2024年5月14日火曜日

場所と経験 4 「その二つ」問題編

  さて、「場所と経験」には、「部分」の解釈に面白い箇所がある。三段落の中頃の次の一節。

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。それより先はよくわからないのだ。むろん地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

 この中の「その二つ」とは何と何を指しているか?


 こういう時には頭の中で考えるだけでなく、必ず答を書かなければならない。

 そうしてつきあわせてみると、周囲の人の答は一致していないはずだ。 

 単純な指示内容を問うているだけなのに、ここは複数の解釈ができるのだ。

 だが曖昧に考えたまま話し合いに入って主張の強い人の意見を聞くと、最初からそう考えていたかのように記憶を修正してしまうことが起こるかもしれないのだ。

 皆はそれぞれ、どう答えをまとめただろうか?


 黒板に円を描く。「住んだ家の周囲数百メートル」の円だ。

 「その二つ」とは、円の「内と外」か? 「外と外」か?


 全クラスを通してみると、この二つの解釈を支持する人は、ほとんど半々だ。「いずれでもない」という人もいるだろうか?


 こういうわかりやすい対立点があると授業が盛り上がって面白い。

 解釈の妥当性の根拠を巡って議論を繰り広げてほしいのだが、その前に、まずはそれぞれ、互いの解釈がそれなりに成立することを納得してほしい。

 そして振り返ってほしい。自分が考えたどちらかの解釈は、そうでない解釈との比較検討の上で選んだものではないはずだ。それぞれ自然に、ある一つの解釈が脳内に成立して、それで納得していたのだ。

 我々は通常、他者の存在がなければ、それとは違った解釈が可能であることなど想像しない。

 授業者もまた、かつて授業でこの問いを発したときには、ある解釈をしていて、そうでない解釈をする生徒の答えを最初は一蹴していたのだ。ところがそうした答えが別のクラスでも相次いで提出されることで改めて考えてみて、初めてその解釈もにわかには否定できないことに気付いたのだった。

 授業という場でなければ、こうしたことが起こっていることに気づくことはなかった。

 他人と互いの考えを交換することで初めてこうした解釈の違いが表面化したのだ。


 文脈の中で「その二つ」と指示される対象は、「内と外」「外と外」どちらの解釈の可能性も排除できない。自分はなぜ「自然と」そのどちらかの解釈をして、なんら違和感を感ずることもなかったのか? 相手はなぜ違った解釈にたどりついたのか? 自分の解釈の妥当性を主張し、それ以外の解釈にはどんな不整合があるのかを、相手にどう説得したらいいのか?


 議論を進めると問題点がわかってくる。

 問題の一節

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も①住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。②それより先はよくわからないのだ。むろん③地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

において、「その」といって指し示せる候補が文脈上、下線を付した①②③の三箇所ある。それより遠くなってしまうと「その」という指示が曖昧になってしまう。だからちょっと遠い「幻想的」と「感性的」といった目立つ対比を指していると考えることはできない。

 ①②を指しているのだと捉え、③をいわば括弧に括っておくのが「内と外」という解釈だ。一方「その」に近い②③を指していると捉えるのが「外と外」という解釈だ。

 どちらの解釈も、文脈上は成立する。


 それぞれの指示内容に応じて「実質的に結びつかない」のニュアンスが変わる。

「内と外」では「繋がらない・連続しない」といったニュアンス。

「外と外」では「重ならない・一致しない」といったニュアンス。

 後に続く文脈はどうなっているか?

 続く「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである」は②が「よくわからない」と言っていることを受けた説明だ。したがって①②の組合わせでも②③の組合わせでも、後に続く文脈は成立する。


 これ以外にも考えられないわけではない。指示していると見なせる候補が三つあるのだから、組合わせは3通りだ。

 残る組合わせは①③だ。つまり①「なじんでいる円の内側」と③「地図でわかっている円の外側」が「結びつかない」というのだ。

 ①③の組合わせでは「歩いたことがなければ」③の「わかる」が①の「なじんでいる」にはならない、と言っていることになる。

「内と外」

 すると「結びつかない」は、③が①に転換しない、とでもいったニュアンスか。


 ABC、それぞれに可能な解釈ではある。

 果たしてどう考えるのが妥当なのか? 柄谷行人は何と何を指して「その二つ」が「結びつかない」と言っているのか?


