2025年5月25日日曜日

共に生きる 11  〈私〉時代のデモクラシー 2 近代のプロジェクト

 全体をつかんだところで細部の解釈の練習。事前課題にした次の一節を、ここまでの読解の成果を活かして解像度を上げて再考察する。

「近代」のプロジェクトが成功し、成功したためにこそ、その効果が自分自身に跳ね返り、「近代」そのものが新たな段階に達しつつある。

 これはどういうことを言っているか?


 三つの要素に分けて、それぞれが説明できているかチェックする。

  • 「近代」のプロジェクト
  • その効果が自分自身に跳ね返る
  • 新たな段階


 まず、「『近代』のプロジェクト」とは?

 本文中で「近代の目標は」を受けているのは次の三箇所。

  1. 伝統からの解放
  2. 宗教からの解放
  3. 「公正で平和な社会」の実現

 1と2は並列だからまとめて扱うとして、それと3の関係はどうなっているのか?


 3は「など」と言われているから、一つの例なのだと考えられる。1と2の延長上に例えば3のような目標を達成しよう、と言っていると考えればいい。

 3は「平和な」がわかりにくい。「平和」の対義語は「戦争」だが、「戦争のない社会の実現」と言ってしまうと話が大きくて、これが「近代における個人の誕生」と何の関係があるのかわからない。ここでの「平和」は、「解決のために暴力的な手段を用いない」くらいの意味だ。例えば? 「法治国家」のイメージ。これなら「公正」と並列にできる。

 1・2で言うように、伝統や宗教から解放されたのが「個人」だ。そうした運動の方向の先に、例えば「公正な社会」があることがわかるだろうか?

 「公正で平和な社会」は「近代的個人」を構成員として前提しているのだ。

 さてその「運動」の「効果」が「自分自身に跳ね返る」という表現が何を意味するかは、先に「新たな段階」を掴んでから考えよう。

 文中から「新たな段階」を抽出できそうなのは次の箇所。

現代の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 「近代のプロジェクト」が「個人の解放」だとすると、新たな段階「一人一人の選択が強調される」までの因果関係は見やすい。

 だがこれはどこがどう「跳ね返」っているのだろうか?

 さらに「公正な社会の実現」とはどう関係しているのだろうか?


 「新たな段階」は「旧い段階」と比較するのが有効。対比の考え方だ。「後期近代」などと言っているから「前期近代」があるわけだ。

 「前期近代」は「前近代」ではない(まぎらわしい!)。「前近代/近代」という対立がまずあり、「近代」がさらに前期/後期に区別される。この「後期近代」は、ほとんど「現代」のことだと考えて良い。「現代」のことを「脱近代」とも呼ぶが、それだと「近代」とのつながりがないように感じられるから、「後期近代」という言い方でいこう、と宇野は宣言している。この「後期近代」が「新たな段階」だ。

 つまり「前近代→前期近代→後期近代」という三段階に分けて考える必要があるのだ。

 「前近代/近代」という対比については上に見たように「伝統・宗教による拘束/解放」と捉えられる。

 問題は「前期/後期」だ。ここを言い分けてみよう。

 前期/後期という対比はここで初めて登場するわけではない。前の文章中にも対比を示す表現がさりげなく置かれて、対比構造が示されている。

 だがそれらはいずれも明確な、取り出しやすい対比の形で置かれていないから、それと気づくのが難しい。この文章の読みにくさはそうしたことにも原因がある。

 例えば次の一節。

近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。このような時代(=前期近代)においては、そのような社会の理想を実現するための「革命」という言葉には、独特の魅力がありました。しかしながら、現代(=後期近代)の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 ここには「最初の/もはや・今の」といった対比がある。これが「前期/後期」の対比に対応している。

 ここからどう対比を取り出せばいいのか?

