、それぞれと何かの関係が類比的であるということだ。

広告/商品

貨幣/    

言語/    

 広告における商品に対応するのは、貨幣では何か? 言語では何か?


 貨幣でも、ひとまず「商品」だと言っていい。さらに「商品の~」と示唆すると、みんなすぐに「商品の価値」と補完した。「広告」に対応しているのも「商品の価値」だ。

 言語でこれに対応するのは?


 ひとまず「意味」。あるいは「概念」。「概念」という語彙は中学生には使い慣れない言葉だ。辞書を引くとわけのわからない説明がなされているが、「概念」というのは簡単に言えば「言葉の意味」という意味だ。「赤」という概念は、「赤」という言葉がもつ「意味」そのものだ。

 内田樹の文章でこれにあたる言葉は?


 最初のうち繰り返し使われている語で、これに対応するのは「もの」だ。

あることばが含む意味の幅の中にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶとするならば…

  文中の「もの」はすべて「(言葉の)意味」「概念」と言い換えても成立する。

 「もの」と「概念」が並列されるのを不審に思うかもしれない。この点について、授業では「ペン・ノート・黒板」などの言葉だったら具体的な「もの」を指すし、「愛・平和」だったら抽象的な「概念」を表しているだろ、と言ったが、実はこれは正確ではない。

 「ペン」という言葉が指し示しているのは、そもそも具体的な「ペン」という「もの」ではなく「ペンという概念」なのだ。このペンもあのペンも、シャープペンも万年筆もボールペンも「ペン」なのだし、「ペンは剣よりも強し」などという時の「ペン」は言論・言説という抽象概念を意味している。

 言葉が表しているのは、それに対応する具体物がある場合でもすべて「概念」であり、内田がいう「もの」はそもそも特定の具体物のことではなく「概念」のことなのだ。文章終盤では「観念」と言い換えられてもいる。

 言葉の「意味」は途中で「価値」とも言い換えられている。「広告」における「価値」と「言葉」における「意味」が類比的に対応しているのもうなずける。

広告/商品の価値

貨幣/商品の価値

言語/意味・概念・もの

 さてこれら類比項目の左右の関係にはどのような共通性があるか?


2025年11月4日火曜日

視点を変える 4 網の目

 言語論である「ことばとは何か」と「言葉は世界を」から、共通している論旨を三つ切り出してみよう。共通しているということはそれだけ言語論として重要であるとか常識であることを表していると考えられる。

「ことばとは何か」

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

「言葉は世界を」

言語は連続的で切れ目のない世界に対して線を引き、世界を切り分ける。

 ここには「切り分ける・切れ目を入れる」という表現の共通性が見てとれる。

 さらに、「ことばとは」の「厚み・幅・価値」は「言語は世界を」の「面」に対応していることもすぐに見てとれるし、それが各言語によって同じではない(ズレている)という論旨も共通している。

 さらに

「ことばとは何か」

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定される

「言葉は世界を」

一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中でその単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。

では「ネットワーク・システム」が「概念領域全体のマップ」に対応している。「ポジション」と「位置付け」が対応している。


 整理しよう。

  • 言葉は世界を切り分ける。
  • 言葉の意味には幅がある(面である)。
  • 言葉はシステムの中のポジションで機能する。


 これらの論旨が共通しているのは、今井むつみの言語論もまた、そうはわざわざ言っていなくともソシュール言語学に基づいているからだ。今井に限らず、世のほとんどの言語論はソシュール言語学を前提にしている。

 問題はこの3点がどう関係しているか、だ。

 そのことを正しく捉えるには、そうでない考え方と対比して、ではどう考えるのがソシュール流か、と考える。


 「面・幅・厚み」はどのような考え方を指しているか?


 いや、書いてあることはわかりやすい。言葉の意味には、ある「幅」がある。「ムートン」の例も、色の例も、何も難しくない、あたりまえのことを言っている。

 たしかに切れ目を入れて分割した一つの領域には「幅」がある。それを今井むつみが「面」と表現していることもわかる。

 ではこれは?

