2024年6月19日水曜日

無常ということ 5-美学には行き着かない 3

 「だが僕は決して美学には行き着かない」の解釈の小論文課題は6割強の提出率だった。これは十分だと考えるべきか? 授業中に考え、話し合うことが既に有意義な学習ではあるのだが、文章にまとめるというもう一手間がまたさらに有益なのだが。


 回答には、例の三カ所の解釈の分岐のどちらを選ぶかも聞いた。

「無常ということ」解釈課題の提出者が、例の三つの分岐でどちらを選んだかを集計してみた。

「子供らしい」という形容は

A 肯定的なニュアンス 102人

B 否定的なニュアンス 92人


「そういう~呼ぶべき状態」は

C つかむに適した状態 51人

D 迷路に押しやられている状態 143人


「美学には行き着かない」は

E 行き着くつもりはない 87人

F 行き着けない 107人


 さらにこれらを組み合わせると8通りの解釈になる。8つそれぞれに支持者がいる。


ACE 5人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


ACF 17人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


ADE 30人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


ADF 50人

無垢な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


BCE 10人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


BCF 19人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。美しさをつかむに適した状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


BDE 42人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着くつもりはない。


BDF 21人

幼稚な疑問に迷路に押しやられ、反抗はしない。迷路に押しやられた状態には疑わしい性質を見つけ出せないからだ。だが美学には行き着けない。


 こんなことになるのでは、まともなコミュニケーションは期待できない。

 小林秀雄には大いに反省してもらいたい。どんな高尚な思想を語ろうが、伝わらなければしょうがない。

 こういう韜晦が何やら高尚なことを言ってそうな雰囲気を醸し出してありがたみを増しているのも困ったものだ。


2024年6月13日木曜日

博士の愛した数式 3 場面の意味

 今回の小説読解では、高校3年目にして初めて、最もありふれた条件で「登場人物の気持ち」を考える。

 だがやはり今回もまた、考察には複数の抽象度の問題を重ねるのが有益な体験となる。「気持ち」=心理を考えるだけでなく、その「意味」を考える。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたか」「父親はなぜ突然蜉蝣の話をしたか」などという問いは、最終的には作品のテーマとして語られなければならない。それがその作品にとっての最大にして最低限の問いならば。

 すなわち、考察対象とする、家に戻ってからの場面がどのような場面であると捉えれば良いのかを抽象化して表現しようというのだ。


 この点について、8クラス目のG組の授業でとうとうヒントを出してしまった。どうにも埒が開かないのを見かねて。

 ということで全クラスにこの情報を公開する。


 ルートの心理を分析する上で考慮すべき問題を整理しよう。

①なぜ「とたん」なのか(態度の急な変化のわけ)?

②なぜすぐに理由を言わなかったのか?

③なぜ「私」言ったときにすぐには怒らなかったのか?

④涙についての形容はどういうことか?

⑤野球中継が意味するものとは?

 ⑤が意味するものは比較的明らかだ。タイガース選手の劣勢からのサヨナラ勝ちという展開は、明らかに事態の好転を意味している。つまりこの場面は全体としてハッピーエンドへ向かって決着していると読める。

 必ずこのことを確認しておく必要がある。つまり、ルートの怒りが母親に向かって爆発することは、物語にとって何かしら「良いこと」なのだ。


 もうひとつ。④も考えやすい。

 ④「かつて目にした」「涙」と目の前の「涙」の違いは何か?

 今までの涙は「私が拭うことのでき」る「涙」であり、この時の「涙」は「拭うことのできない場所」で流される「涙」だ。では「私が拭うことのできない場所」とはどこか?

 どこで流される涙ならば「拭うこと」ができるのか?


