2025年10月19日日曜日

視点を変える 2 スキーマとゲシュタルト

 次の文章を読む前に、「ゲシュタルト」「スキーマ」という語に慣れておく。この二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。語彙はそれ自体、思考の武器だ。持っていると、それによって考えられることが増える。持っていなければ考えられないことが考えられるようになる。

 教科書に載っている図版を見て、そこにダルメシアン犬が見えるとはどういうことかを「ゲシュタルト」と「スキーマ」という言葉を使って説明しよう。

 言葉は「どういう意味か」を頭で理解するのではなく、使うことで身体になじませる。


 法則性もない、無秩序にインクが飛び散っているだけの白黒の図版の中に、ある瞬間、突然ダルメシアン犬が見える。この現象を「ゲシュタルト」「スキーマ」という言葉を使って言うとどうなるか?


 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注で「認識の枠組・図式」と説明されている。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注で「まとまり」「構造」と言い換えられている。


 簡単に言おう。あれこれの説明を抑えて、シンプルな表現に。

 白黒の図を、「ダルメシアン犬」の「スキーマ」にあてはめた時に、「ダルメシアン犬」という「ゲシュタルト」が構成される。

 これが「ダルメシアン犬が見えた」という現象だ。


 これをさらに抽象化して言おう。あるいは一般化。普遍化。

 そもそもこれは何についての話なのか?


 「何についての話なのか?」という問いかけで、それにふさわしい抽象度で問題を捉えることができるかどうかが、既に国語力の問題だ。「ダルメシアン犬についての話」ではない。「スキーマの話」でもない。ここではそれより一段抽象度を上げた問題の捉え方を要求している。「画を見る話」は一段抽象度が上がった。さらにもう一段。

 「ごんべん」の漢字二字の熟語で。


 これは「認識についての話」だ。「見える」とは「認識する」ということだ。

 文中から「認知」を挙げてもいい。「認識」「認知」「知覚」は、同じ現象を表現する言葉を、おおよそ複雑さの順に並べているだけで、実際はグラデーション状に連続している。ここでは、より複雑な過程を含む「認識」で代表させておく。

 つまり「見えるとはどういうことか?」は「認識とはどのような現象か?」ということだ。この問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使って答える。

認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。


 さらにこれをにしたりにしたり対偶にしたりしてみる。それができることは、それが理解できていることを示している。理解していないと機械的にひっくり返そうとして微妙に意味の違った文を作ったりする(厳密な論理学的意味での「逆・裏・対偶」ではない。また論理学では「逆・裏」は元の命題と同値とは言えないが、むしろ積極的に同じことを意味するように表現するところが国語的な練習だ)。

 命題も条件文の形にしておこう。

命題

認識できているとすれば、外界の情報が、あるスキーマにあてはめられて、ゲシュタルトが構成されている。

ゲシュタルトを構成されている(認識できている)とすれば、外界の情報がスキーマにあてはまっている。

外界の情報をスキーマにあてはめられないならば、ゲシュタルトを構成することができない(認識できない)。

対偶

ゲシュタルトを構成することができない=認識できないならば、それはスキーマにあてはめられない(またはスキーマがない)ということである。

 こういう言い換えは論理的思考力とも言えるが、まあ平たく言って、国語力だ。言うべきことをいくつかの表現で想起できることも、複数の表現の内容を比較してその異同を見分けることも、重要な国語の力だ。


 例えば、国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。文章が「わかった」と思うことは、ダルメシアン犬が見えた、ということだから、つまりゲシュタルトが成立した、ということだ。

 「スキーマとゲシュタルト」という概念自体がスキーマだし、「自立と依存」とか「近代的個人の誕生」「個人と分人」とかいうのも評論を読む上での有効なスキーマだ。

 あ、この文章の主旨は近代批判だ、と思えたときには、ゲシュタルトができている(ダルメシアン犬が見えている)。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。とはいえ国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は、編集上も想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているのはわかるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、「〈私〉時代のデモクラシー」もその一編だ。「鳥の眼」と「〈私〉時代」はどうつながるんだろうか?)。


 「木を見る、森を見る」の作者、齋藤亜矢は「芸術認知科学者」だそうだ。よくわからん肩書きではある。

 だがみんなはこの名前に初めて出会うわけではない。みんなが受けた高校入試の国語の問題に、この人の文章が出題されたことを指摘したのはD組のMさんだった。しかも同じ『ルビンのツボ』収録の文章だ。みんなにとっては因縁の相手だ。


