2026年3月4日水曜日

視点を変える23 人工知能3 言語が見せる世界

 さて「物語」と言えば、もう一つの文章、野矢茂樹「言語が見せる世界」と接続する。

 この文章の「問い」は何か?


 「相貌とは何か?」「概念とは何か?」などの問いも文中には明示されているし、これらはもちろん重要な問いではある。「プロトタイプ」も気になる。

 だがそれらの問いがどこから生じたかと言えばこれだ。

我々は世界をどのように見ているか?

 この答えは?


通常は「物語」において見ている。

というのが端的な答えだ。

 とすると、これは松田の論と共通していることが明らかだ。人間が椅子に座れるのは「椅子に座る」という行為を「物語」として生きているからだ、というのが松田の主張だった。

 そしてその「物語」は身体によって成立する、というのだが、野矢茂樹は「物語」を論ずるのに身体を持ち出さない。言葉がすでに「物語」を携えているのだ。

 当然だ。言葉は単体で宙に浮いているわけではなく、前後の文脈の中で使われ、理解される。それはすなわち「物語」の中にあるということだ。

 となればますます現在のAIは「物語」において「椅子に座る」ことを捉えるに違いない。

 やはり人工知能は椅子に座れるのである。


 さて、ここまでの「視点を変える」の流れに、この二つの文章も位置付けよう。

 「言語が見せる世界」という題名は、もうそのままおなじみのソシュール言語学だ。我々は言葉によって世界を認識する。

 ここでは、言葉はスキーマでありメディアだった。そういえば「言語が見せる世界」とは「メディアがつくる身体」にそっくりパラフレーズできる。世界「観」のことであり、身体「観」のことだった。

 一方「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」には次のような文章がある。

例えば、…初めてこの世界と対峙することになる赤ちゃんは、この世界を知るために、…彼ら(彼女ら)は、手足をばたつかせながら、「周囲の環境に何があるか」を発見するでしょう。それと同時に、「自分自身の身体がどのようなものであるか」を発見するでしょう。/無限定な空間において、私たちは、周囲の環境という「場」と、自分自身の身体を基準とする「自己」とを、順次、理解していくのです。

 これはつまり、身体はメディアであると言っているのだ。とすれば、身体はスキーマでありフィルター(フィルターバブルにおける)だ。

 一方で身体「観」ということはゲシュタルトでもある。

 スキーマでもありゲシュタルトでもあるというのは、思い出してほしい、「地図」もそうだった。もちろん地図もメディアだった。


 我々は言語を通して、身体を通して、地図を通して、メディアを通して世界を認識する。それぞれの「世界」は、それぞれのスキーマによって様々だ。そのゲシュタルトがそれぞれの身体「観」であり、様々に表現される地図なのだ。 

 スキーマがゲシュタルトをつくり、できたゲシュタルトはスキーマとして機能する。スキーマとゲシュタルトは循環する。

 授業を通して文章を理解するとは、つまりゲシュタルトが生成された(ダルメシアン犬が見えた)ということだ。

 それが次に読む文章を理解させるスキーマとして機能する。


視点を変える22 人工知能2 反論

 「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」という問いは「座れない」ことが前提されている。だがその前提には素朴な疑問が生ずる。

 ロボットに、椅子に座るようプログラムする。姿勢制御などの工学的な課題がクリアできるならば、ロボットは椅子に座れるだろう。工場のラインなどでロボットアームが複雑な作業をするのはもう数十年前から可能だった。

 これは「座れる」ことにはならないのか?

 この疑問に松田は、それは座れていることにはならない、と答えるだろう。だがどういう理屈で松田はこの実例に反論するか?


 ロボットが自主的・主体的・能動的に座っているわけではないという反論は無効だ。

 この例では、その行為が自主的であるかどうかを問題にはしていない。ロボットにはそもそも座りたいなどという動機はない。人間に対して「座って」と言ってその人が座るとしても、それは「自主的」ではない。

 問いは「なぜ座らないのか?」ではなく「座れないのか?」だ。

 では?