 かつてこの文章を収録していた二社の教科書の解説書は、それぞれ次のように説明している。

  1. 住んだ家の周囲数百メートル以内の感性的になじみがある場所と、それより先の地図では理解できるが、よくわからない場所。
  2. 家の周囲数百メートルから先の「感性的」に「よくわからない」空間と、地図上で理解した知識(地図を見て頭で理解している地理)。

 1は「内と外」、2は「外と外」だ。


 なんと、それなりに文章が読めるはずの人たちが、違った説明をしているのだ。

 こういうことは、大学入試の選択問題でさえ起こる。出版社・予備校によって、提示される正解が分かれる。


 さて、どう考えたらいいか?


場所と経験3 -「幻想的」とは何か

 三項対立となる対比図を画いた。

 これで文中の論理構造は一望できたが、だからといってこの文章の主旨が「わかる」というためには、もう一歩踏み込んだ考察が必要だ。

 この文章のわかりにくさは、まず対比のラベルとした「感性/幻想/均質」がどのような対立要素を持っているかが、語義的にはまるでわからないことによる。

 例えば「生きた他者」と「理念」、「見たものだけを見たということ」と「意味づけ」を並べて、その対立要素を考えようとしても、なんだか捉えどころがない。だからこそ、そもそも文中から抽出することが難しかったのだ。

 対比する項目同士は、必ず対比を可能にしている共通の土俵と、対比軸を構成する対立要素(「差異」といってもいい)をもっている。


 例えば「感性」の「実質的」「リアリティ・切実感」と「均質」の「擬似的」「抽象的」と並べれば、「感性」と「均質」の対立要素は明らかに感じ取れる。これは語義的な対立がわかりやすい。

 また「幻想的」は、「感性的」の属性である「実質的」の対比で、「実質的ではない・実体がない」などということだと捉えればいいように思える。

 では「実質的/擬似的」と「実質的/幻想的」という対比はどのように違うか?


 「幻想的」と「擬似的」という言葉のもつ対立要素はわからない。

 この文章での最終的な議論は「感性的/均質な」の対立軸を巡って展開されるので「幻想的」にそれほど踏み込む必要はないのだが、実は高校生にとって最も厄介なのは「幻想的」の概念の理解のはずだ。

 「幻想的」とはどういうことか?


 「幻想」という言葉はわかる。耳慣れない言葉ではなく、難解でもない。

 だがさらに、「均質」の「擬似的」とも対立要素をもつ領域として「幻想的」を捉えるには、単に「幻想」という語義からの解釈では不十分なのだ。

 実はここにはある「常識」の決定的な欠落がある。そればいわば時代的なものだ。この文章が書かれた時には、読者にとって常識であり、それがいまや「知る人ぞ知る」になってしまったのだ。

 それが「幻想的」という言葉の意味を高校生が捉え損ねる重要な原因だ。


 「場所と経験」が雑誌に掲載された昭和47(1972)年の読者にとって「幻想」という言葉は、「共同の幻覚」の柳田国男などよりよほど自明なものとして、「共同幻想」という言葉を想起させたはずだ。それは完全に当時の言論界にとっての「常識」だった。

 「共同幻想」は1968年に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』の流行に伴って人口に膾炙した言葉だった。当時の言論人も大学生も、当たり前のように「それって『共同幻想』だからさあ」などと言っていたのだ(たぶん。80年代に青春を送った授業者には実体験ではないが、当時の文章にはまだ頻出していた)。

 つまり「幻想的」という概念の理解にとって重要なのは、「幻想」という語の含意する「実際には存在しない」などという意味合いとともに、それが共同体の成員に共有されたものである、という点だ。「幻想的」とは、実体はないが皆が信じている、という意味なのだ。

 とすると「幻想的/感性的」の対比を成立させる対立要素は何か?

 「幻想的」が「共同体の成員に共有されたものだ」という意味だとすると、対比軸を挟んで、「感性的」にどういう意味を見出すべきか?


 勘の良い人はすぐにピンとくる。「個人的な」という意味だ。

 ではそうした対立要素に、「均質な」の対比項目から何を置くべきか?


 「幻想」の「共同体・国家」という例から連想されるのは「国際的」だ。

 だがこの「国際的」も、何やら含みのある言葉らしいという感触を察知すべきだ。

 それに続く文脈から判断するとこの「国際的」は否定的なニュアンスを担っているらしいのだ。

 結局、「幻想的/感性的/均質な」という対比は






 という対立要素としてだけでなく、






とでも表現すべき対立としても捉える必要があるということになる。


 捉えにくい(しかも捉え損ねていることが意識されにくい)「幻想的」という語の意味合いを考察することで、三項がどのような対立要素を含んだ対比なのかが明らかになってきた。

 この「幻想的」という概念は先述の通り「場所と経験」の主旨からすると比較的重要ではないのだが、「社会と個人」をテーマとする文章などと読み比べるときなどにはきわめて重要な概念だ。

