2025年11月4日火曜日

視点を変える 4 網の目

 言語論である「ことばとは何か」と「言葉は世界を」から、共通している論旨を三つ切り出してみよう。共通しているということはそれだけ言語論として重要であるとか常識であることを表していると考えられる。

「ことばとは何か」

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

「言葉は世界を」

言語は連続的で切れ目のない世界に対して線を引き、世界を切り分ける。

 ここには「切り分ける・切れ目を入れる」という表現の共通性が見てとれる。

 さらに、「ことばとは」の「厚み・幅・価値」は「言語は世界を」の「面」に対応していることもすぐに見てとれるし、それが各言語によって同じではない(ズレている)という論旨も共通している。

 さらに

「ことばとは何か」

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定される

「言葉は世界を」

一つ一つの単語の意味を学ぶということは、単語が属する概念領域全体のマップの中でその単語の位置付けを学び、更に領域の中で隣接する他の単語とどう違うのかを理解し、他の単語との意味範囲の境界を理解することにほかならない。

では「ネットワーク・システム」が「概念領域全体のマップ」に対応している。「ポジション」と「位置付け」が対応している。


 整理しよう。

  • 言葉は世界を切り分ける。
  • 言葉の意味には幅がある(面である)。
  • 言葉はシステムの中のポジションで機能する。


 これらの論旨が共通しているのは、今井むつみの言語論もまた、そうはわざわざ言っていなくともソシュール言語学に基づいているからだ。今井に限らず、世のほとんどの言語論はソシュール言語学を前提にしている。

 問題はこの3点がどう関係しているか、だ。

 そのことを正しく捉えるには、そうでない考え方と対比して、ではどう考えるのがソシュール流か、と考える。


 「面・幅・厚み」はどのような考え方を指しているか?


 いや、書いてあることはわかりやすい。言葉の意味には、ある「幅」がある。「ムートン」の例も、色の例も、何も難しくない、あたりまえのことを言っている。

 たしかに切れ目を入れて分割した一つの領域には「幅」がある。それを今井むつみが「面」と表現していることもわかる。

 ではこれは?

概念は示差的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。(『一般言語学講義』)

 当然、考えるべきは「示差的・実定的・欠性的」だ。こんな言葉はまるで一般的ではない。ここでしか見たことがない。だが、わからない言葉ではないはずだ。漢字の意味で見当がつく。文脈でも読める。

 ではここでソシュールが言っているのは何のことか?

 これを内田は次のように言い換える。

あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない

 この「事後的・生得的・本質的」と先の三つをまとめて対比的に並べると?


実定的・生得的・本質的/欠性的・示差的・事後的

 これは「~ではなく」型の文型によって判断できる。否定される側を左に置いておく。

 さらに内田の文章で、最初に対比的に並べられるのは?

カタログ言語観/ソシュール言語論

 ここから言葉の仕組みについてソシュールがどのように考えたかを整理する。その際、カタログ言語観を比較に用いて「~ではなく」と言うことを心がける。


 説明のためには「網の目」を喩えに使うと良い。

 これはソシュール自身が使っている比喩だ。ただしこれは、言葉が単独で存在するのではなく、言語システム=ネットワーク=「網」の中で、その関係性の中で機能していることを表現する比喩だ。

 この場合、一つの語は網の結節点に対応している。結節点の位置は、他の結節点と引っ張り合った釣り合いによって決まっている。結節点は単独で存在するわけではなく、網(ネットワーク)の中にある。

 だがこれでは今捉えようとしている考え方にはうまく合わない。そうではなく、網の「目」こそ一つの語に対応していると考えよう。それでもシステム内の関係性によって語の意味が決まるという比喩の趣旨は変わらない。

 何もない空間に糸を張る。これが「切り分ける」=差異化の比喩だ。糸と糸の間には幅がある。縦糸と横糸、それぞれの隙間によって作られた四角(最近のサッカーのゴールネットでは六角形だが)の隙間は当然「面」積のある「面」だ。この一つの目がそれぞれの言葉だ。

 それ自身が切り分けられたものであることによって、言葉は世界を切り分ける。それは「幅」を持つ「面」だ。その網の目は、網全体の釣り合いの中で、ある位置を占めている。

 これで上の3点については説明できた。

 ではこれが「実定的ではなく欠性的・示差的である」=「生得的・本質的ではなく事後的である」とは?


