2024年10月28日月曜日

舞姫 9 なぜ「そこ」にいたか

 4,5,6章と読み進めることで、登場時のエリスの置かれた状況について、ある程度推測することができた。

 だがまだこれで考察は終わりではない。

  • エリスはなぜその時そこで泣いていたか?

 この問いは二つの問いを含んでいる、と言うとみんなすばやく反応してくれて頼もしい。ちゃんと「山月記」のことを覚えている。

 何か?

  • エリスはなぜ泣いていたか?
  • なぜ「そこ」にいたのか?

 「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。そして推論の手間はかなり差がある。

 「なぜ泣いていたか」、すなわち「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの詳しさの「事情」で、「その時そこにいた」のはさらに細かい「状況」だ。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。

 だがそんなことが可能なのか?

 また、そんな考察が必要なのか?


 この考察は「こころ」における、上野公園の散歩の夜のエピソードの意味の考察に似ている。

 夜、眠っているとKが襖を開けて声をかけてくる。目覚めた「私」はぼんやりしたまま受け答えをするが、翌日になってなんだったのか気になる。

 この考察では、物語に書かれていない、その場面の前の時間に、語り手以外の登場人物が何をしていたか、という想像が必要だった。読者の目の前で展開するのは(つまり小説に書かれているのは)語り手がその場面に至った後からだ。だが他の登場人物たちは、その場面の前にも生きて、何事かをしていたかも知れない。もちろん虚構の造形物だから、書かれていない時間は存在していないかも知れない。が、作者がそれを考えている場合には、それも含んだ上で、読者は小説全体を解釈しなければならない。

 授業ではここから「遺書」にまつわる重要な解釈を導き出したのだが、そのことは、いくつものヒントを突き合わせて解釈することによって初めて読者に明らかになるのだった。

 つまり小説本文に書いていない事情や状況を推測する必要があるのは、小説中にそうした情報を作者が意図的に置いているとみなせる時であり、同時にそうした情報(もちろんそれと一般常識)からしか推測はできない。

 ではエリスはこの場面の前にどのような時間を過ごしていたのか?

 そのことは、文中のどこから読み取れるのか?


 この場面の解釈には、潜在的にいくつかの解釈の分岐の可能性があるが、注意深く議論をしないとその違いが曖昧なまま看過されてしまって、二人で勝手な想像を拡げていって、なんとなくお互いにわかった気になってしまっているかもしれない。


 例えば「そこ」とはどこか?

 端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」とある。書いてある通りに言えば。

 だが実はここにはもう一つの解釈の可能性が分岐している。

 この教会はどこにあるか?

 エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのだ。とすると、単に「そこ」は「家の前」なのだ。

 だがそのことは、次の章でエリスの家に送っていくことにならなければわからない。だから「そこ」について考えようとすると、なぜ教会の門の前にいたのか、と問題を設定してしまう。だが「なぜ教会の前にいたのか?」と考えることと「なぜ家の前にいたのか?」と考えることは違ったストーリー、違った状況設定へと解釈を導く。

 二つの可能性について検討しなければならない。


 さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?

 授業では、可能性のあるアイデアをいくつか提示した。

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 これらは必ずしも排他的ではない。aでもbでもありうる。だが、aであるがbではないような事情も想定できる(逆も)。

 これら諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。

 たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。

 さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。

 deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。


 二つの分岐する可能性は、組み合わせを考えつつ考察を進めたい。

 例えばbはさらに「教会に助けを求めた」のか「教会の前で誰かに助けを求めた」のかに分岐する。選択肢が5択である必要はない。扉が閉ざされていたことに意味を見出すならば、教会に「助けを求め」たのだと考えられる。助けを求めたが扉が閉まっていたからそこで泣いていたのだ。「誰かに」だとしても、それが「教会の前」であるか「家の前」であるかはどう考えるのが適切か、検討に値する。

 またdeは「家の前」だと言っていることになる。

 aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。


 最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけていたはずだ。

 だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていた。

 だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いている設定と、相手の語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。

 上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?


 ストーリーの想定は、その背後に、さらなる想定の相違の可能性を秘めている。

 たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か?