 「理想に魅力があった/ない」? わかりにくい。

 下線部から次のように抽出できる。

「公正な社会」という理想/一人一人の〈私〉の選択

 これはどう対比になっているのやら、わかりにくいことはなはだしい。そしてこの変化、ないし推移には、「跳ね返り」と言えそうな因果関係があるというのだ。

 これを説明するのはけっこう厄介なはずだ。


 「前期/後期」の対比を表現している箇所は他にもある。例えば次の一節。

今や「ソーシャル・スキル」の時代です。人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし維持していかなければならないとされます。「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という言い方もなされるようになりました。今日、人と人とのつながりは、個人にとっての財産であり、資本なのです。逆に言えば、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。

 上の一節には「初めの/今や・今日」という対比が見つかる。これも「前期/後期」の対比だ。

 ここから抽出できる対比要素は、下線部より次のように整理できる。

束縛からの解放/関係を作る

 これは比較的「跳ね返り」が説明できそうだ。「束縛からの解放」によって、一人一人がばらばらな「個人」になった(前期)。ばらばらなままでは不都合なので(たとえば鷲田ふうに言うと「寂しい」ので)、かえって関係を作ろうとするようになっていった(後期)のだ。

 確かに「跳ね返」っている。

 さてでは「『公正な社会』という理想/一人一人の〈私〉の選択」がこれと同じ対比であることを説明できるだろうか?

  • 前期近代→「束縛からの解放」=「『公正な社会』という理想」?
  • 後期近代→「関係を作る」=「一人一人の〈私〉の選択」?
 筆者の認識の中ではこれが一致しているはずなのだ。
 どういうことか?

 前期はどちらも「個人の誕生」のことだ。「個人」は束縛から解放されて成立した。そして「公正な社会」は「個人」によって構成される社会だ。公正であるとは、誰もが同じ権利を持っている状態だ。それこそ「個人」の条件だ。
 後期の「関係」は、前近代的な「関係」=社会的コンテクスト=伝統や宗教の拘束とは違って、自分の選択によって作る「関係」のことだ。「くびき」がなくなって、ばらばらになってしまったから、今度は自分で選択して関係を作り直さなければならないのだ。

 以上、本文で論じられている、前近代→前期近代→後期近代(現代)への推移が解像度を上げて見通せるようになっただろうか?

2025年5月23日金曜日

共に生きる 10 〈私〉時代のデモクラシー ー「近代」と「個人」

  「近代」と「個人」という概念に慣れるために、鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」の以下の文章を読み比べてみよう。

 唐突にとおもわれるかもしれないが、近代の都市生活というのは寂しいものだ。「近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。すくなくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にもにも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的なコンテクストから自由な個人ということだ。そして都市への大量の人口流入とともに、それら血縁とか地縁といった生活上のコンテクストがしだいに弱体化し、家族生活も夫婦を中心とする核家族が基本となって世代のコンテクストが崩れていった。そうして個人はその神経をじかに「社会」というものに接続させるような社会になっていった。いわゆる中間世界というものが消失して、個人は「社会」のなかを漂流するようになった。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であってじぶんにとっての意味ではないらしいという感覚のなかでしか確認できなくなっているのだ。そこでひとは「じぶんの存在」を、わたしをわたしとして名ざしする他者との関係のなかに求めるようになる。こうして近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく。(鷲田清一「ちくま評論入門」60~61頁)


 「そういう時代」とは何なのでしょうか。話が少々飛躍するようですが、「近代」という時代について考えてみたいと思います。

 「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。「近代」は、個人の自由を重視し、個人の選択を根本原則として、社会の仕組みやルールを作り替えようとしました。

 一例を挙げれば、伝統的な社会において、「家」の存続こそが、そこに属するメンバーにとっての至上命題でした。これに対し、「近代化」の結果、そのような意味での「家」は解体し、当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる「近代家族」が取って代わりました。与えられた人間関係を、自分で選んだ関係に置き換えていく過程こそが、「近代化」であったと言えます。

 そして、今や人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならないとされます。今日、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。(宇野重規 教科書135~136頁)

 二つの文章を、近代化の流れをたどるくだりとして重ね合わせてみる。

 二人とも「現代」について話そうとする時に、妙な言い訳をして語り始める。切り出しに、鷲田は「唐突にとおもわれるかもしれないが」と語り始め、宇野は「話が少々飛躍するようですが」と始める。二人が揃って、読者に対して微妙な気遣いをしているところが可笑しい。

 二人とも「現代」の源流を「近代」として捉えているのだが、そう語り起こすことが読者に混乱を起こさないか心配しているのだ。

 さて、鷲田の文章では「くびき」という比喩で語られるものが「社会的コンテクスト」「中間世界」と言い換えられる。「身分~民族」「血縁・地縁」はその具体例だ。

 そうした「くびき」から「個人」を解放してきたのが「近代」だ。

 これは宇野が「これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放する」と言っていることに対応している。「くびき」=「拘束」だ。