 「コミュニケーション」から話を始め、「意味」について考察する本論の展開では、単なる行為の実行ではなく、「座らせよう」という「意図」がロボットに理解できるかどうかが問われている。

 そうしてみると、やはりロボットは「座れる」ように思える。「コミュニケーション」とは、こちらの送った信号によって相手の振る舞いが変化することを言うのだと本文に書いてある。座るようにプログラムしてロボットが座ったら、それはコミュニケーションが成立していることになるはずだ。振る舞いが変わったのだから、「意図」は伝わっている。

 なのに松田はなぜ「できない」と言うのか?


 それはAI自らが「意図」して座ろうとしているのではないからだ、という反論は有効か?


 だが本人に「意図」があるかどうかが、なぜわかるのだろう?

 「座る」という動作ができてしまえば、それは「意図」があったということなのではないか? 彼は座ったが彼には座る意図はない、などということがなぜ言えるのか?


 だからここは本当にAIに「できない」例を挙げればいいのだ。

 例えば授業で挙がった例では、面接会場でロボットに椅子に座るよう促してロボットは座ったが、面接官の方を正しく向いていなかった、などという例。これはうまい。「適切に座る」ことはできない。自然さの判断ができない。

 では「面接官の方を向いて」と指示の中に記述すればできるのか?

 それはできるかもしれない。だが、椅子が複数ある部屋で「どれでもいいから座って」は難しいかもしれない。

 円筒形のスツールやソファしかない部屋で「椅子に座って」も難しいかもしれない。

 あるいは「適当にどこか座ってて」も。


 こういう例が挙がれば、動作として「座る」ことができるロボットでも、指示や命令によって「座る」ことができない、つまり命令の意味が理解できない場合が示せる。


 さて、さらに反論。今度は松田に対して。

 松田の論の趣旨がわかったとして、それでもやはり現在のAIは椅子に座れるのでは?

 この反論は「物語」とは何か? という問題に関わっている。

 「椅子に座る」ことが理解できるということは「椅子に座る」という「物語」を生きることができるということだ、それには身体が必要だ、というのが松田の論の核心だ。

 「物語」?


 物語と言えば、今年読んだ文章では「大きな物語」を想起したい。

 「大きな」は、多くの人に共有されている、という意味だが、「物語」とは何か? 

 それは言ってみれば、複数の要素がつながっている状態であり、それが、よくあるパターンとして学習されているということだ。典型的な連続性がそこに見られるということだ。次の展開が予想できる状態。

 ここから連想したいのは「メディアがつくる身体」の「予期の織物」だ。

 この考察はここ→にも書いた。

 「予期」とは「振る舞い」に対する「予期」だ。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 こういうときにはこう振る舞うものだ、という「予期」が働くのが「社会的身体」であり、これは昨今の生成AIのLLM(大規模言語モデル)の仕組みと同じだ。

 これはAIが「物語」を理解しているということであり、むしろそれは身体を通してというより言葉(や画像)を通して学習されているのかもしれない。

 松田は、川原の岩に腰を下ろすのは身体があるからだと言う。これはAIにはそれができないという前提で挙げられた例だ。

 本当にそうなのか?

 いや「川原の岩に腰を下ろして」という文章(言葉)を学習したAIは、岩を座れるものとして認識することができるに違いない。

 現在のAIは、身体にとっての必要性を介することなく「物語」を理解できるはずだ。


 「振る舞いを変容させる」などというフレーズがあると、もっと時間があれば「メディアがつくる身体」と「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」を読み比べよ、と投げ出してしまうこともできたのに、と終わりが迫った年度末の授業の余裕の無さが残念ではある。


視点を変える21 人工知能1 読解メソッド

 松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」は、いくらかカットしたものが「ちくま評論入門」にも収録されている。これを野矢茂樹「言語が見せる世界」と読み比べる。松田は理系の研究者、野矢は哲学者。人工知能と言語。どうつながるか?