 カタログ言語観は、「面」としての言葉が「実定的・生得的・本質的」であるということになる。これはどのような状態か?

 それは「羊」とか「赤」とかいう意味の四角が、単独で、網よりも先にバラバラに存在している状態だ。

 だが、網の目の四角が単独で先に存在することはできない。ある四角は、周囲8個の四角の隙間にできている「穴」だ。そして他の目も同様に、すべての四角が、互いに区切られていることによって生じた「面」のように見える「隙間」なのだ。

 この「隙間・穴」こそ「欠性的」であり、「互いと区切られることで生じる」が「示差的」だ。区切られたから「事後的」に穴ができるのだ。

 赤という「四角」は「オレンジ色・紫・ピンク・茶色」などに囲まれ、それぞれの隣り合った色との境目にある糸によって輪郭づけられている。「オレンジ」の向こうには「黄色」があり、「紫」の向こうには「青」がある。

 色を表す言葉はこうした関係の網の目=システム=構造によって、それぞれの「意味」を生じる。網の目に先立って「意味」であるところの四角は存在しない。

 「切り分ける」とはこの、糸によって空間を分けることを言っている。


 上の比喩の「網」とは何か?

 言葉が集まっているのだから、いわば辞書のようなイメージだ。

 それに対してカタログ言語観では、それは「カタログ」だ。

 ソシュール言語学の「辞書」と、カタログ言語観の「カタログ」はできあがりは同じような相貌だが、成り立ちが違う。

 「辞書」に対応する「網」は、何もない空間を糸で区切ることで、四角が並んだ構造として現れる。

 「カタログ」は、既にバラバラと存在している四角を集めてタイルのように敷き詰めたものだ。


 さて、このことは説明できたろうか?

 これは「理解」すべき事柄ではなく「説明」できるようになるべき事柄だ。今我々がやっているのはソシュール言語学を学ぶことではなく、国語の学習だ。

 ところで上の考え方のどこが「スキーマ」でどこが「ゲシュタルト」なのだろうか?


 「スキーマ」とは「赤」を「赤」たらしめる言語システム=網の目であり、それによって生じた「赤」という概念であり、「赤」という言葉だ。これらは言語が言語として機能する一連の仕組みであって、その全体が「スキーマ」だ。

 そして「ゲシュタルト」とは、そうしたシステムよって対象を「赤」と認識している状態だ。

 言葉がそうした機能を失うとき、「赤」は「赤」に見えなくなる=ゲシュタルト崩壊する。

 

 このことは「理解」すべきではなく「説明」すべきことだが、とはいえ「理解」しておくのは有益ではある。こうした考え方=認識自体がスキーマとして、次の何事かを考える手がかりになる。


視点を変える 3 ことばとは何か

 ここに言語論を合わせる。

 とはいえ教科書の言語論、今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」は、「木を見る、森を見る」との接点が見えにくい。

 だがここに、補助的に内田樹「ことばとは何か」をあわせると、それぞれの共通性が見つかるから、三つの文章を総合的に読解することができる。

 まず「木を見る、森を見る」と「ことばとは何か」に共通している論旨を捉えよう。何か?


 例の図版にダルメシアン犬が見えるかどうかという話が、夜空に星座が見えるかどうかという話に似ていることに気づくはず。

 これらの共通点・接点によって、三つの文章の論旨をつなぐ。


 とはいえ、ダルメシアン犬は「木を見る、森を見る」本文に出てくるわけではなく、教科書の編集部が勝手に挿入した図版だし、「ことばとは何か」の星座の話は喩え話だし。

 それぞれ元々何の話なのか? 何と何が対応していることになるのか?


 対比の形で整理しよう。

「木を見る…」/「ことばとは…」

ダルメシアン犬/星座

 対比の多くは対立を表すが、これは類比。類比的に対応しているものを揃えて書き出そう。

 ダルメシアン犬の話は「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉で説明される「認識」の話だった。

 ではこれに対応するのは「ことばとは…」のどの言葉か?