 これは必ずしも一致していないはずだ。

 さしあたって解釈の可能性は次の三つ。

 まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されているか不特定か、という可能性で二つに分岐する。

 これら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。

 世に出回っている「舞姫」解説書では、三つとも目にすることができる。

 たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。別の解説書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介する客を取るようにという要求。〉と解説している。あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある(ご丁寧に教会の前で客引きをするという文化があることが紹介されたりもする)。

 寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。

 これらはどれも両論併記ではなく、その一つのみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。

 自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。

 そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。

 ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。


 まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。




舞姫 8 エリスとの出会い

 「4章」で、ようやくヒロインたる「舞姫」=エリスが登場する。

 この、語り手=豊太郎とエリスの出会いの場面について考察する。

 掲げるのは次の問い。

  • エリスはなぜその時そこで泣いていたか?

 この場面でエリスの置かれた状況を的確に捉えることは、この後のエリスと豊太郎の関係を捉える上で重要であるばかりか、それ自体、考察することに手応えのある問題でもある。


 全体14章分割では、エリスとの出会いのシークエンスを4章5章と二つに分けている。両章の3文要約を続けて行い、いったん上記の問いについて考察する。

 二つの章からわかることもある。だがこの問いに答えるには、次の6章まで読み進めないと、推測するために十分な情報が得られない。

 国語の授業に求められているのは、結果的に文章の内容を理解することではなく、何事かを考察したり議論したりすること自体だ。重要なことはどのような手がかりを元に推論するか、だ。

 まず4章から、父親が死んだこと、エリスの家庭が貧しく葬儀さえ出せないでいることはただちにわかる。

 だがわからないこともある。「彼のごとく酷くはあらじ」というのが何のことかは、4章ではわからない。

 だがこれは5章でいくらかわかる。「彼」とは座頭のシャウムベルヒであり、経済的援助を申し込んだところ、弱みにつけ込んで「身勝手なる言ひ掛け」をしたとある。さらに4章の「彼のごとく酷くはあらじ。また我が母のごとく」「母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。」から、母が座頭と結託してエリスにそれを強いていることがわかる。「言い掛け」は「酷」いものなのだ。

 だがまだこれだけでは「酷い」「言い掛け」の中身がわからない。さらに4章のある言葉の意味もまだ、4,5章だけではわからない。

 「言い掛け」は、語註では「言いがかり」となっているが、現代語の「言いがかり」のニュアンスは誤解を生じさせそうなので「要求・提案」と訳しておく。


 さて、5章の「身勝手なる言い掛け」とともに4章でわからないまま保留になっているのは「恥なき人とならん」の中身だ。つまりシヤウムベルヒの「身勝手なる言い掛け」とは、エリスが「恥なき人とな」ってしまうような「酷い」ものなのだ。

 それが何かを推測するには6章の次の一節を待たねばならない。

6章

はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふ者はその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、賤しき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞ言ふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。

 ここではまず「賤しき限りなる業」の内容を推測しなければならない。が、それは難しくはない。

 つまり舞姫の収入はそれほど高いものではないから、その多くは身体を売って生活していたということなのだ。

 だがエリスは、父親に守られて、これまでそれをせずにいた。だがその父親が亡くなった。

 これでシヤウムベルヒの「言い掛け」が何のことかわかる。エリスに、お前も体を売れという要求・提案なのだ。それを受け入れることは「恥なき人とな」ることだ。

 さらに母親がシヤウムベルヒと結託し、嫌がる娘を殴る。酷い話だ。ヒロインはこのように追い詰められた状況で物語に登場する。

 このように、4章、5章と読みつつ問うが、結局6章まで読まないと十分な手がかりが揃わない。三つ全てを総合して初めてこのような推論が可能になる。重要なのは結論ではなく推論の過程だ。


 これで「なぜ泣いていたか」が一応は説明できた。

 だがこの問題はこれで終わりではない。


2024年10月20日日曜日

舞姫 7 執筆の契機

 冒頭の「石炭は積み終わった」が「日記を書きたい/書けない→書こう」に決着する論理を構築する。

 この経路は二つ想定できる。冒頭の一文は二重の意味で1章の決着に必然性を与えている。


 まずは演繹的に、つまり前方から論理を発展させてみる。

  • 船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった

 ↓

  • 出航間近

 「間近」とはいつのことか?

 ↓

  • 明朝

 なぜそう考えられるか?

