2024年11月18日月曜日

舞姫 15 心理分析

 エリスのぎりぎりの戦いはその後も続く。

 8章で、カイゼルホオフに赴く豊太郎の身支度をする次の場面もまた実に興味深い読解が可能だ。

「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「、かく衣を改めたまふを見れば、何となく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見棄てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも。」

「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」

 ここでは豊太郎とエリスの心理を分析しよう(小学生の時以来、授業でやってきた「この時の二人の気持ちを考えてみよう」だ)。


 まずエリス。

 エリスの心理は、三つに分割された科白ABCそれぞれの推移を、間に挟まる「少し容(かたち)をあらためて。」「また少し考えて。」といった描写を考慮して分析する。

A「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。…」

   少し容を改めて

B「否、かく衣を改めたまふを見れば、…」

   また少し考へて

C「よしや富貴になりたまふ日はありとも、…」

 比較的分析が容易であることもあって、促せば賑やかにあれこれ喋り合っているのは結構なことだ。喋りながらエリスの心情に迫っていけばいい。

 ただ、毎度言っているように、説明のためには抽象化が必要だ。エリスの科白そのままではなく、何らかの語句をそれぞれにあてたい。

A 立派に正装した豊太郎を見て誇らしく思う

B 豊太郎と自分との距離を感じて不安になる

C 豊太郎が離れていく可能性に気づいて牽制する

 「誇らしく」「不安に」「牽制」などという言葉を想起することが「説明」のためには必要だ。

 また、三つの科白のつなぎのト書きについては、Bの「感じて」が「少し表情を変えて」、Cの「気づいて」が「少し考えて」に対応している。


 さて、もう少々の考察。

 AからBに推移するエリスの心理を、Bの頭の「否」から考えてみよう。

 Bの冒頭の「否」は、Aの科白の何らかの要素を否定していることになる。BにはAを打ち消して提示される内容があるはずだ。

 この「いいえ」は、Aの何を否定しているか?


 ここでも「抽象化」が必要となる。AとBを同じ土俵に乗せて比較しなければならない。どちらかに寄せるか、間をとって両者を対照的な言葉に言い換えるか。

 Aに寄せてみよう。

 A「一緒に行きたいのに」は「行ける」前提があるということだ。行けないのは体調が悪いから、もしくはそれなりに見栄えのする服がないからであって、それが乗り越えられるなら「行きたい」、つまり「行ける」のだ。ならばBを「行けない」(私の豊太郎様ではないので)と表現すれば逆接が示せる。

 Bに寄せてみよう。「私の豊太郎様ではない」ならばAは「私の」だと思っているということだ。「もろともに行かまほし」がそれを表わしている。

 つまりAは自分と豊太郎を同じ範疇に入れているが、Bは違うのかもしれないと思っているわけだ。

 上で、Bを「豊太郎と自分との距離を感じて不安になる」と表現したが、こうした変化の契機にあるのは何か?


 豊太郎の「不興なる面持ち」だ。


2024年11月12日火曜日

舞姫 14 母の手紙

 公使館から告げられた免官の宣告から、態度を決定する一週間の猶予の間に、日本から手紙が届く。母の手紙と母の死を知らせる親族の手紙だ。

 母の手紙の内容を「ここ(手記)に反復するに堪えず」と書かれているのは、むしろ読者に内容を考えろと言っているのも同然だ。

 何が書いてあったか?


 まず確認しておかなければならないのは、母の手紙が、その死を知らせる手紙と「ほとんど同時に」出されたという記述だ。

 これは何を意味するか?


 この問いに、直ちにあれこれと解釈したことを答えてしまう人が多かったが、段階を追ってまず明らかなことを共有しよう。

 ここから解釈できる事実は、母の手紙が死の直前に書かれたということだ。

 母が手紙を書いた直後に不慮の事故に遭った可能性がないとは言えない。が、不慮の死であったというのは「わざわざ書かれるべき特別な事由」だろうから、母親は自らの死を知っていて、息子に手紙を書いたと考える方が自然だ。つまりこれは遺書なのだ。

 それが殊更に悲しいとしたら、そこにはどのようなことが書かれていたと考えるのが整合的か?


 病気で死期が迫った母が息子に残す言葉として、単なるその死以上に息子を悲しませるとしたら、この息子の現状との対比がそこにある場合だろう。

 ここでの豊太郎はちょうど、事実とは言い難い(だが「無根」とも言えない)中傷によって免官になったところだ。

 そこから考えると、死期の迫った母は、息子の将来に希望と期待を述べ、あなたは太田家の誇りです、くらいのことを書いていたと考えるのが、そのコントラストによって、より豊太郎を悲しませるにふさわしい。


 さてこの問題には、もう一つの解釈の可能性がある。

 最初からその発想はみんなの脳裡に浮かんでいたに違いないが、そうでなければ誘導するのは簡単だ。

 遺書と言えばどのような死因が連想されるか?

