2026年1月17日土曜日

視点を変える10 鳥の眼と虫の眼2 対比

 評論を読むためのメソッドとして今まで意識して実践したのは、例えば「一文要約」「問いを立てる」だった。

 一文要約は、その文章の最も重要なエッセンスを単文で表現しようとすることで、論理を把握することに頭を使うテクニックだ。一文にしておくと取り回しが楽なので、それを「使う」にも便利だ。

 単文とは主語述語の組み合わせが一つであるような文のこと(重文や複文は二つ以上ある)。

 その単文における「主語」とはその文章の主題・モチーフであり、「述語」は結論だ。その文章は「何が―どうだ」と言っているのかを簡潔に表現する。そうしようとすることで頭を整理する。

 「問いを立てる」は、その結論が、どのような問題意識から導かれたものかを明らかにしようというものだ。「どうだ」という結論だけを言われても、だから何? という印象にしかならない場合もある。その時、「問い」が何であるかを考えることで、筆者の思考をたどることができる。


 さてこれらのメソッドを使ってみよう、と考えると、それが「鳥の眼と虫の眼」にはまるで使えないことがわかる。

 何を主語として取り立てるべきかも、述語が何かも、まるで見当がつかない。

 終わりの一文「つつましい便りを送ることができたらと願う」が何のことを言っているのか、まるでわからないのだ。これが結論かどうかもわからない。その前あたりの終盤も、どこかを結論として認定できそうな感触がない。

 同様に主語にすべき何事もわからない。「主語にすべき」とは、文中で明示されているか、結論から遡って設定されるかだが、それらしきものが明示もされていないし、結論もわからないから、取り上げようもない。

 そして結論がわからないから「問いを立てる」こともできない。


 ではどうするか。ここはもう一つ、ここまで最も頻繁に実践してきたメソッドを想起しなくてはならない。

 そう「対比」だ。


 ところが考え始めるとすぐに一筋縄ではいかないことがわかってくる。

 例えば題名から「鳥の眼/虫の眼」という対比がありそうだと見当はつくが、これが文中で登場するのは半ば過ぎだ。

 まずはサン・テクジュペリ「人間の土地」から次の対比が挙がる。

主人公/不帰順族・モール人

 その次は「大草原の~」から次の対比。

白人/黒人・先住民

 「オリエンタリズム」からは「西洋/東洋」の対比が挙げられる。「東洋」とは西洋から見た「東」という意味だから、アジアだけでなく中近東を含む地域・文化圏を指している。

西洋/東洋

 このうち

白人/黒人・先住民

西洋/東洋

は同じ軸上にあると言っていい。だがこれは最初の「主人公/」と同じではない。

 3ページ目に次の対比がある。

主人公/異端者

 「主人公/不帰順族」の対比は、これと同じともいえるが、「西洋/東洋」の対比と同じともいえる。だが、「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比はまるで違った対比だ。

 なぜ?


 「白人/黒人」と「西洋/東洋」が同じ対比軸だと言えるのは、両者を並べたときに、左右は対応していて、それを入れ替えることはできないからだ。

 だが「主人公/異端者」と「西洋/東洋」は左右を入れ替えて対応させることもできる。「主人公」は「西洋」でも「東洋」でも、時によってどちらにも対応しうる。

 「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比がどう違うかを端的に表現するのは難しい。がこういうときにこそ分析力や表現力を総動員した国語力が問われる。

