では一般的解釈において未解決な問題とは何か?
これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、後に述べる理由もあるとはいえ、やはり注意深く小説を読んでいないからではある。
みんなの目はフシアナだ、などと言ったが、実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものなのだ。
どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。
一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。
「それ」とは何か?
「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。
実は最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「下人の心理の変化」を挙げた人もいる(だがこれは最後の引剥ぎの時の「勇気が生まれてきた」のことだけを言っていたのだろうか?)。
一方で上のように問うた時に、こうした答えがすんなり出てくるわけではない。何人もに発言を回しているうちに、以下に考察するような「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってくるが、それを「心理描写」「心理の推移」といった抽象度で把握することには、また特別な国語的訓練が必要とされる。
これは重要な国語力だ。そして生徒はそれを教わって「理解」すべきなのではなく、問われて自分で考えるという「鍛錬」をすべきなのだ。
また、ようやく思考がそのような抽象度に届いたときに「下人の心情」といった表現が多いことが気になった。これは小学校以来「登場人物の気持ち」を考えなさいと言われ続けてきた名残だろうか。
授業者はこういう場合「心理」という言葉を使うことにしている。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのである。「心情・気持ち」という言葉で、論理よりも共感を求める日本の国語科授業の姿勢が、曖昧な読解を招いていると思う。
小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないなどとは、到底納得できるものではない。
だが一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。
これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えてはいないと言える最大の理由だ。
念入りに描写される「心理の推移」に意味がないはずがない。
それはどのような意味なのか?
これまでの論で、わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。
根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。
これは「ペリシテ人のモラル」とも整合的だ。「モラルは時々の情動や気分の産物」なのだ。気分次第でコロコロ変わる。
確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。「心理の推移」こそ「行為の必然性」を説明している。
だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。
だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。
それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触だ。それは「不安定な心理」説とは相容れない。
詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過と捉えればいいということになる。
一般的な解釈は「行為の必然性」を「極限状況」と「老婆の論理」によって説明する。
「行為の必然性」とは「変化の必然性」でもある。引剥ぎができなかった下人がどうして引剥ぎできるようになったのかという変化に必然性を与える必要がある。
これを老婆の言葉によるのだと一般的には考える。
だが「老婆の論理」は「行為の必然性」を支えられない。
それよりも「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。
「羅生門」という物語の構造をこのように捉えて、「なぜ勇気が生まれてきたか?」を考える。