 そう、自死の可能性だ。


 当然、動機は何かが問題になる。ここで、本文に情報のない動機を想定するのは不適切だろうから、既に読者にも与えられている情報からならは、豊太郎の免官しか考えられない。

 しかしこう考えることには問題もある。

 何か?


 母は豊太郎の免官を知っていたか、という問題だ。

 手紙が届いたのは、ドイツで豊太郎が免官の宣告を受けてから一週間のうちだ。

 当時は電話も航空便もない。船便による郵便は日独間で1ヶ月ほどかかったという。とすると母親の死は、豊太郎の免官より3週間ほど前のことではないのか?

 母親は息子の免官を知らず、したがってその死は病死としか考えられないのではないか?


 だがそう即断する前に検討すべきなのは以下の記述だ。

…余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、…

 さらさらと記述されているが、「官長のもとに報じつ」や「旨を公使館に伝へて」が文書の船便によるものだとするとに、それぞれ1ヶ月ほどの時間が経過しているのだ。

 事態の推移を、その想定にしたがって並べてみよう。

 ドイツにいる留学生からの讒言によって、日本にいる官長が豊太郎の免官を決定する。それが官報に載り、母親が知る(後の章で相沢が豊太郎の免官を官報で知った、とある)。

 そして自死。

 免官の決定がドイツ公使館に伝えられるのに1ヶ月、それを追うようにして母の死の知らせがドイツに伝えられる…。

 可能なのだ。


 ただ、電信は実用されていた。このころ既に大西洋を海底ケーブルが渡されていて、大陸間で電信を送ることが可能だった。

 だがもちろん現在の電話やインターネット通信のように誰もが気軽に使えるわけではない。一留学生の罷免が、電信を使う必要性があるほど急を要する重要事項なのかどうかがさだかではない。

 免官の知らせが電信によるものであるとすると、母が免官を知って自死をしたことがこの時点で手紙で知らされることはありえない。となれば先の想定どおり病死であり、手紙には息子への期待や励ましなどが書かれていたのだろう。

 だがそれが、母や親類の手紙と同じく、文書による通知であったとすると、母は免官を知って自死を選んだという想定が可能になり、その場合は息子に対する落胆や憤慨が書かれていたのだと考えられる。


 授業では「諫死」という言葉を紹介した。

 諫死とは、死をもって相手に忠告することだ。豊太郎の行状に対し、母親がその死をもって息子を諫めたのだと考えることは、この時代の親子、とりあわけ家庭教育の賜物としての立身出世を期待していた息子に対する母親の身の処し方としては考えられるところである。

 自分の行いのせいで母親が死んだのだとすれば、それが豊太郎にとってどれほど辛いかは想像に難くない。諫死という死因は豊太郎の悲しみに対してきわめて整合的であると感じられる。

 母親の死が既に1ヶ月以上も前のことであったことを知って、その間もエリスとの交際に胸をときめかせて暢気に日々を送っていた豊太郎がどれほど胸を痛めたか。

 あらためて想像されるその悲痛は、この時間経過を考えることで、より強く迫ってくる。


2024年11月11日月曜日

舞姫 13 エリスの戦い

 この場面を解釈するうえで、エリスの振る舞いが演技である可能性について検討されているような声があちこちで聞こえた。

 どうなんだろう? 一体、エリスは自らの魅力についてどの程度自覚しており、それをどの程度自覚的に利用しているのだろう?

 エリスは清純なのかあざといのか?

 敢えてどちらかというと、と挙手させてみると「あざとい」説が優勢だ。だが逆張りして清純説を推す人ももちろんいる。

 「あざとい」説が出てくるのは、次の二つの描写だ。

彼は物語りするうちに、覚えず我が肩に寄りしが、この時ふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ。

彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。

 1は豊太郎と会ったばかりで、わずかに事情を語った科白の後に続く描写。この「覚えず」というのは本当か?

 2はエリスの家でさらに詳しい事情を語って援助を請う科白の後に続く描写。この目遣いの効果について本人は自覚的なのか?

 どちらと答えるによせ、実は決定する根拠が別段あるわけではない。議論をしても個人的な好みに終止してしまって、どちらかに決着するわけではない。

 だが2では作者自らがその二択を殊更に読者に投げかけている。読者はエリスの自覚に注意を促される。これは考える余地があるということだろうか? 何か具体的な手がかりに基づいた読解ができるのだろうか?


 この場面について、かつて本校にいたM教諭による興味深い解釈を紹介する。

 考える緒は1の解釈だ。

 この一節を、それほど解釈に時間をかけていない読者が読んでも、特にひっかりを感じないが、前項のような考察を経て読むと、明らかに読み方が変わるはずだ。

 その点に注意を促すのは次の問い。

 「我がそばを飛びの」いたのはどのような契機によるか?