 たとえばこんなふう。

「主人公/異端者」は視点の違いを示す主観の対比

「西洋/東洋」は対象の対立を示す客観的な対比

 最初の「主人公/不帰順族」の対比は、二つの対比が複合している。


 「大草原の~」からは次の対比も抽出できる。

子ども/大人

 だがこの「子ども/大人」は文中では二つの例を指している。

子どもの頃の松村さん/大人になってからの松村さん

ローラ/父親

 この二つの対比は、同じではない。

 なおかつ、これは上の対比のどれとも同じではない。


 一つの軸上に並んでいるわけではないいくつもの対比が次々と登場する。

 例えば次の二つの対比はどうか。

主人公/異端者

 英雄/普通の人

 これらはまたしても同一軸上には並べられない。

 「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人」は対応しそうな気配はない。

 例えば次の一節を参照してみよう。

その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。

 「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。


 後半、「近年の人類学」に話題が及ぶとようやく「鳥の眼/虫の眼」が登場する。

 その直前に、「征服者/訪問者」という対比も文中から見つかる。

 これはなかなかに解釈の難しい対比だ。

 英雄/普通の人

征服者/訪問者

 は並べられそうな感触がある。が「普通の人」と「訪問者」は対応しそうだが「英雄」と「征服者」には反対の印象がある。いや、共通性が見出せないこともないのだが。「反対」と見なすには共通の土俵が必要でもある。

 また「白人/黒人」と並べてみると、「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。では「黒人」は「訪問者」なのか?

 そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アメリカ人である白人のアリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。

 これは対比の軸が違っているということだ。


 対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。ここまでに挙げたいくつもの対比のうち、これにあてはまるのは「征服者/訪問者」だけだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。

 では「征服者」とは誰か?

 「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。

空からの視線は支配者の視線に通じる

 「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。

 それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。

 だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。

 「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっと、ある意味で正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味で」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。

 そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているようには思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。

だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。

 ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?


 明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。

 二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?

 二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?


 なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。

 あとは各自、小論文執筆、健闘を期待します。


視点を変える9 鳥の眼と虫の眼1 木を見る

 文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(小説・随筆)の方がはるかに難しい。

 この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、所々急に話題が跳んで、論理を追うのは難しい。すっきりと読み下せない。


 この文章が「視点を変える」シリーズなのだということは見当がつく。

 題名の「鳥の眼と虫の眼」がそもそも「木を見る、森を見る」みたいだな、という印象がある。

 どう対応する?


 「木を見る」は近づいて見ることを意味し、これが「虫の眼」に対応するのだろう。「森を見る」は離れて全体を見ることだから「鳥の眼」がそれに対応しそうだ。

 その上で「木を見る、森を見る」は「視点を変えると違う見え方がする」ことを語った文章だった。メッセージ風に言うと「いろんな視点からものを見よう」。

 「鳥の眼と虫の眼」はどうか?


 この文章も「視点を変える」というモチーフを共有していそうだと感じられるのは、例えば次のような一節を見ても明らかだ。

同じ風景が広がっているのに光の色が異なっているような

図像を反転させるように別の見方を取る

異なる光の下で別様に見えてくる

 もっとはっきり「視点が変わる」という表現も出てくる。

違う光の下で景色を見るように、こうした場面に昔は気づかなかった何かを感じ取ってしまうのは、自分の視点が変わったせいだろう。

 違う視点から石井さんに見えてきたのはどんな景色なのか?


 この文章の「森」の姿は、最後に各自でスケッチしてもらうことにする。600字の小論文として。

 授業では「木を見る」ことから始める。


 新年早々、贅沢な時間の使い方をする。「わからないところ」を出し合い、答え合う。

 わからないことがないのなら教わる必要もないのだから、「わからないないところ」があるかないかを確かめずに行われる授業というのはナンセンスだ。だから本当は、授業(教授)は、学ぶべき事柄を提示した上で(テキストなどを読ませて)、どこがわからない? とまず訊くべきだ。というより学習者自身が、そのテキスト情報だけではわからないことを教授者に問いかけるべきだ。

 実際にはそうした一対一対応をすることが時間的にも人的にも不可能だから、一斉に「授業」という形態で教授が行われる。それだけでなく、そもそも学習者は何を「わかる」べきか、どうなら「わかった」と言えるのかを判断できないから、教授者が「教える」べきことを判断して「教える」ことの有効性にも一理はある。

 だがそうして行われる「授業」が、実際は自分で「わかる」べき学習者を怠惰にしていたり、学習者自身が読めば「わかる」ことを、授業者が説明している無意味な展開に陥っていることはよくあることだ。特に国語の、特に現代文分野では。

 だから、やむをえず上のように行われる「授業」とともに、学習者の側も常に「わからない」ことを問いかけようとする必要がある。


 新年に始まったNHKのドラマ「テミスの不確かな法廷」の主人公である松山ケンイチ演ずる判事は、「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません」と繰り返し言う。