 「今宵は夜ごとにここに集ひ来る骨牌仲間もホテルに宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。」とあるからだ。

 ここは少々の推察を必要とする。おそらく船の長旅では、寄港の最後の晩はみな陸(おか)で過ごすのが習いなのだ。だから船客だけでなく最小限の船員を除く乗員のほとんどが下船しているということなのだ。

 だから何だというのか?

 ↓

  • 今夜は一人きり

 それまではトランプ仲間が毎晩語り手を訪ねてくる。それが今晩はない。つまり燃料の積み込み終了は「舟に残れるは余一人のみ」であるという状況を必然的に作り出しているのだ。

 さらに、一人だから何だというのか?


 日記を書くことによって、深い「悔恨」を消したい。だが筆は進まない。そこに毎晩トランプ仲間が訪ねてくる。となれば、書けないことに対する言い訳ができてしまう。

 だが今晩のこの状況は、そうした言い訳を自らに許さない。

 書き出すしかない。


 さて、もう一方の経路を辿ってみよう。

 上記の通り、日記を書き出せずにいる。具体的には「買ひし冊子もまだ白紙のままなる」に、二十日あまりが経過している。

 とすると?


 場所と移動経路を確認する。

 この港はどこにあるか?

  • セイゴン

 どこの国か?

  • ベトナム

 脚註にある。では最初の出航地はどこか?

  • ブリンヂイシイ

 同じくこれはイタリアだと註にある。

 そもそもどこから旅立ったのか?

  • ドイツ

 陸路でスイス→イタリアに向かい、そこから船に乗ったと考えられる。

 ここまでにどれほどの日時がかかっているか?

  • 二十日あまり

 どこへ向かうのか?

  • 日本

 つまり、おそらくここが日本に向かう最後の寄港地なのだ。ヨーロッパ―アジアの位置からそう推測するのは自然だし、「五年前のことなりしが(略)このセイゴンの港まで来し頃は」が、日本を出て最初の寄港地がセイゴンだったような印象を与えることも、そうした解釈を支持する。

 この地理関係から何が言えるか?


 つまり、冊子を買ったものの書けないまま二十日以上が経って、今ベトナムにいて、ここを出ると日本まではそれほど猶予はないのである。

 この文章が、ある「恨み」(=悔恨)を消すために書かれるのだとすると、それは日本に着くまでに書かれなければならない。日本ではその「恨み」を飲み込んで新しい生活が始まるからだ。

 「明朝には出航する」という状況は、ためらったまま手をこまねいている語り手に焦燥感を与えて、書き出すよう促す。


 これで、冒頭にこの一文が置かれていることの必然性が納得できた。

 セイゴンの港で燃料の積み込みが終わった夜、という状況設定は、語り手が、書けずにいる手記を書き出すにあたって、書き出さねばならないという動機に切迫感を与え、かつ書くのに都合の良い状況を作ることで書き出すことに誘導している。

 そして語り手が書こうとしている手記とは何か?


 これはメタな問いで、勘の良い人が各クラスにいてくれて助かった。

 そう、この日記こそ、この「舞姫」という小説そのものだ。

 つまりこの冒頭の一文は、この小説がまさに存在を始めるための必然性を与える契機となっているのだ。


2024年10月18日金曜日

舞姫 6 最も重要な内容

 「舞姫」冒頭の一文が指し示しているのは、さしあたり船の燃料の積み込みが終わったということであり、それは「出航が近い」という事態を示している。

 ということは?

 一方、第1章で最終的に読者が把握しなければならない情報は何か、と考える。思考は方向を定めずに展開するばかりではなく、到達点を仮設してその間を架橋するように展開する。

 1章で読者が把握しなければならない最も重要な内容はなにか?


 だが「最も重要」という指定はあまりに曖昧だ。

 さしあたって、語り手がドイツ帰りの船の中にいることと、強い悔恨に悩まされていることは確かに「重要」だ。

 さらに今必要な「重要な内容」を確認するために、1章の段落構成に着目してみよう。

 1章は形式段落で3段落構成であり、その1.2段落は同じ文で終わっている。「そうではない、これには別に理由がある」だ。そして3段落にはそれらと違って、本当の「理由」が書かれている。これら、3段階で語られるのは何の「理由」であり、それは何だと言っているのか?