 「恥じて」とあるから、自然に受け取れば、見知らぬ男の肩に寄り添ってしまっている自分に不意に気づいたということだと受け取れる。あるいは「ここは往来なるに」からすれば、外で泣いていたことに、初めて気づいたのから、とも言える。

 そう考えることは否定できないし、読者にはまずそのようにしか読めない。

 だが、この場面の「真相」に基づいてこの描写を読み直してみると、エリスの反応について別の解釈が可能になる。

 エリスの反応を引き出したのは何か?


 「君が家に送りいかん」だ。

 これは、前項の解釈を経ずに読んだ読者には特別な意味をもたない。

 だが、この場面でエリスが外にいるのは、先の考察に拠れば、恥知らずなことが行われようとしている「家」を飛び出してきたからなのだ。

 家を飛び出してきたエリスには、といってこれからどうしようというあてもない。そこへ現れたのは「黄なる面」の「外人(よそびと)」である。エリスは突然声を掛けてきたこの異邦からの来訪者に、ただすがりつくように自らの窮境を語る。そうするうちに「我が肩に寄」ってしまったのは「覚えず」であったとしてももっともなことである。

 だがその時、「家に送って行こう」と言われる。逃げ出してきた、そこに。

 その時、エリスの脳裡にはどのような思考・感情が奔ったか?


 エリスが反応したのは、豊太郎が言った「君が家に送り行かん」である。この時初めてエリスは、豊太郎が「家」の「客」になる可能性に思い至ったのである。この東洋人が、自分の世界の外からやってきたこの世ならぬ救世主ではなく、現実的な―しかしそもそもはそれこそ避けたかった―援助者としての「客」になる可能性をもっていることに初めて思い至ったのである。

 だがエリスは家の送られることを拒むわけではなく、むしろ「足早に」豊太郎を家に連れて行く。このエリスの足取りの言及に意味を持たせるとするならば、それは事情を知らない豊太郎が書いているように、他人に見られないように急いでいるのだということではなく、予定の「客」が到着するより先に、という意味だと考えられる。

 エリスは豊太郎にすがることを決めたのだ。少なくともシヤウムベルヒの影響下にない豊太郎が善人であることに賭けて、彼を家に連れて行く。

 家では母親が待っている。母親は娘の説明に従ってこの身なりの良さそうな東洋人を、善意の援助者として素直に信じることができるだろうか?

 もちろんそんなことは期待できまい。とすれば、母親にとってこの東洋人は、予定の「客」に代わるあらたな「客」だ。シヤウムベルヒに借りを作るくらいなら、金の出所としてこの東洋人に乗り換えてもいいと母親は考えたのだ。それで母親は、態度を豹変させて豊太郎を迎え入れる。

 豊太郎が通されるのは「客」のために設えた屋根裏部屋だ。

 母親はそこまで着いてきている。「老媼の室を出でし後に」、いよいよこれからがエリスの必死の策略が実行される。豊太郎を籠絡しつつ、「客」ではない善意の援助者として仕立て上げる。

 エリスの科白を分析しよう。

 まず「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。」と切り出す。「あなたは良い人に見えます」とは絶妙な牽制だ。そう言われて「悪い人」になることは難しい。加えて、家に連れてきたことを謝罪することで、豊太郎には見返りがないこと(つまり「客」として遇しないこと)をさりげなく伝える。

 そして自らの窮境を、先ほどよりは具体的な事情がわかるように伝えた上で「金をば薄き給金を割きて返し参らせん。よしや我が身は食らはずとも。」と言う。金はあくまでも「借りる」前提であること、つまり見返りに何かを渡すつもりはない―すなわち豊太郎は「客」ではない―ことをまたしても前提として確認してしまう。

 なおかつあなたが、先の前提である「善き人」ならば、「それもならずば母のことばに。」という仮定の示す「酷い」成り行きに私を任せるはずはない、と念を押すのだ。

 こうしてエリスは巧妙に自分の望む方向に豊太郎の了解を誘導する。

 このように考えると、2の「その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目の働きは知りてするにや、また自らは知らぬにや。」の「媚態」は1に比べて、意図的、というより意志的なものだということになる。

 エリスは自分の精一杯の媚態を利用してでも、豊太郎を善意の援助者にしたてあげることに賭けたのだ。


 だからといってこれはエリスが「あざとい」ということではない。この科白も、分析的というより、感覚的に繰り出されていると言ってもいい。

 そしてこうした策略もまた「恥なき人とならんを」逃れるためであることから考えれば、依然としてエリスの純情を疑う理由はない。


 以上の解釈が作者・鷗外の意図したものであったどうかについては確信がないが、少なくともこうした解釈を可能にするテキストであることは以上の考察が示しているし、それをする自由が小説読者に許されているのは確かだ。

 そして、不注意な読者には、こうしたエリスのぎりぎりの戦いは、決して読み取れはしないのだ。

2024年11月10日日曜日

舞姫 12 出会いの場面の真相

 エリスはその時、なぜそこで泣いていたか?

 その「真相」に一息に迫るのは、次の問いだ。

 「体を売る」のは、具体的には、いつどこでか?