 関連するとは共通点があるということであり、共通しているとは対応しているということだ。

 対応しているとは、同じ文型の同じ位置にそれらの要素が配置されるということだ。

 対応していると見なすためにはどのような文型を想定する必要があるか?


 「認識」についての命題は「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」などと言っておいた。

 この「スキーマ」と「ゲシュタルト」に代替できる言葉を「ことばとは何か」から探す。

 「ゲシュタルト」に対応する言葉「観念」「ものの形」は、しばらくすると挙がった。「ゲシュタルト」=「まとまり」は確認済みだが、「まとまり」は「ことばとは何か」にも共通して文中に登場する。


 スキーマに対応する言葉が難しい。「切れ目」だとか「概念」だとか、いろいろ候補が挙がったが、「ことば・言語」が最も真っ当に代替できる。


「木を見る…」/「ことばとは…」

ダルメシアン犬/星座

   スキーマ/ことば・言語

 ゲシュタルト/ものの形・観念

   まとまり/まとまり


 左辺は「認識」という現象についての命題として文にした。「認識とはスキーマにあてはめてゲシュタルトをつくることだ。」の同じ場所に、対応する言葉を右辺からそのまま代替してみる。

認識とはことばにあてはめてものの形が見えてくることである。

 これは正しい。

 例えば次の文章はそのことを言っている。

ある切れ目を入れて星を繋いだ人は、そこにはっきり「ものの形」を見出すことができます。

 さらに、正しいことを実感するには、逆・裏・対偶にしてみるのが有効だ。

スキーマがなければゲシュタルトはできない(認識できない)。

 これを入れ替える。

言語がなければものの形は見えない。

 このことを言っている部分を文中から探すことは当然できる。

見える人にはありありと見える星座が、そのように切れ目を入れない人にはまったく見えないのです。

言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。


 共通する「まとまり」も使ってみよう。

斉藤

スキーマの要素に当てはめて、ひとまとまりとして捉える。人間が物を「何か」として認知したり、見立てたりするときには、ゲシュタルト的な見方をしている

内田

ソシュールは言語活動とはちょうど星座を見るように、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだというふうに考えました。

 言語活動によって「まとまり」が生まれる。「ゲシュタルト」=「まとまり」なのだから、ここでも「スキーマによってゲシュタルトが生まれる」と言っているのである。


 「スキーマ」=「言葉」、「ゲシュタルト」=「まとまり」=「ものの形」。

 これはそもそも人間の認識についての話だった。認識は外界の情報を「スキーマ」に当てはめて「ゲシュタルト」を構成することだ、と。つまり我々は外界を言語という「スキーマ」によって認識しているのだ。

 これは少しも無理なこじつけではない。今井むつみは別の文章や話の中で、しょっちゅう「言語はスキーマだ」と言っている。齋藤亜矢は「チコちゃんに叱られる」に出演した際、「なぜ人間だけが絵を描けるのか?」という疑問に「人間だけが言葉を使えるから」と答えている。ふたりの言っていることに関連があると考えるのは少しも無理なことではない。


 さらに「木を見る、森を見る」の趣旨を、単元名に合わせて次のように表現した。

視点を変えると物事は違って見える。

 このテーゼは、今度はどのように捉えられるのか。

 文章後半で、筆者が経験した様々な学問分野に言及し、次のように言う。

分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。

 これはつまり上のテーゼそのものであり、それはすなわち次のように言うことができる。

スキーマを変えるとゲシュタルトは変わる。

 これは言語論に対応させると次のように言い換えられる。

言語が違うと世界は違って見える。

 つまり日本語話者と英語話者は世界を違った見方で見ているということだ。

 認識についての捉え方が、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは、言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わる。


 さて、今井・内田の言語論では、もうちょっと考えたい問題がある。 

 言語というスキーマのはたらきについて、二人はどんなことを言っているのか?


