ここまで8本の文章の論旨を繋げてきた。
「未来の他者と連帯する」、教科書の「自立」をめぐる3本、「ちくま」の「私という存在」をめぐる2本、プリントの内田樹の「労働」を論じた2本。
ここに「交換と贈与」(近内悠太)を繋げる。
「自立」も「私」も「労働」も、どれも「交換と贈与」という観点から語り直すことができる。
ここでは2点ほど、論点を絞ってその繋がりを考えてみよう。
題名にある「贈与」という言葉はただちに内田樹の労働論を連想させる。内田は「労働とは贈与である」と言っていた。
内田が言う、すぐに仕事をやめてしまう若者の労働観とは、つまり「交換」の論理で労働という行為を捉えているわけだ。自分の提供した労働力は、相応の評価や報酬によって全て自分に返ってくるべきであると考えるものは、交換の論理に合わない労働を受け入れない。
だが内田は「労働は贈与である」と言う。労働は必ずしも等価交換にならない。
「贈与」とはどのような行為か。例えば次のような一節。
信頼は贈与の中からしか生じない
これを内田樹の論旨に置き換えれば、我々が未来の他者への贈与として労働するとき、我々は未来の他者を信頼しているということになり、逆に未来の他者からの信頼を根拠に労働しているということになる。それが「生き延びるため」だというのは、そうした信頼関係において、我々は現在の生存を安定させることができることを意味している。
あるいは内田の論に登場する島崎氏やウェイター氏は、他者のために、契約で決められた範囲の仕事を逸脱しようとし、それが評価される。そのように他者への「贈与」を行う彼らは「信頼」を得ることができるし、彼らもまた他者に対する信頼からそれらの行為をなしているのだ。
あるいは「自由」を糸口に「『つながり』と『ぬくもり』」とつなげてみよう。
「『つながり』と『ぬくもり』」では、近代の都市生活では人々はそれまでの封建的なくびきから解き放たれて「自由な個人」になる、と言っていた。
「交換と贈与」では、資本主義というシステムの中で、あらゆるものを商品として選択できることが「自由」なのだ、と言っている。
内田はそうした「自由な個人」を「寂しい」と言い、「ぬくもり」を求めて他人と「つながり」たがっている現代人を描いている。
近内はそうした「自由」な関係とは「交換」に基づく関係であり、そこには信頼がない、と言っている。
「自由」な個人は他人との信頼関係を作れずに寂しいのである。
C組Hさんはこの文中に出てくる「甘える/頼る」という対比が、「共鳴し引き出される力」の「予防/予備」という対比に対応している、と言う。
わからないので本人に解説してもらったところによると、「甘える」は「本当は自分でできることを他人に頼む」という意味だから、やればできるのにやらずにいていつまでもできないままになる「予防」に対応し、「頼る」は「自分ではできないことを他人に頼む」という意味だから、他人との共鳴の中でそれができるようになることを保障する「予備」に対応しているのだそうだ。
なるほど。納得した。
このように、「交換と贈与」とこれまでの文章に共通した認識についてはそれなりに語ることができる。
ではむしろ相違を、対立を語るにふさわしい文章はどれか?
「自立と市場」だ。
なぜか?
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