2025年7月9日水曜日

共に生きる 15 空虚な〈私〉時代2

  なぜ「空しい」か?

 この問いは「なぜ空しくなったか?」という問いではない。それは「共通前提」からの論理展開で示される。

 そうではなく、そのような事態をなぜ筆者は「空虚」と表現するのか? を問うている。

 題名にあるというのに、なぜ「空虚」なのかは判然としない。端的に書いてある箇所はない。全体の論理から、筆者の言う「空虚」さを読み取らなければならない。

 そしてそれを端的に表現する。「~から。」で終わるように。

 その表現は、大きく言って2種類に分かれる。

  1. 身近な人々の承認を得るために演じている「自分」は本意ではないから。
  2. 身近な人々の承認を得るために合わせている「価値」は、社会全体に共有されたものではないから。

 各クラスで聞いてみると、多くは1、たまに2が挙がる。

 この二つの理由はどう違うのか?


 だがそもそも上の1,2を「違う」と意識できるか、すべきかもさだかではない。

 図式化して違いを示そう。

 「身近な人々」は「小集団」とも言い換えられている。

 「小集団」は何と対比されるか?

 三層の対比になると言えば皆すぐに以下の対比構造を想起できる。

個人/小集団/社会

 問題は、これらの対比の間のズレ・食い違い・乖離・齟齬から生じている。とすると、それは「個人/小集団」「小集団/社会」どちらの対比の間で生じているか?

 つまり1は「個人/小集団」の間のズレから問題が生じていると言っていて、2は「小集団/社会」のズレが問題だと言っているのだ。

 さてどっちなのだろう。本文の論旨によると。


 「〈私〉時代のデモクラシー」の「難しさ」はどこから生じているか?

 これはいわば次の間のズレからだと言える。

〈私〉/〈私たち〉

 この「問題」は、上の1,2,どちらの「問題」と重ねられるか?


 小論文では、具体例を挙げて、その問題の「難しさ」を説明することが条件だった。

 例えば「米不足問題」では、生産者、消費者、流通業者、政府など、いくつかの立場の「当事者」が考えられる。そしてその利害は一致しない。消費者は安く米を買いたいが、生産者は高く売りたい。流通業者も、JAと大型商業施設と街の小さな米屋では利害が異なる。政府は選挙向けに有権者の不満を解消することばかりに腐心しているが、俗に言う「農水族」の思惑は違うかもしれない。

 これは「小集団/社会」のズレの問題と重なる。小集団がそれぞれの利害に従っていると、民主主義が成り立たない、という問題だ。


 だがそもそも「空しさ」の原因である1と2は「違う」のだろうか?

 異なった二つの「原因」が語られているのだろうか?

 むしろその関係を考えるべきなのでは?


 1と2は、「端的に言う(授業では「15字くらいで」という条件だった)」から違って見えるだけであって、もっと長ければ実は一続きで言える。

身近な人々の承認を得るために本当の「自分」を偽って演じているのに、その小集団内に通じる「価値」は、社会全体に共有されたものではなく、本心では自分でも信じていないから。

 これが空しさの理由だ。

 このことを本文では「自由と承認の葛藤」と表現している。

 これはすなわち「〈私〉と〈私たち〉の葛藤」であり、それはすなわちデモクラシーの困難なのだ。


 あえて違いを言うなら、言えないこともない。

 「〈私〉時代のデモクラシー」の宇野重規は政治学者であり、「空虚な承認ゲーム」の山竹伸二は心理学者・哲学者だ。ここから、「〈私〉時代~」は社会の問題に重点が置かれ、「空虚な~」は心の問題に重点が置かれている、とは言える。「難しい」は社会が直面している問題で、「空しい」は個人が直面する問題だ、と。


 「〈私〉時代のデモクラシー」は、時代の変遷を三層で語っている。

前近代/前期近代/後期近代

 これは次のような時代区分にあたる。

近世/近代/現代

 一方、「空虚な承認ゲーム」も、前近代から近代への論理展開は共通していて、かつ、問題は現代だ。近代から現代への変遷が語られている。

 この時代区分における変遷という切り口で、二つの文章を重ねてみよう。


 前近代から近代への変化は、自由な個人の成立ということで両者共通している。

 近代から現代への変化は?