2025年10月19日日曜日

視点を変える 2 スキーマとゲシュタルト

 次の文章を読む前に、「ゲシュタルト」「スキーマ」という語に慣れておく。この二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。語彙はそれ自体、思考の武器だ。持っていると、それによって考えられることが増える。持っていなければ考えられないことが考えられるようになる。

 教科書に載っている図版を見て、そこにダルメシアン犬が見えるとはどういうことかを「ゲシュタルト」と「スキーマ」という言葉を使って説明しよう。

 言葉は「どういう意味か」を頭で理解するのではなく、使うことで身体になじませる。


 法則性もない、無秩序にインクが飛び散っているだけの白黒の図版の中に、ある瞬間、突然ダルメシアン犬が見える。この現象を「ゲシュタルト」「スキーマ」という言葉を使って言うとどうなるか?


 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注で「認識の枠組・図式」と説明されている。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注で「まとまり」「構造」と言い換えられている。


 簡単に言おう。あれこれの説明を抑えて、シンプルな表現に。

 白黒の図を、「ダルメシアン犬」の「スキーマ」にあてはめた時に、「ダルメシアン犬」という「ゲシュタルト」が構成される。

 これが「ダルメシアン犬が見えた」という現象だ。


 これをさらに抽象化して言おう。あるいは一般化。普遍化。

 そもそもこれは何についての話なのか?


 「何についての話なのか?」という問いかけで、それにふさわしい抽象度で問題を捉えることができるかどうかが、既に国語力の問題だ。「ダルメシアン犬についての話」ではない。「スキーマの話」でもない。ここではそれより一段抽象度を上げた問題の捉え方を要求している。「画を見る話」は一段抽象度が上がった。さらにもう一段。

 「ごんべん」の漢字二字の熟語で。


 これは「認識についての話」だ。「見える」とは「認識する」ということだ。

 文中から「認知」を挙げてもいい。「認識」「認知」「知覚」は、同じ現象を表現する言葉を、おおよそ複雑さの順に並べているだけで、実際はグラデーション状に連続している。ここでは、より複雑な過程を含む「認識」で代表させておく。

 つまり「見えるとはどういうことか?」は「認識とはどのような現象か?」ということだ。この問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使って答える。

認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。


 さらにこれをにしたりにしたり対偶にしたりしてみる。それができることは、それが理解できていることを示している。理解していないと機械的にひっくり返そうとして微妙に意味の違った文を作ったりする(厳密な論理学的意味での「逆・裏・対偶」ではない。また論理学では「逆・裏」は元の命題と同値とは言えないが、むしろ積極的に同じことを意味するように表現するところが国語的な練習だ)。

 命題も条件文の形にしておこう。

命題

認識できているとすれば、外界の情報が、あるスキーマにあてはめられて、ゲシュタルトが構成されている。

ゲシュタルトを構成されている(認識できている)とすれば、外界の情報がスキーマにあてはまっている。

外界の情報をスキーマにあてはめられないならば、ゲシュタルトを構成することができない(認識できない)。

対偶

ゲシュタルトを構成することができない=認識できないならば、それはスキーマにあてはめられない(またはスキーマがない)ということである。

 こういう言い換えは論理的思考力とも言えるが、まあ平たく言って、国語力だ。言うべきことをいくつかの表現で想起できることも、複数の表現の内容を比較してその異同を見分けることも、重要な国語の力だ。


 例えば、国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。文章が「わかった」と思うことは、ダルメシアン犬が見えた、ということだから、つまりゲシュタルトが成立した、ということだ。

 「スキーマとゲシュタルト」という概念自体がスキーマだし、「自立と依存」とか「近代的個人の誕生」「個人と分人」とかいうのも評論を読む上での有効なスキーマだ。

 あ、この文章の主旨は近代批判だ、と思えたときには、ゲシュタルトができている(ダルメシアン犬が姿を現している)。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。とはいえ国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は、編集上も想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているのはわかるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、「〈私〉時代のデモクラシー」もその一編だ。「鳥の眼」と「〈私〉時代」はどうつながるんだろうか?)。


 「木を見る、森を見る」の作者、齋藤亜矢は「芸術認知科学者」だそうだ。よくわからん肩書きではある。

 だがみんなはこの名前に初めて出会うわけではない。みんなが受けた高校入試の国語の問題に、この人の文章が出題されたことを指摘したのはD組のMさんだった。しかも同じ『ルビンのツボ』収録の文章だ。みんなにとっては因縁の相手だ。


