2022年7月20日水曜日

空虚な承認ゲーム

 ここに、5月に課題として読んでそのまま授業で取り上げ損なっている山竹伸二「空虚な承認ゲーム」を合わせる。

 もう残り時間もないので、最低限の読解ということで、シンプルに問う。

 「空虚な承認ゲーム」って何?

 題名になっているくらいだから本文中に端的な定義があるかと思いきや、どうも見つからない。自分で作文しなければならない。

 こういうのは問いに対する答えが重要なのではない。「何か」を理解するのではなく、「何か」を表現しようとする。答えようとすると否応なく頭を使わざるをえず、それが国語的な練習になっているということなので、ともかくも自分で考えてみる。そして書く。喋る。

 最もシンプルには次のように言えばいい。

自分の所属する小集団の中でメンバーからの承認を得ようとすること


 さてもう一つの問い。

 この表現にはなぜ「空虚な」「ゲーム」といった否定的な表現が使われているのか?

 「空虚な承認ゲーム」を説明しようとすれば必然的に「空虚」「ゲーム」のニュアンスにも言及せざるをえないが、それを意識的に、なぜ「空虚」? なぜ「ゲーム」?と説明してみる。もちろんこれらは共通した意味合いをもっているのだが、二つに分けることで考える手がかりができる。

 こういうときにも対比の考え方を使う。

 「空虚」の対比として「中身が充実している」状態を想定し、それとの相違を表現する。「ゲーム」ならば「現実」を対置する。


 さて、上のように表現される行為(?)はなぜ「空虚」なのか?

 上の表現からその要素を取り出そうとするなら「小集団の中で」くらいだろうか。

 これがなぜ「空虚」なのかは、どうならば空虚じゃないかを考える。

 「小集団」の対比は「社会全体」。社会全体が信じている価値を追うのなら自信を失うこともないが、その価値は所詮この集団の中だけで通用するものだとわかっていることが「空虚」なのだ。

 さらに、その集団の目指す価値を本気で信じていないにもかかわらず、承認を失うことは避けたいので形式的に承認を求め続ける。

 こうした言い方では「本気で信じていない/信じる」「形式的/実質的」という対比が意識されている。

 また「ゲーム」という比喩のニュアンスは?

 上のように「空虚」であることが説明できれば既にそれが「現実ではない」ことを示しているとは言える。「ゲーム」は、それが現実であるとは本気では信じていないことを言っているのだ。

 さらにB組では、そうした行為を演じさせられてしまっている様が、何かに操られているようだから、という意見もあった。本文に直接そう書いてあるわけではないが、「ゲーム」という比喩を使って筆者が表現したいニュアンスをうまく表わしている。

 同様に、それが「空虚」だとわかっているのに、そこから抜け出せない、やめられない様が「ゲーム」のようだ、という意見もあった。なるほど、ゲームの中毒性・依存性がこの比喩から連想されてくるわけだ。


 さて、この文章を「〈私〉時代のデモクラシー」と比較し、さらに4,5月に読んだ文章と関連づけて論ずる、というのが夏休みの課題。正直に言えば「羅生門」の考察の方が面白かったかもしれないが、授業展開の都合でここで夏休みとなった。

 そしてなおかつ、この課題は簡単ではない。まずどちらの文章も読みにくい。なんとなく一致点を掴めたような気がしても、それを文章におこすのは容易ではない。

 かつ、文章を書く上でやっかいなのは、その文章がそうした趣旨を述べていると自分が書く際には、必ず引用をしなければならないということだ。確かこんなことを筆者は言っているよなあ…で代弁してしまうと不正確なことになりやすい。可能な限り本文を引用する。

 本文を引用することで、それぞれの文章が、正確にはどのように対応しているかが明確に見えてくる。どの言葉とどの言葉、どのフレーズとどの表現が対応しているか。

 ここまでの学習の成果を確かめるためにも、真摯に取り組んで欲しい。

2022年7月6日水曜日

羅生門 16 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまうのだが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、ある発想の飛躍が必要だ。

 これはやはり解くには難しい問いだ。

 少々誘導しよう。

 「なぜ引剥ぎをしたか」という問いは「なんのために引剥ぎをするか」という問いではない。「行為の必然性」とは変化の必然性のことだ。すなわち、「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」である。

 ここから問いを「なぜ門の下では盗人になる勇気が出ずにいたのか」と置き直しておこう。問題は二つの位相の相違と、それを生じさせたメカニズムである。

 

 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間での逡巡だ。

 これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を選択しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」は拮抗している。この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。この変化は極端である。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、途中で一旦aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 最初の拮抗は、確かに拮抗してはいるのだが、現状はaでありこのままでは「飢え死に」してしまう。下人にとってはbを実行できるかどうかが問題だ。

 最初bに進む勇気が出なかったのはなぜか?