 それが「私が拭うことのできない」涙であることは、このシークエンス全体がハッピーエンドであることから考えて、何かしら好ましいことであるに違いない。

 そしてそれは「男の涙」と形容されている。

 ここから考えられる「この場面の意味」は明らかだ。


 この場面の「意味」を1語ないし2語で表現してごらん、と問うたところ、G組N班から「ルートの自立」というフレーズが挙がった。

 そう、この場面はルートの「自立(あるいは成長)」を意味していると考えられる。

 この言葉が想起できるかどうかが、論理を組み立てる上で決定的に重要なのだ。


 だが、このルートの怒り・悲しみがどうして「成長・自立」を意味していると考えればいいのか、その論理を構築するのは、それはそれでたやすくはない。


2024年6月12日水曜日

博士の愛した数式 2 考える手がかり

 ルートの「気持ち」を考えてみよう。

 単に「怒り」というなら、次の一節がその端的な説明になっている。

「ママが博士を信用しなかったからだよ。博士に僕の世話は任せられないんじゃないかって、少しでも疑ったことが許せないんだ。」

 これが具体的にどの場面のことを指しているかはもちろん把握していなければならない。「私」が買い物に出る前、ルートに「大丈夫かしら」と問いかける場面だ。このやりとりがルートの「怒り」の伏線となっていることは把握しておく。

 ここには、母親の問いかけに対し「ぶっきらぼうに」答え、「私など相手にせず」に博士の書斎に駆けていくルートが描かれている。

 ここに「不機嫌」の萌芽を読み取ることは確かにできる。この伏線とその回収は明らかに意図的なものだ。作者はルートの「怒り」を描く上でこの場面を想起するように読者に求めている。

 だがこれだけで「なぜか」が説明され尽くしていると考えることは、まっとうな小説読者としてはできない。それは、そんなに単純な感じではないな、という違和感だ。

 その違和感とは何か?

 言い換えれば、何に答えられなければこの部分のルートの心理が説明できたことにはならないか?


 この違和感のわけを言葉にしてみるなら、こんな感じだ。これがルートの怒りの理由であるとすると、それはこのやりとりの後で、怪我して病院に運ばれて、帰りに外食してアパートへ戻る、という展開がこの怒りに関係ないことになってしまう。博士への「私」の懸念はこれらの展開の前に既にルートに表明されているからだ。仮にルートが怪我などせずに、「私」が買い物から戻ったとしても、ルートの怒りはやはり爆発しただろうか。そうした想像は困難だ。

 したがって、「私」の博士への懸念は、ルートにとって母親への不満として心に留まってはいるが、それを激情に変えたのはその後の展開であると考えられる。何がルートの心を波立たせているのか?


 さらに、なぜ「とたん」なのか? この急な態度の変化はどうして起きたのか?

 同様の問いとしてこの疑問は次のようにも言える。

 理由があるのなら、問われてすぐ答えればいいのに、なぜこの後1ページあまり黙って泣いたりしているのか?


 さらに、考える材料として注目したいのは、ルートと「私」のやりとりに、随時挿入されるラジオの野球中継だ。

 これが注目に値する要素だということは意識できなければならない。小説や詩を読解する上では必須の作法だ。

 この野球中継はルートと「私」の会話の無意味な背景ではない。どうみても意図的な挿入だ。といって「不機嫌の原因がタイガースでないのは明らかだった。」「ルートの耳には何も届いていなかった。」とあるから、この野球中継が直接、ルートや「私」の心情に影響しているというわけではない。

 むしろこれが意味するものは、読者に向けて物語の方向性を指示することだ。

 とはいえ単純に事実関係は理解しておきたい。

 「私」は不機嫌なルートの態度に「タイガース、負けてるの?」と問う。ここからは、ルートがタイガースに肩入れしていることが確認できる。

 続いて試合の状況。この場面の序盤で、ゲームは九回表、巨人とタイガースは同点。ルートは不機嫌の理由を聞かれて、答えることなく怪我をした手を机に打ち付ける自傷的なふるまいをする。中盤でタイガースの「亀山」がバッターとなる。「亀山」が「桑田の球威に押され……二打席連続三振を喫しています…」という状況を伝えるアナウンスが挿入されたあと、ルートは「声も漏らさず、体も震わせず」「涙だけをこぼしていた」。タイガースは「負けてる」わけではないが、劣勢だ。

 そして、ルートの怒りの訳がルート自身の口から語られた後、それに対する「私」の反応についての説明・描写を一切差し挟まずに、次のようにこの章は終わる。

亀山が二球目を右中間にはじき返した。和田が一塁から生還し、サヨナラのホームを踏んだ。アナウンサーは絶叫し、歓声はうねりとなって私たち二人を包んだ。

 この描写は何を意味しているか?