 さて、中学生にも読める想定なのだし、この文章も教科書の冒頭に収録されているということは高1の生徒に最初に読ませるつもりなのだから、難しいことは別にない。読めば「わかる」。すぐに一文に要約する。

 文章の主旨は「認識」か「主張」だ。

 「認識」ふうに言えばこう。

視点を変えると物事は違って見える。

 「主張」ふうに言えばこう。

いろんな視点から物事を見よう。


 教科書冒頭の文章は、なにがしかメッセージを含んでいる。これからこの教科を学ぶ高校生に向けた、編集者からの。

 とすれば、編集者は「現代の国語」という教科が、その学習によって、君たちにさまざまな「視点」から物事を見ることを推奨するものであるとメッセージを送っているのだと考えられる。

 だが具体的には「視点」とは何か?


 そもそも「視点」とは何か。例えば次の二つの文では「視点」の意味が違う。

  1.   さまざまな視点から物事を見ることが大切だ。
  2.   この絵画は、見る人の視点が自然と中央の人物に集まるように描かれている。

 「視点」という言葉には「どこから見るか」と「どこを見るか」の二つの意味が混在している。1は「どこから」で、2は「どこを」だ。それを区別したいときにはそれぞれ1「視座」、2「注視点」などと言い換えることもある。斎藤の言う「視点」はどちらか。

 「自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わる」といった一節では「視座」のことを言っているようにとれるが、「手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上がって、どきっとしたりする。」という一節では「注視点」の意味にもとれる。

 文中で「視点を変える方法」として紹介されている二つの方法は、見る「角度」や「倍率」を変えるということだ。これは「視点」の二つの意味とどう関係しているか。

 角度についての「正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。」というのは「どこから見るか」、つまり「視座」の問題だ。だがすぐに「目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。」と続く一節では「注視点」の意味に変わっている。

 一方倍率は対象との距離の問題だと考えれば「視座」の問題だが、これはフォーカスの中心=「注視点」を中心として周囲のどこまでを見るか、つまり視野の広さの問題と考えると「注視点」の意味にもとれる。

 題名の「木を見る、森を見る」はどちらかといえば視座の問題というより注視点と視野の問題だが、後半の「これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。」における「視点」は「視座」の問題だと言える。


 さて、この「視点」という問題を、別の文章との読み比べの中で考える。


共に生きる 18 資本主義社会に生きる

 「交換と贈与」「自立と市場」の論旨は、対比構造を揃えて並べた時に、肯定/否定の主張が逆の方向性を持っているように見える。

 その感触は間違っていないが、逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードでもある。構造を対応させるのに利用した対比が、実は正確に対応しているわけではない。

 どういうことか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 これらの対比は、実は同一の軸で並んではいない。左辺が対応していることを確認して、これらの対比が対応しているように説明した。では右辺はどうか?

 松井論で「個人的関係」としてまとめた二つの例は熊谷さん親子と、「なめとこ山の熊」の小十郎と商人の関係だ。

 このうち、熊谷さん親子は確かに「贈与」の関係かもしれない。

 だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、むしろ「交換」の関係だと言っていい。しかも力関係が不均衡であるにもかかわらず、他の選択肢はない(選択肢がないから不均衡のまま固定されている。もはや対等な「交換」ですらなく、言わば「搾取」だ)。

 つまり「個人的関係」と「贈与」は対比の右辺として対応しないのだ。

 そもそも、「市場/個人的関係」の対比の要素は、関係における拘束力の「弱い/強い」と、選択肢の「多い/少ない」だ。

 「交換/贈与」はそうした要素の対立では全くない。つまり軸が違う。

 したがって、二つの対比を並べるところに錯覚がある。

 では「自由」と「自立」の関係は?


