2022年7月13日水曜日

羅生門 20 終わりに

 ここまで7回の授業で「羅生門」を読んできた。定期考査が終わってから、ほぼ一ヶ月、今年度初で、最後かもしれない小説の読解を体験してきた(いや、もう一編くらい読みたい)。

 そういえば「羅生門」の認知度調査に回答してくれた69名の皆様、ご協力ありがとう。

 読んだことがあるというご家族は58名、約84%だった。やはりこれだけ読まれている小説は他にない。

 一方で「ない」と断言した方が7名。約1割のご家族は「羅生門」を扱わない高校生活を送ったのだ。

 「生きるためのエゴイズム」というテーマについては半分が「そんな感じだと聞いた」と答えている一方、半分は「よくわからない」だそうだ。確かに高校生の頃の授業の内容を覚えているかといえば授業者も怪しい。

 一方で「違う話を聞いた」と6名が答えている。気になる。どんな話だったのだろう。

 「エゴイズム」というテーマについては、多くの方が「そう聞けばそうだと思う」か、「わからない」と答えているが、5名が「そうは思わない」だそうだ。これも気になる。上記の方と重なっているのだろうか。

 授業者が「一般的な解釈」と言っているのは、文学研究や国語科教材研究の世界での話で、それこそ「一般」の方の認識はどうなっているのかは知りたいところだ。上記の少数派の話を聞いた方、教えてほしい。


 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。

 「生きるために人が持つエゴイズム」について書いてあるのだという「羅生門」理解は、例えば下人の心理の描写を充分に「意味づけ」ておらず、そうした「構造」は言わば基礎工事が手抜きされた砂上の楼閣に過ぎない。

 そうした「羅生門」理解に従って「生きるための悪は許されるか」などという問題について考えることは、むしろそうした観念的アポリア(難問)からの脱却を描いているという小説の主題に反している。それは国語の授業ではなく「道徳」の授業だ(もちろん「道徳」の授業にもまた別の意味があるので、「羅生門」に関係なく行うのならそれも良い)。


 上で「ある意味では」と書いたが、小説の読解は、そこに書いてある具体的な事柄から、一段抽象度を上げて、それを意味づける必要がある。「主題」と言っていたのがそのことだ。小説中の5W1Hをただ確認しても意味がない。そこからどのような「意味」を酌み取るかが「構造化」であり「主題」の考察だ。

 一方評論は、本文の言葉と抽象度を変えずに「全体の構造化/細部の意味づけ」を行う。本文が既に抽象度が高いからだ。

 だがそこで論じられている問題が、我々の現実とどう関わっているかを考える、という意味で、やはり本文から一段抽象度を上げることが必要でもある。


 ちょうど「羅生門」の読解の終わりに参院選があり、その最中に前首相の銃撃事件があったのは、何だか不思議な巡り合わせだった。

 事件直後は、選挙演説中の政治家を銃撃することは「言論を封殺するテロリズムだ」といった言説がマスコミに流れ、多くの政治家もマイクを向けられるとそう語っていた。

 だが少しずつ伝わってくる犯人像は、どうもそうした政治的テロリズムのイメージと乖離しているようだ。自分の家族がある宗教団体のために不幸になり、その団体と前首相が関係していることから恨んでいた、という話などを聞くと、犯人には何か政治的な理念があるようには感じられない。

 それが筋違いや勘違いの逆恨みだとすれば不幸なことだが、そうでなくとも少なくとも自分の家族の不幸を一人の政治家に向けるのはどうみても現実的ではない。

 つまり彼が撃ちたかったのは、現実的な肉体や家族をもった一人の人間ではなく、彼の「観念」の中にしかない「悪」だったとしか思えない(もはや「観念」と言うより「妄想」でしかないが)。

 一方で、政治的テロリズムとしての確信犯もまた、やはりある観念としての「敵」を排除しようとしているのだとも言える。政治的テロリズムがしばしば「ジハード(聖戦)」の名の下に行われるのは、そうした観念が人を動かすことを示している。

 いずれにせよ、芥川の描こうとしたモラルの虚妄は、こうした現実の悲劇と根を同じくしている。


 「羅生門」の後は「現国」の教科書に戻って「〈私〉時代のデモクラシー」を読む。

 これもまた参院選の後に読むことが感慨深い。ここに提起された問題は、まさしく文章の内部で完結するわけではなく、まぎれもなく現実の、今ここで起こっている問題なのだ。


2022年7月9日土曜日

羅生門 19 モラル・にきび

 下人の現状認識は最初から観念的であった。「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることの証左だ。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのである。

 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 だから「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは「正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉」として説明した。

 だがそれよりもむしろこれは、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられているのである。


 あらためて、このような読解による「羅生門」とはどんな小説か?

