2025年12月25日木曜日

羅生門 18 終わりに

 ここまで8回の授業で「羅生門」を読んできた。

 小説の読解は、ある意味では評論やその他の実用的文章を読むことと変わらない。テキスト細部から必要な情報を拾い上げて全体を構造化することだ。

 同時に構造の中において初めて持つ細部の表現の意味を捉えることでもある。全体の構造化と細部の意味づけは相補的に働く。

 「羅生門」の読解においてやってきたのはそういうことだ。

 全体の構造をどう組み立てるかと、細部の表現をどう意味づけるかといった思考を相互に整合的に働かせる。 

 そうして現状で納得できる「構造」「意味づけ」が前回までに見てきた「羅生門」解釈だ。


 以上のように示してきた「羅生門」の読解が難しい原因は三点あるのだと、今年腑に落ちた。

  1. 「老婆の論理」が行為に必然性を与えているという理路が揺るぎない前提として疑われないこと。
  2. 行為の必然性を生じさせる要因が問題なのではなく、行為を阻んでいた要因こそ問題なのだということがわかるのは、後ろから遡るしかないという構造上の必然からくる認識の困難。
  3. 高校生は「観念」という語彙を持ってはいないこと。

 3はつまり「スキーマ」と「ゲシュタルト」の問題だ。

 スキーマがないと、ゲシュタルトは構成されず、認識されない。

 「小説を理解する」ことも「認識」の一種だから、それはつまり、あるスキーマによってゲシュタルトが成立したということだ。「エゴイズム」はそのようなスキーマであり、しかも近代文学を理解する上ではきわめて頻繁に用いられるスキーマだと言ってよい。

 「羅生門」もまたそうして「極限状況におけるエゴイズムを描いた小説」というゲシュタルトによって人々に認識されている。むしろ「羅生門」は、1年生で読むことで、「エゴイズム」というスキーマを高校生に装塡する役割を担っていたというべきかもしれない。

 だがそのようなゲシュタルトとしての「羅生門」は、底の浅い、弱い小説だ。だが別のゲシュタルトを構成するためのスキーマが授業者には長らく見つからなかった。スキーマがないとゲシュタルトは構成されない。像を結ばないばらばらな情報群として、「羅生門」というテキストは繰り返し読まれてきた。

 「観念」という語は、そこに像を結ぶためのスキーマであり、そうしてできたのがここまで示してきたゲシュタルトだ。

 だがこのスキーマは、高校生には装備されていない。

 エゴイズムも装備されてはいなかったろうが、エゴイズムは「なぜしたか」と結びつくから、授業によってその解釈が示されると理解することは比較的容易だ。

 それに比べて「観念」というスキーマは「なぜできなかったか」と結びつくから、上記2の困難を生むだけでなく、その語の持つ平凡さによって、かえって想起されにくい(「エゴイズム」という目立つ言葉はそのことによって想起されやすい)。


 引剥ぎという行為の必然性は、それを容認する「老婆の論理」によって発動するのでも、「極限状況」の深刻化によって発動するのでもなく、ただその行為を阻んでいた幻想が消滅することによって生じている。むしろ、下人がそうした幻滅の自覚を、行為の実行によって自ら確認している、と言うべきかもしれない。

 引剥ぎという行為は現実的な実用性に基づいていると同時に、それが他ならぬ老婆に向けられることで、下人の現実認識を宣言するための象徴的な行為になっているとも言える。


 以上のような授業者の結論は、実際はここまで述べてきたような問題設定に基づく考察の積み重ねによるものではない。発想は、下人のうちに最初に燃え上がった①の「憎悪」の描写が表す奇妙さを何とか言葉にしようと考えているときに、突然、結論として「降りて」きたのだった。それが「幻想・観念としての悪」という表現として形になったとき、下人が最初「悪」に踏み出すことを躊躇ってのはこのためだったのだと気づいたのだった。そこから、行為の必然性に至る論理、「羅生門」の主題へと結びつく論理が一気に開けた。

 だからここまでたどってきた問題設定は、本当は解答から遡って逆順に設定されている。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」が「なぜ最初はできなかったか?」という問題であることは、その答えから遡ってしか発想できない。「なぜできるようになったのか?」と問う限り、それは例えば「老婆の論理」に拠るしかない。

 だが授業ではみんな自身が考えることに意味がある。だから考えるべき問題が何なのかを明らかにした上で、その糸口を示す必要があった。最終的な到達地点がどこなのかを示した上で、そこにいたる道筋を辿ってきた。