概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。(『一般言語学講義』)

 当然、考えるべきは「示差的・実定的・欠性的」だ。こんな言葉はまるで一般的ではない。ここでしか見たことがない。だが、わからない言葉ではないはずだ。漢字の意味で見当がつく。文脈でも読める。

 ではここでソシュールが言っているのは何のことか?

 これを内田は次のように言い換える。

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない

 この「事後的・生得的・本質的」と先の三つをまとめて対比的に並べると?


実定的・生得的・本質的/欠性的・示差的・事後的

 これは「~ではなく」型の文型によって判断できる。否定される側を左に置いておく。

 さらに内田の文章で、最初に対比的に並べられるのは?

カタログ言語観/ソシュール言語論

 ここから言葉の仕組みについてソシュールがどのように考えたかを整理する。その際、カタログ言語観を比較に用いて「~ではなく」と言うことを心がける。


 説明のためには「網の目」を喩えに使うと良い。

 これはソシュール自身が使っている比喩だ。ただしこれは、言葉が単独で存在するのではなく、言語システム=ネットワーク=「網」の中で、その関係性の中で機能していることを表現する比喩だ。

 この場合、一つの語は網の結節点に対応している。結節点の位置は、他の結節点と引っ張り合った釣り合いによって決まっている。結節点は単独で存在するわけではなく、網(ネットワーク)の中にある。

 だがこれでは今捉えようとしている考え方にはうまく合わない。そうではなく、網の「目」こそ一つの語に対応していると考えよう。それでもシステム内の関係性によって語の意味が決まるという比喩の趣旨は変わらない。

 何もない空間に糸を張る。これが「切り分ける」=差異化の比喩だ。糸と糸の間には幅がある。縦糸と横糸、それぞれの隙間によって作られた四角(最近のサッカーのゴールネットでは六角形だが)の隙間は当然「面」積のある「面」だ。この一つの目がそれぞれの言葉だ。

 それ自身が切り分けられたものであることによって、言葉は世界を切り分ける。それは「幅」を持つ「面」だ。その網の目は、網全体の釣り合いの中で、ある位置を占めている。

 これで上の3点については説明できた。

 ではこれが「実定的ではなく欠性的・示差的である」=「生得的・本質的ではなく事後的である」とは?


 カタログ言語観は、「面」としての言葉が「実定的・生得的・本質的」であるということになる。これはどのような状態か?

 それは「羊」とか「赤」とかいう意味の四角が、単独で、網よりも先にバラバラに存在している状態だ。

 だが、網の目の四角が単独で先に存在することはできない。ある四角は、周囲8個の四角の隙間にできている「穴」だ。そして他の目も同様に、すべての四角が、互いに区切られていることによって生じた「面」のように見える「隙間」なのだ。

 この「隙間・穴」こそ「欠性的」であり、「互いと区切られることで生じる」が「示差的」だ。区切られたから「事後的」に穴ができるのだ。

 赤という「四角」は「オレンジ色・紫・ピンク・茶色」などに囲まれ、それぞれの隣り合った色との境目にある糸によって輪郭づけられている。「オレンジ」の向こうには「黄色」があり、「紫」の向こうには「青」がある。

 色を表す言葉はこうした関係の網の目=システム=構造によって、それぞれの「意味」を生じる。網の目に先立って「意味」であるところの四角は存在しない。

 「切り分ける」とはこの、糸によって空間を分けることを言っている。


 上の比喩の「網」とは何か?

 言葉が集まっているのだから、いわば辞書のようなイメージだ。

 それに対してカタログ言語観では、それは「カタログ」だ。

 ソシュール言語学の「辞書」と、カタログ言語観の「カタログ」はできあがりは同じような相貌だが、成り立ちが違う。

 「辞書」に対応する「網」は、何もない空間を糸で区切ることで、四角が並んだ構造として現れる。

 「カタログ」は、既にバラバラと存在している四角を集めてタイルのように敷き詰めたものだ。


 さて、このことは説明できたろうか?

 これは「理解」すべき事柄ではなく「説明」できるようになるべき事柄だ。今我々がやっているのはソシュール言語学を学ぶことではなく、国語の学習だ。

 ところで上の考え方のどこが「スキーマ」でどこが「ゲシュタルト」なのだろうか?