 「空虚な承認ゲーム」はこれを「大きな物語」の喪失として語る。

 これは「〈私〉時代のデモクラシー」では何に対応しているか?


 まず宗教が想起されるべきではある。だがそれは前近代からある「大きな物語」だ。

 近代に特有の「大きな物語」は?

 「空虚な承認ゲーム」で例として挙がっているのは「ナチズムやスターリニズムといったイデオロギー」だ。それとてそれなりにはでかいとはいえ「小集団」ではないかという突っ込みはできるだろうが、とりあえず一国の社会全体を覆い尽くすくらいにはでかい。

 これにあたるのは「〈私〉時代のデモクラシー」では?


 「自由な個人」も確かに近代になって生まれた「大きな物語」だが、これは現代には喪失したとも言いにくい。

 もう一つ、文中から挙げるなら「公正で平和な社会」だ。

 これとても「喪失した」とは言い難いものの、「社会正義」より「個人の自由」と言っているのが現代だと言えば、ある意味で「喪失した」とはいえる。

 それもまた近代におけるイデオロギーなのだ。

 社会共通のイデオロギーの喪失が「空虚」さを生んでいる。



共に生きる 14 空虚な〈私〉時代

 次は予告通り「空虚な承認ゲーム」と「〈私〉時代のデモクラシー」を読み比べる。


 筆者が最も言いたかったことを、その文章の「結論」「主旨」などと言っておこう。

 それを言うまでには、ある「前提」があり、そこからなにがしかの「論理展開」をする。

 二つの文章の「前提」と「論理展開」が共通していることを言うのは比較的容易だ。ここまでに確認されている共通前提がここにもある。そのまま文中から、共通して使われているキーワードを三つ、と指定すれば、すぐにみんなは「近代」「個人」「自由」を挙げることができる。

 この三語を使って、どのような「前提」からどのように「論理展開」しているかを語ってみる。


 前近代には、宗教や伝統などの「大きな物語」が人々の共通前提となり、人々はそれに拘束されていた。

 「近代」になるとそれが崩れ、人々は「自由」な「個人」となった。

 ここまでは二つの文章に共通する「前提→論理展開」。

 では「結論・主旨」は?


 できるだけ短く、と指定して次のようなフレーズを共有した。

「空虚な承認ゲーム」

現代人は身近な人からの承認を求めている。

「〈私〉時代のデモクラシー」

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作らねばならない。

 共通前提から出発して、途中までの論理展開が共通しているからには、これらの結論・主旨にも、何らかの共通点があると考えるのは無理がないはずだ。どのような共通点があるか? というか、これら二つの結論・主旨は、どのような関係になっているのか?


 「関係」?

 関係を考えるためには共通点がなければならない。接点がなければ関係づけられない。

 その上で「関係」を語る。因果関係? 時系列? 並列? 言い換え? 包含関係?


 文章は「認識」を語るか「主張」を語るかに大別できる。「認識」を語らないということはありえないが、とくだん「主張」らしいことを言わない文章はある。

 上で言えば「~を求めている」は「認識」を語っているが、「主張」らしい言い方にするのが難しい。一方「作らねばならない=作るべきだ」は「主張」っぽい。

 「認識」と「主張」を関係づけようとするなら、因果関係に持ち込むのが有望?


 もう一つ。文章はなにがしかの「問題」があるときに書かれるものだ。何も「問題」がなければ、多くの文章は書かれない。

 それぞれの文章の「問題」を示す、否定的ニュアンスの形容は何か?


 それぞれ、上記の主旨の後に、次のような形容を足せば良い。

現代人は身近な人からの承認を求めているがそれは空虚だ

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作ることは難しい

 この「空しい」と「難しい」の関係は?