 そう、真実に迫るには、「わからないこと」を明らかにしようとする姿勢が必要だ。「わかったこと」は「わかっていないこと」との対比によって輪郭づけられる。

 そこで、「何がわからないかがわからない」と言いたくなるのは人情だが、そう言わず、粘り強く自分の中の「わからない」が何なのかを見つめる。その「わからなさ」が適切な問いになった時には、半ば以上その問いは解けている。

 ただし「全体として何を言っているか?」は今回はナシ。それは「森」の問題でもあり、思考停止でもある。「全体=森」は自分で考えることを課題にする。

 授業では「木」の姿を明瞭にすることをめざす。


 だがやはり、何がわからないかがわからない、文章ではある。それでも、二人で一緒に「わからない」ことに安住して思考停止していないで、何かを投げかけてみれば、隣の人は、授業者は、何らかの反応をする。それらは思考を前に進めるために有益な情報のはずだ。


 いくつものクラスで、サン・テクジュペリが遊牧民に救われるエピソードの近辺が質問される。確かにこのあたりはなんだか「わからない」。問いも、何を問うべきか、はっきりしない。

 ただ、解釈を阻む要因として次の一節の読みにくさが問題ではある。

遊牧民はあくまで無言だ。それでもは、遭難した者たちに水を与えるという行為を通して、〈人間〉の顔を受け取っている。

 この「彼」とは誰か?


 これが問いとして発想されたりはすまい。それぞれの読者は、”どちらか”を代入して、そうでない候補の可能性を考えたりはしない。だからほぼ半分の人はこれを誤解している。そしてそのまま無理矢理解釈しようとしている。

 この誤解の可能性に、例えば話し合いの中で気づくかというとそれも難しい。いや、気づいてほしい。何か話が食い違うぞ、と思って、「彼」が指すものが違っているのだと気づいてほしい。

 だがそれはなかなか難しいことだ。相手の話を注意深く聞いて、自分の考えとすり合わせる、真摯な姿勢が必要だ。

 ではこの問いがどうして発想されたかと言えば、授業者自身の読解過程での誤解からだ。そう、「彼」が指す対象を誤解していたことに、しばらく考えてからわかったのだった。

 「彼」とは遊牧民か? サン・テクジュペリか?


 意見はほぼ半分ずつに分かれた。

 候補を二つ並べてさあどちらが適切か、と考えたら、結論は早急に統一されるにちがいないと思っていたのだが、いやはや簡単には決着しなかったのは、問題でもあり、面白くもある。”正しくない”方を代入しても、それはそれで解釈できてしまうのだ。

 考える手がかりは、「彼は」の述語が「人間の顔を受け取っている」であることと、「それでも」に含まれる逆接の論理をたどることだ。

 「彼」を「遊牧民」だと思ってしまうのはごく自然なことだ。「彼」という代名詞で代替される対象は近いところで候補が探される。そして「彼は」の直後の「遭難した者たちに水を与える」が明らかに「遊牧民」の行為なのだから。

 にもかかわらず、ここはサン・テクジュペリを指していると読むのが正しい。そう考えてこそ、「それでも」の逆接も「受け取る」の述語もしっくりとはまる。

 こういう誤解がほぼ半分(以上?)の読者に生ずるのは石井美保のミスだとも言えるが、読者の不注意でもある。広い視野で、やや長い文脈を読む必要あるのだ。


 「遊牧民は無言」なのだから、サンがそこから何かを(言葉を)受け取ることはできないはずなのに、でも「受け取っている」、という逆接の論理が「それでも」で示されていると読むのがしっくりいく。

 ここから、前の段落の「ただそれでも」に注目するのも有効だと気づいた。

ただそれでも、その物語から失われない人間性というものが、もしありうるのだとしたら。

 まずこの文末が不自然ではある。倒置法の可能性も考えてはみるが、それらしい候補がないので、これは省略なのだと考えよう。何が続く?