 そしてこれもまた「視点を変える」の流れに位置付けられることも意識して考えていこう。


 まず「人工知能は~」。

 今年度、何度も実行した読解のメソッドは「一文要約」「問いを立てる」「対比をとる」だ。

 このうち「問いを立てる」にしたがっていえば、これはもう題名が問いの形になっている。

 だが読んでみると、この問いは裏にもう一つの問いを隠していて、どちらかというとそちらの方の問いにこそ重点があることがわかる(わかってほしい)。

 その裏の問いを明らかにするには「対比」の考え方が有効だ。

 この文章のメインの対比は何か?


人工知能/人間

 これが最重要の対比であることがわかれば、裏の問いも明らかになる。

人間はなぜ椅子に座れるか?

 これらの問いに、最も端的に答えてみよう。

身体がない/あるから

 授業ではこの答えが出る前に「目的」「意図」「意志」「意味」「物語」などの言葉が挙がっていると面白い。これらより「身体」のあるなしが最も根源的であることがわかるだろうか?

 「意味がわからないから座れない」は正しいが、これは「なぜ意味がわからないのか?」という問いを導き出す。その答えが「身体がないから」だ。

 「身体がないから意味がない」とは言えるが、「意味がないから身体がない」とは言えない。だから「身体」の方が根源的な原因なのだ(もちろんこれはこれで「なぜ身体がないと意味がわからないか?」という問いにつながり、それにも答えられるように読解する必要はある)。


 これで文章を読むためのスタートとゴールが確認できた。

 とはいえまだこれはスタートとゴールであって、この、問いと答えの間がどのような論理で結ばれているかを辿れてはじめて読解できているといえる。

 ついでに「一文要約」もこれでできている。「人工知能が椅子に座れないのは身体がないからだ。」「人工知能は身体がないので椅子に座れない。」といえば、確かにそういうことではある。

 だがこの文章の場合、これでは何のことやらわかりにくい。論理の飛躍があるように感じる。

 それでもこうしたメソッドは意識してでも使う。使ったときと使わないときの理解度には大きな差がある。使おうとすることが頭の使い方を集中させる。次には「椅子に座れない」と「身体がない」の関係を把握することに頭を使えばいい。

 さて、身体を持っているから椅子に座れる(身体がないから椅子に座れない)とはどのような論旨なのか?


 論理展開を概観するために、さらに一文要約を応用する。

 この文章には1行空きで中段落が示されているから、その区切りで1文にする。ただし、3段落目は長いので2文にする。計4文。

 1,2段落はひどく要約しにくい。そしてさらに、1段落から2段落への論理展開がよくわからない。

 それでもなんとかやってみて、さて、3段落に入ると、最初にこんな文章がある。

「コミュニケーション」とは、シャノンらによると、相手に信号を伝え、「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということでした。そして「意図」とは、自分自身の目的のようなものだと考えられます。ここからは、「椅子」を通したコミュニケーションについての考察を更に深めることで、振る舞いが変化していく様子について理解し、更に、生命が生きるということがどういうことかについて論じていきたいと思います。

 なんだ。本人がここまでをまとめている。前半は1,2段落の要約になっていて、後半が3段落の予告になっている。

 ここらでこの文章の問題点が見えてくる。

 この文章は、そこここで問いの投げかけやそこまでの「まとめ」が挿入されて、一見すると読者に対する気遣いの行き届いた、読みやすい文章のように見える。

 筆者である松田さん自身はそうしようとしている。だが実は論理展開はきわめてたどりにくいと言っていい。その自覚は本人にはないだろうが。

 この、論理の辿りにくさが、例えば上の一節に現れている。

 上記の一節、1,2段落の要約を、いくらか形を整えて並べてみる。

  1. 「コミュニケーション」とは、相手に「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということである。
  2. 「意図」とは、自分自身の目的のようなものである。

 これが筆者自身による1,2段落の要約だ。

 この1,2の「意図」が意味するものは全く違う。これは本当にひどい。重要なキーワードが、展開する中で全く違ったことを指してしまうのでは、論理がまともにたどれない。

 それぞれ何を指しているか?