 そうして生まれた「個人」は「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」(鷲田)ことを余儀なくされる。「個人の選択を根本原則と」(宇野)するようになったのだ。

 自分の居場所が「伝統的な社会における家」から「当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる近代家族」(宇野)へ変わったという推移は、「くびき」としての「家」から「親密なものの圏内」に推移した(鷲田)ことに対応している。

 「一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならない」(宇野)は、「緊密に、そして大規模にシステム化された社会というのは、「資格」が問われる社会である。」(鷲田)に対応している。「スキル」=「資格」=「できる」。

 そうすると「人は孤独に陥らざるをえない」(宇野)=「近代の都市生活というのは寂しい」「個人は社会のなかを漂流する」(鷲田)。

 二人が「近代化と個人の誕生」を語る一節は、見事に対応している。これは不思議なことではなく、誰でも、語ろうと思えば似たような論旨になってしまうのであり、それだけそうした認識が常識として前提されているということだ。

 「近代」にしろ「個人」にしろ、見慣れた言葉だが、こうした歴史的背景を背負っていることを認識しておきたい。


2025年5月4日日曜日

共に生きる 9  〈私〉時代のデモクラシー ー要約

 宇野は、2020年の菅義偉政権下で問題になった「日本学術会議任命問題」で、政府に任命を拒否された6人の中の一人として話題になった政治学者(おりしも2025年5月現在、日本学術会議を特殊法人化する法案が国会で審議中だが、これは上の問題を引きずっていて、その帰結ともいえる。反対論も巻き起こって、デモが行われたりもしている)。

 駆け足で読み進めるために、要約を課題とした。

 要約は、現代文分野の学習方法として、最も簡便で最も有効な学習方法だ。とにかくやりさえすれば絶対に勉強になる。

 国語の学習は入力(勉強)と出力(テストでの回答)が明確に対応するような教科の学習と違って、やったこと点数の相関がわかりにくい。国語は教科の性質上、スポーツや楽器の練習などと同じ「実技」科目だから、今日の練習でいきなりうまくできるようになるわけではないからだ。

 それで、「国語の勉強は何やったら良いのかわからない」という意見が世に溢れていて、その揚句「国語は生まれつきの才能だから勉強しても無駄」などといった俗説も飛び交う。

 だが、練習しないよりした方が上達するのは間違いない。中学高校の部活だって、もちろんみんながオリンピック選手だのプロだのになれるわけではないが、部活外の人よりはまず上手くなるものだ。少なくとも昨年の自分よりは絶対うまくなる。その上達が一日二日では(あるいはテスト直前の勉強では)わかりにくいというだけだ。

 で、その練習方法として最も有効なのが要約だ。


 要約は、字数を変えると、いくらか効果の異なる学習になる。

 短くすれば原文の本質・核心をつかむ練習。

 長くするほど展開の論理的組み立てが必要になる。

 今回のはノート2行くらい、50~60字くらいに、という指定だった。みんなどんなふうに要約したろうか。


 試みに、ひとつ。

現代のデモクラシーは、一人一人他人とは違った〈私〉が集まって〈私たち〉をつくらなければならないという問題に直面している。(60字)

 最後の2頁の論旨を中心にしている。題名との関連も重視している。

 一度書く時間をとってから、今度は「近代」「個人」という言葉を入れて、もう少し長く、という条件をつけてみる。半分以上の人は最初から使っていたが。

 例えばこんなの。

近代、古い伝統や宗教から自由な「個人」が生まれた。一方で誰もが同じような〈私〉になってしまう中で、かえって自分の個性を求めるようになっている。

 最後の2頁より以前の趣旨は、こちらの要約の方が適切に表現しているように感じる。両者の趣旨は、これだけ見ると結構異なっている。

 みんなはどちらの論点を中心に要約しただろうか。もっと長ければ両方の趣旨を含む要約を書けば良い。だが短いときにどちらの趣旨を採るかは判断に迷う。

 つまり要約に正解はない。とにかく要約しようとすることが練習になる。


共に生きる 8 「近代的個人」とは

  教科書の三つの文章の共通テーマが「自立」だとすると、「ちくま評論入門」の二つの文章の共通テーマは何か?