 もうひとつ。ルートの流す涙について述べた次の一節。

けれど今回は、かつて目にしたどの涙とも違っていた。いくら手を差し出しても、私が拭うことのできない場所で、涙は流されていた。

 問題は「私が拭うことのできない場所」という一種の比喩表現が意味しているものをどう捉えるか、だ。


 これらは「手がかり」であり、同時に、ルートの心理を説明し得たというための関門でもある。これらの問題に答えられていることが、ルートの心理を分析できていると言える条件だ。


博士の愛した数式 1 「気持ち」を考える

 販売促進のために最も効力のある文学賞といえば、「直木賞」「芥川賞」とともに、まず「本屋大賞」が挙がる。毎年ニュースになる。

 その第1回と第2回の受賞者の作品を、今年は授業で読む。第2回受賞者の恩田陸の作品は、本屋大賞受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」を発展現代文で読んだ。そして総合現代文の方で、第1回受賞作品、小川洋子の「博士の愛した数式」を読む。

 「博士の愛した数式」と「オデュッセイア」を読むには、それぞれかなり違った作法が必要になる。もちろんどちらもただ読むことで楽しめる良質なエンターテイメントとして享受することにいささかの不都合もない。だが授業という場でそれを取り扱うには、読むことにおいて必要とされるそれぞれに適切な作法を意識化しておくことが望ましい。

 たとえば「オデュッセイア」では、ファンタジーとしてその世界観を捉えながら、最終的にはそれを神話や寓話のように読む必要がある。そして、その象徴性についての考察へと展開した。

 一方「博士の愛した数式」では、小学生の時からさんざん授業で訊かれてきた問い、「この時の登場人物の気持ちを考えよう」という作法が適切だ。

 「博士の愛した数式」は、完結した短編ではなく、長編の一部、しかも今回読むのはその真ん中あたりの一節だ。したがって、小説全体をメタな視点から捉えることはしない。「どういう枠組みで読むか」は問題にならない。

 また、「博士の愛した数式」という小説にとって、記憶が80分間しか保てないことと、数学をこの上なく愛しているという、「博士」に施された二つの特殊な設定が肝であるのは確かだが、小説の世界が我々の現実とかけ離れたところ(平安時代とか中国とか夢の中)に設定されているわけではない。現代の日本だ。だから、この小説を読むには、その小説世界の人間関係、状況に読み手自身を重ねながら、その喜怒哀楽を感じ取るのがふさわしい。

 こういう作法で小説を読解をするのは、3年目にして初めてだ。


 何を取り上げるか?

 この切り取り方で提示して考察するとすれば、焦点は明らかだ。

 ルートの怪我と病院への搬送、待合室の三角数から三人での外食まで、言わばこの部分における物語のクライマックスとも言えるイベントの後、一行の空白を挟んで、物語は意外な展開をみせる。

博士と別れ、アパートまで帰り着いたとたん、なぜかルートは不機嫌になった。

 ここから始まるシークエンスは時間をかけて考察するに値する、実に小説的な読解力を要求される場面だ。

 ここに見られる「ルート」の奇妙なふるまい、感情の発露をどう受け止めれば良いのか?


弟に速達で 4 イメージを拡げる

  初孫の誕生にあたって、ノブコは「はるか」という命名案を息子に提案する。

 それを聞いたもう1人の息子である語り手は北へ行くことを「はるか」の父である弟に伝える。速達で。

 そこにはどのような論理的な展開があるのだろう?


 さて、思考を誘導するため、さらに糸口を提供しよう。

 「おれ」は三十才まで何をしていたか?


 「正解」はない。唯一の限定ができる条件はたぶんない。自由に想像していい。

 メジャーデビューを目指してバンド活動していた。

 俳優を目指して劇団に所属していた。

 小説家を目指して投稿を繰り返していた。

 研究職を目指して大学に残り続けていた。

 起業家を目指して会社設立を企画していた。

 NGO組織でボランティア活動をしていた…。

 こうした「自由」な想像は、どこまでが許されるのか? どのような条件によって限定付けられるのか?

 例えばフリーターは?

 ニートは?

 さらにいえば、「病気で入院していた」「犯罪を犯して収監されていた」は?


 もう一つ。同じように詩のイメージを拡げるような思考をしてもらおう。

 「おれ」は北に何をしに行くのか?