 「羅生門」の「主題」を捉えるためには、引剥ぎという行為の必然性を当面の問題として設定すべきであること。

 その論理を明らかにするためにこそ「心理の推移」を追うべきであること。

 「羅生門」の授業を貫く問いはこうして構想される。


 これで、今年唯一の小説の読解を終える。


2025年12月24日水曜日

羅生門 17 答え合わせと検算

 この結論に基づいて、ここまで考察してきた問題を捉え直してみよう。

 物語の冒頭、門の下で下人の頭にあった「悪」はいわば観念としての、幻想として「悪」であった。冒頭の部分ではまだ、そのことはわからない。それはあくまで物語の結末から遡ってみてわかることだ。

 最初にそのことが読者の前に示されるのは、①「憎悪」の描写を通してだ。

 授業で分析した①「憎悪」の描写は全て、対象となる「悪」が観念的であるということを示している。作者の形容はすべてそこへ向かって重ねられている。

 「あらゆる悪に対する反感」という憎悪の一般化、抽象化は、憎悪の対象が具体的ではなく、実体のない幻想としての「悪」であることを表している。

 「それだけですでに許すべからざる悪であった」という独断的な決めつけも、「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」も、具体的な検証抜きに「悪」が認定されていることを表す。

 「もちろん、下人は、さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れている」のも、冒頭の問題設定がそもそも観念的だったからだ。「忘れる」ことは「もちろん」だ、というのは、現実に依拠してない難問を、下人が頭の中だけで弄んでいたことに作者が自覚的であることを示している。

 「この雨の夜に、この羅生門の上で」という読者には理解しがたい(だが微妙にわかったような気もする)条件が「悪」を認定する根拠となっているのもそれが気分的なイメージに過ぎないことを示している。そしてそれが「予断・先入観」であるということは、物語冒頭の迷いにおいて「正義」と拮抗していたのが既にそうした「観念としての悪」だったことを示している。

 そこに老婆という容れ物が形を与える。憎悪が燃え上がる。だがそれは実は幻想としての「悪」という観念に対する憎悪だ。

 だからこそそれは、過剰になりやすい。観念は現実から遊離しているがゆえにしばしば激情を誘発する。イデオロギー闘争が激化しがちなのは、イデオロギーが観念的だからだ。老婆を取り押さえる時に下人を支配する勇気は、観念に支配された者の蛮勇だ。


 観念としての「b.悪」が幻想で膨れあがるとき、それに拮抗する「a.正義」もまた釣り合いをとるべく膨れあがる。それは内実を伴わない空虚な泡である。下人の憎悪は空疎な正義感を燃料として燃え上がる。下人は自分もまた盗人になることを迷っていたことなどすっかり忘れて、自分を「正義」の側に置いている。

 続いて「得意と満足」がおとずれる。その変化は、理由が明らかになる前に生じている。つまりそれは対象の善悪についての現実的・合理的な判断に基づいていないのである。その「満足」は、事態の根本的な改善には何ら関係のない自己満足だ。

 現実に依拠していない激情は熱しやすく冷めやすい。老婆を取り押さえただけであたかもその「悪」が消滅したかのように冷めてしまう義憤も、対象となる「悪」が最初から空虚な幻想だったからだ。


 ここまでくれば先に保留した問いにも答えられる。

 なぜ下人は「老婆の答えが存外、平凡なのに失望した」か?


 先程は答えまでに距離があるからと保留にした問いだ。

 ここまでの展開で、「大きいと思っていた幻想としての悪が、つまらない現実の悪であることを知ったから」などと答えられるようにはなっている。

 だがもう一歩、それになぜ「失望」するのか?

 この「失望」は髪を抜くという行為に何か禍々しい理由があることを期待していたことの裏返しだ。これもまた、「悪」が幻想として膨れあがっていたことを示している。下人がなぜそれを期待していたかといえば、「悪」が大きいほどに、それに拮抗する自分の「正義」の幻想も大きくなるからだ。

 「悪」が現実的な、卑小なものであることがわかると、幻想に拮抗して膨れあがった自らの「正義」もまた同様に萎んでしまう。「正義」の幻想に酔っていた下人はがっかりする。自分が正義であると信ずることは快感だったのだ。


 そして浮上してくるのは再び③「憎悪」だ。

 ①がふくれあがった幻想としての「悪」に向けられた燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、その卑小さが露わになった現実的な「悪」に向けられた冷ややかな「憎悪」だ。悪はここでは「憎悪」の対象であるとともに「侮蔑」の対象にもなったのだ。