 例えばもしかしたら公共の授業でも紹介される「想像の共同体」などという概念にも通ずるものとして、「幻想的」の意味合いも捉えておきたい。


場所と経験2 -対比図

 対比として挙げるべき語句は、文中の重要と思われる語句、いわゆるキーワードとは限らない。ここを誤解してはいけない。

 例えば「人間」や「経験」などの語句が気になる。これらはいずれもこの文章を語る上で最重要のキーワードだが、そのままただちにどこかの領域に配置されるわけではない。これらは決定的に重要なキーワードである「場所=空間」が「幻想的」「感性的」「均質な」それぞれの形容を冠してどの分野にも属してしまうのと同じように、それ自体はニュートラルな語だといっていい。

 すなわち「人間」に対して「感性的」に直面することもできる一方で「均質な」空間にいるものとして捉えることもできるし、「感性的な空間」における「経験」もあるし、「幻想的な空間」における「経験」もあるのだ。それぞれの例を文中から指摘することが可能だ。


 あるいは「知識」も目を引く。

 だがこれも「真に『知識』を持つこと」という形で「感性的」に配置できるものの、それは「擬似的な『知識』=もっともらしさ」との対比において初めて意味をもつものであるに過ぎない。つまり「知識」そのものをとりあげるよりも、それを「真」たらしめる条件の方が重要なのだ。

 ここでも、対比的なのは名詞ではなく「真の/もっともらしい」という形容だ。


 これは「無常ということ」の「歴史」も同じだ。歴史はその捉え方で様相を変えるから、対比的なのは歴史の方ではなく向き合い方のなのだ。

 ただ、その主張を述べることで、筆者は「歴史」や「知識」を対比のどちら側にあるものと見做しているのだ、と言うことは可能ではある。


 さて、文中にマークした語句を、Y字で区切られた領域にそれぞれ配置していく。これができれば、この文章の全体の構造が一望できる。









 さて、上記「人間」「経験」「知識」が文中に登場するのは終わりの三段落だ。この部分の読解は、前半ほど容易ではない。

 まず、この三段落が同じ論理展開の反復になっていることに気づくだろうか?

 こうした把握には、段落を一掴みにする感覚が必要だ。一掴みにした感触が、次の段落、その次の段落とよく似ている。

 これができたら、三つの段落が相互に参照可能になる。

 「我々は多くのことを知らされ~」の段落では「均質」と「感性」の対比であることが見て取れる。とりあえずそのままその二つの語が文中に登場しているからだ。

 この対比を「私は『人間』について~」の段落にあてはめると、「理念」が「均質」に、「生きた他者」が「感性」に属することで対比を成すことになる。

 こうした読解は、前の段落の「均質/感性」という対比が明確に意識されていないと難しい。「生きた他者」も「理念」も、この言葉自体の意味合いが「均質」や「感性」といった言葉と結びつく妥当性はない。文脈の対比構造から「生きた他者」と「理念」がそれぞれ「感性」と「均質」に配置されることがわかるのだ。

 同じように「我々は日々多くのことを経験しているが~」の段落では「意味づけ」が「均質」に、「視たものだけを視たということ」が「感性」に属する。これも、三つの段落の論理展開が同じであると見なすからこそ可能な読解だ。


2024年5月9日木曜日

場所と経験1 -対比構造

 「無常ということ」はまだまるきり霧の中にあるが、これを脱するにはスキーマが必要となる。そしてスキーマは基本的に外側にある。

 それこそが次に読む、柄谷行人の「場所と経験」だ。


 戦前戦後を通じて小林秀雄が思想界に対して強い影響力をもっていたように、1980年代における柄谷行人はカリスマだった。後に東大総長となる蓮実重彦とともに、何か「別格」的な扱いだった。

 蓮実重彦の名を覚えているだろうか?

 昨年度、最初に読んだ「思考の誕生」の筆者だ。これでカリスマ3人の文章を読むことになる(もう一人のカリスマは60~70年代の吉本隆明で、彼についてもこの後で触れる機会がある)。


 柄谷の文章は、文章の外部に対する参照事項が多く、同時に小林秀雄の文章に通ずるわからなさがあって、高校の教科書には載りにくいし、大学入試にも出題されにくい。正解・不正解が言えないからだ。ただ、全体として「何だかこの人はすごいことを言っている」感と時々「わかった」と思えたときの達成感がカリスマ性の源泉だった。

 「場所と経験」は文章の外部に対する参照事項が比較的少なく、短く完結した、高校生にも読めなくはない、と感じられる文章であり、柄谷にしては数少ない、教科書に収録された文章だ。