 これもまた詩の論理に齟齬のない範囲内でなら自由に考えていい。

 流氷の軋むオホーツク海を見る。

 見渡すばかりのラベンダー畑に佇む。

 大雪山頂から石狩川を見下ろす。

 オーロラの空の下に立つ。

 脱サラして北海道で牧場を営む。

 どこまでの想像なら「小さな夢を/見てくる」の範囲内なのか?


 この北への旅が、一時的な旅行なのか、北への永住の決意なのかは見解の分かれるところかもしれない。「小さな」を文字通りとるならば一時的な旅行であるように感じられるし、自らの夢に対する謙遜、自己卑下ならば永住を前提にしていてもいい(いや、それだと「電話はかけない」が弟との絶縁を意味してしまうからだめか)。

 さまざまな想像が教室内に提出され、そのイメージの広がりと重なりのなかで「はるか」という名に込めた願いが、いくらかなりと実感されるのは悪くない。


2024年6月11日火曜日

弟に速達で 3 「すぐに」とはいつか?

  さて、この詩を読んだというため答えなければならない、最低限にして最大の問いは何か?

 毎度の例で言えば「羅生門」における「下人はなぜ引き剥ぎをしたのか?」であり、「山月記」における「李徵はなぜ虎になったか」であり、「こころ」における「Kはなぜ死んだか」だ。それに納得できれば、とりあえずはそれを読んだことにはなる、という問い。

 同様の問いをこの詩について考えるなら「なぜノブコは『はるか』という名を提案したのか?」「なぜ語り手は北へ行くのか?」「なぜ北から電話をかけないのか?」「なぜ速達なのか?」…。


 だがこの詩におけるこの問いは、上記の小説よりは「I was born」読解の際に立てた問いに似ている。

 「I was born」では「なぜ父は蜉蝣の話をするのか?」が読者に共通した疑問ではある。だがこの問いは、読解にとって有効にはたらかない(なぜかという説明は割愛する)。

 そこで立てた問いは「5聯と6聯はどのような論理関係なのか?」だった。そのような問いに拠ってしか「なぜ話したか?」は考えられないのだ。

 「弟に速達で」も同様。上記の疑問以外に、多くの読者に共通した疑問として浮かぶのは「なぜ老眼鏡を思い出したのか?」のはずだ。

 だがこの疑問が上のいくつかの問いよりも重要であるとは言えない。上の問いもまたそれぞれに重要な疑問ではある。

 だが「なぜ~思い出したのか?」が重要である訳は、この問いの形ではなく、むしろ「I was born」のような問いの形で表されるべき問題の、具体的な糸口として、この「なぜ」型の疑問が想起されるからだ。

 すなわち問題は、この詩における3聯の意味だ。

 2聯から3聯への展開、3聯から4聯への展開には、当然と言うには抵抗のある飛躍がある。この論理的な関係こそ、この詩の読解の鍵となる謎だ。

 それを、具体的なレベルで問うたのが「なぜ~思い出したのか?」(3聯)であり「なぜ北へ行くのか?」(4聯)だ。

 だが、どちらも、それを登場人物の心情レベルでのみ考えるべきではなく、詩の論理として考えるべきなのだ。


 さしあたり「なぜ思い出したのか?」に答えてみよう。
 「なぜ思い出したのか」を説明するということは、それを思い出させる契機が何であるかを明確にし、それと老眼鏡の想起の因果関係を説明するということだ。その契機は無論2聯から読み取るべきだろう。そのようにして2聯と3聯の関係を明らかにする。
 それは「なぜ語り手は…」という問いでもあるのだが、同時に「なぜ作者は語り手に老眼鏡を思い出させたのか?」という問いでもある。

 さて、考える糸口を提供しよう。
 思い出す誘因と想起の因果関係を捉えるうえで、何と何が連続しているのかを明確にしておきたい。
 「すぐに」とはいつか?
 「(おれは)すぐに(思い出した)」とは、具体的にいつ、何の直後なのか?