 違いを言うためにはむしろ言い方を揃える必要がある。「I was born」の「文法」と「蜉蝣」を対比するためには、「生まれる/生む」と言い方を揃える必要があったように。

 また、それぞれの「意図」がどういうことかを直接表現しようとすると話が抽象的な説明になってしまって、違いがわからない。

 そこでここでは「相手」「自分」「振る舞い」が何のことかを、ここでの例で特定する。何のこと?


 問題設定の「人工知能は椅子に座れるか?」からすれば、1の「意図」は座らせようとしている側の意図のはずだ。人間が人工知能の「振る舞いを変化させ」ようとしているのだから。

 だが2の「目的」「意図」は「椅子に座る」だから、「自分」とは座ろうとしている人、だ。上の問題設定をひきつぐなら、人工知能を指していることになる。

 端的に言うと以下のようになる。

1.AIを「座らせよう」とする人間の「意図」

2.「座ろう」とするAIの「意図」

 こういう、言葉の指し示すものが不統一なのに無自覚に論を進めているところが読みにくい。なのに一方ではところどころで要約してみたり問いを明示したりして書き進めているところは、筆者なりには読者に配慮してもいるのだ。なんだかなあ。


 続けて後半を2文で要約してみよう。

  • 生物は身体によって世界を(対象を)認識する。
  • 生物は世界を(対象を)「物語」によって捉える。

 この長さにしてしまうと、何のことかちっともわからない。上の2文とつなげても、論理の展開がたどれない。

 試みにAIたちに要約させてみる。


Gemini

情報の真の意味は、受け手が送り手の意図を理解し、自身の行動を変化させて初めて成立する。人間が「椅子」を認識できるのは、身体を持ち、自らの人生という「物語」の中で「座る」という目的を即興的に作り出せるからだ。対して身体のない人工知能は、記号を処理できても行為の意味を理解できない。自らの意志で環境に意味を見出し、人生を生きるという行為は、現状では身体を持つ生命にのみ許された特権である。


ChatGPT

信号は受け手が意図を理解し行為に結びつけて初めて情報となる。椅子を形の特徴だけで定義しても例外が生じ、座るという行為の可能性を捉えられない。人間は身体をもち、疲労や作業といった目的を自ら生み出し、自己の物語の中で岩さえ椅子として意味づける。意味は身体と環境との関係の中で即興的に立ち現れるが、身体と物語をもたない人工知能は自ら意図を形成し意味を創出できない。


 これはかなりもっともらしく書き下ろされてはいる。だがやはり1文目から2文目にかけて、また前半と後半の論理的つながりがわかりにくい。これは原文が悪いからだ。理系の研究者とはいえ、文章が「論理的」であるとはどういうことか、もっと自覚してほしい(とはいえ文系の石井美保さんの文章も実にわかりにくかった。が、あれはまた別のわかりにくさで、そもそもあれは「説明文」ではないのだ)。



2026年2月27日金曜日

視点を変える20 地図3 グーグルマップ

 「グーグルマップの世界」でも、地図についての認識は若林と共通している。

 人は地図によって世界を、ある見方で把握する。縮尺によって、あるいは地図に盛り込まれた情報の種類によって。地図の中心をどこにするかでさえ、すでに世界の見方を示している。

 地図はメディアであり、スキーマなのだ。

 「グーグルマップの世界」は、そうした認識を元に、何を語るか?


 対比をとればはっきりする。基本的な対比、対比のラベルをまず見定める。

旧来の地図/グーグルマップ

 ここに、グーグルマップがどのようなものかを言うために、「~ではなく」型の対比を並べていく。

  社会/個人

  共有/個人化

見わたす/導く・追う

ひろげる/とざす

  相対/絶対

 こうした対比を使って、「グーグルマップの世界」の論旨を語り下ろしてみよう。


 グーグルマップというメディアは、世界の見方を「個人化」する。社会を見わたして自分の位置を相対化するはずの本来の地図の機能と違って、自分の世界をとざす方向に機能する。

 この問題は、文中でも言われているとおり、現在のネットメディア全般の問題でもある。

この「見たいものしか見ない」という態度に関しては、グーグルマップにかぎらず、パーソナライゼーションが進んだウェブのユーザー全般に当てはまる問題として、すでにメディア論において指摘されている。見たいものしか見なくなるということは、たとえば政治的な意見の形成という観点では、同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく「集団分極化」を引き起こす。