 上の問いに対する答えを念頭に置いてA「衣服」、B「母親の態度」、C「室内」の記述について再考し、a~eのストーリーの細部を想像してみよう。エリスにとっての「その時」がどのようなものかに気づいた者は、その「真相」に戦慄を覚えないではいられないはずだ。


 答えは「今晩、エリスの家で」だ。

 「今晩」以外の想定をわざわざした者はいないだろうが、あらためてそのことをリアルに想像しておく必要がある。それは明日や明後日のことではない。この後、これからの予定だったのだ。

 そしてそれを「エリスの家で」と組み合わせることで、この状況の緊迫感が増す。

 場面は、豊太郎の仕事帰り、「灯火」のともる「夕暮れ」だ。折しもこの後、この家がその舞台となるはずだったのだ。

 「明日には葬儀を上げなければならないのに」という条件の提示も、Aのエリスの服が「垢つき汚れた」ものでなかったという言及も、今日それが行われることを意味していると考えると、読者にその情報を伝えるためにわざわざそのことに言及することの必然性が腑に落ちる。

 では「どこで」はなぜそのように確定できるのか?


 現状では「相手」の家、市内のしかるべき施設などとともに、「エリスの家」という可能性も検討されていたはずだ。話し合いの中でそうした声があちこちから聞こえてきてはいた。

 だがそれは様々な可能性の検討の中に流されてしまい、結局いくつものストーリーの並列を許してしまっていた。

 例えばc「身を売る相手を探していた」説に対する疑義として、豊太郎を外において扉を閉めてしまった母の態度は、不特定の客を対象にした売春を命じていると考えることと不整合だ、エリスが男を連れて家に戻れば、誰であれ母親はすぐに彼を迎え入れただろうからだ、といった議論が班の中で交わされていた声が聞こえていた。それは「エリスの家で」という想定を前提していることになるはずなのだが、その可能性の是非自体が議論になることがなく、ストーリーの選択に意識が向いてしまっていたように見える。

 あるいはc説は「相手」を「不特定」と考えていることになるが、そうなれば花束はエリス家が「客」を迎えるために用意したものということになり、となれば「エリスの家で」ということにしかならない。だから「どこで」かを問われる前に、c説は「どこで」を確定していたことになる。同時にそれは「母の態度」との齟齬につきあたるから、その時点でそうしたストーリーの可能性が排除されたはずだ。

 もちろんc説で、さらに場所をどこかの安宿のようなところだと想定すれば、d「どこかへ行く途中」説との融合案としてそれもありそうな気もするのだが、これでは花束の存在に説明がつかない。

 そもそもc説を採る場合、シヤウムベルヒの関与がどのようなものだと考えればいいのかが不明だ。単に「体を売ったらどうだ。」という提案だけが「身勝手なる言い掛け」なのだろうか?

 その要求が何かシヤウムベルヒにとって得になることでなければならないと考えると、相手はシヤウムベルヒか、シヤウムベルヒが仲介する誰かということになる。

 こうして、可能性の候補を絞っていくことはできたはずなのだ。


 では、可能性の一つでしかなかった「エリスの家で」を信ずるべき最大の根拠は何か?

 それこそがBの室内の描写だ。5行に渡る描写は、そこがその舞台となることを読者に示している。机に掛けられた「美しき氈」も書物や写真集が飾られているというさりげない描写も、そう考えなければ、わざわざ言及されている意味がわからない。

 そこにはベッドの存在が明示され、その傍らにエリスは恥ずかしそうに立っている、と描写される。

 「ここに似合わしからぬ」という形容によってどうしても花束が注目されてしまうが、問題はそれも含めた室内の描写の意味そのものだ。花束が、それをエリスに贈ってきた男の存在を示しているという指摘をBの提示の時点でわざとしたのは、敢えて皆をミスリードしたのだった(最初から、問題は「部屋」だという指摘をした人がいたクラスもあったが、曖昧にぼかして過ごした)。

 これは、授業者による意図的なミスリードでもあるが、そもそもこの部分の描写自体が小説読者をミスリードしているとも言える。注意を引く形容の被せられた花束は、エリスの窮状とは体を売るよう迫られているということだという、いわば一層目の「真相」に読者を誘導するヒントになるとともに、テーブルクロスや書物や写真集が飾られた室内の描写全体が意味する二層目の「真相」から読者の注意を逸らしてもいる。

 a~eの各ストーリーは、「相手」や「場所の意味」にせよ、「母親の態度」にしろ「花束」にしろ、それぞれをそのストーリーに合わせて解釈することが可能だ。だから完全にはそのストーリーを特定することはできなかった。

 クロスワードパズルやナンクロ(数独)では、どこかが決まらないと他の空欄が決まっていかない。だからどこかの選択肢を特定すべきなのだ。

 ここで最初に特定すべきなのは、この「今晩、エリスの家で」だ。ここを起点としてそれ以外の浮動する要素が確定される。

 室内の描写は、ここがそのための場所であることを示しているという以外の解釈を許さない。それは、書いてあることには意味があるはずだという小説解釈の基本原則に則った帰結だ。


 では「価高き花束」の出所については?