 「スキーマ」とは「赤」を「赤」たらしめる言語システム=網の目であり、それによって生じた「赤」という概念であり、「赤」という言葉だ。これらは言語が言語として機能する一連の仕組みであって、その全体が「スキーマ」だ。

 そして「ゲシュタルト」とは、そうしたシステムよって対象を「赤」と認識している状態だ。

 言葉がそうした機能を失うとき、「赤」は「赤」に見えなくなる=ゲシュタルト崩壊する。

 

 このことは「理解」すべきではなく「説明」すべきことだが、とはいえ「理解」しておくのは有益ではある。こうした考え方=認識自体がスキーマとして、次の何事かを考える手がかりになる。


視点を変える 3 ことばとは何か

 ここに言語論を合わせる。

 とはいえ教科書の言語論、今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」は、「木を見る、森を見る」との接点が見えにくい。

 だがここに、補助的に内田樹「ことばとは何か」をあわせると、それぞれの共通性が見つかるから、三つの文章を総合的に読解することができる。

 まず「木を見る、森を見る」と「ことばとは何か」に共通している論旨を捉えよう。何か?


 例の図版にダルメシアン犬が見えるかどうかという話が、夜空に星座が見えるかどうかという話に似ていることに気づくはず。

 これらの共通点・接点によって、三つの文章の論旨をつなぐ。


 とはいえ、ダルメシアン犬は「木を見る、森を見る」本文に出てくるわけではなく、教科書の編集部が勝手に挿入した図版だし、「ことばとは何か」の星座の話は喩え話だし。

 それぞれ元々何の話なのか? 何と何が対応していることになるのか?


 対比の形で整理しよう。

「木を見る…」/「ことばとは…」

ダルメシアン犬/星座

 対比の多くは対立を表すが、これは類比。類比的に対応しているものを揃えて書き出そう。

 ダルメシアン犬の話は「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉で説明される「認識」の話だった。

 ではこれに対応するのは「ことばとは…」のどの言葉か?


 関連するとは共通点があるということであり、共通しているとは対応しているということだ。

 対応しているとは、同じ文型の同じ位置にそれらの要素が配置されるということだ。

 対応していると見なすためにはどのような文型を想定する必要があるか?


 「認識」についての命題は「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」などと言っておいた。

 この「スキーマ」と「ゲシュタルト」に代替できる言葉を「ことばとは何か」から探す。

 「ゲシュタルト」に対応する言葉「観念」「ものの形」は、しばらくすると挙がった。「ゲシュタルト」=「まとまり」は確認済みだが、「まとまり」は「ことばとは何か」にも共通して文中に登場する。


 スキーマに対応する言葉が難しい。「切れ目」だとか「概念」だとか、いろいろ候補が挙がったが、「ことば・言語」が最も真っ当に代替できる。


「木を見る…」/「ことばとは…」

ダルメシアン犬/星座

   スキーマ/ことば・言語

 ゲシュタルト/ものの形・観念

   まとまり/まとまり


 左辺は「認識」という現象についての命題として文にした。「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」の同じ場所に、対応する言葉を右辺からそのまま代替してみる。

認識とはことばにあてはめてものの形が見えてくることである。

 これは正しい。

 例えば次の文章はそのことを言っている。

ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「ものの形」を見出すことができます。

 さらに、正しいことを実感するには、逆・裏・対偶にしてみるのが有効だ。

スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。

 これを入れ替える。

言語がなければものの形は見えない。

 このことを言っている部分を文中から探すことは当然できる。

見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。

言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。


 共通する「まとまり」も使ってみよう。

斉藤

スキーマの要素に当てはめて、ひとまとまりとして捉える。人間が物を「何か」として認知したり、見立てたりするときには、ゲシュタルト的な見方をしている

内田

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

 言語活動によって「まとまり」が生まれる。「ゲシュタルト」=「まとまり」なのだから、ここでも「スキーマによってゲシュタルトが生まれる」と言っているのである。


 「スキーマ」=「言葉」、「ゲシュタルト」=「まとまり」=「ものの形」。

 これはそもそも人間の認識についての話だった。認識は外界の情報を「スキーマ」に当てはめて「ゲシュタルト」を構成することだ、と。つまり我々は外界を言語という「スキーマ」によって認識しているのだ。