共に生きる 13 空虚な承認ゲーム2 偽の/偽りの自分

  「共通している」とは、両者に「対応している」要素があるということだ。

 ということで次の一節を比べてみる。

このような鬱屈した気分のなかで、子どもたちは何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け容れてくれるような、そういう愛情にひどく渇くようになるのだろう。(…)上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服しているじぶんを「偽の」じぶんとして否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいるはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」

一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい。自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し、「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ。その結果、心身ともに疲弊してうつ病になったり、心身症や神経症を患ってしまうケースも少なくない。「空虚な承認ゲーム」

 この「『偽の』自分」と「偽りの自分」は、同じことを言っているか? 違うか?


 同じか、違うかと訊いて挙手させると、どこのクラスでも違うと感じた人が多い。

 だが実は「同じ/違う」は排他的な二択とは言い切れない。

 「違う」というためには比較をしなければならず、比較をするためには共通した土俵に両者を載せなければならない。まったく共通する要素がなければ比べることもできず、「違い」を言うこともできない。

 従って両者は共通している要素がある。「肯定/承認」(前回対応を確認)されるために、「本当の自分」を偽って演ずるのが「偽の/偽りの自分」だ。それがいずれも否定的に表現されている。そういう意味で「同じ」だ。

 ではどこが違うか?


 違いを言うことができなければ両者は同じだということになる。

 だが違いを言うのは簡単ではない。それぞれの文章から、それぞれの説明をして、それを並べれは違いを示したことになるわけではない。

 例えばAとBは違うと言うために、それぞれの文章から次のような表現を切り取ったとする。

  • Aは大きい。
  • Bは軽い。

 これでは違いを示したことにはならない。それぞれが大きさと重さを表現していて、同じ軸上の比較になっていない。軽いものは総じて小さいが、風船のように比重が小さければ、軽くても「大きい」。だからまず「軽い」を解釈して「小さい」ことを示す必要がある。

 だが「Aは大きい/Bは小さい」と言えれば違いを示したことになるかと言えば、それもまだ確かにそうだとは言えない。

 「大きい/小さい」は相対的な捉え方であって、基準が揃っている保証はないからだ。二つの文章はもとより別々の文章なのだから、互いが比較対象な訳ではないし、互いを対象として相対的に「大きい/小さい」を言ったとて、それが何の「違い」なのかは、まだ明らかではない。Aは何かを基準として「大きい」と表現され、Bは何かを基準に「小さい」のだ。その基準は(たぶん)同じではない。


 「違い」を言うためにはそうした精細な思考が求められる。だからこの問題は意外にみんな手こずって、というより思いのほか盛り上がって、ほとんどのクラスで1時限以上の話し合いになったのだった。しかも多くのクラスでは自主的にどんどん発言者が出現する、というような。

 とても結構なことだ。楽しい。


 さて、各クラスで、「違う」と言うためのさまざまな切り口が提案された。漫然と言うのではなく、切り口を明示することは重要だ。思考が整理されて、議論が有意義になる。

 例えば「強制/自発」という対比が提案された。「偽の/偽りの自分」を演じるのは強制されたからか自発的になのか。

 だが結局、どちらをどちらに割り振ることもできないという結論に落ち着いた。「偽の/偽りの自分」を演ずることには、どちらもなにがしかの強制力が働いており、それにしたがうことはどちらも自発的でもある。そうすると決めた時点で、自発的でない演技というのはそもそもありえない。


 「自覚がある/ない」で、違いが言えるだろうか?

 だがこれも「偽の/偽りの」と言う以上、自覚がないことはありえない。


 そうした「自分」が「」にあるか「」からできるか、では?

 これも、再帰的な循環の中で、いつか「先」か「後」かを言うことは難しい。


 そうした「偽の/偽りの自分」は「自分」の一部全体と重なっているかで言い分けられる? なんとも言い難い。

 こうした試行錯誤は議論を明確にするためには有益だ。

 

 結局、違いを言うためにかろうじて有効らしいと合意を得たのは、「演ずる」ことが何に従っているのかに、「違い」と言える相違があるのでは、という案だった。

 「『偽の』じぶん」は「条件(資格)」に合わせることによって「本当のじぶん」ではなくなる。

 「偽りの自分」でこれにあたるのは?