 花を用意したのがエリス家だとすると、それはただちに「この家で」という想定をしていることになる。

 だが家の蓄えがなくて葬式さえ出せない母親が、「美しき氈」「書物一、二巻と写真帳」といったワイゲルト家のなけなしの調度によって部屋を飾りこそすれ、高価な花束を買ってまで客をもてなしているのだと考えるのは不自然だ。「客」を迎えるにはエリスの存在だけでいいはずだ。

 それよりも、これから来訪する予定の「客」から贈られたものだと考えるのが自然だ。きれいな花束はかろうじて貧しい家の一間を飾り、エリスの美しさをひきたてる。そこを訪れた「客」は、自分が贈った花束が部屋を華やかに飾っていることに満足するだろう。

 そうした花束を「シヤウムベルヒ」と「シヤウムベルヒの仲介する客」が贈る様を想像してみよう。

 お抱えの踊り子に手をつけようとするシヤウムベルヒが、今更花束を贈って雇い人の歓心を買おうとするだろうか。

 それよりも、「場中第二の地位を占め」ている人気の踊り子を自分のものにしたいという客が、彼女の気を引こうと贈ってきたものと考えるのが最も自然に思える。シヤウムベルヒはそうした客の要求に応えることで仲介料をとろうとしているのだ。


 さて、「今晩」「エリスの家で」「特定の」相手に身を任せようとしているという前提を確認し、聞いてみるとなおもde説を堅持している者が多かったのは奇妙だった。

 de説の「どこか」、dでは「行く」場所、eでは「行ってきた」場所を、おそらく皆はそれが行われる場所として想定していたはずだ。つまり「相手の家」「安宿」などだろう。

 だがそれが「エリスの家で」に変更されてさえ、de支持のまま、それを合理化しようとする。

 つまり皆は相手を座長かエリスのファンだと考え、エリスが彼らを迎えに行って家に連れてくるのだと考えるのだ。

 だがなぜそんな想定をする必要があるのか。なぜ迎えに行く必要があるのか。

 「客」は向こうから訪れると考えるのが素直な発想だ。

 D「母親の態度」がそれを示している。

 母親は、戸の外を確認する前にドアを「荒らかに引き開け」ている。迎えに行って帰ってくる時間が早すぎたのならば、まず事情の確認が必要だし、外にエリスとその客がいる可能性がある以上、そんな不調法はしないはずだ。

 それより、「客」を迎える準備ができたのに、肝心の娘が逃げ出してしまい、「客」の到着までに帰ってくるかどうかを焦って待つ間に怒りを募らせている母親が、エリスが帰ってきたとわかるやいなや戸を開けたのだ。そして「待ち兼ね」たように閉めるのだ。

 母親が豊太郎を閉め出して戸をたてきるのは、それが予定された客ではなかったからだ。

 だが、予定通りのシヤウムベルヒか、その仲介する客でなくても援助が引き出せれば予定外の東洋人でも構わない、という娘の説得に母親が納得したから、その態度は豹変した。

 当然、母親にとってこの身なりの良い東洋人は、単なる善意の援助者ではなく、あらためて娘が体を売ることになる「客」として認識されている。


 一方で「エリスの家で」という設定を信じるには大きな障害が二つある。

 一つ目は父親の遺体の存在だ。別の部屋とはいえ、亡き父親が寝かされているのと同じ屋根の下で、娘が身体を売るために着飾って客を迎える、そしてその準備は母親がしているのだ、などと考えることができるか?

 これを根拠に「家で」説に反論している声をいくつかのクラスで聞いた。もっともな感想だ。

 だが、だから場所の解釈を変えるべきだということにはならない。室内の描写の意味はそれ以外の解釈を思いつかないかぎり、それを意味していると考えるべきなのだ。そこを根拠としてまず「エリスの家で」説、つまりこの家にやってくる客の相手を今晩するのだというストーリーが解釈の蓋然性が高いと考えるべきなのだ。

 そう考えたうえで、父親の遺体の存在の不気味さに戦くべきなのだ。


 そうした心理的抵抗とともに、もう一つ、この想定の難点はある。

 この想定によれば、予定の客がこの後に訪れることになるではないか!