 これは少しも無理なこじつけではない。今井むつみは別の文章や話の中で、しょっちゅう「言語はスキーマだ」と言っている。齋藤亜矢は「チコちゃんに叱られる」に出演した際、「なぜ人間だけが絵を描けるのか?」という疑問に「人間だけが言葉を使えるから」と答えている。ふたりの言っていることに関連があると考えるのは少しも無理なことではない。


 さらに「木を見る、森を見る」の趣旨を、単元名に合わせて次のように表現した。

視点を変えると物事は違って見える。

 このテーゼは、今度はどのように捉えられるのか。

 文章後半で、筆者が経験した様々な学問分野に言及し、次のように言う。

分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。

 これはつまり上のテーゼそのものであり、それはすなわち次のように言うことができる。

スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。

 これは言語論に対応させると次のように言い換えられる。

言語が違うと世界は違って見える。

 つまり日本語話者と英語話者は世界を違った見方で見ているということだ。

 認識についての捉え方が、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは、言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わる。


 さて、今井・内田の言語論では、もうちょっと考えたい問題がある。 

 言語というスキーマのはたらきについて、二人はどんなことを言っているのか?


2025年11月3日月曜日

視点を変える 2 スキーマとゲシュタルト

 次の文章を読む前に、「ゲシュタルト」「スキーマ」という語に慣れておく。この二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。語彙はそれ自体、思考の武器だ。持っていると、それによって考えられることが増える。持っていなければ考えられないことが考えられるようになる。

 教科書に載っている図版を見て、そこにダルメシアン犬が見えるとはどういうことかを「ゲシュタルト」と「スキーマ」という言葉を使って説明しよう。

 言葉は「どういう意味か」を頭で理解するのではなく、使うことで身体になじませる。


 法則性もない、無秩序にインクが飛び散っているだけの白黒の図版の中に、ある瞬間、突然ダルメシアン犬が見える。この現象を「ゲシュタルト」「スキーマ」という言葉を使って言うとどうなるか?


 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注で「認識の枠組・図式」と説明されている。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注で「まとまり」「構造」と言い換えられている。


 簡単に言おう。あれこれの説明を抑えて、シンプルな表現に。

 白黒の図を、「ダルメシアン犬」の「スキーマ」にあてはめた時に、「ダルメシアン犬」という「ゲシュタルト」が構成される。

 これが「ダルメシアン犬が見えた」という現象だ。


 これをさらに抽象化して言おう。あるいは一般化。普遍化。

 そもそもこれは何についての話なのか?


 「何についての話なのか?」という問いかけで、それにふさわしい抽象度で問題を捉えることができるかどうかが、既に国語力の問題だ。「ダルメシアン犬についての話」ではない。「スキーマの話」でもない。ここではそれより一段抽象度を上げた問題の捉え方を要求している。「画を見る話」は一段抽象度が上がった。さらにもう一段。

 「ごんべん」の漢字二字の熟語で。


 これは「認識についての話」だ。「見える」とは「認識する」ということだ。

 文中から「認知」を挙げてもいい。「認識」「認知」「知覚」は、同じ現象を表現する言葉を、おおよそ複雑さの順に並べているだけで、実際はグラデーション状に連続している。ここでは、より複雑な過程を含む「認識」で代表させておく。

 つまり「見えるとはどういうことか?」は「認識とはどのような現象か?」ということだ。この問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使って答える。

認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。


 さらにこれをにしたりにしたり対偶にしたりしてみる。それができることは、それが理解できていることを示している。理解していないと機械的にひっくり返そうとして微妙に意味の違った文を作ったりする(厳密な論理学的意味での「逆・裏・対偶」ではない。また論理学では「逆・裏」は元の命題と同値とは言えないが、むしろ積極的に同じことを意味するように表現するところが国語的な練習だ)。