 頭をなじませるために、この論旨を「フィルターバブル」「アルゴリズム」「エコーチェンバー」という言葉を使って説明してみよう。最近のネットメディアの問題を語る上で頻出の語・概念だ。

 これは単なる翻訳なのだが、言葉つまり概念は、辞書的な説明を覚えるより、「使う」ことで血肉化することが重要。

 後半が「エコーチェンバー」の話で、「同じ意見をもった人びとだけで意見を参照し合うと、その意見が強化され、その延長線上にある極端な立場へとシフトしていく集団分極化」がまさにそれ。

 「フィルターバブル」という問題はもうちょっと興味深い問題ではある。

 この文章は、グーグルマップのようなアルゴリズムが我々をフィルターバブルの中に閉じ込める、と言っているのか?


 そう言ってしまうことはあながち間違いでもない。

 だが一方でフィルターバブルの中にいることは、生物にとっての根源的な条件でもある。ことは単にネットメディアのアルゴリズムの問題に限らない。

 どういうことか?


 スキーマがないとゲシュタルトができない。それはそういう認識ができないということだ。とすると、我々の認識は、スキーマによってフィルタリングされていることになる。

 どんな生物だって、それぞれの感覚器官によって外界を知覚しているのだから、その器官がフィルターということになる。人間には見えない赤外線が見える生物もいる。超音波を聞く生物もいる。

 つまりフィルターバブルの中にいることから、生物は逃れられない。

 そこにグーグルマップのアルゴリズムがあらたなフィルターとして我々の認識のありように影響を与えるようになったというのがこの文章の主旨だ。

 それはどのような変化なのか?


 上の引用は一続きで言っている中で二つのことを言っているともいえる。

 「パーソナライゼーション」は文字通り個人化、つまりそれぞれが自分一人のバブルの中にいると言っていることになる。

 続く後半のエコーチェンバーの問題は、中規模のバブルに一定の人々がとざされているのだといえる。

 そしていずれも、アルゴリズムがそうしたフィルター機能を増幅させて、バブルの膜を強化しているということになる。


 とはいえ、「大きな物語」などという概念もまた、それが「大きい」とはいえやはりフィルターバブルの中に人々がいることを意味している。その物語を共有していない人はバブルの外にいるのだ。

 だから、地図にしろ言語にしろ、それらをフィルターとしたバブルは、それを使う人を同じバブルの中に囲い込む。それは比較的大きなバブルだ。

 そしてネットのアルゴリズムは、エコーチェンバーを引き起こすような大きさのバブルに、やはり人々を囲い込む。

 そしてグーグルマップのアルゴリズムはそのバブルが「個人化」していると言っているのだ。

 一人一人が自分一人のバブルの中に閉じ込められている。

 そしてそのことを自覚するのは難しい。


2026年2月15日日曜日

視点を変える19 地図2 スキーマ・ゲシュタルト

 さてこの文章にもソシュールが登場する。となれば言語と類比されているということだし、となれば「広告の形而上学」とも類比できるということになる。

 地図・言語・広告・貨幣。

 これらの共通点は何か?


 ここで先ほどの対比が登場する。

意味/記号

 これはすなわち、次の対比のことだ。

意味/言語

商品/広告・貨幣

 ということは次の対比もそれと類比的だということになる。

世界/地図

 これらはどのような意味で共通しているか?


 言語と広告と貨幣の類比は忘れてはいまい。そこではどのような論旨が語られていたか?