 「価値」が相当する。

 では「条件」(「つながり」と…)と「価値」(空虚な…)の相違点は?


 目の前の誰かに「肯定」されるために「『偽の』じぶん」が満たすべき「条件」は、しかし社会が突きつけてくる「条件」でもある。子供にとって、勉強ができることは、親や先生が突きつけてくる「条件」だが、それは社会が認める「価値」だ

 一方、身近な人=小集団に「承認」されるために守るべき「価値」は、むしろ「社会」全体が認める「価値」ではない、というのが「空虚な承認ゲーム」の主旨だ。その「価値」は小集団の内部でしか「価値」たりえない。だから「空虚」なのだ。

 「偽りの自分」はそのようなものに合わせて演じられたものだ。

 「偽りの自分」をやめることは、小集団からの離脱を意味するが、「『偽の』じぶん」をやめることは社会からの離脱を意味する。


 このあたりが、「違い」としてとりあえず言える切り口として納得できるところではある。

 が、同じか違うかと問うたときにみんなが「違う」と感じた印象は、これを読みとったからでは、たぶんない。それはそれで文脈上違っているように感じられる理由が別にあり、だが、では何が違うかを言おうとすると、同じであることばかりが確かめられる、両者はそのような表現なのだった。


共に生きる 12 空虚な承認ゲーム

 4月以来ここまで6本の評論を読んできて、7本目、山竹伸二「空虚な承認ゲーム」をここに合わせる。ここまでの論者と共通するどんな問題意識があるのだろうか。

 共通した論旨が読み取れそうなのはどれ? という問いに挙がったのは「『つながり』と『ぬくもり』」が最も多かった。次が「〈私〉時代のデモクラシー」。

 まずは「『つながり』…」から考える。


 「共通した論旨」は、いろんなレベルで指摘できる。

 論の前提となる認識、論理展開、結論、途中で言及される部分的な論旨…。

 まずは「似ている」という印象を手がかりに、どこに注目するかを探る。その時点でその「印象」を語ってもいい。おそらくそれぞれの文章を、自分なりに解釈して説明することになる。それはそれで有益な国語的言語活動ではある。

 さらに精細に考えるためには「対応する」記述を探す。

 「共通する」とは、双方に対応する記述があるということだ。文字通り「共通する」、どちらにも同じ語を使った、ほとんど同じ趣旨であることが明らかな一節があればそれが「共通」している。だが、同一の語でなくとも、解釈して同趣旨と見なせるならば、それは「共通」していると見なそう。そのような「対応」している語、表現を指摘しよう。


 さて、指摘できるのは次のような表現。

「『つながり』と『ぬくもり』」

親密な個人的関係の中で肯定される

「空虚な承認ゲーム」

身近な人々に(小集団の中で)承認される

 対応している「肯定/承認」は、どちらもそれを人々が求めていることで「対応している」と感じられる。

 さらに、単に同一ということで「対応している」のは、またしても「近代」「個人」だ。

 この「前提」と「結論」を結ぶ論理展開はどのようなものか?


 「近代」と「個人」が登場したら、言うべきことは決まっている。前近代には人々を縛る「くびき」があったが、そこから解放されて、人々が「自由な個人」となったのが近代だ。

 だが自由になったことで拠り所を失った人々は、身近な人からの肯定/承認を求めるようになったのだ。

 そうした状況を鷲田は「さびしい」と表現し、山竹は「空虚」と表現する。


 両者ともに、近代化に伴う社会と個人の変化がもたらす問題を、現代的な状況として描いている。


2025年5月25日日曜日

共に生きる 11  〈私〉時代のデモクラシー 2 近代のプロジェクト

 全体をつかんだところで細部の解釈の練習。事前課題にした次の一節を、ここまでの読解の成果を活かして解像度を上げて再考察する。

「近代」のプロジェクトが成功し、成功したためにこそ、その効果が自分自身に跳ね返り、「近代」そのものが新たな段階に達しつつある。

 これはどういうことを言っているか?