 さて、中学生にも読める想定なのだし、この文章も教科書の冒頭に収録されているということは高1の生徒に最初に読ませるつもりなのだから、難しいことは別にない。読めば「わかる」。すぐに一文に要約する。

 文章の主旨は「認識」か「主張」だ。

 「認識」ふうに言えばこう。

視点を変えると物事は違って見える。

 「主張」ふうに言えばこう。

いろんな視点から物事を見よう。


 教科書冒頭の文章は、なにがしかメッセージを含んでいる。これからこの教科を学ぶ高校生に向けた、編集者からの。

 とすれば、編集者は「現代の国語」という教科が、その学習によって、君たちにさまざまな「視点」から物事を見ることを推奨するものであるとメッセージを送っているのだと考えられる。

 だが具体的には「視点」とは何か?


 そもそも「視点」とは何か。例えば次の二つの文では「視点」の意味が違う。

  1.   さまざまな視点から物事を見ることが大切だ。
  2.   この絵画は、見る人の視点が自然と中央の人物に集まるように描かれている。

 「視点」という言葉には「どこから見るか」と「どこを見るか」の二つの意味が混在している。1は「どこから」で、2は「どこを」だ。それを区別したいときにはそれぞれ1「視座」、2「注視点」などと言い換えることもある。斎藤の言う「視点」はどちらか。

 「自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わる」といった一節では「視座」のことを言っているようにとれるが、「手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上がって、どきっとしたりする。」という一節では「注視点」の意味にもとれる。

 文中で「視点を変える方法」として紹介されている二つの方法は、見る「角度」や「倍率」を変えるということだ。これは「視点」の二つの意味とどう関係しているか。

 角度についての「正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。」というのは「どこから見るか」、つまり「視座」の問題だ。だがすぐに「目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。」と続く一節では「注視点」の意味に変わっている。

 一方倍率は対象との距離の問題だと考えれば「視座」の問題だが、これはフォーカスの中心=「注視点」を中心として周囲のどこまでを見るか、つまり視野の広さの問題と考えると「注視点」の意味にもとれる。

 題名の「木を見る、森を見る」はどちらかといえば視座の問題というより注視点と視野の問題だが、後半の「これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。」における「視点」は「視座」の問題だと言える。


 さて、この「視点」という問題を、別の文章との読み比べの中で考える。


共に生きる 18 資本主義社会に生きる

 「交換と贈与」「自立と市場」の論旨は、対比構造を揃えて並べた時に、肯定/否定の主張が逆の方向性を持っているように見える。

 その感触は間違っていないが、逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードでもある。構造を対応させるのに利用した対比が、実は正確に対応しているわけではない。

 どういうことか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 これらの対比は、実は同一の軸で並んではいない。左辺が対応していることを確認して、これらの対比が対応しているように説明した。では右辺はどうか?

 松井論で「個人的関係」としてまとめた二つの例は熊谷さん親子と、「なめとこ山の熊」の小十郎と商人の関係だ。

 このうち、熊谷さん親子は確かに「贈与」の関係かもしれない。

 だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、むしろ「交換」の関係だと言っていい。しかも力関係が不均衡であるにもかかわらず、他の選択肢はない(選択肢がないから不均衡のまま固定されている。もはや対等な「交換」ですらなく、言わば「搾取」だ)。

 つまり「個人的関係」と「贈与」は対比の右辺として対応しないのだ。

 そもそも、「市場/個人的関係」の対比の要素は、関係における拘束力の「弱い/強い」と、選択肢の「多い/少ない」だ。

 「交換/贈与」はそうした要素の対立では全くない。つまり軸が違う。

 したがって、二つの対比を並べるところに錯覚がある。

 では「自由」と「自立」の関係は?


 松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけではない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない

 一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。

ただし、その自由には条件があります。―交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなってすぐ困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。

 つまりこれらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致しているのだ。

 また、松井の述べる大震災の際のボランティアの例はまさしく「贈与」だ。

 通常の「市場」による自立が困難になった時、「贈与」がそれを救う。

 ここでもまた、二人の認識は一致している。


 そもそも「自由」が「依存しない」だとして、「自立」は「(特定の相手に)依存しない」ではあるが、この括弧の部分を外して「自由」と「自立」を同じ「依存しない」だと錯覚させていたのだ。

 だが「(特定の相手に)依存しない」はつまり「みんなに依存する」ではないか。

 「自由=誰にも依存しない」と「自立=みんなに依存する」はそもそも正反対だ。それを等値して、評価が反対なのはなぜかと問題設定するところがミスリードなのだ。


 また松井は次のようにも言っている。

特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 それこそ近内が問題にしている領域だ。

 確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。だが友人や家族との関係にまでそうした論理を敷衍していいのか?