 とりあえず「恣意」「先後」について言おう。その際、普通はこう思われているが、実は~という語り方をする。文章が書かれるのは、常識に反することを言うためだ。

 「恣意」については「言語の恣意性について」で述べられていた「第一の恣意性」と「第二の恣意性」について、分けて言えればなお良い。


 「第一の恣意性」は上記の対比の左右の結びつきが恣意的だという時の恣意性だ。若林の文中にある、犬に対して「イヌ」とも「Dog」とも言える、というのがその例にあたる。

 「もの」の名前は必然的なものではなく恣意的なものだ。


 「第二の恣意性」は切り分け・分節化の恣意性のこと。

 虹は七色と言ってもいいが三色と言ってもいい。言語ごとに違う。虹の色の分節は何ら必然的ではない。


 これを広告や貨幣について言い、そのまま地図にも適用する。(広告・貨幣については

 すなわち、ある地域を表すのに、どんな地図でも描けるということだ。

 ここは例を挙げたい。どんなのを思い浮かべる?


 国土地理院が出しているような「ザ・地図」のようなものも、駅前の観光マップのようなものも、誰かに道案内するためにメモしたようなものでも「地図」だ。

 「ザ・地図」も、そこにどんな情報を盛り込むかは千差万別で、道路の接続を重視するか、土地の利用状況を記すか、土地の高低を表現する等高線を描くか、目的に応じて選ばれる。

 どの範囲をどの縮尺で切り取るかも自由だ。大抵の国では自国を中心にした世界地図を使う。あるいは、太平洋中心の世界地図か大西洋中心の世界地図か。南北が逆さであってもいい。


 では「先後」問題とは?


 普通は「もの」(意味)が先にあって、そこに後から名前(言葉)がつけられると思われるのだが、ソシュールは言葉が我々にその「もの」を認識させるのだと言う。

 商品に見合った価値の値段がつくのではなく、値段を見てその商品の価値がわかる。


 もちろん対象となる土地は物理的には既に存在する。

 だが我々は地図を通して、その土地を把握する。

 そういう意味で世界が先で地図が後なのではなく、地図が先で世界(の認識)が後なのだ。


 さて、これもまた「視点を変える」シリーズだということは、つまりスキーマとゲシュタルトの問題だ。

 まずはスキーマとゲシュタルトという概念の関係を確認する。これはつまり、一文をつくれ、ということだ。2種類以上。

 復習だ。迷ってはいけない。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマにあてはめてゲシュタルトを構成する。
  • スキーマがないとゲシュタルトもできない。

 ここに地図を代入する。地図はスキーマか? ゲシュタルトか?


 勘の良い人はすぐわかるとおり、どちらでもある。

 どちらにもあてはめて、それぞれどのようなことを言っているのかが説明できれば良い。

 前の「メディアがつくる身体」に基づくと「メディア」=「スキーマ」=「地図」ということになる。文型を揃えてみよう。

  • メディアが身体観をつくる。
  • 地図が世界観をつくる。

 地図を通して人は「世界」や「社会」を捉える。

 これは、地図がスキーマであることを意味している。


 ここまでを総合していくと、言語・貨幣・広告・地図はいずれもメディアであり、記号であり、スキーマだということになる。

 そして、あるスキーマによってできたゲシュタルトが「社会的身体」であり地図だ。それらは実体ではなく概念・観念・イメージだとどちらの文中でも表現されていた。

 我々はそのようにして世界を、自分の身体を認識する。


視点を変える18 地図1 メディア・記号

 「ちくま評論入門」の松岡慧祐「グーグルマップの世界」を、若林幹夫「地図の想像力」と読み合わせる。

 共通項は「マップ=地図」だ。

 どんな論旨が共通して、それぞれにそこからどこへ論旨が発展しているか?


 まずは共通した論旨。単文で、しかも2文節の1文で言おう。

 主語と述語はそれぞれ何か?


 いろいろな言い方が考えられるが、2文節ということである程度は限定されてくる。なおかつ、前の文章からの流れを引き継いで、次のような文にしておく。

地図はメディアだ。

 どういうことか?


 解釈して作文するというより、それぞれの文中に、こうした記述が見つかる。だから、こうした一文が自然に想起されることが望ましいが、一方で、提示されたときにそれが説明できるようになっていることも必要だ。

 「メディア」とはもちろん「マスメディア」のことではなく、原義の「媒体」、つまり「媒介するもの」だ。

 地図は何と何を媒介しているか?