 三つの要素に分けて、それぞれが説明できているかチェックする。

  • 「近代」のプロジェクト
  • その効果が自分自身に跳ね返る
  • 新たな段階


 まず、「『近代』のプロジェクト」とは?

 本文中で「近代の目標は」を受けているのは次の三箇所。

  1. 伝統からの解放
  2. 宗教からの解放
  3. 「公正で平和な社会」の実現

 1と2は並列だからまとめて扱うとして、それと3の関係はどうなっているのか?


 3は「など」と言われているから、一つの例なのだと考えられる。1と2の延長上に例えば3のような目標を達成しよう、と言っていると考えればいい。

 3は「平和な」がわかりにくい。「平和」の対義語は「戦争」だが、「戦争のない社会の実現」と言ってしまうと話が大きくて、これが「近代における個人の誕生」と何の関係があるのかわからない。ここでの「平和」は、「解決のために暴力的な手段を用いない」くらいの意味だ。例えば? 「法治国家」のイメージ。これなら「公正」と並列にできる。

 1・2で言うように、伝統や宗教から解放されたのが「個人」だ。そうした運動の方向の先に、例えば「公正な社会」があることがわかるだろうか?

 「公正で平和な社会」は「近代的個人」を構成員として前提しているのだ。

 さてその「運動」の「効果」が「自分自身に跳ね返る」という表現が何を意味するかは、先に「新たな段階」を掴んでから考えよう。

 文中から「新たな段階」を抽出できそうなのは次の箇所。

現代の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 「近代のプロジェクト」が「個人の解放」だとすると、新たな段階「一人一人の選択が強調される」までの因果関係は見やすい。

 だがこれはどこがどう「跳ね返」っているのだろうか?

 さらに「公正な社会の実現」とはどう関係しているのだろうか?


 「新たな段階」は「旧い段階」と比較するのが有効。対比の考え方だ。「後期近代」などと言っているから「前期近代」があるわけだ。

 「前期近代」は「前近代」ではない(まぎらわしい!)。「前近代/近代」という対立がまずあり、「近代」がさらに前期/後期に区別される。この「後期近代」は、ほとんど「現代」のことだと考えて良い。「現代」のことを「脱近代」とも呼ぶが、それだと「近代」とのつながりがないように感じられるから、「後期近代」という言い方でいこう、と宇野は宣言している。この「後期近代」が「新たな段階」だ。

 つまり「前近代→前期近代→後期近代」という三段階に分けて考える必要があるのだ。

 「前近代/近代」という対比については上に見たように「伝統・宗教による拘束/解放」と捉えられる。

 問題は「前期/後期」だ。ここを言い分けてみよう。

 前期/後期という対比はここで初めて登場するわけではない。前の文章中にも対比を示す表現がさりげなく置かれて、対比構造が示されている。

 だがそれらはいずれも明確な、取り出しやすい対比の形で置かれていないから、それと気づくのが難しい。この文章の読みにくさはそうしたことにも原因がある。

 例えば次の一節。

近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。このような時代(=前期近代)においては、そのような社会の理想を実現するための「革命」という言葉には、独特の魅力がありました。しかしながら、現代(=後期近代)の社会理論で強調されるのは、むしろ「個人の差異」や「個人の選択」です。もはや社会的な理想は力を持たず、もっぱら一人一人の〈私〉の選択こそが強調されるのが、今の時代だと言うのです。

 ここには「最初の/もはや・今の」といった対比がある。これが「前期/後期」の対比に対応している。

 ここからどう対比を取り出せばいいのか?