 「私という存在」といった表現が適当だろうか。あるいは「自分・自己」あたり。

 ここに6本目の文章「〈私〉時代のデモクラシー」を並べてみる。

 「私」が接点になりそうなのはすぐわかる。

 「ほんとうの『わたし』とは?」は題名の通り「私という存在」についての新しい見方を提示しているし、「『つながり』と『ぬくもり』」は「私という存在」があやうくなった現代人の問題を論じている。

 では「〈私〉時代のデモクラシー」の論旨はそこにどう絡んでくるか?

 接点を増やそう。次の一節を読み比べてみよう。

ほんとうの「わたし」とは?

自分がつねに同一の存在であり続けるというのは、まさに近代個人主義的な人間観です。

それ以上分割不可能な存在という意味が込められています。この西洋近代的な個人とは…


「つながり」と「ぬくもり」

近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき、「封建的」といわれたくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。

近代都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもある

 これらの一節に繰り返し出てくるキーワードは「個人」「近代」だ。

 この二つの言葉がいわゆるキーワードというほどの重要な語句であることは、高一のみんなには意識しにくいはずだ。

 「個人」が「私」というテーマに関係しそうなことは予想できる。「私」は一「個人」だ。

 だが「個人」などという言葉はつい、何の気なしに使ってしまうものだ。それが特別に重要なのか?

 もう一つ、「近代」もまた、みんなにとっても見慣れた言葉のはずなのだが、実は「近代」という言葉は中学生の語彙にはない。知ってはいるが、何を意味しているかをわかっている中学生はまずいない。

 見慣れているのにわかってはいない、という二重の理由で盲点になっていて、それが重要な言葉であることは意識されにくい。

 だが「近代」という言葉は、高校の評論を読む上では最大級に重要な言葉なのだ。高校で扱う(ということは入試で出題される)かなりの割合の評論が、何らかの意味で「近代」をめぐる問題を論じている。あるいは直接そうは言わないとしても背景として前提している。

 「個人」と「近代」という言葉をキーにして「ほんとうの『わたし』とは?」と「『つながり』と『ぬくもり』」を捉えなおしてみる。

 それぞれの文章で、「個人」と「近代」がどうだと言っているのか?


 ここでは「近代における〈個人〉とは…」と主語を揃え、述語を比較する。

 「ほんとうの『わたし』とは?」で述べられている「個人」とは、分割不可能な常に同一の存在だ。

 「『つながり』と『ぬくもり』」の「個人」とは、封建的な社会のくびき(コンテクスト)から解き放たれて「自由」になった存在だ。

 これらは共通した認識を語っているのだろうか?


 言い方の違いに惑わされないで、共通したイメージを抽象する。

 共通するのはやはり、独立した・孤立した・完結した「個人」というイメージだ。そういうイメージを心に留めながら上の一節を読み直してみよ。腑に落ちるはずだ。

 そしてこれは結局、全体の共通項である「人は他者とのつながりによって存在する」の裏返し「他者とのつながりを失った個人」の問題なのだ。


 さらに発展して「近代」「個人」を語る上で、松村と鷲田が、それぞれもう一つ、「近代」「個人」を何の問題として語っているかを把握するためのキーワードを一語ずつ文中から挙げよう。

 松村の論では「西洋」、鷲田の論では「都市」が「近代」と「個人」の近くに置かれている。

 これは何を意味するか?


 「西洋」「都市」は「近代」「個人」とどうつながるか?

 それぞれの対比をとろう。

 「個人」の対比は「社会」が普通だが、ここでは上で述べるとおり「他者とのつながり」。

 「近代」は「中世・近世」(「現代」が対比になることもあるが、今回は措く)。 

 あとは「西洋/東洋・アフリカ・アラブ」「都市/農村」という対比を考えておこう。

 これらの対比はすべて関連している。

近代/中世・近世

西洋/東洋・アフリカ・アラブ

都市/農村

個人/他者とのつながり

 近代といえば事の起こりは西洋における産業革命だ。

 工業化によって大量生産が可能になり、工場勤務の労働者が農村から都市に流入する。これが「社会的コンテクストから切り離される」という事態だ。

 松村・鷲田の文章に登場する「個人」という存在は、そうした近代西洋都市で誕生したのだ。


 「個人」という言葉は日本でも明治に翻訳語として使われるようになった言葉だ。江戸時代まで「個人」はいなかった。言葉が存在しなければ、そのように捉える認識自体が存在しない。