 「羅生門」の主題とは何か?

 芥川本人による主題「moral of philistine」をどう考えたらよいか?


 「羅生門」とはつまるところ、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する、である。

 芥川自身が「moral of philistine」について書きたいと言うのは、つまり世人の「モラル」に対する皮肉だ。「善」と「悪」をめぐる価値の対立こそ「モラル」である。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。

 下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」を通して、我々の持っている「モラル」がそのような歪で浮薄なものに過ぎないことを描く。

 それこそが芥川の意図する「羅生門」の主題である。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?

 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところである。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。

 そしてここまでの結論でも、それを「道徳=モラル」と言ってもいい。ただし一般的解釈における「道徳」は「エゴイズム」に対立する、そのままのいわゆる「モラル」である。

 だが芥川の言う「ペリシテ人のモラル」とは、空疎な観念に根拠づけられた歪で浮薄な、いわば「反モラル」である。

 頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかないのである。


羅生門 18 答え合わせと検算

 「羅生門」の論理構造は次のようにまとめられる。












 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してである。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「むしろ、あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪である。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。

 老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。

 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という奇妙な喩えにふさわしい内実はどこにも存在しない。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。

 下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからである。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。

 「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。

 自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」である。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


羅生門 17 結論



 空欄に入る語は何か?

 あちこちで「主観/客観」を挙げる声が聞こえる。

 だが聞いてみると、①③のどちらが「主観」でどちらが「客観」かは、班によってさかさまだったりする。

 どちらでももっともらしい説明ができてしまうのだ。

 つまりこの対比は有効ではない。


 「抽象/具体」も挙がりやすい。①の突然一般化された「悪」は確かに抽象的であると言ってもいい。一方③の、理由を聞いて認識される「悪」は具体的な老婆の行為を指している。

 この対比は適切だが、ここから主題の把握には距離がある。こうした下人の認識の変化がどのような主題を構成することになるのか。

 ①には、例えば「イメージ」などの言葉が入りうる。「虚像」を上げたのはH組K君。こちらからは「幻想」も挙げた。

 その上で、最も適切な言葉は「観念」だと思う。

 高校生はこの言葉を決して想起しない。言葉としてはみんなも知っている。だが「語彙」というのは「知ってる言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という語彙は高校生にはない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。「お前の考えはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、bに進む抵抗が強かったからだ。それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 としての悪」から「③ 現実 としての悪」に変わったからである。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。



2022年7月6日水曜日

羅生門 16 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまうのだが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、ある発想の飛躍が必要だ。

 これはやはり解くには難しい問いだ。

 少々誘導しよう。

 「なぜ引剥ぎをしたか」という問いは「なんのために引剥ぎをするか」という問いではない。「行為の必然性」とは変化の必然性のことだ。すなわち、「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」である。

 ここから問いを「なぜ門の下では盗人になる勇気が出ずにいたのか」と置き直しておこう。問題は二つの位相の相違と、それを生じさせたメカニズムである。

 

 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間での逡巡だ。

 これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を選択しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」は拮抗している。この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。この変化は極端である。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、途中で一旦aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 最初の拮抗は、確かに拮抗してはいるのだが、現状はaでありこのままでは「飢え死に」してしまう。下人にとってはbを実行できるかどうかが問題だ。

 最初bに進む勇気が出なかったのはなぜか?

 最初にbを実行できないでいた理由としては、論理的にはaの引力が強かったからか、bの抗力が強かったから、の二択だ。

 「盗人」になるのをためらっていたのはa「正義感」が強かったからか、b「悪」に抵抗を感じていたからか?

 盗人になることを妨げていた下人の「a.正義」が力を失ったことで盗人になれたのか、「b.悪」に対する抵抗が弱まったことで盗人になる「勇気が生まれてきた」のか?


 手がかりになるのが先の「心理の推移」の考察の際に確認した①の「憎悪」と③の「憎悪」の比較だ。

 最初の迷いからaに極端に振れてしまったところに①の憎悪が生じている。

 そして、③の憎悪の後にbに振れる。

 ということは、先に考察した①と③の相違が、aからbへの変化に対応しているのではないか?