 経済学者である松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で「自立」して生きるためには市場が有効だと言っているだけだ。

 だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。

 一方、哲学(研究)者である近内は、つまり「精神的な満足」を問題にしているのだ。

 その、議論の重心がどこにあるかによって、二人の主張は反対に傾いているように見えるが、二人の認識はむしろ一致していると言っていい。


2025年10月18日土曜日

共に生きる 17 自由と自立

 もう一つ。考える手がかりを提案する。

 「交換と贈与」の「自由」という観念の扱いは、「自立と市場」における「自立」に対応している。

 どういうことか?


 「交換と贈与」では「自由」について次のように言う。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 これは「自立と市場」で論じられている「自立」の状態に対応する。松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 頼らない(依存しない)、選択肢が十分確保されている状態が「自由」であり「自立」なのだ。

 ここでも二つの論は共通した論点をもっている。

 そして近内論では「自由」は否定的イメージで語られるが、松井論では「自立」は目指すべき状態として肯定的な文脈で使われている。

 やはり両者は反対方向の主張をしているように見える。

 このことをどう考えたらいいか?


 「交換/贈与」における「交換」の否定と「自由」の否定は、どのような論理でつながっているか?


 特定の相手に頼らないで選択できる状態が「自由」であり、それは相手を(それはすなわち自分も)「交換」可能な存在だと見なすことだ(「交換」できないのは不「自由」)。

 近内は、それでいいのか? と問いかける。もちろん反語だ。「良くない」のだ。

 「市場/個人的関係」における「市場」の肯定は、もちろんそれが「自立」を支えるからだ。それはまさしく上の「特定の相手に頼らないで選択できる状態」だ。「自立」できるのは良いことに違いない。

自由・交換(否定)/贈与(肯定)

自立・市場(肯定)/個人的関係(否定)

 二人の見解をどう考えたらいいか?

 対立する見解が存在することは別におかしなことではない。何であれ、現実に賛否両論あることは世の常だ。

 だがそういって済まさず二つの論がどういう関係かを納得しよう。

 一つには、見解が相違するなら相違するで、なぜそういう結論になるかに、納得できる理由を見出すこと。

 もう一つは、相反しているようなここまでの整理が不適切であることを示し、二人の見解の関係を示し直すこと。

 授業者の想定としては、どちらも可能だ。二つの論旨が相反している「ように見える」のがそもそも意図的なミスリードによっている。思考を、議論を活性化させるには対立を作るといい。わざとそれをやっているのだ。

 だが議論の目的は、どちらかの殲滅ではない。融合だ。どう納得を共有するか、だ。

 どう考えたらいいか?



共に生きる 16 交換と贈与

 「共に生きる」シリーズとしてここまで読んだ7本の文章に続いて、近内悠太「交換と贈与」を読む。

 事前課題の要約とともに、ここまでの7本で、最も論旨の共通点があるのは? と聞いてみると、最も多く上がったのは松井彰彦「自立と市場」だった。みんな勘が良い。ねらい通りだ。

 さあ読み比べよう。


 連想が働くのは「交換と贈与」の文中に何度も「市場」という言葉が登場するので自然なことだ。それは、論じている領域というかテーマに共通性があるからだ。何か? 

 二つの文章はともに、ある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 それを表す言葉を文中からそれぞれ4字で拾うと?

 「交換と贈与」では「資本主義」。

 「自立と市場」では「市場経済」。

 この対応=共通性によって、みんなは二つの文章が関連した話題を扱っていると感じているはずだ。


 この共通性によって二つの文章を比較したときに、まずはある違和感を感じ取ってほしい。何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、と。

 それはどのようなものか?


 二つの文章の関係、などという抽象的な問題がどのようなものかを明晰に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。

 「共通する」というのは、一つには上に見たとおり「資本主義」と「市場経済」を重ねてみるということだが、まだその先の展開は容易には読めない。

 もう一つは、文章の構造を明らかにして、その構造を対応させるというやり方もある。

 構造?