 いたずらに難しく考える者が意外と多くて困ったものだが、「~としたら」には「それはどういうものなのか?」あたりが続くのだろうということは自然にわかるはずだ。さらに読解が進めば「それはどういう状況で・条件であるのか?」くらいの疑問を隠しているのだと考えることはできる。

 さてこれが「それでも」の後にくるのだから、前には、それと逆の方向性があったと考えられる。となると、文章の論理展開は次のようになっているのだと考えられる。

失われそう

 それでも↓逆接

失われない人間性はあるのか

ある

 最後の「ある」の部分が上述の遊牧民のエピソードで示されているのだと考えられる。

 そして論理的に推測される「失われそう」だという方向は、その前の「人間の土地」「大草原の~」「オリエンタリズム」によって示されている。そう読むことができるだろうか? それらのエピソードがいずれも、幼い頃に疑問も持たずにいた「人間性」に対する信頼がグラつきそうなことを示すエピソードだと。


 この大きな論の展開を捉えるだけで、全体に対する見通しはかなりすっきりする。

 それでも「あるのか?」以降の展開はなお手強い。


2026年1月9日金曜日

羅生門 補遺 ペリシテ人のモラル

 いくつかのクラスで触れたが、その余裕のなかったクラスもあったので、ここに書き留める。

 芥川本人が「羅生門」について書き残したメモが見つかったのは30年ほど前で、公開されたのは今世紀に入ってからなので、これに基づく「羅生門」解釈はまだあまり一般的ではない。

 Teamsにはアップしてあり、論考を提出する気のある人は目を通すことを勧めたのだが、読んでいる人は少数らしい。

 原文は英語で書かれた「Defence for “Rasho-mon”」。以下はその一節を和訳したもの。


「羅生門」への弁明

「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。

 芥川は「羅生門」の主題を「moral」だと言う。

 なるほどそうだと、素直にのみこめるだろうか?


 「エゴイズム」がスキーマであるように、「moral=道徳」もやはりスキーマだ。だから「モラル」という言葉を使って、ある「羅生門」理解=ゲシュタルトを顕現させることはできる。

 これを「エゴイズム」というスキーマによるゲシュタルトと一致させてみよう。

 「モラル」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。

 通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。だから「生きるためのエゴイズム」が許容されるということは、「道徳」が否定されるということだ。

 これは一体何のことを言っているのか?


 そもそも「エゴイズム」とは何のことか?

 言うまでもなく引剥ぎのことだ。引剥ぎという行為の根拠となる論理のことだ。己の必要の為に他人の物を奪う原理だ。

 では「モラル」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?


 この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。「引剥ぎ」は上の通り「エゴイズム」に対応している。

 では、というと老婆に対する「憎悪」が挙がる。いやそれより前に挙げるべきことがあるはずだ。

 まず物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うのが「モラル」だと考えるべきだ。

 悪を為さないことで飢え死にの可能性があるのに迷っているのは「モラル」があるからだ。死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理はその延長にある。

 なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?


 芥川のメモは、一度「モラル」と書いてから「少なくとも“philistine=ペリシテ人のモラル”は」と言い直している。「ペリシテ人」とは「教養のない俗物」を指す慣用表現だ。「知識人」が一般大衆を見下すときにつかう形容だ。

 芥川は、世間の人が口にする「モラル」を皮肉って、「俗物の道徳」と呼ぶ。

 「俗物の道徳」がどうだというのか?


 「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。

 だからフラフラと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど浮薄なものだ。

 「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を下人の行為を通して表わしているのだ、と理解することができる。

 これは「エゴイズム」を主題とする「羅生門」把握と一致する。

 本来であれば悪であるはずの「エゴイズム」が、生きるためなら正当化されるというのなら、それを断罪するはずの「モラル」など、上記のように脆弱なものだという認識と一致する。


 さてでは「エゴイズム」をスキーマとする「羅生門」解釈ではなく、「観念」をスキーマとする「羅生門」読解と「モラル」というスキーマによる読解は一致するのだろうか?


