「自立と市場」と「交換と贈与」は、何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、とまずは感じ取ってほしいが、それを明確に語ることは容易ではない。
ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。
まず、論じている領域というかテーマに共通性がある。何か?
二つの文章はともにある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。
「交換と贈与」では「資本主義」。
「自立と市場」では「市場経済」。
資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。
しかしそこには人間同士の「信頼」が成立しない。
そうした「交換」の論理と対比されるのが「贈与」だ。
一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では?
これは確認済みの「市場/個人的関係」だ。
「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。
つまり二つの文章の対比は次のように対応している。
交換/贈与
市場/個人的関係
「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。したがって対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることは納得していい。
一方「個人的な関係」の例として語られる、熊谷さんの母親の息子に対する献身は「贈与」だと言っていい。そこには金銭による「交換」なぞ介在しない。
二つの文章の対比は確かに両辺で対応している(ように見える)。
なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に語られている。
また、「自立と市場」で論じられている「自立」の状態と対応する語が「交換と贈与」にある。
松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。
依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。
ここから連想されるのは「交換と贈与」の次の一節。
誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。
つまり「自立」と「自由」は、反「依存」という意味で共通している。
更に、「自立」と「自由」はどうして反「依存」たりうるか?
前回見たとおり、「交換」によって成り立つ関係は「自由」だと言っている。
あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。
選択可能性が確保されることで依存から脱して「自由」になる。
松井もまた次のように言っている。
市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれる
選択できることが反「依存」を可能にしている。
自立=自由
ここでも両論は共通した論点をもっている。
そして松井論では自由に通じる「自立」は望ましい状態として肯定的な文脈で使われているが、近内論では「自由」は否定的イメージで語られる。
やはり両者は反対方向の主張をしているような印象として感じられる。
このことをどう考えたらいいか?
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