 この、父親の遺体の存在と、後から訪れる「客」の対処を根拠に「エリスの家で」説に反対していた人は鋭い。

 だが、だから「エリスの家で」説を否定したり、「客が訪れる」というストーリーを否定して、「相手の家で」とか「迎えに行った」というストーリーを採るのは適切ではない。

 だから、この場であっさりシヤウムベルヒを裏切り、後から訪れる予定の「客」を追い返す決断をした、この母親の恐るべき変わり身に驚くべきなのだ。

 この「真相」は恐るべきものだが、だからといって、母親をいたずらに悪人に仕立てるつもりは鷗外にはない。「悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を額に印せし面」と、それが貧困のせいであると読者に報せてもいる。


 「外にいた」のは、なるほど母親と言い争いでもして家を飛び出したからなのだが、それはいつかくる「恥なき人とならむ」状況へと娘を追いやる母と言い争って外にとび出したというだけでなく、今晩のうちにそれが行われようとしている忌まわしい場所から逃げ出してきたのだ。

 つまり最初の選択肢ではaが最も近いが、「母から逃げて」というよりは「家から逃げて」とでも言うべきだろう。最初の選択肢でa「母から」と表現したのも、いわばミスリードだ。母が「我を打」つから帰れないのではなく、帰ることは直ちに「我が恥なき人とならむ」ことになるから帰れないのだ。

 そう考えてこそ、この時のエリスにとっての、この状況下に表れた豊太郎の存在の切実さがわかる。漠然と「金のために身を売ることを余儀なくされて悲しんでいた」と考えるのと、「今夜それが行われる部屋から逃げてきて、どうしようもなく道端で泣いている」と考えるのとでは、この時のエリスの置かれた状況の切迫感はまるで違う。


 さて、考察の積み重ねによって構築されるこうした「真相」に、みんなはどの時点で気づいただろうか?


舞姫 11 問題の整理

 この場面の考察を「なぜそこにいたか」という問いに収斂させるのは、体を売るように要求されているというエリスの窮境を漠然と捉えるだけでなく、この場面がエリスにとってどのような状況なのかを、より具体的に捉えることを目的としている。

 時間経過の目盛りをさらに密にして、「その時」を捉える。

 主人公との出会いが、エリスにとってどのような意味をもっていたのかをリアルに想像する。


 いくつかのストーリーの類型を提示した。

○なぜ外にいたか?

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 上記のような想定の相違には、以下のような前提の相違がある。


○「身体を売る」相手

  • シヤウムベルヒ
  • 特定の誰か
  • 不特定の誰か

○場所の意味

  • 教会の前
  • 家の前

 少なくともこの三つの視点それぞれについて自分がどのような見解を持っているかを自覚し、その整合性を担保する必要がある。

 例えばcを支持する場合、相手は「不特定」だということだ。その場合、場所の意味は「教会の前」か「家の前」か?

 「客」を探すのに教会の前であることを不審に思うかもしれない。だがそれを積極的に支持する評釈書もある。一方で家の前で「客」を探すのも不審だ。

 この場合、探すのは別のしかるべき場所-繁華街の裏通りとか-で、そこに行くよう指示されていたのに行けずに「家の前」の「教会の前」で泣いていたのかもしれない。それはcとdを合わせたストーリーだ。「場所」も両方を兼ね備えた意味合いとなる。


 さらに、本文から考慮すべきポイントを指摘して共有した。

A.エリスの衣服への言及

B.母親の態度

C.花束(室内)の描写

 これらが意味するものを整合的に組み合わせ、鷗外が想定しているストーリーを明らかにする。

 どのようなストーリーのどのような時点に豊太郎が遭遇し、それによってストーリーはどのように変化したのか?


 主人公との出会ったときのエリスは、どのような状況だったのか?

 議論を続けていくと、d「どこかに行く途中で」を拡張したストーリーに支持が集まっていく。

 相手がシャウムベルヒなら彼の家でも劇場でも、「特定の」相手ならばその指定する場所へ、「不特定の」相手ならば、それを探すのに適当な場所へ、それぞれ行くことを命ぜられて家を出されたものの、足が止まって泣いている、というシナリオだ。

 家を出てから間がなければ、家へ戻るのは予定通りに向かっていないということなのだから、母親は当然それを許さない。予定外の東洋人を閉め出して娘を叱るのももっともだ。

 一方豊太郎を招き入れる母親の態度が豹変したのは、豊太郎からの資金援助が期待できるという娘の説得に母親が納得したからだ。

 このシナリオには一定の整合性が認められる。それでもまだ「相手」の特定はできていない。


舞姫 10 考慮すべき情報

 路上で泣いているエリスに主人公が出会う場面は、どのようなストーリーの、どのような時点か? 出会う時点までにどのような出来事があり、この後、どのような展開になる予定だったのか?

 ストーリーの背後にある想定のバリエーションを分岐する選択肢の形で提示した。それらの組み合わせによって、ありそうなストーリーはさらにいくつにも分岐する。

 その中でどれを選ぶか、どのような読解が適切なのか、鷗外はどのようなストーリーを想定しているか、といった判断は、本文との整合性に拠る。本文にそうした情報が提示されていなければ、そもそもこうした考察は埒のない二次創作でしかない。

 本文の記述は、どのストーリーと不整合であり、どのストーリーを支持しているか?


 本文において考慮すべき記述はそれぞれ、考慮すべきだというサインを読者に送っている。以下の記述がそうした「有意味な」記述なのだが、それらは一体どうしてそうだと見なせるのか?