 だが同時に、議論が抽象的に過ぎて結局のところ何が言いたいのかはわかりにくい文章でもある。

 この言い方は正確ではない。「わかりにくい」と感じていたわけではない。ただ、振り返れば「それがどうした」という感じでもあったのだ。「わかった」という感じがおとずれた後になってみると。

 その感じは、「無常ということ」が「わかった」と感じたのと同時だった。

 つまり二つの文章は、互いに相手を、それぞれを理解させるための「枠組み」=スキーマだったのだ。

 それは同時にまた、よりも大きな「枠組み」として、それ以外の文章を理解することに有効な「枠組み」でもある。


 「場所と経験」をスキーマとして使うと言っても、やはりまず構造化が必要だ。スキーマ=枠組みとはそもそも構造のことだ。骨組みを捉えておくことで、スキーマとして有効に働く。


 論の構造を掴むためには対比をとるのが定番の戦略。

 いつものように、対比を構成する「具体例・比喩」「形容」「抽象語・概念語」をマークしていく。いくつか文中に挙がったら「ラベル」としてどの言葉がいいかを共有する。

 この「ラベル」をどうするのかがいささか問題ではあった。

 「無常ということ」が読みにくいのは対比構造が見えにくいことが大きな原因だ。対比要素が対比であることが明白であるように並べられていないし、そもそも考えるための手がかりとしてのラベルが決まらない。

 「『である』ことと『する』こと」ではこれは明白だった。「である/する」がラベルとして使えることは題名から容易につかめる。

 だからといって「場所と経験」は「場所/経験」が対比なわけではない。対比的な要素を挙げる中でそれにふさわしい言葉かフレーズを選ぶのだ。

 さて?


 各クラスで全班に聞いてみたところ、適切なラベルを選べている班は、意外なほど少なかった。読む前からわかっているとは言わないまでも、読んでみれば対比は明白だと思えるのだが。

 文中に明示されている。まず「幻想的な空間/感性的な空間」が対比され、続いて「均質な空間」が「第三の」として対比される。

 つまり、この文章は珍しい三項対立になっているのだ。

 対比は二項対立だという思い込みが適切な語を選ぶことを妨げているのだろうか。








 いつもの直線一本で対比軸を書くのではなく、Y字に三つの領域を区切って、そこに文中の語を配置していく。

 挙げるべき語句は、文中の重要と思われる語句、いわゆるキーワードとは限らない。ここを誤解してはいけない。

 例えば「人間」や「経験」などの語句が気になる。これらはいずれもこの文章を語る上で最重要のキーワードだが、そのままただちにどこかの領域に配置されるわけではない。これらは決定的に重要なキーワードである「場所=空間」が「幻想的」「感性的」「均質な」それぞれの形容を冠してどの分野にも属してしまうのと同じように、それ自体はニュートラルな語だといっていい。

 すなわち「人間」に対して「感性的」に直面することもできる一方で「均質な」空間にいるものとして捉えることもできるし、「感性的な空間」における「経験」もあるし、「幻想的な空間」における「経験」もあるのだ。それぞれの例を文中から指摘することが可能だ。


 あるいは「知識」も目を引く。

 だがこれも「真に『知識』を持つこと」という形で「感性的」に配置できるものの、それは「擬似的な『知識』=もっともらしさ」との対比において初めて意味をもつものであるに過ぎない。つまり「知識」そのものをとりあげるよりも、それを「真」たらしめる条件の方が重要なのだ。

 ここでも、対比的なのは名詞ではなく「真の/もっともらしい」という形容だ。

 これは「無常ということ」の「歴史」も同じだ。歴史はその捉え方で様相を変えるから、対比的なのは歴史の方ではなく向き合い方なのだ。

 ただ、その主張を述べることで、筆者は「歴史」や「知識」を対比のどちら側にあるものと見做しているのだ、と言うことは可能ではある。


2024年5月8日水曜日

無常ということ 4-対比

 「美学には行き着かない」と決着する第三段落の解釈の結論はまだ出さない。「部分」の解釈は「全体」の解釈と相補的だ。「無常ということ」全体の解釈へ歩を進めよう。


 「無常ということ」はそこらじゅうが「わからない」文章だ。それをいささかなりと「わかる」に変えるためには外部的な「枠組み・型」=スキーマへのあてはめが必要だ。

 だがまずは文章内の論理の整理整頓をしておく。そのために有効な手段は、言うまでもなく「対比」をとることだ。

 といって、いわゆる「論文」の体をなしていないこうした随筆から、明確な対比構造を抽出するのは容易ではない。その困難は「『である』ことと『する』こと」の比ではない。

 これは、この文章が、文中に明示されている対比をラベルとして設定し、そこにそれ以外の要素をはめこんでいく、というような手順はとれないからだ。

 それでも、人間の思考が何事かの輪郭をそれ以外のものとの差異線に沿って描くことでしか成立しない以上、明示的であれ暗示的であれ、対比構造のない思考はない。

 ここでも粘り強く、文中の対比を捉えてみよう。


 文中の対比は、語義的な解釈で対比であることが判断できることもある。

 例えば「生きている人間/死んだ人間」は明らかに対比的だ。

 また「無常/常なるもの」も語義的な対立から対比として抽出できる。

 それだけではなく、文脈の論理から、対比項目であることを判断できる(しなければならない)こともある。

 例えば「一種の動物」は「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」という一節からすると、上の対比の右辺に配置される。