 「羅生門」とは、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する話、だ。

 つまり「ペリシテ人のモラル」、つまり世人の「モラル」こそ、空疎な観念の上に載っている脆い物だと言っていることになる。

 「モラル」とは「善」と「悪」をめぐる価値の対立だ。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。

 例えば下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」はモラルの表れだが、その歪なありようを通して、我々の持っているモラルの歪さを描く。

 そのようなモラルが「観念的」だということが自覚されることで、盗人になることを止める力を失ったということが、結末の引剥ぎの実行で表現されている。


 ということで「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、そのまま「モラル」をスキーマとする「羅生門」理解に適用できる。

 「モラル」は「極限状況」と「老婆の論理」に敗れたのではなく、その観念的な脆弱さによって否定されたのだ。


2025年12月25日木曜日

羅生門 18 終わりに

 ここまで8回の授業で「羅生門」を読んできた。

 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化と細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。


 以上のように示してきた「羅生門」の読解が難しい原因は三点あるのだと、今年腑に落ちた。

  1. 「老婆の論理」が下人の行為を引き起こしているという理路が揺るぎない前提として疑われないこと。
  2. 行為の必然性を生じさせる要因が問題なのではなく、行為を阻んでいた要因こそ問題なのだということがわかるのは、後ろから遡るしかないという構造上の必然からくる認識の困難。
  3. 高校生は「観念」という語彙を持ってはいないこと。

 3はつまり「スキーマ」と「ゲシュタルト」の問題だ。

 スキーマがないと、ゲシュタルトは構成されず、認識されない。

 「小説を理解する」ことも「認識」の一種だから、それはつまり、あるスキーマによってゲシュタルトが成立したということだ。「エゴイズム」はそのようなスキーマであり、しかも近代文学を理解する上ではきわめて頻繁に用いられるスキーマだと言ってよい。

 「羅生門」もまたそうして「極限状況におけるエゴイズムを描いた小説」というゲシュタルトで人々に認識されている。むしろ「羅生門」は、高校1年生で読むことで、「エゴイズム」というスキーマを高校生に装塡する役割を担っていたというべきかもしれない。

 だがそのようなゲシュタルトとしての「羅生門」は、底の浅い、弱い小説だ。全然大した作品には思えない。

 といって別のゲシュタルトを構成するためのスキーマが授業者には長らく見つからなかった。スキーマがないとゲシュタルトは構成されない。像を結ばないばらばらな情報群として、「羅生門」というテキストは繰り返し読まれてきた。

 「観念」という語は、そこに像を結ぶためのスキーマであり、そうしてできたのがここまで示してきたゲシュタルトだ。

 だがこのスキーマは、高校生には装備されていない。

 エゴイズムも装備されてはいなかったろうが、エゴイズムは「なぜしたか」と結びつくから、授業によってその解釈が示されると理解することは比較的容易だ。

 それに比べて「観念」というスキーマは「なぜできなかったか」と結びつくから、上記2の困難によって発想されにくい。

 それだけでなく、その語の持つ平凡さによっても、かえって想起されにくい(「エゴイズム」という目立つ言葉はそのことによって想起されやすい)。

 さまざまな必然性によって、「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、成立が難しい。


 引剥ぎという行為の必然性は、それを容認する「老婆の論理」によって発動するのでも、「極限状況」の深刻化によって発動するのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。むしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 以上のような授業者の結論は、実際はここまで述べてきたような問題設定に基づく考察の積み重ねによるものではない。発想は、下人のうちに最初に燃え上がった①の「憎悪」の描写が表す奇妙さを何とか言葉にしようと考えているときに、突然、結論として「降りて」きたのだった。それが「幻想・観念としての悪」という表現として形になったとき、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはこのためだったのだと気づいたのだった。そこから、行為の必然性に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が一気に開けた。

 だからここまでたどってきた問題設定は、本当は解答から遡って逆順に設定されている。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」が「なぜ最初はできなかったか?」という問題であることは、その答えから遡ってしか発想できない。「なぜできるようになったのか?」と問う限り、それは例えば「老婆の論理」に拠るしかない。

 だが授業ではみんな自身が考えることに意味がある。だから考えるべき問題が何なのかを明らかにした上で、その糸口を示す必要があった。最終的な到達地点がどこなのかを示した上で、そこにいたる道筋を辿ってきた。