 論理構造を把握し、明示する一つの方法は、対比をとることだ。

 両者の主な対比を挙げる。

 「交換と贈与」は言うまでもなく「交換/贈与」

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では? と問うとすぐに「自立/依存」の声が挙がる。もちろんそれは対比だが、それはこの文章の主旨を示す、重要な対比ではなく、語る上で使う対義語、というほどの位置づけだ。

 「自立と市場」の主要な対比は確認済み。「市場/個人的関係」だ。

 「主要な対比」というのは、その文章の中心的要素と、それを主張するために、それと対義的な項目を否定的に対置したセットのことだ。「交換と贈与」ではそれが題名に示されているが、「自立と市場」では「市場」の対比項目が文中では明示されていない。だが「自立を支えるために市場が有効だ」という主旨を明確にするため、有効でない具体例が対比的にとりあげられている。それを「個人的関係」と表現しておいたのだった。

 二つの対比を並べてみよう。まず「交換/贈与」をこの向きに並べておいて、そこに「市場/個人的関係」を比較するには、どちらをどちら向きに並べるべきか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 この並べ方は適切か?


 まずこの向きでいいとして、これで先の違和感が明確になっただろうか。

 二つの対比は、「肯定/否定」が、左右逆になっているのだ。

交換(否定)/贈与(肯定)

市場(肯定)/個人的関係(否定)

 この「肯定/否定」の、二つの文章での捻れをどう考えたらいいのだろうか?


 何気なく並べた左右が不適切なのでは?

 いや、そうではない。「交換」と「市場」が同じ側に置かれることには十分な必然性がある。

 どんな?


 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 「交換の論理」とは何か?

 「交換と贈与」の文中に次の一節がある。

「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼びたいと思います。

 「割に合うかどうか」というのは、経済合理性があるかどうかということだ。それはすなわち「市場」の論理だ。需要と供給のバランスで適正な価格が決まり、代金を払えば品物やサービスが受けられる(払わなければ受けられない)。誰かが一方的に損をするような不合理なことは起こらない。起こさないために例えば独占禁止法などの措置がとられる。

 一方「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。この場合「市場」は「交換」の場だと言えるが、それは商品と貨幣が「交換」されるというだけではない。

 さらに重要な「交換」とは何か?


 「交換と贈与」では、商品と貨幣が交換されるから「交換の論理」が良くないと言っているわけではない。次の一節に表れているのは何の交換か?

交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる。」というメッセージが透けて見えます。

 この「交換」を「市場」経済の場に適用すると、何が「交換」可能になるということになるか?


「自立と市場」に次の一節がある。

特定の誰かと強い依存関係に陥ることはない。A店でものが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がものを買ってくれれば店は商売になる。

 これはつまり、売り手と買い手双方にとって、それぞれが「交換」可能になるということだ。

 市場では、正当な対価さえ払えば、誰から買ってもいいし、誰に売ってもいい。売り手から見て、買い手はそれぞれ交換可能な存在でしかないし、買い手から見ると売り手は交換可能なのだ。


 こうしてみると、対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることには納得できる根拠がある(ように見える)。

 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に主張されている。

 このことをどう考えたらいいか?


 ひとまず「贈与」と「市場」が肯定される論理を確認しておこう。

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。しかしそこには人間同士の信頼が成立しない。みんな孤独だ。そうした「交換」の論理と対比され、肯定されるのが「贈与」だ。

 一方、自立を支えるために「個人的関係」に頼るのは危うい。それに比べて「市場」は自立にとって有益だ。

 やはり二つの文章の肯定/否定は捻れている。


2025年9月24日水曜日

なぜ成績評価をするのか

  前期末でいったん成績評価をする。その具体的方法や基準については授業で説明するとして、その前提となる原理的な考え方について述べておく。

 成績評価とは何のためにするのか?