 先ほどの①と③の「憎悪」の比較によって確認された共通点と相違点は、こうした差違を示している。

 そうした下人の変化がわかっていない老婆は、さらに自分が「悪」くないことを言いつのる。状況が現実的に認識されるにつれ、下人の心はいっそう冷めていく(老婆の話を「冷然として」聞く)。


 物語冒頭の下人の現状認識は観念的だった。

 「極限状況」は現実の問題でもあるはずなのに、それが小説中で肉体的な感触として描かれないことは、下人の現状認識が観念的であることを証拠立てる。

 だからこそ「飢え死にするか盗人になるか」という問題設定もまた観念的だ。飢え死にすることが選択肢になる時点で、それは差し迫ってはいないし、もう一方の選択肢である「盗人になる」=「悪」という選択肢は幻想でふくれあがっている。こんな選択肢の間で逡巡するようなアポリア(難問)は下人の観念の中にしかないことが、今や明らかになったのだ。


 老婆の言葉は下人にとって決して新しい認識ではない。だがそれは最初、門の下で下人が抱いていた幻想が潰えた後であらためて確認される卑小な現実だ。

 「きっと、そうか」という念押しは、下人の苦い現実認識の確認だ。

 ここに付せられた「嘲るような」という形容について、「老婆の論理」の考察のくだりでは、正当化の論理が自分に向けられてしまうことに気づかない老婆への皮肉として説明した。

 だが今ではそれよりもむしろ、露わになった現実認識に対する不快の表れであり、幻想を見ていた自分に対する自嘲だと捉える方がしっくりいく。

 つまりこの嘲りは、矮小な悪の論理を語る老婆にのみ向けられたものではなく、まさにこれからそれをしようとする自らにも向けられていることになる。

 老婆に対する攻撃性は、言わば八つ当たりだ。


 下人の頬の「にきび」はどう考えればいいか?
 「エゴイズム」論によれば、にきびが象徴するものは例えば、正義感、良心、道徳…といったところだろう。これらは、引剥ぎが「生きる為になす悪」を肯定する行為だとみなす主題把握と対応している。下人はモラルを棄てて、悪にはしったのだ。
 そしてここまでの結論によれば、にきびはそのまま「観念」の象徴だと言える。頬ににきびをもつ下人は空疎な観念に支配された人間であり、その象徴たる「にきび」から離れた下人の右手は、もはや阻むもののなくなった現実的な選択を実行にうつすしかない。

羅生門 15 最終考察までもう一歩

 下人はなぜ引剥ぎをしたか?

 これは「正義」の引力と「悪」の抗力の釣り合いが変化したことによる。

 それを引き起こしたのは老婆の「平凡」な答えだ。下人は老婆の長い言い訳を聞いたから引剥ぎをしたのではなく、端的に言えば平凡な引剥ぎの理由を聞いたから引剥ぎをしたのだ(まだ何のことかはわからないだろうが、そう結論できるのだ)。

 その時下人の裡に起こった変化を捉えるのに有効なのは、「心理の推移」の分析の際に行った、二つの「憎悪」の比較だ。その際の番号に従って①「憎悪」と③「憎悪」と呼ぼう。

 ①は「一般化した対象に向けた熱い憎悪」、③は「限定された対象に向けた冷たい憎悪」だと捉えられる。両者に共通しているのは「悪に対する憎悪」だということだ。ここで共通点を確認した伏線の理由が明らかになる。この時上記のバランスが変わったのは、すなわち「悪」に対する認識が変化したことと対応しているのだ。

 ①と③の相違を次のように整理する。

   としての悪に対する憎悪

   としての悪に対する憎悪

また

   的な悪に対する憎悪

   的な悪に対する憎悪

 空欄に入る言葉は何か?


 これは生徒が自ら考えつくような思考法ではない。

 実は授業者もこのように問題設定をして思考したわけではなく、これはむしろ説明のために発想したものだ。それを最後の誘導に利用する。

 この比較を可能にするために「憎悪」の共通点を「悪に対する憎悪」であると確認することが必要だったのだ。

 先の相違点を、その対象の違いとして表現する言葉を探す。①③の空欄にはどんな言葉が充てられるか?


