内田樹の労働論、二つの文章を総合すると、「労働の成果を受け取るのは、未来の他者であり、集団だ」ということになる。
これはそのまま「未来の他者と連帯する」の問い「未来の他者と連帯できるか?」への答えになるではないか。
…と言ってしまうと、二つの文章は同じことを言っている、で終わってしまうので、もうちょっとポイントを絞って言ってみる。
内田は「労働するのは生き延びるためだ」と言っている。この表現を糸口に、大澤の文章にある原発や環境問題、年金問題について語ってみよう。
これらの社会問題の解決が難しいのは、現在の自分が快適に暮らすことを優先するからである。しかしそうして自分のことを考えていると、環境も年金制度も、いずれは立ちゆかなくなって、その不利益は自分に降りかかる。ということは、例えばいくらかの現状の負担を我慢して「未来の他者」を慮ることは、結局は社会のためであり、ひいては自分が「生き延びるため」なのだということになる。
そもそもなぜ「未来の他者と連帯できるか?」といった問いが生ずるかと言えば、それが難しいと考えられるからで、「未来の他者との連帯」が難しいと考えるのは、労働の利益を現在の個人が占有するような権利意識に基づいている。二人とも、そうした「個人」観にカウンターをつきつけているのだ。
そして、こうした趣旨は、「共に生きる」で読んできた5つの文章にも共通している。
「自立」をテーマとする二つ(三つ)の文章では「依存しない/する」が対比だったが、これは「労働」をめぐる「個人/集団」という対比に対応している。「労働」が個人の営みであると考えることと、他人に依存しない営みこそが「自立」であると考えることは根を同じくする。孤立・完結した「個人」のイメージだ。
ここではまた「自立」と上の「生き延びる」を重ねることもできる。社会で「自立」して「生き延びる」ためには、リスクを分散させた方が良い。そのためには、一人でがんばってその利益を独占しようとするより、利益を分かち合っておくほうが良い。
そうした相互依存が自立を安定させる。
同じように「自分」をテーマにした二つの文章でも、「自分」がスタンドアローンであるような存在だと認識することに対するアンチテーゼを掲げていた。平野啓一郎の「個人/分人」という対比をそれを表わしている。
自分が自分であることを認めるためには、実は他人に認めてもらうしかない。同じように労働の価値は他人に認められることでしか確かめられない。
内田の言う「労働」は給料をもらうような仕事だけを指すのではない。我々が生きていく営みの全てが「労働」だといっていい。我々の生の営みの全ては孤立してはありえない。他人との関わりの中にあるのだ。
そうしたとの関わりの中で自分の存在が承認されていくのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