 実はこれは案外に即答の難しい問いだ。そのことは、問われてみるまでは意外に気が付かないはずだ。詩の読者は詩を貫く論理・因果関係をそれほど明確には把握せずに「なんとなく」読んでいる。
 契機はむろん姪の名付けについての話題だ。だが、それを語り手が耳にしたのはいつなのかは、にわかにはわからない。詩句から直接抜き出せる語句はなく、考え始めると、情報の整理に頭を使う余地がある。
 「『はるか』という名を聞いたとき」という素朴な答えは間違っていないが不十分だ。
 語り手はそれを誰から、いつ聞いたのか?

 二聯「いったのか電話で」から、弟と母親が電話で話したことがわかる。そしてそれは「~そうだな」という伝聞形からすると、その電話のことを、語り手はどこかで知ったのだ。
 弟から? 母親から? それ以外の第三者から?
 少なくとも「思い出した」のは、母親が「いった」時ではない。母親は電話で弟に「いった」。そのことを、後刻、語り手は知ったのだ。それはいつか?

 この命名が話題に上った「電話」とは、おそらく娘の誕生を弟が母親に報せた電話であろう。当然、懐妊自体はそれ以前から母親の知るところであり、誕生の報告にあわせて、母はひそかに温めていた命名案を弟に提示したのだ。
 そのことを語り手に知らせたのは弟ではない。「考えたそうだな」という伝聞形は、それを知らせたのが弟であれば、当人に返すはずのない言い方だ。
 たとえば弟の奥さんが語り手にそのことを話した可能性はある。だがここで、言及されていない登場人物がそれをしたのだと考えるのはあまり適切ではない。言うべきことは作品中に言われているはずだから。
 とすると、このことを語り手に伝えたのは母親だと考えるのが自然だ。彼女がそれを電話で弟に言ったことはまちがいないとして、それ以外に弟と彼女が会っているかどうかわからない(「最近会ったか?」)くらいの情報の不確かさは、この話を母親から聞いたこと自体も、電話での会話だという可能性が高い。
 以上の推論から、「老眼鏡を思い出した」のは、孫の名前として「はるか」を弟に提案(推奨)したということを、後で母親から(おそらく電話で)聞いた直後「すぐに」だというということになる。電話をかけたのが「おれ」なのか「ノブコ」なのかはわからない。弟と母親の電話の当日かもしれないし、翌日かもしれない。赤ん坊の名前がどうなるかが未確定なのだから、それほど時間は経っていないと考えるべきだろう。
 つまり「私は『はるか』って名前がいいんじゃないかしらって、あの子(弟)に言ったのよ」などと母親自身が電話口で語るのを語り手は聞いたのだ。
 そして、語り手は老眼鏡を思い出す。
 そこにはどのような機制がはたらいているのか?

2024年6月9日日曜日

弟に速達で 2 初孫の誕生

  この詩の冒頭、なぜ一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があるのか?


 そもそも自分の母親を「おばあちゃん」と呼ぶのはなぜか?

 「おばあちゃん」とは孫の存在によって相対的に規定される呼称だ。家族間の呼称は、その家族の最年少の構成員に合わせて変化する(この説明を最初に公的に発表したのは、去年言語論で読んだ鈴木孝夫だそうだ。)。

 こうした家族間の呼称は日本語に特有の言い方だという。


 つまり、この言い直しが示しているのは、「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだという設定だ。

 今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのだ。

 そこから、「はるか」に兄姉はいないこと、そして語り手には子供がまだいないことがわかる。語り手と弟が二人だけの兄弟なのかどうかは不明だが(おそらく他の兄弟はいまい)、彼らにも恐らく子供はいないということになる。

 この解釈による「初孫誕生」という背景設定は、先の「父の再婚」や「曾祖母の存命」という設定に比べて、わざわざ言及しないことが不自然でない程度に自然であり、かつこの詩全体の主題解釈にかかわるからこそ整合性が高い。


 さて、授業ではもうひとつ、Oさんから別のアイデアが提示された。

 「おれ」には子供がいるのだ。だから「おれ」は「おばあちゃん」という呼称に慣れており、だからつい「おばあちゃん」と言ってしまう。だが弟にはこれまで子供がないから、「おばあちゃんとは」という確認が必要なのだ。