A (エリスの)着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

B エリス帰りぬと答ふる間もなく~詫びて、余を迎え入れつ。

C 陶瓶にはここに似合わしからぬ価高き花束を生けたり。

 小説の中に書かれていることには必ず意味がある、というのは小説読解にとっての大前提だ。人工的に創造される虚構は、作者がそう書かなければ存在しない。全ての断片は、書かれる意味がなければ書かれない。

 Aのエリスの服装についての描写は単に、豊太郎及び読者に、エリスに対する好印象を抱かせる目的で言及されているだけかもしれない。

 だが一方でこの言及もまた、ここでのストーリーを構成する断片かもしれない。それによって支持されるのはどのようなストーリーか?


 Bの母親の態度が豹変したのは、この東洋人から資金的援助が得られるというエリスの主張を受け容れたからだということはわかる。「言い争うごと」き話の内容はエリスによる説得だろう。

 だが最初にドアを「あららかに」開け、「待ち兼ねしごとく」「激しく」閉め、豊太郎を閉め出したのはなぜか?

 この記述はどのようなストーリーを支持しているか?


 Cの描写の中で、とりわけ注意を引くのは花束の存在だ。

 花束だけならば、その前のテーブルクロスや書物などとともに、豊太郎の目に映る室内描写の一つとして看過できたかもしれない。だが「ここに似合わしからぬ価高き」という形容は、この花束の存在について、意識的な解釈を読者に要求している。これを無視することはできない。

 この花束はなぜここに置かれているのか?


 死者に手向ける花ではないかという可能性に思い至る者もいる。だがそうではない。

 ここでは部屋の構造を確認しておこう。父親の遺体が寝かされているのは、入って正面の一室。一方、花束の置かれているのは、左手の竈( かまど ) のそばの戸を入った一室。それぞれ別の部屋だ。

 花束を死者に手向けられたものであると解釈させるには、別の部屋にすることの必然性がわからない。したがって、これは死者に手向けられたものではなく、「体を売る」という状況と結びつけて考えるしかない。

 そして、その出所を問うならば、エリス家が用意したか、誰かから贈られたか、しかない。

 エリス家が用意したものだとすると、それによってストーリーは限定される。それはどのように帰結するか?

 一方、贈られたものだとすると、それは体を売ることになる相手から贈られたものであることを示しているのだと考えるしかない。だがそこから「なぜそこにいたか」に答えるには、まだ明らかになっていない道筋がある。


2024年10月28日月曜日

舞姫 9 なぜ「そこ」にいたか

 4,5,6章と読み進めることで、登場時のエリスの置かれた状況について、ある程度推測することができた。

 だがまだこれで考察は終わりではない。

  • エリスはなぜその時そこで泣いていたか?

 この問いは二つの問いを含んでいる、と言うとみんなすばやく反応してくれて頼もしい。ちゃんと「山月記」のことを覚えている。

 何か?

  • エリスはなぜ泣いていたか?
  • なぜ「そこ」にいたのか?

 「泣いていた」事情と「そこにいた」事情は、むろん強く関係はしているが、それぞれに各々の説明が必要な事情だ。そして推論の手間はかなり差がある。

 「なぜ泣いていたか」、すなわち「金がないから身体を売らねばならない」というのは言わば中くらいの詳しさの「事情」で、「その時そこにいた」のはさらに細かい「状況」だ。つまり前後に延長されるストーリーを具体的に想像し、この場面がその中のどの時点かを特定しようというのだ。

 だがそんなことが可能なのか?

 また、そんな考察が必要なのか?


 この考察は「こころ」における、上野公園の散歩の夜のエピソードの意味の考察に似ている。

 夜、眠っているとKが襖を開けて声をかけてくる。目覚めた「私」はぼんやりしたまま受け答えをするが、翌日になってなんだったのか気になる。

 この考察では、物語に書かれていない、その場面の前の時間に、語り手以外の登場人物が何をしていたか、という想像が必要だった。読者の目の前で展開するのは(つまり小説に書かれているのは)語り手がその場面に至った後からだ。だが他の登場人物たちは、その場面の前にも生きて、何事かをしていたかも知れない。もちろん虚構の造形物だから、書かれていない時間は存在していないかも知れない。が、作者がそれを考えている場合には、それも含んだ上で、読者は小説全体を解釈しなければならない。

 授業ではここから「遺書」にまつわる重要な解釈を導き出したのだが、そのことは、いくつものヒントを突き合わせて解釈することによって初めて読者に明らかになるのだった。

 つまり小説本文に書いていない事情や状況を推測する必要があるのは、小説中にそうした情報を作者が意図的に置いているとみなせる時であり、同時にそうした情報(もちろんそれと一般常識)からしか推測はできない。

 ではエリスはこの場面の前にどのような時間を過ごしていたのか?

 そのことは、文中のどこから読み取れるのか?