 松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけではない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない

 一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。

ただし、その自由には条件があります。―交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなってすぐ困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。

 つまりこれらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致しているのだ。

 また、松井の述べる大震災の際のボランティアの例はまさしく「贈与」だ。

 通常の「市場」による自立が困難になった時、「贈与」がそれを救う。

 ここでもまた、二人の認識は一致している。


 そもそも「自由」が「依存しない」だとして、「自立」は「(特定の相手に)依存しない」ではあるが、この括弧の部分を外して「自由」と「自立」を同じ「依存しない」だと錯覚させていたのだ。

 だが「(特定の相手に)依存しない」はつまり「みんなに依存する」ではないか。

 「自由=誰にも依存しない」と「自立=みんなに依存する」はそもそも正反対だ。それを等値して、評価が反対なのはなぜかと問題設定するところがミスリードなのだ。


 また松井は次のようにも言っている。

特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 それこそ近内が問題にしている領域だ。

 確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。だが友人や家族との関係にまでそうした論理を敷衍していいのか?

 経済学者である松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で「自立」して生きるためには市場が有効だと言っているだけだ。

 だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。

 一方、哲学(研究)者である近内は、つまり「精神的な満足」を問題にしているのだ。

 その、議論の重心がどこにあるかによって、二人の主張は反対に傾いているように見えるが、二人の認識はむしろ一致していると言っていい。


2025年10月18日土曜日

共に生きる 17 自由と自立

 もう一つ。考える手がかりを提案する。

 「交換と贈与」の「自由」という観念の扱いは、「自立と市場」における「自立」に対応している。

 どういうことか?


 「交換と贈与」では「自由」について次のように言う。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 これは「自立と市場」で論じられている「自立」の状態に対応する。松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 頼らない(依存しない)、選択肢が十分確保されている状態が「自由」であり「自立」なのだ。

 ここでも二つの論は共通した論点をもっている。

 そして近内論では「自由」は否定的イメージで語られるが、松井論では「自立」は目指すべき状態として肯定的な文脈で使われている。

 やはり両者は反対方向の主張をしているように見える。

 このことをどう考えたらいいか?


 「交換/贈与」における「交換」の否定と「自由」の否定は、どのような論理でつながっているか?


 特定の相手に頼らないで選択できる状態が「自由」であり、それは相手を(それはすなわち自分も)「交換」可能な存在だと見なすことだ(「交換」できないのは不「自由」)。

 近内は、それでいいのか? と問いかける。もちろん反語だ。「良くない」のだ。

 「市場/個人的関係」における「市場」の肯定は、もちろんそれが「自立」を支えるからだ。それはまさしく上の「特定の相手に頼らないで選択できる状態」だ。「自立」できるのは良いことに違いない。

自由・交換(否定)/贈与(肯定)

自立・市場(肯定)/個人的関係(否定)

 二人の見解をどう考えたらいいか?

 対立する見解が存在することは別におかしなことではない。何であれ、現実に賛否両論あることは世の常だ。

 だがそういって済まさず二つの論がどういう関係かを納得しよう。

 一つには、見解が相違するなら相違するで、なぜそういう結論になるかに、納得できる理由を見出すこと。

 もう一つは、相反しているようなここまでの整理が不適切であることを示し、二人の見解の関係を示し直すこと。

 授業者の想定としては、どちらも可能だ。二つの論旨が相反している「ように見える」のがそもそも意図的なミスリードによっている。思考を、議論を活性化させるには対立を作るといい。わざとそれをやっているのだ。

 だが議論の目的は、どちらかの殲滅ではない。融合だ。どう納得を共有するか、だ。

 どう考えたらいいか?



共に生きる 16 交換と贈与

 「共に生きる」シリーズとしてここまで読んだ7本の文章に続いて、近内悠太「交換と贈与」を読む。

 事前課題の要約とともに、ここまでの7本で、最も論旨の共通点があるのは? と聞いてみると、最も多く上がったのは松井彰彦「自立と市場」だった。みんな勘が良い。ねらい通りだ。

 さあ読み比べよう。


 連想が働くのは「交換と贈与」の文中に何度も「市場」という言葉が登場するので自然なことだ。それは、論じている領域というかテーマに共通性があるからだ。何か? 

 二つの文章はともに、ある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 それを表す言葉を文中からそれぞれ4字で拾うと?

