4,5,6章と読み進めることで、登場時のエリスの置かれた状況について、ある程度推測することができた。
だがまだこれで考察は終わりではない。
- エリスはなぜその時そこで泣いていたか?
この問いは二つの問いを含んでいる、と言うとみんなすばやく反応してくれて頼もしい。ちゃんと「山月記」のことを覚えている。
何か?
- エリスはなぜ泣いていたか?
- なぜ「そこ」にいたのか?
「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。そして推論の手間はかなり差がある。
「なぜ泣いていたか」、すなわち「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの詳しさの「事情」で、「その時そこにいた」のはさらに細かい「状況」だ。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。
だがそんなことが可能なのか?
また、そんな考察が必要なのか?
この考察は「こころ」における、上野公園の散歩の夜のエピソードの意味の考察に似ている。
夜、眠っているとKが襖を開けて声をかけてくる。目覚めた「私」はぼんやりしたまま受け答えをするが、翌日になってなんだったのか気になる。
この考察では、物語に書かれていない、その場面の前の時間に、語り手以外の登場人物が何をしていたか、という想像が必要だった。読者の目の前で展開するのは(つまり小説に書かれているのは)語り手がその場面に至った後からだ。だが他の登場人物たちは、その場面の前にも生きて、何事かをしていたかも知れない。もちろん虚構の造形物だから、書かれていない時間は存在していないかも知れない。が、作者がそれを考えている場合には、それも含んだ上で、読者は小説全体を解釈しなければならない。
授業ではここから「遺書」にまつわる重要な解釈を導き出したのだが、そのことは、いくつものヒントを突き合わせて解釈することによって初めて読者に明らかになるのだった。
つまり小説本文に書いていない事情や状況を推測する必要があるのは、小説中にそうした情報を作者が意図的に置いているとみなせる時であり、同時にそうした情報(もちろんそれと一般常識)からしか推測はできない。
ではエリスはこの場面の前にどのような時間を過ごしていたのか?
そのことは、文中のどこから読み取れるのか?
この場面の解釈には、潜在的にいくつかの解釈の分岐の可能性があるが、注意深く議論をしないとその違いが曖昧なまま看過されてしまって、二人で勝手な想像を拡げていって、なんとなくお互いにわかった気になってしまっているかもしれない。
例えば「そこ」とはどこか?
端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」とある。書いてある通りに言えば。
だが実はここにはもう一つの解釈の可能性が分岐している。
この教会はどこにあるか?
エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのだ。とすると、単に「そこ」は「家の前」なのだ。
だがそのことは、次の章でエリスの家に送っていくことにならなければわからない。だから「そこ」について考えようとすると、なぜ教会の門の前にいたのか、と問題を設定してしまう。だが「なぜ教会の前にいたのか?」と考えることと「なぜ家の前にいたのか?」と考えることは違ったストーリー、違った状況設定へと解釈を導く。
二つの可能性について検討しなければならない。
さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?
授業では、可能性のあるアイデアをいくつか提示した。
a.母親から逃げ出してきて
b.助けを求めて
c.身を売る相手を探して
d.どこかに行く途中で
e.どこかから帰ってきて
これらは必ずしも排他的ではない。aでもbでもありうる。だが、aであるがbではないような事情も想定できる(逆も)。
これら諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。
たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。
さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。
deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。
二つの分岐する可能性は、組み合わせを考えつつ考察を進めたい。
例えばbはさらに「教会に助けを求めた」のか「教会の前で誰かに助けを求めた」のかに分岐する。選択肢が5択である必要はない。扉が閉ざされていたことに意味を見出すならば、教会に「助けを求め」たのだと考えられる。助けを求めたが扉が閉まっていたからそこで泣いていたのだ。「誰かに」だとしても、それが「教会の前」であるか「家の前」であるかはどう考えるのが適切か、検討に値する。
またdeは「家の前」だと言っていることになる。
aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。
最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけていたはずだ。
だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていた。
だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いている設定と、相手の語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。
上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?
ストーリーの想定は、その背後に、さらなる想定の相違の可能性を秘めている。
たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か?
これは必ずしも一致していないはずだ。
さしあたって解釈の可能性は次の三つ。
まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されているか不特定か、という可能性で二つに分岐する。
これら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。
世に出回っている「舞姫」解説書では、三つとも目にすることができる。
たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。別の解説書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介する客を取るようにという要求。〉と解説している。あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある(ご丁寧に教会の前で客引きをするという文化があることが紹介されたりもする)。
寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。
これらはどれも両論併記ではなく、その一つのみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。
自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。
そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。
ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。
まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。