 一方、「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間のおかれる一種の動物的状態である。」という一節からすると、「動物」側に「無常」がこなければならない。

 したがって、何気なく挙げた上記二つの対比は、次のように整列されなければならない。

生きている人間/死んだ人間

  一種の動物/

     無常/常なるもの


 ここにはさらにいくつかの対照的な形容が付されている。

       /動じない・動かしがたい

     脆弱/はっきりしっかり

 しかたがない/のっぴきならぬ

鑑賞に堪えない/美しい

 これらの形容は、はっきりと筆者の姿勢・評価を示している。この文章の主張を探る上で重要な形容だ。


 さて授業では、対比を抽出するにあたって、二つの系列の対比がある、と言った。この二つの系列はもちろん関連しているが、最初から同じ対比軸上に並べていいわけでもない。

 比較的皆が見つけるもう一つの系列の対比として、挙がりやすかったのは次の組合わせだ。

思想/歴史

解釈/歴史

 これらは次の一節からの抽出だ。

そういう思想は、一見魅力あるさまざまな手管めいたものを備えて、ぼくを襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かしがたい形と映ってくるばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない

 「歴史」がこのように対比的に読めるのはわからないでもない。

 だが「解釈」は「解釈する」という動詞になる、つまり行為だが、「歴史」はその対象となる観念だ。これを対比として並べるのは不全感がある。

 したがって「歴史」を現段階で対比のどちらかに置くのは控える。

 ではもう一つの系列の対比とは?


 比較的挙げられていたのは次の対比。

記憶する/思い出す

 これは文脈上は対立であることが容易に見てとれる。ただし語義的にはむしろ共通性が意識されやすく、どういう対比なのかはにわかには腑に落ちない。考察する必要がある。

 この対比にはそれぞれに対応する具体例が挙げられる。

 文末から挙げられるのは次の対比。

現代人/なま女房

 そして「記憶する」のは「多くの歴史家」だ。この「具体例」には対応する例が文中から指摘できる。「鷗外・宣長」だ。

多くの歴史家/鷗外・宣長

 この対比が取り出せた人は広い視野と強い論理把握力がある。


 鷗外も宣長も「歴史の解釈」をしなかった人たちだ。したがって、対比の左辺に「解釈する」が配置されることになる。

 すると「思い出す」に対して「記憶する」と「解釈する」が並列的に対比されることになってしまう。

  記憶する=解釈する?


 これを納得するためにはどう「解釈」したらいいのだろうか?

 これが「無常ということ」を読解する一番のポイントだ。


 さて、「解釈」が配置されたことで先ほどの「歴史」をどう考えるか?

 つまり次のような対比になっているのだ。

歴史を解釈する/歴史を思い出す

 つまり「歴史」は、さしあたってそれをどう捉えるかという問題意識の対象となっていると考えられる。

 「歴史」それ自体はニュートラルな語句として、対比軸の一方にのみ属するのではなく、それを軸のどちらかに置く条件や形容が対比的なのだと考えよう。

 もちろん、こうした対比図が完成した後では、「歴史」を、その本質において右辺に属するものとして小林が捉えているのだと考えてもいい。六段落における「歴史」などはほとんどそうした意味で使われている。そこだけを見ると確かに「歴史」を右辺に属するものとして主張したくなる。


 次の一節は明らかな「ではなく」型の対比を示しているにもかかわらず、どのクラスでも挙がらなかった。

思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんながまちがえている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで僕らに余計な思いをさせないだけなのである。

 ここが挙がらないのは、「ではない」の前後が揃っていないからだ。対比させるには、両辺を揃えなくてはならない。「歴史/解釈」を、そのままでは対比に取り上げられないのも、概念の位相が揃っていないからだった。

 上の一節では「ではない」の前後で、主語と目的語が入れ替わっている。これをどちらかに統一して、その述語をとりだしてみる。

 主語は「僕ら」と「過去」とどちらがいいか?