 一般的なイメージとしては、成績評価は、その学習成果(達成度や能力)を示す指標であり、それに対する公的な保証、といったところだ。

 試験を合格したことで得られる免許や資格もそうだ。ここでは成績評価は、どこかで線引きされて合否で二分される。

 入学試験なども同様に、得点は満点から0点までグラデーション状にバラつくが、合否はどこかで線引きして二分される。合格した者は、その能力が公的に保証されたのだ。運転免許は運転しても良いとその能力が保証されたのだ。

 普段の学校の学習活動に対する成績評価にもこれと同じ機能もある。いわゆる推薦入試などでは、高校側が算出した成績評価が大学によって合否の判断に一部、使用される。

 だがそうした機能は、成績評価に期待される役割の一部でしかない。

 問題は、成績評価が誰のためにあるのか、だ。上の機能は、合否を判断したい側のために成績評価が利用される、という側面を語っている。

 では評価される側にとって成績評価は何のためにあるのか。また、学校での学習活動の場合、評価する側である教師にとって成績評価は何のためにあるのか。

 例えば企業が製品を販売する場合、「成績」とは売り上げのことだ。売り上げが好調なら製品の開発や販売がうまくいっているということだ。だが売り上げが不調なら開発や生産や販売について見直さなければならない。

 この場合、売り上げとは、企業の活動にとってモニターの役割を果たしている。

 同様に、成績評価の機能とは、学習成果の評価を学習活動にフィードバックすることで、学習活動を修正することにある。良い評価がされた学習活動は強化される。低評価の学習活動は見直される。学習評価はそうした反省のためのモニターだ。

 学習と評価は互いにフィードバックするサイクルを成している。

 この場合、成績評価は、学習する生徒のためにある。学習活動が適切であるかどうかを確認するモニターの役割。


 新課程における成績評価は、文科省の定めた学習指導要領に基づいて、次の三つの観点をそれぞれA~Cの3段階で評価することになっている。

  1. 「知識・技能」
  2. 「思考力・判断力・表現力等」
  3. 「主体的に学習に取り組む態度」

 三つの観点は、学習にはそれぞれの側面がいずれもおろそかにされることなく重視されるべきであるという認識を、学習者と支援者(生徒と教師)が共有しようという理念をあらわしている。生徒は評価によって自らの学習態度を見直す。教師は三つの観点がそれぞれ必要な要素であることを自覚しながら授業を計画したり課題を設定したりして生徒の学習を誘導する。

 この機能は、教師がそれぞれの観点で生徒を評価することによっても働くかもしれないが、実際にそれぞれの学習成果において、1・2・3がどのように相互作用しているかを教師が判断することはできない。

 例えば「主体的に学習に取り組む態度」を評価することはどうすれば可能か?

 しばしば生徒の挙手の回数を数えるというような方法が、揶揄されるために例としてあげられる。それは滑稽で非現実的だ。そんなことを実際に行うのは甚だしく手間がかかる上に教育的でもない。それが馬鹿馬鹿しいことは誰もがわかっているのに、ではどんな方法が現実的に可能で妥当かは誰からも納得できるようには提案されない。せいぜい提出物や出欠席の数をもとに評価するくらいだ。それらは挙手の回数と違って算出可能だが、同じくらいに馬鹿馬鹿しい。例えば提出された論文の評価などはどうみても2「思考力…」によって評価されるべきだ。提出したかしないかを3「主体的に…」として評価し、内容を2で評価する? 可能だが不必要な二度手間だ。

 「主体的に学習に取り組む態度」などというものは、明らかに個人間でその強弱や濃淡、存否の差違があるにもかかわらず、同時に明らかに内面的なものであって、外側から適切に評価することは絶望的に不可能だ。「態度」だから、その表れを評価することはできるはずだという建前があるからといって挙手とか提出物とか出席率とかで評価するのは空しいアピール合戦になってしまうことは明らかだ。そんなもので「主体性」を測られたいか? 測るのが適切だなどと思っている人はどこにもいない。にもかかわらず、それをやることになっている。公式には。

 また例えば1・2は、これもまたそれぞれに学習の別の側面であるにもかかわらず、外側に表れている結果(例えばテストでの得点や小論文の出来や発言の適切さ)ではそれらが混ざった形で作用している。これを切り分けることの合理的な方法はない(例えばこの小問は「知識」で、こちらは「思考力」だ、などと振り分けることは粗雑で不合理だ)。そしてそこに3「主体的態度」が重なっている。高得点は1・2の能力が発揮されたからでもあるが、主体的に学習に取り組んだ成果でもある。テストの点数を1・2・3に分けることは原理的には不可能で、実際に設問によってそれを振り分けたりすることには、どうしたって現実的でない不合理が生ずるのだ。

 したがって成果は、1・2・3が複合的に働いているものと見なして、その評価は総合的にするしかない。


 三観点を分けて教師が適切に評価することは不可能だが、一方、生徒自身はそれを自覚できる。知識があるから漢字の問題を正解できたのか、努力して正解できたのかは自分でわかる。知っているからできたのか、考えて正解に辿り着いたのか、あるいはまた自分が主体的であるかどうかは、自分にはわかる。

