なぜ「空しい」か?
この問いは「なぜ空しくなったか?」という問いではない。それは「共通前提」からの論理展開で示される。
そうではなく、そのような事態をなぜ筆者は「空虚」と表現するのか? を問うている。
題名にあるというのに、なぜ「空虚」なのかは判然としない。端的に書いてある箇所はない。全体の論理から、筆者の言う「空虚」さを読み取らなければならない。
そしてそれを端的に表現する。「~から。」で終わるように。
その表現は、大きく言って2種類に分かれる。
- 身近な人々の承認を得るために演じている「自分」は本意ではないから。
- 身近な人々の承認を得るために合わせている「価値」は、社会全体に共有されたものではないから。
各クラスで聞いてみると、多くは1、たまに2が挙がる。
この二つの理由はどう違うのか?
だがそもそも上の1,2を「違う」と意識できるか、すべきかもさだかではない。
図式化して違いを示そう。
「身近な人々」は「小集団」とも言い換えられている。
「小集団」は何と対比されるか?
三層の対比になると言えば皆すぐに以下の対比構造を想起できる。
個人/小集団/社会
問題は、これらの対比の間のズレ・食い違い・乖離・齟齬から生じている。とすると、それは「個人/小集団」「小集団/社会」どちらの対比の間で生じているか?
つまり1は「個人/小集団」の間のズレから問題が生じていると言っていて、2は「小集団/社会」のズレが問題だと言っているのだ。
さてどっちなのだろう。本文の論旨によると。
「〈私〉時代のデモクラシー」の「難しさ」はどこから生じているか?
これはいわば次の間のズレからだと言える。
〈私〉/〈私たち〉
この「問題」は、上の1,2,どちらの「問題」と重ねられるか?
小論文では、具体例を挙げて、その問題の「難しさ」を説明することが条件だった。
例えば「米不足問題」では、生産者、消費者、流通業者、政府など、いくつかの立場の「当事者」が考えられる。そしてその利害は一致しない。消費者は安く米を買いたいが、生産者は高く売りたい。流通業者も、JAと大型商業施設と街の小さな米屋では利害が異なる。政府は選挙向けに有権者の不満を解消することばかりに腐心しているが、俗に言う「農水族」の思惑は違うかもしれない。
これは「小集団/社会」のズレの問題と重なる。小集団がそれぞれの利害に従っていると、民主主義が成り立たない、という問題だ。
だがそもそも「空しさ」の原因である1と2は「違う」のだろうか?
異なった二つの「原因」が語られているのだろうか?
むしろその関係を考えるべきなのでは?
1と2は、「端的に言う(授業では「15字くらいで」という条件だった)」から違って見えるだけであって、もっと長ければ実は一続きで言える。
身近な人々の承認を得るために本当の「自分」を偽って演じているのに、その小集団内に通じる「価値」は、社会全体に共有されたものではなく、本心では自分でも信じていないから。
これが空しさの理由だ。
このことを本文では「自由と承認の葛藤」と表現している。
これはすなわち「〈私〉と〈私たち〉の葛藤」であり、それはすなわちデモクラシーの困難なのだ。
あえて違いを言うなら、言えないこともない。
「〈私〉時代のデモクラシー」の宇野重規は政治学者であり、「空虚な承認ゲーム」の山竹伸二は心理学者・哲学者だ。ここから、「〈私〉時代~」は社会の問題に重点が置かれ、「空虚な~」は心の問題に重点が置かれている、とは言える。「難しい」は社会が直面している問題で、「空しい」は個人が直面する問題だ、と。
「〈私〉時代のデモクラシー」は、時代の変遷を三層で語っている。
前近代/前期近代/後期近代
これは次のような時代区分にあたる。
近世/近代/現代
一方、「空虚な承認ゲーム」も、前近代から近代への論理展開は共通していて、かつ、問題は現代だ。近代から現代への変遷が語られている。
この時代区分における変遷という切り口で、二つの文章を重ねてみよう。
前近代から近代への変化は、自由な個人の成立ということで両者共通している。
近代から現代への変化は?
「空虚な承認ゲーム」はこれを「大きな物語」の喪失として語る。
これは「〈私〉時代のデモクラシー」では何に対応しているか?
まず宗教が想起されるべきではある。だがそれは前近代からある「大きな物語」だ。
近代に特有の「大きな物語」は?
「空虚な承認ゲーム」で例として挙がっているのは「ナチズムやスターリニズムといったイデオロギー」だ。それとてそれなりにはでかいとはいえ「小集団」ではないかという突っ込みはできるだろうが、とりあえず一国の社会全体を覆い尽くすくらいにはでかい。
これにあたるのは「〈私〉時代のデモクラシー」では?
「自由な個人」も確かに近代になって生まれた「大きな物語」だが、これは現代には喪失したとも言いにくい。
もう一つ、文中から挙げるなら「公正で平和な社会」だ。
これとても「喪失した」とは言い難いものの、「社会正義」より「個人の自由」と言っているのが現代だと言えば、ある意味で「喪失した」とはいえる。
それもまた近代におけるイデオロギーなのだ。
社会共通のイデオロギーの喪失が「空虚」さを生んでいる。