 これは、全体の対比の構図を参照すればいい。「記憶する・解釈する/思い出す」の系統だ。つまり「僕ら」を主語にするのがいい。

 それでも単に受身形にして「飾りがちなのではない/余計な思いをさせられない」と並べれば良いというわけではない。まだどのように「対立」しているかがわからない。

 「対立」型の対比は、一方の項に「ではなく」が付加されることが前提されている。「解釈する〈のではなく〉思い出す」のように。

 さらに「余計なこと」の連想で次の一節が思い浮かべば、それを言い換えに使おう。

余計なことは何一つ考えなかったのである。

 ここまで考えれば、上記の対比的一節から「飾る/余計なことを考えない(=飾らない)」の対比が抽出できる。

 こうしてみると、これも「解釈する/思い出す」の言い換えのバリエーションであることがわかる。


 さて、二つの系統の対比が文中から抽出できた。

 ではこれらの二つの系統の対比はどういう関係になっているか?


 左右は意識して揃うように並べてあるが、といって一つの対立軸だとは言えない。それぞれ別の系統だと感じられる。

 しばらく考えていると、これらの関係がわかってくる。後者が前者に対する姿勢・スタンスを表わしていて、前者はその対象の捉えられ方の違いを表わしているのである。


 そしてその接点に「歴史」がある。


無常ということ 3-美学には行き着かない 2

①子どもらしい疑問

②そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態

③ぼくは決して美学には行きつかない

 それぞれに拮抗する二つの解釈とは次のようなものだ。


 ①「子どもらしい疑問」とは?

 A 「純粋で無垢な疑問」という肯定的ニュアンス

 B 「幼稚でとるに足りない下らない疑問」という否定的ニュアンス


 ①「子どもらしい疑問」ではまず「こんな」と指示されている部分がどこなのかも問題になるが、これはまあ前の4行全体を指していると考えればいい。

 その上で筆者を「途方もない迷路」に「押しや」る「子どもらしい疑問」がA肯定的と考える根拠は「押されるままに別段反抗しない」からだ。

 だがそうして押しやられる先は「迷路」だ。これが否定的な比喩であるとすれば、そこに自分を押しやる疑問も悪いものに違いない。とすればB否定的だ。

 つまりAであることもBであることも、それなりに妥当性の根拠は挙がる。

 となれば、後に続く論理をどう構築できるかが問題となる。


 ②「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態」とは次のどちらを指しているか?

 C 美しさをつかむに適したこちらの心身のある状態

 D 「子どもらしい疑問」によって迷路に押しやられている状態


 「そういう」という指示語は、直近の文脈を受けていると考えるのがごく自然な読解作法だから、まずはDの解釈が発想される。

 Cの解釈は、もう少し文脈を広く把握しようとしたときに「状態」という語の共通性から発想される解釈の可能性だ。

 ここでも既に両説の妥当性の根拠が挙がる。

 となればどちらが「美学の萌芽」と呼ぶべき状態なのかを論理づける解釈が必要だということになる。

 ある解説書では「美学の萌芽」を次のように説明している。

自分の美的経験に関する素朴な疑問と考察は、哲学的体系との整合性に配慮しつつ論理化された学問としての美学ではないが、美学とその出発点は同じくしているということ。

 何を言っているかよくわからない。「素朴な疑問と考察は」とあるのは、Dと解釈しているということだろうか。

 「ぼくは(迷路に)押されるままに、別段反抗はしない。」ことの理由として「美学の萌芽」に「疑わしい性質を見つけ出すことができない」と述べられているわけだが、Cに「見つけ出すことができない」のと、Dに「見つけ出すことができない」では、どちらが「反抗しない」ことの理由として納得できる論理を形成するか?


 ③「ぼくは決して美学には行きつかない」とは次のどちらのニュアンスに近いか?

 E 美学に行きつくつもりはない

 F 美学に(行きつきたいけれど)行きつけない


 これら三カ所は、問うてみると、必ずみんなの中で見解が分かれる選択肢だ。その組み合わせを考えると、単純には2の3乗で8通りだ。教室の雰囲気が付和雷同に流れなければ、本当に皆の立場は8通りに分かれる。

 そしてそれぞれが納得のできないわけではない、といった解釈を成立させる。


無常ということ 2-美学には行き着かない 1

 「わからない」という印象の殊に強い「無常ということ」を読むためには、適切なスキーマの導入が必要なのだが、それを後回しにして、まずは「部分」の解釈に入る。


 本文第三段落後半は、全体として「わからない」この文章中でも、最もモヤモヤが集中する部分だ。

あれほど自分を動かした美しさはどこに消えてしまったのか。消えたのではなく現に目の前にあるのかもしれぬ。それをつかむに適したこちらの心身のある状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかもしれない。こんな質を見つけ出すことができないからである。だが、僕は決して美学には行きつかない。子どもらしい疑問が、すでに僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 この部分には「子供らしい疑問」「途方もない迷路」「美学の萌芽」あるいは、なぜ「少しも疑わしい性質を見つけ出すことができない」のか、なぜ「できない」ことが「別段反抗はしない」の理由になるのか、といった数々の疑問が浮かぶ。