 これは「父の再婚」や「曾祖母の存命」に比べれば想定されても良い自然さがある。弟にとっての初めての子供だという点は「初孫説」と共通している。

 だがどちらが適切かと言えばやはり「初孫説」だろう。

 単なる突っ込みとしては、「おれ」が妻子のある身で、「北」に「夢」を見に行くという無責任さは何事だ!? と言いたくなる、という問題もある。

 あるいは建前を言えば「速達」という文面で、うっかり相手がわかりにくい、自分だけが慣れた言い方をして、わざわざそれを確認することも不自然だ。

 さらに言えばこの「おばあちゃん」は、この話題を共有する弟と自分の間での共通認識として使われるべき発語だから、2人にとって「ノブコちゃん」がこれから「おばあちゃん」と呼ばれることになるのは、2人に共通した事態なのだと考える方が詩の読解としてふさわしい、と言える。


 この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのだ。

 こうした細部の設定の解釈は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みだ。

 授業で詩を読むことに意義があるのは、こういう読みの更新が起こることが期待されるときだ。


弟に速達で 1 「おばあちゃん」とは

  今年度、総合現代文では、詩を取り上げる授業は予定していない。

 一方発展現代文では、総合現代文の方で全員対象に取り上げはしないが、しかし捨てるには惜しい「国語」的体験として、ディベート創作を行う予定だし、も読む。


 辻征夫「弟に速達で」は以前使っていた教科書に収録されていた詩で、授業で読解していくと、そこには意外な豊かな読解の世界が広がっていることに驚いたものだった。

  弟に速達で

                                  辻 征夫 

さいきん

おばあちゃんにはあったか?

おばあちゃんとは

ノブコちゃんのことで

ははおやだわれわれの


まごがうまれて

はるかという名を

かんがえたそうだなおばあちゃんは

雲や山が

遠くに見える

ひろーい感じ

とおばあちゃんは

いったのか電話で


おれはすぐに

すこしゆるゆるになったらしい

おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した

あれはおれが 三十才で

なんとか定職についたとき

五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ

おれのはじめてのおくりもので

とてもよろこんでくれた

なにしろガキのころから

しんぱいばかりかけたからなおれやきみは


じゃ おれは今夜の列車で

北へ行く

はるかな山と

平原と

おれがずっとたもちつづけた

小さな夢を

見てくる

よしんばきみのむすめが

はるかという名にならぬにしろ

こころにはるかなものを いつも

抱きつづけるむすめに育てよ


北から

電話はかけない


 授業で読み込むまで、個人的には、この詩に何かしら好もしい印象を抱いてはいたものの、とりわけわからないところはない、と思っていた。

 それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益ではある。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。

 だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。だが、どんな感じ? を言葉にするのはそれほど簡単なことではないし、さらに、どこからそんな感じがした? という機制を分析するのはさらに難しい。


 授業者には、この詩は、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがある詩だと思われる。

 たとえば「ははおやだわれわれの」の不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何箇所もある)。

 「ははおや」を「ちゃん」付けで呼び、自身を「おれ」と呼ぶ。「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。

 そうしたユーモラスな調子の一方で、弟には「おまえ」ではなく「きみ」と呼びかけ、「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと鮮やかに詩を断ち切る。夢を見るために北へ向かうなどという行為は、格好良いというより、下手をすれば滑稽になりかねない。それをユーモアに転換させる軽やかな身のこなし。


 こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、いわゆる「鑑賞」と呼ばれる行為であり、それは詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。

 それはそれで楽しく、有意義なことでもあるが、今回は認識の共有を目指して、テキストを読解する。

 このテキストは、何を語っているか?


 さて、考える糸口も提供する。

 まずはすぐにわかることを確認する。

 ここに登場する人物はどういう関係になっているか?


 まずは語り手の「おれ」と、その「弟」であるところの「きみ」。

 2人の母親である「ノブコちゃん」。

 そして弟の娘である「はるか」(という名になるかどうかはまだわからないが)。



 もちろんこんなことは、誰でもわかるべきことだ。

 だがこれを問うのは、誰でも一瞬混乱する要因もあるからでもある。3・4行目「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで/ははおやだわれわれの」のくだりだ。

 「おばあちゃん」が「ははおや」であることを理解するのはそれほど難しくないが、「ノブコちゃん」というくだけた言い方が違和感として、いくらか理解をさまたげる。

 とはいえつまるところ理解はできる。4人がそういう関係であることは。

 だが問題はそこではない。

 奇妙なことは、次のような疑問が生ずることだ。

 なぜ、一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があるのか?