 日記が書けないでいる「理由」だ。それは心が動かなくなったから(第1段落)でもなく、自分の言うことが当てにならないから(第2段落)でもなく、悔恨が深いから、だ。

 「日記が書けない」ことが1章で読み取るべき最も重要な内容だとして、これを当然その前後に前提と決着を求める。「書く」を活用させてごらん、という言い方でピンときた人が各クラスにいた。

 「書けない」ことが問題になるからにはまず「書きたい」があるはずであり、第1章の終わりは「文に綴りてみん。」だ。つまり「書こう」で終わる。

 「書きたい」理由は何か?


 これは「書けない」理由と表裏一体だ。

 つまり語り手はある「恨み(悔恨)」を消そうとして文章を書こうとしており、かつその「恨み」の深さに筆が進まないのだ。

 そして1章の終わりでとうとう書き出すことを宣言する。

 このことと冒頭の一文の間は、どのように架橋されるか?


舞姫 5 諸説試行

 冒頭の一文の意味は、1章全体の意味から考えるべきであり、それは、ひいては作品全体にとっての1章の意味として考えるべきでもある。そこでまずは2~3章まで読み進めて、1章がどのような位置づけにあるかを把握する。


 こういった把握には広い文脈を捉える読解力が要求される。

 1章の終わりは「いで、その概略を文に綴りてみん。」だ。

 そして2章から始まるのがその「概略」なのだ。それがどこまで続くのかわからないが、ともかくも1章は2章以降に対して、これがある種の「手記(日記)」であることを宣言する、俯瞰する位置に語りの視座にあるといっていい。


 あるいは時間軸で語ってもいい。

 1章はこの手記を語っているいわば「現在」だ。

 試みに、1章は何歳? と訊いてみた。必要な情報を文中から探して数える。「こころ」の、曜日を特定した考察に似ている。

 27歳と推論できれば正解。

 2章で、19歳で大学を卒業して勤め始め、3年経ったとある。22歳だ。そこでドイツ留学を命ぜられる。

 1章で、5年前に日本を発ったとあるから、現在が27歳なのだ(実際の鷗外は26歳で帰国しているが)。

 3章の冒頭にそれから3年と書いてあるから、25歳になっている。差し引き2年前のことだとわかる。その延長で予想すれば、最後まで語られたところで「現在」にたどり着き、その後が1章になるのだ。つまりこの後3章から最後までがその2年間のことが書かれるのだろう。


 さて、1章がそのような位置にある部分であることを把握して、その冒頭におかれた一文の意味を改めて考えてみる。

 研究書や解説書を見ると、この一文について従来語られてきたのは次のような説だ。

  • 船室から船内の様子を描写する聴覚的な表現である。
  • 文末の「積み果てつ」の完了が、この先に語られるエリス=「舞姫」との物語が全て終わってしまった過去として語られることを象徴している。

 これらの解説を読んで授業者が思うのは「ふーん」だ。否定するものでもないが、恣意的な解釈だとも思う。だからこうした解釈を自分で思いつくことには価値があるが、みんなでこれを目指して考察することはできない。

 1は、語り手が自分の船室に閉じこもっているという解釈を採ったときのみ意味をもつ。騒がしかった積み込み作業の音が止んだことで、「積み果て」たことを知ったというのだ。

 だが語り手が手記を書き出す前に船内を歩き回って作業の終了を「視た」のではない、となぜ言えるのか。

 もちろん、船室に閉じこもっているのだと解釈する方が、この時の語り手の心情にふさわしいという「解釈」はそれなりに説得力がある。だがそれが、書き始める時点までのどれくらいからの時間を意味しているかは明らかではない。トランプ仲間は毎晩語り手の元を訪れている。

 2は、まず冒頭を読む読者にはわかりようのないことだ。既に「舞姫」全文を読み、振り返って冒頭の一文を目にしたときにそのような感慨を抱くのは読者の自由だ。だがそれが、この一文がここに置かれるべき理由を示しているわけではない。文末の完了形が問題なら「夕餉を食べ終えつ」でもいいのか? 

 「石炭を積み終える」ことが、なぜ示される必要があるのかという疑問はまだ解かれていない。

 

 では冒頭の一文は何を意味しているか?

 さしあたり、出航が近いということだ、と言ってみる。

 ここから「意味」らしきものを説明することはできる。つまり船の出航が物語の始まりを象徴しているのだ。

 これで十分ではないのか?