 人と世界あるいは社会を。

 地図は人と「世界」「社会」を媒介するメディアなのだ。


 この共通論旨を元に、それぞれの文章の論旨をみていこう。

 まず「地図の想像力」は、対比をとっていく。見出しで区切られた段落ごとに対比をとると、おおよそ次のような対比が見つかる。

写し取る/表現する

  複雑/単純

すべて・そのまま/まばら

そのもの/イメージ・概念

  内容/記号

  再現/意味

 これらを一直線上に書き出していくと、最初のうちはいいが、後半になって妙なことに気づく。

 「記号」は「意味」と対比されることが多い。なのにいずれも右にある。

 あるいは「内容/記号」というときの「内容」とはすなわち記号が示す「意味」のことだ。「意味」が左右のどちらにも出てきてしまう。

 それどころか、この文章の前半には次のような対比も出てくる。

 現前/再現

 これは上記の

 再現/意味

 と、どういう関係になっているのか。どちらも「~ではなく」型の対比だというのに。


 用語が厳密に選定されていないという意味では、これは若林の不注意でもあるが、それぞれの対比で言いたいことはそれぞれの文脈でわかるからいいのだ、とも言える。

 「地図は現前ではなく再現だ。」というときの「再現」は「表現」の言い換えであり、「現前」は「写し取る」の言い換えだ。

 一方「地図は再現ではなく意味だ。」という時の「再現」は上の「写し取る」「現前」のことであり、「意味」は「概念」や「解釈」に近い。

 混乱するからやめてほしいとも言えるが、このとおり、それでわかるようになっている、とも言える。


 さて「意味」が左右どちらにも出てきてしまうのは、もうちょっと厄介な問題ではある。

 とはいえ実は単なるミスリードでもある。

 列挙した対比は、いずれも「地図は」という主語に対して、右辺が述語になる対比だ。

 ただし、「意味/記号」以外は「ではなく」で左右が接続されるような対比になっているのに対し。「意味/記号」は「地図は意味ではなく記号である」と言っているわけではない。したがって、それ以外の対比とは、対比軸が違っているのだ。

 単純には次のように書ける。

再現/意味/記号

 この二つの軸それぞれが文中にあるのだ。

 最も単純に言えば「地図は世界そのものを再現しているのではなく、それを解釈した意味を表す記号である。」という一文に翻訳できる。

 この「記号」を単に「地図記号」のことだと狭く理解してはならない。言語と地図が類比されているのだから、地図そのものが記号であると言っているのだ。

 記号とは何か。何かを表すもの、だ。地図は何を表すか。地表の姿を、世界を、表している。だから記号なのだ。


2026年2月1日日曜日

視点を変える17 メディアがつくる身体6 予期・義体

 さて、メディアが「つくる」のは「社会的身体」だった。この概念については、気になる表現が二つある。

 まずは、先に予告した次の一節。

社会的身体は(…)予期の織物のような存在である。

 「社会的身体」は、文中で何度も言い換えられているが、その中でもこの比喩はとりわけ含蓄があって「わかる人にはわかる」感じの表現になっている。これを説明してみよう。

 合わせて、具体例を挙げることも要求した(が、これがまた厄介だった)。

 まず、「織物」は比喩だ。これは何かが幾重にも組み合わされている様子を表しているのだろう。

 問題は「予期」だ。どこから出てきた?


 読解は、文中の情報を相互に結びつけることから始まる(そしてそれを構造化する=ゲシュタルト化する)。

 文中の他の表現と「予期」を結びつける。

 どんどん挙げて、と言って、何カ所も挙がるのは好ましいことだ。一人で何カ所も見つかるのは読解力が高い証拠だし、クラスで何カ所も挙がるのはそれだけ授業に対してクラス全体が活発であることを示している。

 例えば次のような一節。

  • あるコミュニケーション環境に適応するためには、さまざまな作法や慣習を身につけたり…
  • メディアを通じた特定の振る舞い方が学習されていく
  • そうした振る舞い一般化する
  • 「拡張された能力」が存在することを前提とする
  • 社会的に埋め込まれた「約束」になる

 これら「作法・慣習」「学習」「一般化」「前提」「約束」、あるいは「特定の」「文化的」などと「予期」は響き合っている。


 「予期」は「予期する」と動詞化できる。この場合、誰が何を「予期する」ことを言っているのか?


