では行為の必然性を支えるもう一つの柱「老婆の論理」はどうか?
先のAB論争は、「老婆の論理」と引剥ぎという行為の必然性との関係、ひいては行為の意味を問い直すことにつながる。ABのどちらを重視するかは、下人の引剥ぎを「自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す行為」と捉えるか「悪の容認の論理を受けて盗人になる決意」と捉えるかの選択につながる。
従来の理解は下人の行為を後者として説明しているのだが、実際に訊いてみると前者を支持する者の方が多い。これは、後者のように考えることは、実はそれほど読者の実感に沿ってはいないことを示している。「極限状況」同様「老婆の論理」もまた、小説を読む読者の実感と乖離している。
丁寧に論理をたどろう。先に三つに整理した立場のうち、3、引剥ぎは「生きるため」であり、それを語るBの論理が下人を動かしたのだとする理解はやはり脆弱であり、議論が進むとほとんど支持者がいなくなった。
Bは最初からわかっていたことだ。実際に、物語冒頭の下人は次のような認識をもっている。
この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人を動かしたのはBではない。
この主張は実に論理的だ。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのは無意味な循環論法だ。
それでもなお次のように考えるのならば、Bの解釈も可能かもしれない。
「羅生門」は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、実際に実行している者を見、その言葉を聞くとできるようになるということもあるという人間心理を描いているのだ、人は大義名分によって動く、他人の言葉を免罪符として実行しにくい行為に踏み切ることがある、「羅生門」はそうした人間心理を描くことを主題としているのだ。
こうした解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川なら書きそうだという感じもする。
だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が行為の必然性を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。周到な芥川がそこに気を配らないとは考えにくい。
それに、これでは「嘲る・かみつく・手荒く」の説明ができない。老婆と同じように「生きるため」の悪を受け容れるならば、せめて後ろめたさと開き直りを老婆と共有してもよさそうだ。
ではこの攻撃性はやはりAが下人を動かしたことを示しているのか。
1の解釈のように、「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は確かに小説の味わいとしても悪くない。そしてこれは「極限状況」は実は描かれていないという見方にも整合する。
だがこれも首肯できない。それは「羅生門」が何の話だということになるのか。
それでは物語の主人公がむしろ老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。
これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。単に引剥ぎによって老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面の印象だけを捉えているだけで、小説全体を捉えてはいない。
では2の立場はどうか。
少なくともAはBを支える根拠にならない。生き延びるためには、いちいち相手もそのようなことをしていたかどうかを確かめることは実用的ではないからだ。
では行為の原理はBだが、その契機がAであると考えることは可能か。それは少なくとも従来の「羅生門」理解とは随分違った解釈になるはずである。主題は「極限状況における生きるためのエゴイズム」などという大仰なものではなく、老婆の自己正当化の論理に見られる、いじましくもしぶとい人間の悪知恵の「エゴイズム」とでもいうことになろうか。
だがそれは「羅生門」という小説全体の書き込みが示す空気感と不釣り合いに思える。「生きるための悪を肯定することへの迷い」という当初の問題がどう解決しているのかがわからない。
それでも、少なくとも「かみつくように」「手荒く」に表れる下人の攻撃性に説明をつける必要はあるし「嘲るような」はなおさら気になる。この問題は後で検討する。
「老婆の論理」はどのように考えても、結局下人を動かすには論理的に脆弱だ。にもかかわらず「老婆の論理」が行為の必然性を導いていると考えられていることには理由がある。
それは何か?
理由は明白だ。老婆の長広舌の後の次の一文。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
ここには、老婆の言葉が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせていると書いてあるように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が行為の必然性を支えているとして疑わない。
本当にそうか?
だがこの理路を否定するには、実際に別の論理を提示するしかない。後半で展開する予定の授業はそれを企図している。
この時点では抜け道の可能性を示しておく。
次の二つの表現はどう違うか?
1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
並べてみればすぐにその違いは感じ取れる。
といってその違いを適切に説明することが容易なわけではない。Aは「聞いている」途中に「生まれてきた」が、Bは「聞いた」後だ、などという説明はイマイチ。
B「これを聞いて」は、老婆の言葉と「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。だが原文のA「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉が単なるBGMであってさえ構わないということになる、と言った生徒がいた。巧みな表現だ)。
一般的な「羅生門」解釈は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えている。「老婆の論理」と行為の必然性の間にある因果関係は決して疑われることなく前提されてしまう。この思い込みによって、老婆の言葉がどのようにして下人に引剥ぎをさせたのかが説明される。これは論理が転倒している。老婆の言葉と引剥ぎの実行の間に論理的必然性を認めるから因果関係を認めているのではなく、先に因果関係があるはずだとみなして、その論理を説明しようとしている。だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。
この小説に「極限状況」や「老婆の論理」はあるか?
ある。だが「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。この二つの要因で引剥ぎという行為の必然性を説明することはできない。
生きるための悪の容認、などという主題が想定されうるとしても、それがおよそこのように説得力のない形で作品として成立させようと考える作者がいるなどとは到底信じられない。それでも単にこれが失敗作なのだと断じないのならば、下人が引剥ぎをすることの必然性を支える論理を、芥川が意識的に作品に書き込んでいることを信じなければならない。その信頼がなければ「羅生門」を読むことはできない。