 この場面の解釈には、潜在的にいくつかの解釈の分岐の可能性があるが、注意深く議論をしないとその違いが曖昧なまま看過されてしまって、二人で勝手な想像を拡げていって、なんとなくお互いにわかった気になってしまっているかもしれない。


 例えば「そこ」とはどこか?

 端的には「寺院(ユダヤ教の教会)の前」とある。書いてある通りに言えば。

 だが実はここにはもう一つの解釈の可能性が分岐している。

 この教会はどこにあるか?

 エリスが住んでいるアパートの「筋向かい」なのだ。とすると、単に「そこ」は「家の前」なのだ。

 だがそのことは、次の章でエリスの家に送っていくことにならなければわからない。だから「そこ」について考えようとすると、なぜ教会の門の前にいたのか、と問題を設定してしまう。だが「なぜ教会の前にいたのか?」と考えることと「なぜ家の前にいたのか?」と考えることは違ったストーリー、違った状況設定へと解釈を導く。

 二つの可能性について検討しなければならない。


 さて、「そこにいた」事情とはなんだろうか?

 授業では、可能性のあるアイデアをいくつか提示した。

a.母親から逃げ出してきて

b.助けを求めて

c.身を売る相手を探して

d.どこかに行く途中で

e.どこかから帰ってきて

 これらは必ずしも排他的ではない。aでもbでもありうる。だが、aであるがbではないような事情も想定できる(逆も)。

 これら諸説は、その要素を明らかにして相違点を明確にする。

 たとえば前の二つは、自ら外に出た、後の三つは、命ぜられて外に出た、という違いがあるといえる。

 さらにaでは明確な目的はなくとりあえず、bでは目的が自覚的、などといった違いがある。

 deでは当然「どこ」が問題になる。そしてなぜその途中で止まっているのかも。


 二つの分岐する可能性は、組み合わせを考えつつ考察を進めたい。

 例えばbはさらに「教会に助けを求めた」のか「教会の前で誰かに助けを求めた」のかに分岐する。選択肢が5択である必要はない。扉が閉ざされていたことに意味を見出すならば、教会に「助けを求め」たのだと考えられる。助けを求めたが扉が閉まっていたからそこで泣いていたのだ。「誰かに」だとしても、それが「教会の前」であるか「家の前」であるかはどう考えるのが適切か、検討に値する。

 またdeは「家の前」だと言っていることになる。

 aはどちらとも言い難い。「逃げた」というだけなら「家の前」だし、「逃げて」「助けを求めた」というなら「教会の前」であることに意味があるかもしれない。


 最初にみんなが考えているストーリーは、実はこのようにばらけていたはずだ。

 だがそのことを意識しないで、認識の食い違ったまま話し合っているのに、それに気づかない、ということがおそらく起こっていた。

 だから話し合いの際は、安易に頷かないで、自分の思い描いている設定と、相手の語るストーリーの違いを意識しながら聞きなさい、と注意した。なるべく解釈のバリエーションを保持したまま議論の俎上にのせたいからだ。

 上記のようなバリエーションは、話し合いの中で検討されただろうか?


 ストーリーの想定は、その背後に、さらなる想定の相違の可能性を秘めている。

 たとえば、「身体を売る」ことになる直接の相手は誰か?

 これは必ずしも一致していないはずだ。

 さしあたって解釈の可能性は次の三つ。

 まず、シヤウムベルヒ自身か、それ以外の誰かか。さらに、シヤウムベルヒ以外の誰かだとしても、その相手があらかじめ特定されているか不特定か、という可能性で二つに分岐する。

 これら三つの解釈は、皆の中で潜在的に分裂しているのだが、必ずしもその相違が議論の中で浮上してくるとは限らない。お互いに違った想定で違ったストーリーを語っているのだが、それに気づくことがないかもしれないのだ。

 世に出回っている「舞姫」解説書では、三つとも目にすることができる。

 たとえばある評釈書では「身勝手なる言い掛け」を、〈シヤウムベルヒが、エリスに金銭の援助をする代わりに情人になれといっていること。〉と解説している。別の解説書では〈葬儀費用を作るために、シヤウムベルヒの紹介する客を取るようにという要求。〉と解説している。あるいはエリスが立っていたのは「客」を探していたのだという解説もある(ご丁寧に教会の前で客引きをするという文化があることが紹介されたりもする)。

 寡聞にしてこれらの解釈の相違が論争の種になっているという話はきかない。

 これらはどれも両論併記ではなく、その一つのみが前提され、それ以外の解釈の可能性については言及されない。

 自分の中に形成された解釈は、必ずしも別の解釈の可能性との比較の上で選ばれたわけではなく、単にそれを思いついてしまったというだけのことなのだ。

 そして論者の間でも見解が分かれるように、これらの三つの解釈をどれかに決定する明確な根拠は容易には見つからない。

 ともあれ「そこにいた」事情を考えていく中で、「相手」についての想定も必要かもしれない。心に留め置く。


 まずはいくつかの観点で、それぞれに整合的なストーリーが描けそうだという発想の拡張につとめる。収束はその後だ。




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