 がしかし、そもそも「予期」はもう一カ所、文中に登場するのだった。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 もちろん「他人の振る舞い」だけでなく自分の振る舞いも「予期」される。それは「学習」され「一般化」した「約束」として「前提」されている「作法・慣習」だからだ。

 「社会的身体」とは、そのように「予期」された振る舞いをする存在なのだ。

 そうした振る舞いの例で挙げることにまた難渋した。ちっとも「振る舞い」でもなく「身体」でもない例を思い浮かべている者が多くて。

 「身体的」な「振る舞い」であり、「学習」された「文化的」「作法・慣習」の例を挙げることがそんなに難しいか?

 例えば、すれ違うときに会釈を交わし合うこと。相手に会釈をされたら、こちらもしないでいるのは居心地悪いと感じること。

 例えば日本家屋に上がるときには玄関で靴を脱ぐこと。外国人にはこの「予期」がはずれるかもしれない。

 これでは「メディア」っぽくないので、メディア的な例を挙げよう。みんながすぐに思い浮かべたのは、LINEの通知に既読スルーにならないよう、スタンプなりのリアクションを送ることだった。ただちにリアクションを返すという「振る舞い」が「予期」されているのだ。これはその前のEメールとか、さらに前の郵便による手紙では「予期」されない。

 あるいは画面の死角を見たいと思ったら思わず指でスクロールしてしまうこと。古いカーナビや多くのテレビ画面ではこれができないのがもどかしい。


 この段落の最初に生物学的身体は「もの」で、社会的身体は「言葉」だとある。「言葉」はわかりにくいが、実体を持たない概念として「観念」「イメージ」と並列していいのだろう。

 図らずも「言葉」と「予期の織物」が並ぶと、最近のホットな話題として連想されるものがある。LLM(大規模言語モデル)だ。

 これは生成AIが自然言語を操る仕組みのことだ。AIは、ある言葉の次に来る言葉(続く確率が高い言葉)を「予期」して、次々と言葉をつないでいく。たったそれだけで、自然な文章を書く。予期に反したら「不自然」になる。

 我々の振る舞いもほとんどは予期されたものであり、それに反すると不自然(挙動不審)と感じられる。

 生成AIが、我々の社会的身体と同じ「予期の織物」であるというのは奇妙でいて腑に落ちる認識だ。


 さて予告したのはもう一カ所。これもまた「社会的身体」について表現した一節だ。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 我々の身体はもはや単に血と肉と骨でできた生物的身体ではなく、ネットにつながって「電脳」を駆使し、半ばはネットの中でも生きている。それがメタバースであれ、「ポケモンGO」で一般化したAR(拡張現実)であれ、現実そのものであれ、我々はそこで生物的身体としてだけではなく、メディアを通じて世界と通じ合う「社会的身体」をもつ。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。とりあえず二つ考えてみる。

 一つは、軽い、「比喩的な意味で」くらいのニュアンス。現実に身体に機械を埋め込んだ文字通りの「義体」ではなく、「義体」みたいなもの(=比喩的)、という意味での「義体」だ、と言っている。

 もう一つは、そうした身体の在り方が社会の在り方を「象徴している」ことを表す。「象徴」と言えば「具体物が抽象概念を表す」だから、ここでは「社会」とか「時代」とかを表していると言えればいい。

 どちらもそれほど違いはないが。たぶん荻上はそれほど厳密な意味を考えてはいない。


 「木を見る」ことに2時間かけた。それぞれに興味深い考察が必要な箇所ではあったが、一方で時間がかかりすぎるとも言える。

 これは荻上の文章の問題でもあるが、みんなの国語力の問題でもある。それは単に「読解力」とか「理解力」という問題だけではなく、どちらかというと「説明力」というか「問題の整理力」とでもいった問題だとも思う。

 上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。いわば「議論力」が問われている。

 このあたりは今後の課題だな、と年度の終わりに心に留めておく。


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