 ここに感ずるモヤモヤを晴らすべく、みんなで頭を使ってみる(だが先回りして言ってしまうと、実は唯一の「正解」のようなものを提示するつもりはない。それでも構わない。真摯な考察と議論こそが目的だからだ)。


 問題点を抽出し、分析し、妥当性を検討する考察にはいくら時間があっても足りない。

 時間のある限り、ひたすら議論を続けてもいいのかもしれないが、この部分を解釈の俎上に載せるにあたっては、ある期待から予め注意を促しておいた。

 話し合うときには、自分の解釈と相手の解釈が同じであるかどうかを慎重に判断せよ、と。

 実はこの部分は人によって解釈に違いが生じている。潜在的に。

 だが、お互いに考えが曖昧なまま話し合っているうちに、最初からそうだったかのように相手と解釈が一致してしまう。違った解釈の可能性が見失われてしまう。

 この解釈の違いが、話し合いの中で明らかになっていった班も、少ないながらもあった。有効に議論が機能している。


 解釈がはっきりと分かれるのは、これまで何代もの高校3年生と考えてきた経験からすると、次の3カ所。

①子どもらしい疑問

②そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態

③ぼくは決して美学には行きつかない

 重要なことは、これら一つ一つの問題箇所を個別に説明しようとする問いは有効ではないということだ。例えば「美学の萌芽」とはどういうことか? といった形で問いを立てても、結局決着点が曖昧だから思考を集中しにくい。

 「どういうこと?」という問いは基本的に「正解」をもたない。説明という行為自体が本来、問う側と答える側のコミュニケーションでしかないからだ。

 だからここではむしろ排他的な選択肢のある問いの形が思考を活性化させる。答えがどちらであるかが重要なのではない。結論に向けて目も耳も口も頭も総動員する、その行為自体が国語科学習なのだ。

 そしてその選択肢のどちらを選ぶかが、上記の疑問についての考察を押し進める推進力になればいい。


 さて上記の三カ所について、明確な二択になるような解釈を発想できたろうか?

 例えば「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態」に対して二つの解釈が可能だというと、「そういう」が「美学」に係っているのか「状態」に係っているのか、という二択を発想することはできる。それはどちらも日本語表現としてありうる。

 だがどちらが適切かと考えればすぐに結論は出る。「美学」に係っていると考えるには、「そういう美学」と指示される対象が前の文中から見つけられなければならない。だがそれはない。したがって、「そういう」は「状態」に係っているのだと考えられる。

 問題は「そういう」が指示している箇所だ。これが二つ以上の解釈の可能性を生む。

 どことどこが拮抗するくらいの可能性として二択になるか?

 例えば「子どもらしい疑問が、すでに僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に…」からすると、a「迷路に押しやられている状態」、b「反抗しない状態」という二択の可能性がある。

 だがこれも、考えてみればすぐにaに決着するはずだ。

 ただしなぜbではないかを説明するのは容易ではない。「別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。」の「状態」が「反抗しない状態」だとすると、反抗しないのは反抗しない状態が疑わしくないからだ、という論理になり、これではそれ自身がそれの根拠になるという階層の混乱が生ずるからだ、などと言える人は多くはないはず。

 それでもまあどちらか、はわかる。

 ではどのような二択の可能性があるか? 


無常ということ 1-スキーマとゲシュタルト

 思惑としては、3年生の最初の授業では、1年生の時に読んだ鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」を再読するつもりだった。

 1年の時にはこれを「自立」をテーマとした文章群に並べて、「近代における『個人』の確立」という文脈で読んだのだった。

 それを改めて読み返すのは、今ではこれが「である/する」図式でも読めることを示そうという意図だった。近代は「する」化していく推移だと今ではみんな認識しているはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」をそうした文脈で読むと、どんな主張だと捉えられるだろう。

 さてこれがTeamsの準備不足で、最初の授業でできないクラスがあり、次の予定の小林秀雄「無常ということ」を読み始めてしまったら、もう後戻りして「『つながり』と『ぬくもり』」を1時間挟むのが面倒になってしまった。