 この問いを、疑問として自覚することは難しいはずだ。読者側から言うと、詩行を順番に読む中で、「おばあちゃん」と呼ばれる老婦人が「ノブコちゃん」と「ちゃん」づけで呼ばれることに驚きつつニヤリとさせられ、続けてそれが自分たちの母親だと言われて一瞬混乱する。「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」なのも意外だが、母親を「ノブコちゃん」と呼ぶのもはなはだ突飛だ。祖母なのか母親なのか、驚きとともに一瞬混乱はするものの、二聯で「まご」が出たとたんに、先述の人間関係が、たちまち把握される。自分の母親を「おばあちゃん」と呼ぶ習慣は、日本人にはさして特殊なものではない。つまりこの詩行は、それなりに「わかる」。
 だがこうした納得の陰に隠れて、本当は生じなければならない疑問が看過される。それは三行目から四行目の展開の不自然さだ。
 よく考えると三行目「おばあちゃんとは」は奇妙だ。普通、聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりはしない。だから、「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが、相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は普通ではない。
 だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、解釈の可能性の幅は比較的開かれた状態になっている。それを解釈していく中では、その不自然さに気づきにくい。自然と不自然を分けるほどの情報が未だ得られていないからだ。
 といってこの「おばあちゃん」の特定、言い換えが、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定なのだから。
 とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な状況であるということだ。
 それはどんな場合か?

 可能性はいくつか考えられる。だがそれらのいくつかは読解としては不適切だ。
 難しいのは、それが不適切である理由を自覚的に述べることだ。
 いくつかの解釈について検討しよう。
①「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ。
 この解釈に反駁してみよう。
 弟の奥さんの母親もまた「はるか(仮)」にとっては「おばあちゃん」には違いない。だが、語り手にとっては彼女は単なる他人だから、弟ならともかく語り手が「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。

②「はるか」にとっての曾祖母が存命中。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ。
③「おれ」と弟には本当の母親と育ての母親の二人がいる。詩には登場しない父親は、2人の母親と離婚し、まだ2人が小さいうちに「ノブコ」と再婚したのだ。先妻は離婚後どこかにいて、彼女もまた「はるか」からみれば血のつながった「おばあちゃん」なのだ。
④2人は養子に出されて、「ノブコちゃん」はその養子先の母親なのだ。生みの親はどこかで存命中。

 これらはいずれも論理的には可能な解釈だ。だがそのように考えるのは不適切だ。なぜか?

 書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと一応は考えるべきなのだ(毎度の「登場人物が超能力者異星人異世界人である可能性はとりあえず考える必要がない」というやつだ)。
 もし父親の再婚や曾祖母の存命によって、その「おばあちゃん」と「ノブコちゃん」を区別する必要があったのだとすれば、それが作品中に書かれないはずはない。そのように書かれていない特殊な設定を根拠とするのは、不必要で不自然な解釈なのだ。
 では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か?

2024年6月5日水曜日

場所と経験 5 「その二つ」決着編

 授業では先に「その二つ」の解釈から入って、議論に1時間費やした。そのまま結論を出さずに、次に対比をとった。授業はその後で「無常ということ」との対応によって二つの文章の主旨を捉える考察へ進んだが、それが一段落したところでこの問題に決着をつける。

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も①住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。②それより先はよくわからないのだ。むろん③(その場所は)地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

 解釈の候補は三つ。

A ①「なじんでいる内」と②「わからない外」

B ②「わからない外」と③「わかる外」

C ①「なじんでいる」と③「頭でわかる」

 結論を言えば、この問いに「正解」はない。どの解釈を完全に否定することもできず、どの解釈も可能であることを認めざるを得ない。

 だが、それぞれを支持する論理は明らかにしておきたい。


 授業の展開上は後から浮上したCは、しかし文章の主旨には適合している。地図を見て「わかる」こと(③)は、「歩いたことがなければ実質的に」「わかる」=「なじむ」(①)にはならないのだ。本文全体の主旨は、つまりそういうことだ。

