授業では先に「その二つ」の解釈から入って、議論に1時間費やした。そのまま結論を出さずに、次に対比をとった。授業はその後で「無常ということ」との対応によって二つの文章の主旨を捉える考察へ進んだが、それが一段落したところでこの問題に決着をつける。
私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も①住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。②それより先はよくわからないのだ。むろん③(その場所は)地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。
解釈の候補は三つ。
A ①「なじんでいる内」と②「わからない外」
B ②「わからない外」と③「わかる外」
C ①「なじんでいる」と③「頭でわかる」
結論を言えば、この問いに「正解」はない。どの解釈を完全に否定することもできず、どの解釈も可能であることを認めざるを得ない。
だが、それぞれを支持する論理は明らかにしておきたい。
授業の展開上は後から浮上したCは、しかし文章の主旨には適合している。地図を見て「わかる」こと(③)は、「歩いたことがなければ実質的に」「わかる」=「なじむ」(①)にはならないのだ。本文全体の主旨は、つまりそういうことだ。
だが授業者の私見を言えば、Cは比較的支持できない。
書き手の心理から言えば、間の一節を跳ばして①と③を「その二つ」と指示するのは、読者に伝わりにくいと考えるのではないか、と思えるからだ。
直前の③と並列したいのが②ではなく①だとすると、むしろ「その二つ」という不明確な指示語ではなく「歩いてなじむことと、頭でわかることは(実質的に結びつかない)」というような明示をしたくなるのではなかろうか、と思う。
A「内と外」の解釈の妥当性を説明する説得力を持った議論は次のようなものだ。
②に続く③の文は「むろん」で始まっている。そしてそれを「だが」で受けて「その二つは結びつかない」と続く。
この「むろん~。だが~」は、いわゆる「確かに~。しかし~」構文と同じニュアンスであり、そこでは「むろん・確かに」の後は予想される疑問・反論として置かれているだけで、最初から否定するための当て馬だ。
つまり③の扱いは軽い。①②こそ「その二つは結びつかない」と言明されるべき本命なのだ。
これは細部のニュアンスを丁寧に汲み取った解釈だ。
だがAを推す論拠にはさらに強力なものがある。
「その二つは少しも実質的に結びつかない」の後、一文を挟んで「結局私が知っている場所は、いわば数多くの小さい円から成っていて、その間には何のつながりもない」と続く。
間に入るのが「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできない」という一文であり、「感じられない」ことが、円同士の間が空白地帯になる理由を述べている。
つまり「内と外」が「結びつかない」から、「結局」円同士が「つながらない」ということになる。
この論理展開は緊密で、間然するところがない。
ではB「外と外」を支持する論理とはどのようなものか?
A「内と外」型の解釈は、この「二つ」を、物理的に分割された別の空間として捉えている。そしてその一方が「感性的になじみのある空間」、一方が「感性的になじみのない空間」だ。
つまり分割された内と外はいずれも「感性的」な空間だ。内側だけが「感性的」なわけではない。外側を「なじみがない」と感じること自体が「感性的」な捉え方なのだ。
一方、B「外と外」型の解釈では、「その二つ」とは、結論を言えば「感性的な空間」と「均質な空間」だ。
②の「わからない外」を「幻想的な空間」であるとする解釈が話し合いの中で語られているのを散見したが、これは全く文脈を捉え損ねている。「わからない」のは、私がそう感じているだけだ。つまり個人的な「感性」のみがそれを「わからない」と感じさせている。
それに対して③「地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。」は地図の比喩で明らかなとおり、「均質な空間」としてそれが捉えられている。
もちろん文脈上、「均質な空間」にはじめて論及されるのはここより三段落後の「だから~」の段落の、「ところで、第三の空間がある。それは~」である。したがって「その」という指示語で指し示される対象に「均質な空間」を想定するのは適切か、という疑問は可能だろう。
だが、文章を書いている、またそれを読む読者の思考はそのような単純な線状性に限定される必要はない。柄谷の中には、「幻想的/感性的」という対立を提示した時点ですでに「均質な」という対立も想定されていると考えられる。ただそこに言及するには線状性による制約があるというだけだ。
C「外と外」型の解釈は、物理的には同一の空間を、「感性的になじみのない空間」でもあると同時に「地図には載っていて、頭ではわかっている空間」=「均質な空間」とも捉えている様子が描写され、それらの捉え方が全く違ったものであることが述べられているのだ、というものだ。
こうした、同一の対象が、捉え方によって違ったものとして感じられる例として、柄谷は後の段落で、「登山客が地元民にとってはタブーの地を平然と通過すること」という例を挙げている。「登山客」にとって「均質な空間」であるところの登山ルートを、「地元民」は「幻想的な空間」であるところの「タブーの地」と捉える。同一の対象を、両者は違ったものとして見ている。
同一の対象であっても、捉え方の違う二つの空間は、それぞれの認識の中では別のものだ。それが自分という単一の主体の中で起こったとしても、やはりその認識像は「結びつかない=重なり合わない」。
①「なじんでいる」は感性的な捉え方で、③「わかる」は均質な捉え方だ、と整理してみれば、Cもまた「感性/均質」が「結びつかない」と言っているのだ、ということになり、これは文章の最終的な主張を先取りして述べていることになる。
Aの解釈は前後の文脈の論理展開から最も整合性が高く、BCは文章全体の論旨に適合する、と言える。