 「学習へのフィードバック」という評価の目的は、本人にそれができるならば、機能はしている。

 教師は、三観点に分けた評価に手間をかけるよりも、三つの側面を意識した授業や学習課題を企画することに注力すべきである。例えば一問一答式に瑣末な知識を問うような問題ばかりのテストで成績を評価するのは1に偏りすぎている。一方的な知識の伝達に過ぎない授業は2・3の観点が欠落しているし、わいわい賑やかだが必要な知識の伝達されない授業も見直されるべきだ。

 三観点評価への移行には、そうした反省が期待されている。


 実際にこの学習評価とフィードバックが最も有効に働いているのは授業中だ。

 授業ではグループでの話し合いと、そこでの考察をクラス全体で検討する活動が繰り返される。話し合いに参加する姿勢や発表の意欲は3の観点から評価される。生徒同士は常にそれを評価し合っているし、当然自己評価もしている。あいつは積極的に発言しているなあとクラスメイトを評価し、自分が評価されていることを明確に感じ取っている。

 授業者も内心評価しているのだが、全員に対する公平な評価はできない。

 そこでの発言は、ある時には「よく知っているな!」(1「知識」)、あるいは「ああ、なるほど、そうか!」(2「思考力・表現力」)などと、自分の発言に対する相手の反応で、常に評価され、フィードバックしている。

 いずれはこれらの評価が何らかのテクノロジーによって自動的に数値化される未来もあるだろうが、少なくとも現状でもこうした評価は常時、歴然と行われている。

 したがって、学習と評価のサイクルは充分効果的に機能している。

 例えば教師がひたすら講義していて、生徒はひたすら板書をノートに書き写している、というような授業ではこうしたフィードバックは起こらない。

 三観点評価はそうした昔ながらの一斉講義式授業の改革を企図しているのだ。


2025年9月9日火曜日

小景異情 2

 語り手はどこにいるか?

 詩中で場所を表す4つの言葉のうち「みやこ」を挙げた者はごく少数だが、これはもっともなことだ。「みやこ」にいながら「遠きみやこに帰らばや」をどう解釈するのか、授業では聞きそびれた。どう解釈するのだろう。

 次に少ないのは「異土」を支持する人だ。そもそも「異土」って何だ?

 「異土」は少なくとも「ふるさと」ではない。どこかを「異土」と表現するアイデンティティは「ふるさと」を起点としていると考えるのが自然だ。

 それに「故郷で乞食になったとしても故郷には帰るまい」というのは意味がとれない。

 「都(みやこ)」は「ふるさと」と対義だから、「異土」と同一である可能性がある。「ふるさとは、都(=異土)で乞食になったとしても帰るところではない」なら意味がとれる。

 「異土」は「都」なのか? そうだとすれば「異土」支持者は「都」支持者でもあるのかもしれないが、「都」ではない別の「異土」にいると主張する人はどのくらいいたのだろう。

 授業中に訊いてみた感触ではほとんどいないらしいのだが、あえて問う。

 地方出身者が一度「みやこ」に出て、そこで「うらぶれて」、「みやこ」落ちしてさまよい、「異土」に流れ着いて「乞食」をしている時に詠んだ詩とは考えられないか?

 「ふるさと」には帰りたいが、やはり帰るべきではないと考え、もう一度「みやこ」に戻ろうと決意する…。

 状況的にはありうるのでは?


 反論はこうだ。

 「よしや(=もしも)」は仮定なのだから、異土にはいない。

 もっともな反論だが、さらに反駁としてこういう可能性を提示しよう。

 「よしや」は「異土にいる」ことではなく、「乞食になる」ことを仮定しているのだ。「みやこ」で食い詰めて、仕事を探して「異土」にさまよう。わずかな金も底をつきかけている。このままでは「乞食」にでもなるしかない。だが、「もしも」そうなったとしても「ふるさと」には帰るべきではないと考え、ふたたび「みやこ」に帰ろうとしている。

 ということで、現状は「異土」にいるのだ。

 この解釈は可能であり、否定する根拠を挙げるのは難しいはずだ。


 4つの言葉の関係については、まず「都」と「みやこ」が別なのか同一なのかが分かれているが、これは結局、どこにいるか、という解釈と結びついていて、場所の同一性だけを先に議論することはできない。