 そのうちどこかで再説できれば。


 さて「無常ということ」だ。

 さほど長くはない。といって長い文章の一部というわけではなく、これだけで完結している。

 戦時下の1942年に書かれ、長らく高校教科書に載り続けてきた文章で、授業者もまた高校時代にこれを教科書で読んだ。いわゆる「人口に膾炙(かいしゃ)した」文章だ。


 とりあえず読む。

 だがおそらく、何のことやらわからないと感じるはずだ。

 少なくとも高校生だった当時の授業者はそう感じていたし、後に教壇に立ってこの文章を扱うようになっても、相変わらずよくわからない、と感じ続けていた。今も考えるたびに、こうかも、と思ったり、やはりよくわからない、と思い直したりし続けている。

 2013年のセンター試験の大問1に小林秀雄の文章が出題され、国語の平均点が過去最低になった。あまりに「わからない」文章を出題したことで世間からの批判も多かった。


 そもそも「完全な理解」などありえないのだし、「完全な無理解」もない(とりあえず日本語としては読める)。

 そうはいっても実際に「わかる」とか「わからない」とかいう感覚はある。その手応えを素朴に言えば、やはりこの文章は、高校の教科書などで読む文章としては最も「わからない」と感じる部類の文章に違いない。


 翻って、「わかる」とはどういうことか?

 聞いてみると、自分なりに他人に説明できることだ、などという回答がほとんどのクラスで返ってきた。確かに文章が理解されている状態を証し立てる状態として「他人に説明できる」は一つの指標ではある。

 だがその前に、内省的にしか捉えられない「わかる」という感覚自体は、脳内で何が起こっているということなのか?


 この問いには授業で答を示したことがある。それを想起してほしくてこの問いを投げかけたのだった。

 どのクラスでも、少数の勘の良い人がすぐにその言葉を口にする。

 スキーマゲシュタルトだ。


 認識とは、入ってきた情報をスキーマにあてはめてゲシュタルトを構成することだ。「ダルメシアン犬」というスキーマにあてはめると、インクの染みにしか見えなかった図柄に、突如ダルメシアン犬が見えるようになる。顔スキーマにあてはめると、天井の木目や岩肌に顔が思い浮かびあがる。心霊写真とは、そのように「わかった」者に認識されたゲシュタルトだ。だから「わかる」とは、本人の内省的な感覚だ。

 だから、「わかる」ことは必ずしも「正しい」ことを意味しない。充分であることも意味しない。

 また、それは「わからない」状態に対する相対的な変化によって起こる感覚でしかない。「完全な理解」などない。


 ともあれ我々は、とりあえずは「わかる」ためにテキストを読む。その際、認識構造・枠組み・型(=スキーマ)が豊富に用意されていることと、情報の整理によってその型にはめこむ技術の総合力が、いわゆる読解力だということになる。


 小林秀雄の文章は総じてどれもわかりにくい。これはスキーマが、にわかには見当つかないことと、文章中の情報の整理が困難なことに因る。

 まず文章内の論理が追えない。あちこちに飛躍があって、どうつながっているのか、どういう関係になっているのかが掴めない。

 同時に、それを位置付けるべき枠組みが見当たらない。


 それは当然かもしれない。小林秀雄に言わせれば、既に読者がわかっていることを言っても意味はないのだから、自分が言っていることは読者が初めて出会うような認識なのだ、ということかもしれない。

 さらに言えば、自分がわかっていることすら書いてもしょうがないとまで言いたいかもしれない。書くことによって何事かを「わかる」ことこそ書くことの意味なのだ、と。途中で「何を書くつもりかわかっていない」という正直な吐露は斬新だ。

 だから「わからない」のは当然なのだ。

 だが上にも言ったとおり「完全な理解」がないように「完全な無理解」もない。わかるとかわからないというのは程度問題であり、それはそこにかける思考の時間によって変化する相対的な感覚だ。

 可能な範囲で情報の整理を進め、同時にこの文章が位置付けられるべき枠組みが何なのかを探る。

 この、情報の整理と枠組みへの位置付けは相補的に機能するもので、それはよく言っている「全体」と「部分」の理解が相補的であることと類比的・相似形だ。

 文章内の情報の整理は毎度の「対比」などのテクニックを駆使して行う。

 そして枠組みを充実させるのが、読み比べだ。


 授業者にとって、長らく「わからない」と感じられていた「無常ということ」が、いささかなりと「わかった」と感じられたのは、授業で別の、ある文章を読んでいた時だ。不意に、ここで言っていることは小林が「無常ということ」で言っていることと同じだ、と思ったのだった。そのいわゆる「腑に落ちた」感覚は、鮮烈な体験として記憶されている。

 この感覚がおとずれることを期待して、今年度のはじめに「無常ということ」を読む。

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