 対義語としては「主観/客観」が思い浮かぶことが多い。

 だが、①③のどちらにも「主観」「客観」が入りうるし、どちらでももっともらしい説明ができてしまう。つまりこの対比は有効ではない。

 「絶対/相対」も挙がるが、この言葉でも論理がつながるとは言い難い。

 ①と③の比較では①「対象が一般化されている」、③「対象が老婆に限定されている」という表現を使った。ここから「一般/個別(限定)」も発想されるし、「抽象/具体」に置き換えることもできる。

 この対比は悪くないが、ここから主題の把握までには距離がある。


 さて、ギリギリのヒント。

 ①に入りうるのは「幻想」「虚像」「イメージ」などの言葉だ。

 だがそれより適切な言葉がある。


 先の「相違」が示す相違を、その対象の違いとして表現する言葉①③を探す。

 大詰めだ。

 下人はなぜ引剥ぎをしたのか?


羅生門 16 結論

 授業者が①に入る言葉として提示するのは「観念」だ。

 そう聞いてもみんなはただちにピンとはこまい。

 この語彙は高校生にはない。言葉としては知っているはずだ。だが「語彙」というのは「知っている言葉」ではなく「使える言葉」だ。「観念」という言葉を高校生は想起しない。知っているが使えない。

 だがこの小説を捉えるために、これより的確な言葉を思い浮かべることが、今のところ授業者にはできない。

 「観念」とは何か?


 辞書的な意味を確認するより対比の考え方を用いる。「観念」の対義語は?

 だが通常「観念」の対義語は辞書にはない。

 むしろ「観念的」という形容で考えてみるとわかりやすい。空欄の下に「的な」をつけたのはそのための誘導だ。

 「観念的」の対義的な形容は「現実的」である。「お前の考えはどうも観念的で、ちっとも現実的ではない」などという。

 「観念」とは、頭の中だけに存在する現実離れした考え、というニュアンスで使われる言葉だ。「観念的」とは「頭でっかち」とか「地に足が着いてない」とか「机上の空論」といったニュアンスの否定的な形容だ。「観念的な議論はいい加減にして、現実的な解決策を探ろう」などという。

 これで結論は出る。


 下人が門の下で「勇気」を持てなかったのは、下人が「悪」というものに過剰な幻想を見ていたからである。

 それはいわば現実性を欠いた観念としての「悪」だ。

 「a.正義(飢え死に)/b.悪(盗人)」の拮抗状態からbに進めない理由は、bに進む抵抗が強かったからだ。それが、老婆の答えを聞いた後に弱まる。それは下人の「悪」に対する認識が「① 観念 としての悪」から「③ 現実 としての悪」に変わったからだ。

 「羅生門」という小説は、ある幻想が消滅し、現実に覚める物語なのである。


羅生門 14 最終考察に向けて

 さらに問いを言い換えよう。言い換えのバリエーションは論理の結びつきの可能性を高める。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」という問いを、引剥ぎの実行の直前の本文の記述を使って言い換えよう。

 最初にも確認したとおり「なぜ盗人になったのか?」は避けたい。それは解釈が既に含まれてしまっている。

 それよりも本文の言葉を使うなら「なぜ勇気が生まれてきたか?」だ。実際、ここまでの授業でも何度もそのような言い換えが、特に意識することなくなされてきた。この表現は「なぜ引剥ぎをしたか?」と完全に置き換えが可能で、なおかつ本文に即している。

 そしてさらに次の言い換え。

 「なぜ勇気が生まれてきたか?」を裏返すと、どのような問いに言い換えられるか?


 「裏返す」の意図がよくわからないが、聞いてみれば思いつく者はいる。

 「なぜ今までは生まれなかったのか?」は悪くない。が、もう一歩。「今」とはいつ?

 この「勇気」は「さっき門の下で、この男に欠けていた勇気である。」と説明されている。すなわち「なぜ勇気が生まれてきたか?」は次のようにと言い換えられる。

門の下ではなぜ勇気が出なかったのか?

 これで論理の結びつく可能性は高まる。


 さらに誘導する。

 最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は、実は等分な選択肢として下人の前にあるのではない。abが引き合っている、などと言ったのはミスリードだ。

 門の下で下人が置かれていたのは、どのような力とどのような力の拮抗か?


 「飢え死にをするか盗人になるか」という表現は本文にも出てきているが、これが既にミスリードだ。

 下人は何もないまっさらな状態からこの選択肢の前に置かれて迷っているわけではない。現状このままではa「飢え死に」してしまうのだから、下人にとってはb「盗人になる」を実行できるかどうかが問題だ。

 とすると、拮抗しているのは、bを実行する力(①)とaの引力もしくはbの抗力(②)だということになる。

 盗人になる実行力①→

飢え死に/盗人

  正義/悪

 ←②正義感+悪への抵抗感

 バランスが変わるとすれば、この右へ向かう力①と左へ向かう力②のどちらか強くなるか弱くなるか、だ。

 どちらであるかは明らかだ。①が変わっているわけではないことは直観的にわかる。①が変わるとは例えば「極限状況」が物語の後半に向かって高まっていくような変化によってだろう。それは確認したとおり描かれていない。とすれば②が変わったということだ。

 この拮抗がバランスを変えたのは、どの時点で、何によってか?