 ①と③の相違を次のように整理する。
















 この比較を可能にするために「共通点」を確認することが必要だったのだ。

 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉を探すのである。

 問題は下人の「悪」に対する認識の変化である。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 15 「前の憎悪」

 老婆の答えを聞くと、下人はなぜかそれが平凡であることに「失望」する。それとともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 さてここで分析したいのは①「憎悪」と③「憎悪」の比較である。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 先に言及された「嘲るように」「かみつくように」についても注意を促しておきたい。

 「嘲る」は一般的には先に触れたように、老婆の自己正当化の論理が自分に対する害をも容認することに老婆自身が気づいていないことを嘲っているのだ、などと説明される。

 だがこの形容が③の「侮蔑」と響き合っていることを認めるならば、この説明を受け入れることはできない。「侮蔑」は老婆の長広舌を聞く前だからだ。

 そして「かみつくように」という老婆に対する敵意は「憎悪」から続いていると考えてもいいはずだ。

 したがって、「嘲る」にせよ「かみつく」にせよ、老婆に対する下人の感情は、老婆の長台詞の前にその要因が準備されていると考えられる。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。


 「引剥ぎ」という「行為の必然性」は、従来「極限状況」と「老婆の論理」によって説明されてきた。

 「行為の必然性」は、先に確認したように「変化の必然性」だから、これは物語の構造を次のように捉えていることになる。




















 だが「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。












つまり


 










という論理の中で捉えられるべきである。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 14 「得意と満足」「失望」

 次に、文中には言及されない「勇気」が湧いて、下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。

 説明はされている。にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「雨の夜に」「羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、わざわざ挙げられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 ①「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問が解消していないこと、である。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ「非凡であることを期待する」のか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?



羅生門 13 不自然な憎悪

 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、これはもっと読者の注意を引くはずだ。下人の「憎悪」を読者はそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがこうした理由は、この「憎悪」の不自然さを解消するだけの納得をもたらさない。

 そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか、羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか、そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に残す。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」だ。なおかつ「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 だが一方で半ばはわかるような気もする。確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だ。何か不穏なことが起こっていてもおかしくはない、といった読者の曖昧な納得を誘導する。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。

 といってそもそもこれが悪と判断する根拠なのかどうかも、文脈として明示されているわけではないから、厳密に問い質そうとすると「そんなことは言っていない」と作者は身を躱す。が、改めて考えてみればやはり変なのだ。


 さて、この表現には見覚えがないだろうか?

 注目すべきは、この表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 つまり下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 そしてその予断の根拠となる「この雨の夜に、この羅生門の上で」がなぜ根拠となるのか読者にはわからない。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような理解(「死者への冒瀆」)の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりにによくわからない理由(「雨の夜に羅生門の上で」)が置かれる。読者は居心地の悪い宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、相反する方向に引き裂かれて、ねじれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのである。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


2022年7月5日火曜日

羅生門 12 「憎悪」の不自然さ

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 まずは下人の心理の読み取れる表現を、物語の時系列順に本文中から挙げてみよう。

  • 「Sentimentalisme」(→「憂鬱・感傷」など)
  • 「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」(→「迷い・逡巡」など)
  • 「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」(→「慎重・不審・緊張」など)
  • 「六分の恐怖と四分の好奇心」
  • ①「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」
  • ②「安らかな得意と満足」
  • ③「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」
  • 「冷然と」
  • 「(盗人になる)勇気」
  • 「嘲るように」「かみつくように」(→「老婆に対する反感・敵意」など)

 明らかに、問題は①の「憎悪」からだ。

 この「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。解釈を言葉にするのは容易ではないが、取り組む意義はある。この部分の考察こそが「羅生門」理解の鍵となるはずなのだ。

 考察にあたって「この時の下人の気持ちを考えてみよう」などと問うつもりはない。考えるべき焦点がまるで見えてこない。

 「なぜ憎悪が湧いてきたか」も難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。

 そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。これでは「わからない」というしかない。

 「憎悪」をめぐるあれこれの描写や形容を分析するのだ。

 だが、「分析」というのが何を考えることなのか?


 そこでこう問う。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 各クラスの授業で皆から提示されたのは次のような諸点。

  • 激しすぎる。過剰
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する。
  • 自分に害があるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化や自分が害を受けないことや理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 下人の「憎悪」は不合理である。作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意識的であり、なおかつ意識的であることを読者に伝えようとしているのである。


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