 命題も条件文の形にしておこう。

命題

認識できているとすれば、外界の情報が、あるスキーマにあてはめられて、ゲシュタルトが構成されている。

ゲシュタルトを構成されている(認識できている)とすれば、外界の情報がスキーマにあてはまっている。

外界の情報をスキーマにあてはめられないならば、ゲシュタルトを構成することができない(認識できない)。

対偶

ゲシュタルトを構成することができない=認識できないならば、それはスキーマにあてはめられない(またはスキーマがない)ということである。

 こういう言い換えは論理的思考力とも言えるが、まあ平たく言って、国語力だ。言うべきことをいくつかの表現で想起できることも、複数の表現の内容を比較してその異同を見分けることも、重要な国語の力だ。


 例えば、国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。文章が「わかった」と思うことは、ダルメシアン犬が見えた、ということだから、つまりゲシュタルトが成立した、ということだ。

 「スキーマとゲシュタルト」という概念自体がスキーマだし、「自立と依存」とか「近代的個人の誕生」「個人と分人」とかいうのも評論を読む上での有効なスキーマだ。

 あ、この文章の主旨は近代批判だ、と思えたときには、ゲシュタルトができている(ダルメシアン犬が姿を現している)。


2025年11月2日日曜日

視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。とはいえ国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は、編集上も想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているのはわかるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、「〈私〉時代のデモクラシー」もその一編だ。「鳥の眼」と「〈私〉時代」はどうつながるんだろうか?)。


 「木を見る、森を見る」の作者、齋藤亜矢は「芸術認知科学者」だそうだ。よくわからん肩書きではある。

 だがみんなはこの名前に初めて出会うわけではない。みんなが受けた高校入試の国語の問題に、この人の文章が出題されたことを指摘したのはD組のMさんだった。しかも同じ『ルビンのツボ』収録の文章だ。みんなにとっては因縁の相手だ。


 さて、中学生にも読める想定なのだし、この文章も教科書の冒頭に収録されているということは高1の生徒に最初に読ませるつもりなのだから、難しいことは別にない。読めば「わかる」。すぐに一文に要約する。

 文章の主旨は「認識」か「主張」だ。

 「認識」ふうに言えばこう。

視点を変えると物事は違って見える。

 「主張」ふうに言えばこう。

いろんな視点から物事を見よう。


 教科書冒頭の文章は、なにがしかメッセージを含んでいる。これからこの教科を学ぶ高校生に向けた、編集者からの。

 とすれば、編集者は「現代の国語」という教科が、その学習によって、君たちにさまざまな「視点」から物事を見ることを推奨するものであるとメッセージを送っているのだと考えられる。

 だが具体的には「視点」とは何か?


 そもそも「視点」とは何か。例えば次の二つの文では「視点」の意味が違う。

  1.   さまざまな視点から物事を見ることが大切だ。
  2.   この絵画は、見る人の視点が自然と中央の人物に集まるように描かれている。

 「視点」という言葉には「どこから見るか」と「どこを見るか」の二つの意味が混在している。1は「どこから」で、2は「どこを」だ。それを区別したいときにはそれぞれ1「視座」、2「注視点」などと言い換えることもある。斎藤の言う「視点」はどちらか。

 「自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わる」といった一節では「視座」のことを言っているようにとれるが、「手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上がって、どきっとしたりする。」という一節では「注視点」の意味にもとれる。

 文中で「視点を変える方法」として紹介されている二つの方法は、見る「角度」や「倍率」を変えるということだ。これは「視点」の二つの意味とどう関係しているか。

 角度についての「正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。」というのは「どこから見るか」、つまり「視座」の問題だ。だがすぐに「目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。」と続く一節では「注視点」の意味に変わっている。

 一方倍率は対象との距離の問題だと考えれば「視座」の問題だが、これはフォーカスの中心=「注視点」を中心として周囲のどこまでを見るか、つまり視野の広さの問題と考えると「注視点」の意味にもとれる。

 題名の「木を見る、森を見る」はどちらかといえば視座の問題というより注視点と視野の問題だが、後半の「これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。」における「視点」は「視座」の問題だと言える。


 さて、この「視点」という問題を、別の文章との読み比べの中で考える。


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