 最初に左に振り切ったのは、最初に「憎悪」が心に燃え立った時だ。これは老婆の行為を目撃したことによる。この時急に②が強くなって①を完全に凌駕してしまう。

 問題は右に振り切った時だが、これは厳密にはいつか。その変化を引き起こした契機が老婆の長広舌だと考える一般的解釈によれば聞いた後ということになるが、それよりも前に契機があるとすれば、二度目の「憎悪」の時点しかない。つまり具体的には老婆から髪を抜く理由を聞いたことによってだ。

 繰り返すが、それは①が強くなったわけではない。

 ②が弱くなって、①が優勢になったのだ。

 バランスの変化の局面には同じ「憎悪」がある。②の力は「正義/悪」の力の釣り合いの変化で強さが変わる。それがどのようにして起こるのかを明らかにすれば良い。

 この二度目の変化がなぜ起こったかという問いは、最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」に他ならない。


2025年12月10日水曜日

羅生門 13 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまう。だが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、やはりある発想の飛躍が必要だ。

 ここまでの心理の分析のすべてがその手がかりになるはず。丁寧にたどって、それが「おりて」くるのを待とう。


 考える手がかりをいくつか提供する。

 AB論争から明らかになったことを思い出そう。「なぜ引剥ぎをしたか」という問いには「なんのために引剥ぎをするか」と「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いが重なっている。一般的な解釈の「極限状況」は前者に対応し、「老婆の論理」は後者に対応している。また、ディベートにおけるA支持者は後者に答えようとしており、B支持者は前者に答えようとしているように見える。

○なんのために引剥ぎをするか

→極限状況=B「生きるため」

○なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか

→老婆の論理=A「相手もしているなら」

 「老婆の論理」からではなく、「心理の推移」によって後者の問いに答える論理を考えよう。


 さてこの問いに対する答えがそれなりに用意できたら、そこから「主題」として抽象化する飛躍の前に、一段階、次のような問いを置いたことを思い出そう。

引剥ぎという行為の意味は何か?

 「意味」を語るためには抽象的な把握を必要とする。

 授業ではこれを考えるために、例えば「実用/象徴」という対比で考えてみることを提案した。

 「実用」だとみなすのは先のB支持だが、それだけで説明することはできない。

 「象徴」のみで解釈する立場はAのみを重視するということだが、これも難しい。

 「実用」を否定せず、そこにAではない、どんな「象徴」性を認めるか?


 それを表現した先に、さらに主題へと抽象化する。


 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間で逡巡している。これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を「選択」しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。「a.良心・倫理/b.利己心・エゴイズム」などもいい。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」に迷うということは、上の価値が拮抗しているということだ。

 この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。

 この変化は極端だ。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 二度の極端な変化は、いずれも重要だ。不自然なことには意図がある。

 それらは何を示すか?


2025年12月8日月曜日

羅生門 12 「得意と満足」「失望」「憎悪」

 奇妙な「憎悪」は、後に言及される「勇気」を下人の心に生み出す。それに動かされて下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「この雨の夜に、この羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、あえて述べられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 この不自然さは、ある順序の転倒によって生じている。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 老婆の返答である(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。これが違和感の理由だ。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる(だが後でもう一度訊く)。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡(特殊・異常…)」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ異常なことを期待するのか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?


 「失望」とともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 ここでの分析には対比を使う。①「憎悪」と③「憎悪」を比較する。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か。

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けて③の「憎悪」が捉えられていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(これもまた、各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 またこの憎悪は「冷ややかな侮蔑といっしょに」下人の心に入り込む。

 この「冷ややかな」は、老婆の話を聞く下人の態度「冷然と」に、また「侮蔑」は「嘲るように」につながっているように思える。

 それなら「かみつくように」「手荒く」という老婆に対する敵意は「憎悪」からつながっていると言ってもいいかもしれない。

 それを認めるならば、先の「嘲る」「かみつく」「手荒く」「冷然と」といった、引剥ぎの実行周辺の形容からうかがい知れる下人の心情は、老婆の長広舌を聞く前に、既に生じているということになる。

 となると「嘲る」について前に一度考えた説明も、あらためて考え直す必要がある。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。

 「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。

 とすればその論理とは何か?


よく読まれている記事