「未来をつくる言葉」では 何が問題になっているか?
「生物の作る環境」「物と身体」と関連させて「環世界」と「フィルターバブル」について考察してきたが、これらは同じ問題意識の圏内にある。「環世界」とは「フィルターバブル」の中から見た世界のことだ。
我々が見ているのはそれぞれの「環世界」だ。それは我々一人一人が「身体」や「文化」によるそれぞれの「フィルターバブル」の中に閉ざされ、それぞれに孤立しているということだ。
そしてフィルターバブルの膜を越境するために必要なのが「言葉」であり、さらにそれを生み出すために重要なものは「異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くこと」だとドミニク・チェンは言う。
「異質な他者と自分を架橋する」?
だが単にフィルターバブルを越えて互いにつながり合おうとか、そのための「言葉」を探そうといったメッセージだけを、「気分」のように唱えるだけでは問題の核心が見えてはこない。
この文章の焦点が、括弧でくくられて文中で繰り返される「わからなさ」「わかりあえなさ」であることに気づかなければならない。「環世界」「フィルターバブル」も「わかりあえなさ」の言い換えだし、本文が「翻訳」の話題からはじまっているのも、この文章が「わかりあえなさ」を問題にしていることの表れだ。
そこまで掴めば、この文章の関心が蓮實重彦や内田樹と共通していることがわかってくる。
ドミニク・チェンが焦点を当てる「わかりあえなさ」が、「思考の誕生」の「他人性」、「物語るという欲望」の「断絶・隙間・意味のわからないところ」であることは既に明らかだ。
それ(「わかりあえなさ」)は埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。
これは「思考の誕生」「物語るという欲望」が語っていることそのものではないか。
こうした結びつけは牽強付会に見えるだろうか?
さらにこれらの主張の裏には何が批判されているか? どんな方向性に対するアンチとしてこうした主張がなされているのか? 仮想敵は誰か? と考えてみる。
断絶の前で「言葉を失う」とき、人は「既に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる」。ドミニク・チェンがそう語る危険こそ、蓮實が「他人性」を希薄にする(=他人を理解する)ために「たがいに自己の内面のイメージを投影しあう」「風土」が「蔓延しがち」だと言っている現在の状況だ。
「誘惑に駆られる」といい「風土が蔓延する」といい、微妙な否定のニュアンスは、それが仮想敵であることを示すサインだ。
つまり二人は「安易にわかった気になるな」と言っているのだ。「わかりあえなさ」に「じっと耳を傾け、眼差しを向け」ろ、と言っているのだ。
すぐに「わかった」気になる安易な姿勢(それに無自覚であること)を仮想敵としている点で、蓮實とドミニク・チェンのメッセージは一致している。
ちなみに、「わかりあえなさ」「他人性」「断絶・隙間」にあたるものは、「物と身体」では何か?
身体が感ずる「障害」「抵抗」がそれにあたる。
なぜ?
「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。
意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「意味」が生ずる。
「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。
物の実在についても同じことが言える。
「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。
逆に言えばそれらの「わからなさ」=「障害・抵抗」のないところには「思考」も「意味」も「言葉」も「物の実在」も生まれない。
そうして現れる「物」は、生物によってさまざまな様相をなしているのだし(「環世界」)、物語は見る者によって違った姿で現れるのだ。
さて、昨年からの授業でやってきたことも同じだ。
読み比べとは、異なった別々の文章の間に「脈絡をつける」「架橋する」行為であり、それこそが「解釈」なのだ。
テクストの意味はそのようにして生まれるのであって、一つの文章の中でいくら論理をいじくりまわしても、それでその文章が読解できたということにはならない。