 だが「船は港を出て、海原に乗り出した」くらいならそれも言えるかもしれないが、まだ燃料の積み込みが終わったところだ。「出航が近い」というのはちょっと大雑把な言い方だ。さらに精確に言わなければ、第1章全体との関係は捉えられない。


2024年10月12日土曜日

舞姫 4 石炭を積み終える

 「舞姫」冒頭の一文「石炭をばはや積み果てつ。」の意味を考える。それが指し示す事態と、この情報が冒頭におかれて果たす機能について考察する。


 複数人で検討すると、まずは「何のことか」についての了解がされるはず。本当はその妥当性は「なぜ」まで結びついて初めて納得されるのだが、そこまで一息に届く前に、とりあえず「何のことか」についての見当がつく。「石炭ストーブ」よりも可能性のありそうな解釈が。

 さて、何のことか?


 いくつかのクラスでこの段階で「船に乗っているということ」「船が出発するということ」という答が発せられるのでとまどった。そのたび、単に書いてあることから跳ばないで、間を埋めてくれ、と要求した。

 書いてあるのは「石炭は積み終えた」だ。これと「船が出発する」のつながりを明示する。

 すなわち「石炭」とは、蒸気船の燃料のことなのだ。部屋の石炭ストーブの燃料ではなく。その積み込みが終わったということは、船が出航する準備ができたということだ。

 話し合いの過程では「そういうことなの?」などという声があちこちで聞こえるから、授業者同様、全員が直ちにそうした解釈にたどり着いているわけではない。確かに情報としてはこの一文では不充分だから、推測によって補う必要がある。


 「石炭をば」の「をば」は、対象を示す格助詞「」と題目を示す係助詞「」が付いたものだ。

 これを単に「石炭」だと考えると、誰が? ということになるから主語が省略されていることになり、その主語に語り手を補ってしまう誤解も生じる余地がある。

 実際に、石炭が蒸気船の燃料のことだと解釈した上で、語り手がそれをしたのだと考える者はいる。それらしい誤解の声が聞こえてくるのは、省略された主語が語り手であると想定する、という基本作法を守ったのは授業者だけではないということなのだろう。

 だが語り手の「余(=私)」=豊太郎は一乗客だから、作業自体は船員と港湾作業員がやったのだと考えていい。

 「をば」は強調だから、「石炭をば積み果てつ」は「石炭積み終えた」であるとともに「石炭積み終わった」というニュアンスでもある。「は」は主語を表す単なる格助詞ではなく、題目語を提示する係助詞だ。「をば」を「は」と考えれば必ずしも主語を欠いているとも言えない。「石炭もう積み終わった。」のだ。

 同時に、「船」という主語(題目語)が隠れているとも言える。つまり「船石炭もう積み終えたところだ」という意味で考えてもいい。二文目も「中等室の卓のほとり」「熾熱灯の光の晴れがましき」と、実は主語が語り手ではない。


 さて、多くの者が正解にたどり着くのは、わざわざこの文の意味を考察させたからであるとも言える。そこに「意味」を見出そうとする思考が、文脈を意識させる。そしてそれによっておそらく上の答えが、さらに「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか。」という問いの答えにつながりそうだという予想を感じているからだろう(と、自分では自然には辿り着かなかった授業者は負け惜しみで言う)。

 だが予感された論理を実際にたどるのは、それほど易しくはない。

 もう一つの問い、なぜ冒頭にこの一文が置かれているか? にはどう答えたらいいか。「船の燃料となる石炭の積み込み作業が終わった」から何だと言うのか?


舞姫 3 冒頭の一文

 さて、読み進めながら、そこまでの時点で考察すべき問題について、随時考察をしていく。

 その最初の問題は、「石炭をばはや積み果てつ。」という冒頭の一文だ。

  • この冒頭の一文は何のことを言っているか?
  • なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?


 実はこの問いは、もともと生徒から質問されたものだ。問われて初めてこの一文が何を意味しているかについて、自分がまるで考えていなかったことに気づいた。それまでに何度も「舞姫」を読んだことがあったばかりでなく、複数学年で授業をしたことさえあったのに、である。

 といって、まったく意味がわからないと感じるのであればそれはそれで注意を引くから、授業者とてそれなりの「意味」を受け取っていたには違いない。つまりわかっている「つもり」だったのだ。

 冒頭の一文、口語訳は「石炭はもう積み終えた。」くらいにしておく。文末の「た」は過去ではなく完了。

 これがどのような事態を示しているか?