 松村と鷲田の共通テーマである「私という存在」も、そのような「近代的個人」として捉えられる「私」であり、そのようなイメージに対抗するものとして、松村の文章ではパプアニューギニアの人々の考え方が示されている。それは西洋近代以前の人間のありようをイメージさせるものであり、平野啓一郎の「分人」は、それを現代版にリニューアルしたものだ。

 こうした「個人」のイメージは近代にできあがったのだ、という認識はこの先3年間、さまざまな文章で繰り返される認識なので、心に刻んでおきたい。


2025年5月3日土曜日

共に生きる 7 「個人的関係」をめぐって

 さて、「『つながり』と『ぬくもり』」に「個人的関係」という言葉が出てくる。

こうして私的な、あるいは親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの「わたし」を賭けることになる。近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもあるのだ。


 ここから連想されるのはどの文章か?

 「自立と市場」(松井彰彦)が思い浮かんでいてほしい。ただし文中にはこの言葉は出てこない。だがテーマである「市場」の対比が「個人的関係」であることを授業で確認した。すぐに連想できただろうか。

 では「個人的関係」をめぐって、鷲田と松井の見解を比較してみよう。


 それぞれの文章で「個人的関係」と対比されている概念を確認する。

 松井の論では「市場/個人的関係」。

 鷲田の論では何か?

 「個人」の対比は「社会」だから、「個人的関係」の対比は「社会的関係」だろう。それにあたる言葉として「社会的コンテクスト」が挙がる。悪くない。だがここでは「システム」がさらにいい。

 農村の「社会的コンテクスト」から逃れて都市へ流入した「自由な個人」は「システム」の中に組み込まれる。そこから逃れようとする先が「個人的関係」だ。「社会的コンテクスト」は近代の「社会的関係」を指し、「システム」は現代の「社会的関係」を指している。したがって「システム/個人的関係」という対比がいい。

  市場/個人的関係

システム/個人的関係

 さてここから少々ミスリードする。

 二人の論は一見したところ反対のベクトルをもっているように見える。「個人的関係」は松井の論では否定的に、鷲田の論では肯定的に扱われているように感じる。

 二人の認識・見解・論旨・主張は相反しているのだろうか?


 対比の両辺がそもそも違うものを指しているのだろうか。そんなことはない。小十郎と商人の関係はともかく、熊谷さん親子は、鷲田の言う「個人的関系」の一例だろう。「市場」は「システム」の一側面と考えられる。

 ではどう考えたらいいのだろうか?


 二人が論じているテーマは何か?

 二人がそれぞれ「依存」について語っているらしいという感触は正しい。だがここでは二人の主題の違いを確かめておこう。

 「依存」ということは、松井は「自立」について語っているのか。確かにそうだ。

 一方鷲田は「自立」の話はしていない。鷲田の話は松村圭一郎と同じく「わたし」がテーマになっている。もうちょっと言い換えると自分の存在意義とか自分の価値とか。

 「自立」と「自分の存在意義」ではまだ違いがわかりにくい。もうちょっと比較できる言葉で表現しよう。

 「生活」と「心」と言ってみよう。松井は「生活」が自立するかどうかの話をしているのであり、鷲田は自分の存在をどう捉えるかという「心」の話をしているのだ。 

 そうすると上の対比における肯定/否定のベクトルが反対方向に見えることも、「相反している」ではなく、相違として語れるだろうか?


 生活を支える経済的な基盤として「個人的関係」は脆弱であり、市場の方が安定している。だがシステムの中で見失われそうな「自分」の存在を確かめるに、人は「個人的関係」にすがるのだ。

 二つの認識は、相反しているわけではない。


 そもそも松井は「個人的関係」への依存の危険に代わる「市場」を全面的に礼賛しているわけではない。

先立つものがないのはさすがに困るが、お金で手に入れることができないものもたくさんある。特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 この「市場以外のところ」こそ「個人的関係」ではないか。


 一方の鷲田が、「個人的関係」にすがる若者を、単に肯定的に描いているわけでもない。「ますます親密なものの圏内に縮められてゆく」「だれかと『つながっていたい』というひりひりとした疼き」「だれかとの関係のなかで傷つく痛み」などという表現は、明らかに「個人的関係」の閉塞感を語っている。

