課題テストで問いに取り組み、最初の授業で読解した「未来の他者と連帯する」は「他者」といい「連帯」といい、ここまで読んできた5つの文章「共に生きる」の流れに乗りそうな気配はあるものの、考えてみてもそれほど炙り出される共通点が浮かんではこない。
だがそこに内田樹の労働論を挟むと両者がつながってくる。
評論文の読み方のスキルの一つに「問いを立てる」という方法がある。
「評論文の読み方の」と限定する必要はない。「問いを立てる」ことは、何かを考えるために、何かを解決するために、あるいは何かを実行するためにですら有効な手段だ。難しい問題は、その問題がどういうものかがわかっていない時に「難しい」のであって、明確な問いが立ってしまえば解決までは半ば以上を過ぎている、と言う人もいる。
問いに答えることより問いを立てることにこそ価値がある。
評論文を読むときには、その文章がどのような問いを立てて、どのような結論を出そうしているかを「問い-答え」というセットで抽出してみると、にわかに論の輪郭が明確になる。
「なぜ私たちは労働するのか」ではどのような問いが提起されているか?
えっ何を言っている? 題名が既に「問い」ではないか。
だがこの答えは文末近くにそのまま置かれている。
「生き延びるためである。」と。
だが「我々は生き延びるために労働している」というテーゼは、間違ってはいないがそれほど内容がない。このテーゼ自体に「どういうこと?」と問いを投げかけたくなる。
労働するのは生き延びるためなのだという、それだけいうと当たり前に見えることをわざわざ文章にするのは、これに反した認識に対するためだ。
それが「労働するのは…自己実現のため・適正な評価を得るため・クリエイティヴであるため」という一節で、それに対立して「生き延びるため」が置かれている。
だが、この「一般的見解」がそもそもどういう文脈で出てきたのかわかりにくい。
平たくいえば、世の中にはそういうことを言っている若造がいて、そいつらはすぐに仕事を辞めるが、労働ってのはそういうもんじゃないんだ、とオジサンが説教をしているわけだ。
だがそのように言ってみても、この文章の趣旨がどのあたりにあるのかはまだわからない。
この文章の適切な問いは次のように表現するのが良い。
労働の利益は誰が享受するのか?
この答えは?
「集団」である。これは何に対比されるか?
「自分・労働者個人」だ。
つまりこの文章の主旨は「労働の利益は、労働者個人ではなく集団が享受するものだ。」である。
これと「労働するのは生き延びるためだ」の間にはいささかの距離があるが、その間がどういう論理で結ばれているか説明できるだろうか?
労働の利益を個人が独占できることは、裏返して言えばリスクも個人で負うことになる。それは危険だ。
それよりも利益を集団で分配するのと裏表でリスクも集団で分担するのだ。
だから受益者が集団であることは「生き延びる」ことにつながる。
こうした労働観から素直に連想されるのは「ほんとうの『わたし』とは?」の文中で紹介されるパプアニューギニアの人々の考え方だ。
彼らは「労働の産物は集団の関係の結果である」と考える。「産物」は、内田の「利益」と同じことだといっていい。作るにせよ、その恩恵を享受するにせよ、それは個人の営みではないということだ。
つまり内田樹は、パプアニューギニアの人々の労働観は現代においてもそのまま本質を捉えていると言っているということになる。
もう一つの文章「労働について」は冒頭が「働くとはどういうことか。」で始まる。そしてこの問いは、全体を捉えるための問いとして必ずしも悪くはない。
ではこの問いに、内田樹はどう答えているか?
この問いの答えにあたる内容を端的に言うなら、「贈与である」だ。
これは何と対比されているか?
無理矢理挙げるなら「報酬を得ること」くらいがいいか。
だが「働くことは贈与である。」というテーゼは、やはりまだよくわからない。「労働するのは生き延びるためだ。」と同じような、読者をびっくりさせてやろうという筆者の作為が表に立って、趣旨がストレートに伝わってこない感じがする。
そこで、こちらも上の文章と同じく答えが「個人/集団」のように単語の対比になる問いの形を考えよう。
そしてこの文章における対比は、二つ想定できる。したがって問いも二つ。
労働の価値は誰が決めるか?
労働の価値はいつ決まるか?
1に対する答えは「自分ではなく他者」。2は「現在ではなく未来」。
これを一つにすれば「働くことは、未来の他者への贈与である」と言うことになる。
これは上の対比「報酬を得る/贈与する」と対応している。
報酬を得る/贈与する
現在/未来
自分/他者
つまり労働は「現在の自分が報酬を得る(ためではなく)/未来の他者に贈与する(ために)」するのである。
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