 それ以外のどの言葉とどの言葉が同じ場所を示しているのかも全体の解釈において検討する必要がある。

 イメージしやすくするために、具体的な地名をあててみよう。

 訊いてみたところ、「都」が東京を指すことに異論はなかった。

 「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使われない。東京出身者が東京に居続けるならば「ふるさと」という言葉は使われない。語り手は一定期間「ふるさと」を離れているのだ。「ふるさと」は東京から遠ければどこでもいい。千葉や埼玉や神奈川は「ふるさとは遠きにありて」のイメージとそぐわない。ここでは仮に室生犀星の出身の石川県にしておく。

 「異土」は、「都」と同じく東京を指していると考えるか、「ふるさと」でも「都」でもないどこかと考えるか。仮に滋賀県あたりをイメージしておこう。

 さて「みやこ」は?

 これは「都」と同じだから東京と考えるか、「ふるさと」と同じだから石川県と考えるか、だ。仮に金沢あたりをイメージしよう。

 これでおそらく3択か2択になったはずだ。

  1. ふるさと=みやこ(石川)・異土(滋賀)・都(東京)
  2. ふるさと=みやこ(石川)・異土=都(東京)←2択
  3. ふるさと(石川)・異土(滋賀)・都=みやこ(東京)
  4. ふるさと(石川)・異土=都=みやこ(東京)←2択

 これらはそれぞれ一体どのような解釈を示しているのか?


 多数派は1か2だ。

 1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」から、語り手は「ふるさと」から遠いところにいる。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。

 そして最後の「遠きみやこにかえらばや」とあるのは「ふるさとに帰りたい」という意味なのだ。つまり「遠きみやこ」(金沢)=「ふるさと」(石川)なのだ。

 この場合「異土」は東京であってもいいし、滋賀あたりであってもいい。「よしや」という仮定からすればむしろどこでもいい。


 一方3、4の支持者はこう解釈する。

 「みやこに帰りたい」と表現されるからには、このテキストの言葉を発している時点では「みやこ」にいないということになる。「みやこ」と「都」を区別せず、東京にはいないものとみなす。

 ならば石川か滋賀か。上記の通り「異土」説は支持者が少ないようなので、今現在「ふるさと」=石川=金沢に帰ったときにこの詩を詠んでいると解釈しているのだ。


 以上2つ乃至3つの解釈を比較する。

 普通はみんなそれぞれただ一つの解釈を思いついて、別の可能性を考えるわけではない。

 だがこうして授業の場には別の解釈をした人が居合わせる。両者が相対して、それぞれの解釈を認めつつその妥当性について検討すべきなのだ。

 「正解」を教えられることは何の学習でもない。


 さて、諸説の検討だが、「異土」説を殊更に主張したいわけではない。だが否定するなら否定する根拠を出すべきだ。

 上記の通り、「ふるさと」でも「都」でもない「異土」に、現在語り手がいるという想定はできないわけではないはずだ。

 だがこれは、いたずらに複雑な解釈を読者に期待しすぎている。

 それにこれでは「遠きみやこ」の「遠い」という形容がなぜ必要なのかがわからない。石川出身者が東京に出てきたが、うらぶれて東北あたりに流れて、「乞食」になりそうだということならば、東京は「遠い」?

 これも、そんな特殊な状況を前提しなければならない解釈は妥当性が低いと見なすべきだ。

 たとえば「異土の乞食になるとても」が「この異土の」とか「このまま異土の」「こうして異土の」だったらもう異土にいることが確定される。そうでなくても異土にいることが否定されるわけではないが、やはり「異土」説は、わざわざ主張するほどの妥当性があると考える必要はない。


 残りは大きく言って二つ。

 「都」にいて「ふるさと=みやこ」に帰りたいと言っている。

 「ふるさと」にいて「みやこ=都」に帰りたいと言っている。

 多数派は前者だが、妥当性は後者の方が高い。

 語り手は今「ふるさと」にいる。授業における授業者の見解を「正解」というのなら、正解は後者だ。前者の方が多数派であるにもかかわらず。

 なぜか? どう考えたらいいのか?


 そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのに無理がある。

 そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。

 だが、と反駁がある。ではなぜ「都」と「みやこ」は漢字と平仮名で書き分けられているのか?