 それは「個人的関係」が自立の妨げになる危険を述べる松井の論に見られる認識と違っているわけではない。 


 ここにはやはりいずれも「孤立した個人」のイメージがある。

 「自立」をめぐって、「個人的関係」の中で縛られてしまう危険と、そこから市場への緩い「つながり」に期待する松井の論。

 「自己」をめぐって、「孤立」の不安の中で「つながり」において自分を確かめようとする鷲田の論。

 これらはいずれも、近代において成立した「孤立した個人」のイメージへの乗り越えを企図している。

 そうした意味で、両者はやはり同じ認識を共有しているのである。


2025年5月2日金曜日

共に生きる 6 「社会から選択される」

 さて、部分的な読解をしよう。部分の読解は常に全体の読解と相補的だ。

 次の一節はどういうことを言っているか?

じぶんで選択しているつもりでじつは社会のほうから選択されているというかたちでしかじぶんを意識できない

 「どういうことか」という問いは、何を言えばいいのかよくわからない。

 説明を求められている当該の一節がそもそもわからない場合には答えようがない。

 といって、逆にそのままでわかると感じている場合にも、それ以上何を言うべきかわからない。

 いずれにせよ「どういうことか」を説明するのは難しい。

 ほんとうは目の前に「わからない」と言う人がいて、その人を相手に対話を繰り返す中で、その人が何を「わからない」と感じているのかが徐々に明らかになって、初めて「どういうことか」を言うことができる。

 だからテストで、誰がどう考えて「わからない」と言ってるかもわからないのに、「どういうことか」を訊かれるというのは困った事態ではある。

 が、答えなくてはならない。どうするか?


 実は問題の一節は、その直前が「つまり、」で始まっている。つまりこの文の前の7行を受けているのだ。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならないということである。言論の自由、職業の自由、婚姻の自由というスローガンがそのことを表している。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。

 前半が「じぶんで選択しているつもりで」に対応していて、後半が「じつは社会のほうから選択されている」に対応している。ここから適当に表現を選んで継ぎ接ぎすればいい。

 逆にこの一節が「わからない」と感じていた人は、この一節が前の7行とほぼ完全な対応を見せていることを見ていないだけだ。視野を拡げてみればそれは一目瞭然なのに、部分を見ていると「わからない」と感ずる。


 さてこれを、後から語られる「資格」を例にして語ってみよう。

 「わかる」とは、ある意味では、それに対応する例が思い浮かぶ、ということだ。

 「例えば『資格』を例にしてみると…」ということができれば、それは「わかっている」ということだ。


 上の「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」「じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならない」とは、例えば我々は「資格」をとることで自分が何者かを証明する、と言っているのだ。

 どんな資格をとることも我々は自由に選択できる。調理師免許をとって料理人になる、宅建(宅地建物取引士)資格をとって不動産屋になる、司法試験に合格して弁護士になる…。あるいは資格をとらないことも自分で選べる。

 だがそもそも資格とは社会が用意するものだ。社会を動かすための歯車に適した人材であること証明するものが「資格」だ。

 資格をとって何らかの仕事をするということは、その歯車として「システム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆ」くということなのだ。

 資格をとることは自分が選択したことなのに、それはすなわち社会の要請する役割を果たすことになる。それが問題の一節で言っていることだ。

 例を用いて説明したときのこのスッキリ感を感じてほしい。


2025年4月30日水曜日

共に生きる 5 「つながり」と「ぬくもり」

 5つ目に読み比べる文章「『つながり』と『ぬくもり』」の筆者が鷲田清一(きよかず)だと聞いて、その名に反応してほしい。「真の自立とは」の筆者だ。

 授業で読んだ文章の筆者を覚えておくことは有益だ。次に問題集であれ模試であれ、大学入試であれ、同じ人の文章が出題されたときに、読むための構えができる。内容的に重なっていることも少なくない。初めて読む文章でも、そうした構えがあると入りやすい。鷲田清一は入試でも頻出の論者なので、できれば記憶にとどめておこう。


 さて、この文章を「読み比べ」よ、と要求されるのは、かなり難易度が高い、と感ずるはずだ。急に抽象度が増して、手応えがはっきりしない。こういう随筆的な文章は、論理的な評論文よりも趣旨がつかみにくいのだ。

 実はこの文章は旧課程(令和3年度まで)の2,3年生が使っていた「現代文」の教科書にも収録されていて、そこでは3年生が読む想定になっている。確かに1年生にはちょっと、とっつきにくい。

 だがまずは「同じこと」を探さないと「比べ」ようがない。

 共通点は?