 「交換と贈与」では「資本主義」。

 「自立と市場」では「市場経済」。

 この対応=共通性によって、みんなは二つの文章が関連した話題を扱っていると感じているはずだ。


 この共通性によって二つの文章を比較したときに、まずはある違和感を感じ取ってほしい。何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、と。

 それはどのようなものか?


 二つの文章の関係、などという抽象的な問題がどのようなものかを明晰に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。

 「共通する」というのは、一つには上に見たとおり「資本主義」と「市場経済」を重ねてみるということだが、まだその先の展開は容易には読めない。

 もう一つは、文章の構造を明らかにして、その構造を対応させるというやり方もある。

 構造?

 論理構造を把握し、明示する一つの方法は、対比をとることだ。

 両者の主な対比を挙げる。

 「交換と贈与」は言うまでもなく「交換/贈与」

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では? と問うとすぐに「自立/依存」の声が挙がる。もちろんそれは対比だが、それはこの文章の主旨を示す、重要な対比ではなく、語る上で使う対義語、というほどの位置づけだ。

 「自立と市場」の主要な対比は確認済み。「市場/個人的関係」だ。

 「主要な対比」というのは、その文章の中心的要素と、それを主張するために、それと対義的な項目を否定的に対置したセットのことだ。「交換と贈与」ではそれが題名に示されているが、「自立と市場」では「市場」の対比項目が文中では明示されていない。だが「自立を支えるために市場が有効だ」という主旨を明確にするため、有効でない具体例が対比的にとりあげられている。それを「個人的関係」と表現しておいたのだった。

 二つの対比を並べてみよう。まず「交換/贈与」をこの向きに並べておいて、そこに「市場/個人的関係」を比較するには、どちらをどちら向きに並べるべきか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 この並べ方は適切か?


 まずこの向きでいいとして、これで先の違和感が明確になっただろうか。

 二つの対比は、「肯定/否定」が、左右逆になっているのだ。

交換(否定)/贈与(肯定)

市場(肯定)/個人的関係(否定)

 この「肯定/否定」の、二つの文章での捻れをどう考えたらいいのだろうか?


 何気なく並べた左右が不適切なのでは?

 いや、そうではない。「交換」と「市場」が同じ側に置かれることには十分な必然性がある。

 どんな?


 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 「交換の論理」とは何か?

 「交換と贈与」の文中に次の一節がある。

「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼びたいと思います。

 「割に合うかどうか」というのは、経済合理性があるかどうかということだ。それはすなわち「市場」の論理だ。需要と供給のバランスで適正な価格が決まり、代金を払えば品物やサービスが受けられる(払わなければ受けられない)。誰かが一方的に損をするような不合理なことは起こらない。起こさないために例えば独占禁止法などの措置がとられる。

 一方「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。この場合「市場」は「交換」の場だと言えるが、それは商品と貨幣が「交換」されるというだけではない。

 さらに重要な「交換」とは何か?


 「交換と贈与」では、商品と貨幣が交換されるから「交換の論理」が良くないと言っているわけではない。次の一節に表れているのは何の交換か?

交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる。」というメッセージが透けて見えます。

 この「交換」を「市場」経済の場に適用すると、何が「交換」可能になるということになるか?


「自立と市場」に次の一節がある。

特定の誰かと強い依存関係に陥ることはない。A店でものが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がものを買ってくれれば店は商売になる。

 これはつまり、売り手と買い手双方にとって、それぞれが「交換」可能になるということだ。

 市場では、正当な対価さえ払えば、誰から買ってもいいし、誰に売ってもいい。売り手から見て、買い手はそれぞれ交換可能な存在でしかないし、買い手から見ると売り手は交換可能なのだ。


 こうしてみると、対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることには納得できる根拠がある(ように見える)。

 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に主張されている。

 このことをどう考えたらいいか?


 ひとまず「贈与」と「市場」が肯定される論理を確認しておこう。

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。しかしそこには人間同士の信頼が成立しない。みんな孤独だ。そうした「交換」の論理と対比され、肯定されるのが「贈与」だ。

 一方、自立を支えるために「個人的関係」に頼るのは危うい。それに比べて「市場」は自立にとって有益だ。

 やはり二つの文章の肯定/否定は捻れている。


よく読まれている記事