 だが、それを言うなら「思う」「帰る」も、詩の中に漢字の箇所と平仮名の箇所がある。「うたふ」「ひとり」「ゆふぐれ」「こころ」なども、漢字でも書いてもいいだろうが平仮名で書かれている。それに対して「遠き」「悲しく」「涙」がなぜ漢字なのか。必然性はあるのか。

 結局、「都」と「みやこ」を区別する特段の理由など見つからない。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせているという解釈ならいいが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図があるとみなすことはできない。

 区別すべきだという主張は、「都」にいるという解釈を合理化するために考えられている。書き分けられているから別の対象を指しているはずだ、という主張は因果関係を逆転している。別の対象を指していると考える必要があるから(なぜなら「みやこ」が「ふるさと」でなければならないから)、「みやこ」と「都」は違う、と主張しているのだ。

 だが。その妥当性は低い。

 とりわけこの解釈では「遠いふるさと=みやこに帰りたい」と「ふるさとは…帰るところではない」の矛盾をどう解釈するかがわからない。

 この不整合を曖昧に看過することで、この解釈は成立している。


 それより「みやこ=都」に上京した地方出身者が、一時的に「ふるさと」に帰ったときに詠ったものだと考えるのが整合的だ。

 東京に出た地方出身者が夢破れて故郷に戻る。「うらぶれて」も、「異土」に流れていく仮定における形容だが、ここでの語り手の状況をもイメージさせるものと考えて良いはずだ。盆暮れの気楽な帰省くらいではこの詩の絶唱には釣り合わない。

 最初の5行で述べられるのは「ふるさとが懐かしい」などと軽々しく言える思いではない。「ふるさとは遠くで懐かしむべきものであって、決して帰ってはならない」と言っているのだ。どこかよその土地で乞食になったとしても、とまで言っている。

 「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」はそのまま読むと単に「都」にいる現在の状況を表現しているように読めるが、続く詩行を読めば、「そのこころ」の内容を言っているのだとわかる。そのような心を持って「ふるさとに帰ろう」と言っているわけではなく「都に帰ろう」と言っているのだ。


 こうしてまずは整合的な状況設定を読み取って、ではどういう「思い」を詠っているのか、と考える。

 さてでは、ここで述べられているのはどのような思いか?


 かつてのある生徒は、「ふるさと」に対する甘えを封印して、もう一度「みやこ」でがんばろうという決意を詠った詩だという解釈を語った。「みやこ」でがんばりながらなら、いくらでも「ふるさと」を懐かしんでいいが、実際に帰ってはだめだ、と自らを戒めている詩なのだ。随分前向きな決意だ。

 これも、状況に整合的な解釈のひとつだ。

 また最初の段階でE組M君の挙げた、この詩の情感が「嫌悪」だというのも、ここまでくれば何のことかわかる。そしてそれは「郷愁」と矛盾するわけではない。

 ここには故郷に対する愛憎半ばする複雑な思いがある。

 故郷は、遠くにいれば懐かしいのに、帰ってしまうとそこに嫌悪を抱く。

 帰ってみると、美しいふるさとの風景が、開発によってすっかり様変わりしてしまっていたのかもしれない。あるいは懐かしかったはずの故郷では、家族親戚の冷たい(あるいはなま温かい)視線に居心地悪い思いを抱く。そういえばかつて故郷にいた頃には窮屈な村の慣習に嫌気が差していたことなど思い出す。

 「小景異情」とはそういう感情を表している。目の前のありふれた風景に違和感を感じているというのだ。

 それなのに都会に出てみるとそんなことを忘れて、うっかり故郷を懐かしがってしまったりする。

 だがこの情感は「郷愁」を否定するものではない。「嫌悪」と「郷愁」は同居する。帰らずに都から思う故郷は美しく懐かしい。

 ここにあるのは普遍的な「幻滅」の感覚だと思う。幻は幻のままにしておいた方が良い。ふるさとは遠くで懐かしんでいるときこそが美しいのだ…。


 「ふるさとは遠きありて思ふもの」と語る語り手が「みやこ」にいるものとして読むのと「ふるさと」にいるものとして読むのとでは、意味する情感がまるで違う。「みやこ」に出てきた地方出身者が語っているのなら、単にふるさとを懐かしむ心情を述べているのだと読めるが、現に「ふるさと」に居る語り手が語るとしたら、それは苦い悔恨をともなった望郷だ。

 テキストの読解とはこのように、テキスト内の情報を整合的に組み合わせることによってできあがる全体像=ゲシュタルトを捉えようとする思考である。


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