 だが授業者の私見を言えば、Cは比較的支持できない。

 書き手の心理から言えば、間の一節を跳ばして①と③を「その二つ」と指示するのは、読者に伝わりにくいと考えるのではないか、と思えるからだ。

 直前の③と並列したいのが②ではなく①だとすると、むしろ「その二つ」という不明確な指示語ではなく「歩いてなじむことと、頭でわかることは(実質的に結びつかない)」というような明示をしたくなるのではなかろうか、と思う。


 A「内と外」の解釈の妥当性を説明する説得力を持った議論は次のようなものだ。

 ②に続く③の文は「むろん」で始まっている。そしてそれを「だが」で受けて「その二つは結びつかない」と続く。

 この「むろん~。だが~」は、いわゆる「確かに~。しかし~」構文と同じニュアンスであり、そこでは「むろん・確かに」の後は予想される疑問・反論として置かれているだけで、最初から否定するための当て馬だ。

 つまり③の扱いは軽い。①②こそ「その二つは結びつかない」と言明されるべき本命なのだ。


 これは細部のニュアンスを丁寧に汲み取った解釈だ。

 だがAを推す論拠にはさらに強力なものがある。

 「その二つは少しも実質的に結びつかない」の後、一文を挟んで「結局私が知っている場所は、いわば数多くの小さい円から成っていて、その間には何のつながりもない」と続く。

 間に入るのが「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできない」という一文であり、「感じられない」ことが、円同士の間が空白地帯になる理由を述べている。

 つまり「内と外」が「結びつかない」から、「結局」円同士が「つながらない」ということになる。

 この論理展開は緊密で、間然するところがない。


 ではB「外と外」を支持する論理とはどのようなものか?

 A「内と外」型の解釈は、この「二つ」を、物理的に分割された別の空間として捉えている。そしてその一方が「感性的になじみのある空間」、一方が「感性的になじみのない空間」だ。

 つまり分割された内と外はいずれも「感性的」な空間だ。内側だけが「感性的」なわけではない。外側を「なじみがない」と感じること自体が「感性的」な捉え方なのだ。

 一方、B「外と外」型の解釈では、「その二つ」とは、結論を言えば「感性的な空間」と「均質な空間」だ。

 ②の「わからない外」を「幻想的な空間」であるとする解釈が話し合いの中で語られているのを散見したが、これは全く文脈を捉え損ねている。「わからない」のは、私がそう感じているだけだ。つまり個人的な「感性」のみがそれを「わからない」と感じさせている。

 それに対して③「地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。」は地図の比喩で明らかなとおり、「均質な空間」としてそれが捉えられている。

 もちろん文脈上、「均質な空間」にはじめて論及されるのはここより三段落後の「だから~」の段落の、「ところで、第三の空間がある。それは~」である。したがって「その」という指示語で指し示される対象に「均質な空間」を想定するのは適切か、という疑問は可能だろう。

 だが、文章を書いている、またそれを読む読者の思考はそのような単純な線状性に限定される必要はない。柄谷の中には、「幻想的/感性的」という対立を提示した時点ですでに「均質な」という対立も想定されていると考えられる。ただそこに言及するには線状性による制約があるというだけだ。


 C「外と外」型の解釈は、物理的には同一の空間を、「感性的になじみのない空間」でもあると同時に「地図には載っていて、頭ではわかっている空間」=「均質な空間」とも捉えている様子が描写され、それらの捉え方が全く違ったものであることが述べられているのだ、というものだ。

 こうした、同一の対象が、捉え方によって違ったものとして感じられる例として、柄谷は後の段落で、「登山客が地元民にとってはタブーの地を平然と通過すること」という例を挙げている。「登山客」にとって「均質な空間」であるところの登山ルートを、「地元民」は「幻想的な空間」であるところの「タブーの地」と捉える。同一の対象を、両者は違ったものとして見ている。

 同一の対象であっても、捉え方の違う二つの空間は、それぞれの認識の中では別のものだ。それが自分という単一の主体の中で起こったとしても、やはりその認識像は「結びつかない=重なり合わない」。


 ①「なじんでいる」は感性的な捉え方で、③「わかる」は均質な捉え方だ、と整理してみれば、Cもまた「感性/均質」が「結びつかない」と言っているのだ、ということになり、これは文章の最終的な主張を先取りして述べていることになる。

 Aの解釈は前後の文脈の論理展開から最も整合性が高く、BCは文章全体の論旨に適合する、と言える。


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