 題名に「つながり」とある。もちろん他者と、だ。

 そう、これも「他者とのつながりは大事だ」という認識が共有されているのだ。

 さてもう一つ、いとぐちになりそうなのは「できる/できない」だ。ということは「真の自立とは」と「共鳴し引き出される力」とつなげて考えることができるかもしれない。

 だがそもそも「つながり」と「できる/できない」の関係が把握しにくい。これは「真の自立とは」でもそうだった。これまでの文章と関係づけるより前に、まず「『つながり』と『ぬくもり』」の内容把握が必要ならばやっておく。

 「つながり」「できる/できない」それぞれを使って、15字以内くらいの要約をしてみよう。その後、それらを関係づける。

  1.  現代人は「つながり」を求めている。
  2.  「できる/できない」で自分の価値を決められるのはつらい。

 これらはどういう関係か?

 感触として、逆接関係であると感じられるだろうか。同時に因果関係でもある。

 「できる/できない」が「自分の存在意義」を決めることと「つながり」が「自分の存在意義」を決めることは、反対方向だ。これを表現してみよう。

人は、ほんとうは「つながり」の中で自分の存在を確かめたいのに、「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえない。

 因果関係はどうか? 2が原因で、その結果として1になっていることを表現する。

現代人は「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえないので、無条件に自分を認めてくれる他者との「つながり」を求めている。


 さて、読み比べてみよう。

 「真の自立とは」は同じ鷲田の文章なので、ここは伊藤亜紗と鷲田が、「できる/できない」という対比と「つながり」を用いてどのような論を展開しているか比較してみよう。

 伊藤・鷲田に共通するのは、雑に言えば、「できる/できない」で分けてしまうのは良くない、といったような認識だ。「できない」と言われて排除されるのはつらい。

 鷲田の文章では、だから人は「つながり」を求めてしまうのだ、とつなげるか、それは人々の「つながり」が薄れてしまっている現代において起こった現象だ、とつなげるか。

 伊藤の文章では、個人で「できない」としても、他人との「つながり」の中で「できる」ことが大事だ、などとつなげることができる。


 ところで「できる/できない」を、それぞれの文章ではどのような言葉に言い換えているか?

 伊藤の文章では「能力」がそれにあたる。

 鷲田の文章ではそれが「資格・条件」という言葉で表現される。

 ここから「できる/できない」で分けるのは良くない、だからどうすると言っているのか、と考えてみる。

 伊藤は、「できる/できない」は、個人の「能力」のことを言っているから良くないのであって、他人との共鳴の中で「できる」ようになることもあるといい、そのような「能力」観を提示している。ここでは「能力」をめぐって「個人/他人との共鳴」という対比がある。

 鷲田は「資格・条件」で価値付けられるような社会の息苦しさから、若者は「他者による無条件の肯定」を求めるようになっている、と言っている。「できる/できない」という評価基準そのものからの離脱を述べているのだ。対比は「資格・条件/他者による無条件の肯定」だ。


 さてだが、単に「並べる」ことと「比べる」ことは違う。並べられても、だからどうだというのかわからない、ということもある。関連づける観点を示さないと、「問題」が見つからない。

 例えば、伊藤の主張は「できない」としても誰かの助けでできればいいのだ、という「行動」面についての主張をしていて、鷲田は「できる」ことを求められるとつらいので他人との「つながり」によって自分の存在を確かめたくなるといった「精神」面について論じているなどとまとめることができる。「行動/精神」といった対比を用いて、二人の論の違いを示す。

 あるいは、伊藤の「できる/できない」は障害のある方が「できる/できない」ことを問題にしており、鷲田は若者や子供が「できる/できない」で悩んでいることを問題にしている、と対比することもできる。論の対象となっている対象者の範囲の違いを示す。

 こうした、対比的な言葉をそれぞれの文章に対応させて比較するのも有効だ。


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