 最初にbを実行できないでいた理由としては、論理的にはaの引力が強かったからか、bの抗力が強かったから、の二択だ。

 「盗人」になるのをためらっていたのはa「正義感」が強かったからか、b「悪」に抵抗を感じていたからか?

 盗人になることを妨げていた下人の「a.正義」が力を失ったことで盗人になれたのか、「b.悪」に対する抵抗が弱まったことで盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?


 手がかりになるのが先の「心理の推移」の考察の際に確認した①の「憎悪」と③の「憎悪」の比較だ。

 最初の迷いからaに極端に振れてしまったところに①の憎悪が生じている。

 そして、③の憎悪の後にbに振れる。

 ということは、先に考察した①と③の相違が、aからbへの変化に対応しているのではないか?


 ①と③の相違を次のように整理する。
















 この比較を可能にするために「共通点」を確認することが必要だったのだ。

 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉を探すのである。

 問題は下人の「悪」に対する認識の変化である。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 15 「前の憎悪」

 老婆の答えを聞くと、下人はなぜかそれが平凡であることに「失望」する。それとともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 さてここで分析したいのは①「憎悪」と③「憎悪」の比較である。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 先に言及された「嘲るように」「かみつくように」についても注意を促しておきたい。

 「嘲る」は一般的には先に触れたように、老婆の自己正当化の論理が自分に対する害をも容認することに老婆自身が気づいていないことを嘲っているのだ、などと説明される。

 だがこの形容が③の「侮蔑」と響き合っていることを認めるならば、この説明を受け入れることはできない。「侮蔑」は老婆の長広舌を聞く前だからだ。

 そして「かみつくように」という老婆に対する敵意は「憎悪」から続いていると考えてもいいはずだ。

 したがって、「嘲る」にせよ「かみつく」にせよ、老婆に対する下人の感情は、老婆の長台詞の前にその要因が準備されていると考えられる。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。


 「引剥ぎ」という「行為の必然性」は、従来「極限状況」と「老婆の論理」によって説明されてきた。

 「行為の必然性」は、先に確認したように「変化の必然性」だから、これは物語の構造を次のように捉えていることになる。




















 だが「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。












つまり


 










という論理の中で捉えられるべきである。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 14 「得意と満足」「失望」

 次に、文中には言及されない「勇気」が湧いて、下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。

 説明はされている。にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、わざわざ挙げられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 ①「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問が解消していないこと、である。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ「非凡であることを期待する」のか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?



羅生門 13 不自然な憎悪

 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、これはもっと読者の注意を引くはずだ。下人の「憎悪」を読者はそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがこうした理由は、この「憎悪」の不自然さを解消するだけの納得をもたらさない。

 そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に残す。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」だ。なおかつ「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 だが一方で半ばはわかるような気もする。確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だ。何か不穏なことが起こっていてもおかしくはない、といった読者の曖昧な納得を誘導する。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。

 といってそもそもこれが悪と判断する根拠なのかどうかも、文脈として明示されているわけではないから、厳密に問い質そうとすると「そんなことは言っていない」と作者は身を躱す。が、改めて考えてみればやはり変なのだ。


 さて、この表現には見覚えがないだろうか?

 注目すべきは、この表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 つまり下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 そしてその予断の根拠となる「この雨の夜に、この羅生門の上で」がなぜ根拠となるのか読者にはわからない。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような理解(「死者への冒瀆」)の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりにによくわからない理由(「雨の夜に羅生門の上で」)が置かれる。読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、相反する方向に引き裂かれて、ねじれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのである。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


2022年7月5日火曜日

羅生門 12 「憎悪」の不自然さ

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 まずは下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。

  • 「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)
  • 「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)
  • 「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)
  • 「六分の恐怖と四分の好奇心」
  • ①「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」
  • ②「安らかな得意と満足」
  • ③「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」
  • 「冷然と」
  • 「(盗人になる)勇気」
  • 「嘲るように」「かみつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)

 明らかに、問題は①の「憎悪」からだ。

 この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。解釈を言葉にするのは容易ではないが、取り組む意義はある。この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるはずなのだ。

 考察にあたって「この時の下人の気持ちを考えてみよう」などと問うつもりはない。考えるべき焦点がまるで見えてこない。

 「なぜ憎悪が湧いてきたか」も難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。

 そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。これでは「わからない」というしかない。

 「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析するのだ。

 だが、「分析」というのが何を考えることなのか?


 そこでこう問う。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 各クラスの授業で皆から提示されたのは次のような諸点。

  • 激しすぎる。過剰
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する。
  • 自分に害があるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 下人の「憎悪」は不合理である。作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意識的であり、なおかつ意識的であることを読者に伝えようとしているのである。


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