 この問題設定は、結論まで一気にたどりつくようには、簡単に展開されはしない。長い時間をかけて、8回の授業展開として構成されたものだ。

 「羅生門」の「主題」を捉えるためには、引剥ぎという行為の必然性を当面の問題として設定すべきであること。

 その論理を明らかにするためにこそ「心理の推移」を追うべきであること。

 「羅生門」の授業を貫く問いはこうして構想される。


 これで、今年唯一の小説の読解を終える。


2025年12月24日水曜日

羅生門 17 答え合わせと検算

 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してだ。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪だ。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。


 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「大きいと思っていた幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからだ。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」だ。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


 物語冒頭の下人の現状認識は観念的だった。

 「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることを証拠立てる。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのだ。


 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは、正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉として説明した。

 だが今ではそれよりもむしろ、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられていることになる。

 老婆に対する攻撃性は、言わば八つ当たりだ。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?
 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところだろう。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。
 そしてここまでの結論によれば、にきびはそのまま「観念」の象徴だと言える。頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかない。

羅生門 16 結論

 授業者が①に入る言葉として提示するのは「観念」だ。

 そう聞いてもみんなはただちにピンとはこまい。

 この語彙は高校生にはない。言葉としては知っているはずだ。だが「語彙」というのは「知っている言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という言葉を高校生は想起しない。知っているが使えない。

 だがこの小説を捉えるために、これより的確な言葉を思い浮かべることが、今のところ授業者にはできない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念」の対義的な形容は「現実」である。「お前の言ってることはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、「正義が引っ張る力」か「悪に対する抵抗」が強かったからだ。左向きの力が強かったのだ。

 それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 的な悪」から「③ 現実的な悪」に変わったからだ。左向きの力が弱まって、「盗人になる」右向きの力にしたがうしかなくなったのだ。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。


羅生門 15 最終考察までもう一歩

 下人はなぜ引剥ぎをしたか?

 これは「正義」の引力と「悪」の抗力の釣り合いが変化したことによる。

 それを引き起こしたのは老婆の「平凡」な答えだ。下人は老婆の長い言い訳を聞いたから引剥ぎをしたのではなく、端的に言えば平凡な引剥ぎの理由を聞いたから引剥ぎをしたのだ(まだ何のことかはわからないだろうが、そう結論できるのだ)。

 その時下人の裡に起こった変化を捉えるのに有効なのは、「心理の推移」の分析の際に行った、二つの「憎悪」の比較だ。その際の番号に従って①「憎悪」と③「憎悪」と呼ぼう。

 ①は「一般化した対象に向けた熱い憎悪」、③は「限定された対象に向けた冷たい憎悪」だと捉えられる。両者に共通しているのは「悪に対する憎悪」だということだ。ここで共通点を確認した伏線の理由が明らかになる。この時上記のバランスが変わったのは、すなわち「悪」に対する認識が変化したことと対応しているのだ。

 ①と③の相違を次のように整理する。

   としての悪に対する憎悪 または ①   的な悪に対する憎悪

   としての悪に対する憎悪 または ③   的な悪に対する憎悪


 空欄に入る言葉は何か?


 これは生徒が自ら考えつくような思考法ではない。

 実は授業者もこのように問題設定をして思考したわけではなく、これはむしろ説明のために発想したものだ。それを最後の誘導に利用する。

 この比較を可能にするために「憎悪」の共通点を「に対する憎悪」であると確認することが必要だったのだ。

 先の相違点を、その対象の違いとして表現する言葉を探す。①③の空欄にはどんな言葉が充てられるか?


 対義語としては「主観/客観」が思い浮かぶことが多い。

 だが、①③のどちらにも「主観」「客観」が入りうるし、どちらでももっともらしい説明ができてしまう。つまりこの対比は有効ではない。

 「絶対/相対」も挙がるが、この言葉でも論理がつながるとは言い難い。

 ①と③の比較では①「対象が一般化されている」、③「対象が老婆に限定されている」という表現を使った。ここから「一般/個別(限定)」も発想されるし、「抽象/具体」に置き換えることもできる。

 この対比は悪くないが、ここから主題の把握までには距離がある。


 さて、ギリギリのヒント。

 ①に入りうるのは「幻想」「虚像」「イメージ」などの言葉だ。

 だがそれより適切な言葉がある。


 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉①③を探す。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


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