 授業者はこの一文から、船室に石炭ストーブがあって、燃料として各室に割り当てられている石炭をすべてストーブに入れてしまったというような状況をイメージしていた。もちろん「積む」という動詞が「ストーブに入れる」というような意味に解釈できるかどうかは曖昧にしたまま、その解釈を放置していたのだ。

 今となっては馬鹿馬鹿しいこうした解釈をなぜしてしまったのかについては自分なりに分析できる(言い訳だ)。

 2点。

  1. 冒頭の一文で述語となる「積み果てつ」の「積む」という行為の主語が省略されている。無意識にそれを「私」=語り手だと想定してしまった。
  2. 冒頭の一文に続くのは「中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり。」という船室の描写。だから「石炭を積み終えた」も、船室の状況を示す何事かであろうと考えた。

 石炭ストーブの燃料をすべてくべてしまったから何だというのか?

 それはつまり、やがてそれが燃え尽きた後の寒さが予感されている、ということなのだろう、というのが漠然とした理解だった。

 だが生徒の問いを前にしてあらためて考えたときに、そうではない、と気づくのは、それでは「意味」が充分にはわからないことが自覚されるからだ。

 解釈とは基本的に文脈において生ずる。

 この「意味」とは、もっと広い「文脈」におけるそれだ。

 問いの「何のことか」と「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」は、この「文脈の中で生ずる意味」についての考察を要求している。「何のことか」についての仮説は「なぜ冒頭にこの一文が置かれているか」まで結びついたときに納得に変わる。「船室の石炭ストーブ」解釈は、その文脈を見出せないことによって挫折する。

 そこで次の二つの問いが必要となる。

  • この冒頭の一文は何のことを言っているか?
  • なぜ冒頭にこの一文が置かれているか?


舞姫 2 要約する

 本文を2頁ほどで区切って章立てし、各章を3文で要約しながら読み進める。

 これはつまり、その2頁ほどの内容から、重要と思われるトピックを三つ選べ、という課題だ。

 小説には様々な要素が混在している。

  1. 状況・事情
  2. 行動・行為
  3. 心理・思考

 実際にはこの三つは絡み合っていて分離できないこともある。ある場面には、登場人物が、ある「思考」をしながら「行動」しているという「状況」が描かれている。

 ともあれそのうちで重要な要素、三つを選んで文にする。

 むろん「三つ」という限定は少ない。だが、とにかく、優先順位の高いトピックを三つ選ぶ。その優先順位を勘案しようとすることが、その該当部分の全体を捉えようという思考になる。だから要約文としての完成度は必ずしも高くなくて良い。言い足りないままでも良い。要約しよう(トピックを選ぼう)という思考に意味がある。


 とはいえ、書き出した3文で、その章の展開が辿れているかどうかをちゃんと自分で自覚しよう。

 しばしば見られるのは、適当に本文の一部をそのまま切り出してしまう、というケースだ。その表現、その文言のままでは3文の繋がりがたどりにくいし、情報量が少なすぎて、3片では章全体の流れを把握することができない、といったような。

 段落、くらいの塊で文章の内容をつかまえて、自分で作文しよう(ちなみに、一橋の要約問題も、基本はこのようにトピックを1文ずつ3~4文で立て、その間を滑らかにつなぐことで200字に収めるように書き下ろす)。


 最も難しいのは最初の章だ。三つのトピックとして何を選ぶかという以前に、まず内容の把握が難しい。物語が動き始めてしまえばずっと楽になるのだが、最初はまず物語の世界設定の把握に難渋する。

 冒頭の2頁、授業での通称1章でいうと、次のような要約はおおよそ上の3領域に対応している。

  1. 私はドイツから日本に向かっている船中にいる。
  2. 日記を書こうとしている。
  3. ある「恨み(悔恨)」に苦しめられている。

 要約に正解はないから、これ以外の内容を含む3文になってもいい。あるいは一文に盛り込む内容が変わることもある。

  1. 私はドイツから日本に向かっている船中でこれ(日記)を書いている。
  2. ある「恨み(悔恨)」のためになかなか書き始められないでいる。
  3. だがその悔恨を消すことこそ執筆の動機である。

 この章の要約は難しい。上のような要約をすらすらと思いつくのは相当な国語力の持ち主だ。


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