 「理想に魅力があった/ない」? わかりにくい。

 下線部から次のように抽出できる。

「公正な社会」という理想/一人一人の〈私〉の選択

 これはどう対比になっているのやら、わかりにくいことはなはだしい。そしてこの変化、ないし推移には、「跳ね返り」と言えそうな因果関係があるというのだ。

 これを説明するのはけっこう厄介なはずだ。


 「前期/後期」の対比を表現している箇所は他にもある。例えば次の一節。

今や「ソーシャル・スキル」の時代です。人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし維持していかなければならないとされます。「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」という言い方もなされるようになりました。今日、人と人とのつながりは、個人にとっての財産であり、資本なのです。逆に言えば、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。

 上の一節には「初めの/今や・今日」という対比が見つかる。これも「前期/後期」の対比だ。

 ここから抽出できる対比要素は、下線部より次のように整理できる。

束縛からの解放/関係を作る

 これは比較的「跳ね返り」が説明できそうだ。「束縛からの解放」によって、一人一人がばらばらな「個人」になった(前期)。ばらばらなままでは不都合なので(たとえば鷲田ふうに言うと「寂しい」ので)、かえって関係を作ろうとするようになっていった(後期)のだ。

 確かに「跳ね返」っている。

 さてでは「『公正な社会』という理想/一人一人の〈私〉の選択」がこれと同じ対比であることを説明できるだろうか?

  • 前期近代→「束縛からの解放」=「『公正な社会』という理想」?
  • 後期近代→「関係を作る」=「一人一人の〈私〉の選択」?
 筆者の認識の中ではこれが一致しているはずなのだ。
 どういうことか?

 前期はどちらも「個人の誕生」のことだ。「個人」は束縛から解放されて成立した。そして「公正な社会」は「個人」によって構成される社会だ。公正であるとは、誰もが同じ権利を持っている状態だ。それこそ「個人」の条件だ。
 後期の「関係」は、前近代的な「関係」=社会的コンテクスト=伝統や宗教の拘束とは違って、自分の選択によって作る「関係」のことだ。「くびき」がなくなって、ばらばらになってしまったから、今度は自分で選択して関係を作り直さなければならないのだ。

 以上、本文で論じられている、前近代→前期近代→後期近代(現代)への推移が解像度を上げて見通せるようになっただろうか?

2025年5月23日金曜日

共に生きる 10 〈私〉時代のデモクラシー ー「近代」と「個人」

  「近代」と「個人」という概念に慣れるために、鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」、宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」の以下の文章を読み比べてみよう。

 唐突にとおもわれるかもしれないが、近代の都市生活というのは寂しいものだ。「近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。すくなくとも理念としては、身分にも家業にも親族関係にも階級にもにも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的なコンテクストから自由な個人ということだ。そして都市への大量の人口流入とともに、それら血縁とか地縁といった生活上のコンテクストがしだいに弱体化し、家族生活も夫婦を中心とする核家族が基本となって世代のコンテクストが崩れていった。そうして個人はその神経をじかに「社会」というものに接続させるような社会になっていった。いわゆる中間世界というものが消失して、個人は「社会」のなかを漂流するようになった。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であってじぶんにとっての意味ではないらしいという感覚のなかでしか確認できなくなっているのだ。そこでひとは「じぶんの存在」を、わたしをわたしとして名ざしする他者との関係のなかに求めるようになる。こうして近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく。(鷲田清一「ちくま評論入門」60~61頁)


 「そういう時代」とは何なのでしょうか。話が少々飛躍するようですが、「近代」という時代について考えてみたいと思います。

 「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。「近代」は、個人の自由を重視し、個人の選択を根本原則として、社会の仕組みやルールを作り替えようとしました。

 一例を挙げれば、伝統的な社会において、「家」の存続こそが、そこに属するメンバーにとっての至上命題でした。これに対し、「近代化」の結果、そのような意味での「家」は解体し、当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる「近代家族」が取って代わりました。与えられた人間関係を、自分で選んだ関係に置き換えていく過程こそが、「近代化」であったと言えます。

 そして、今や人間関係は、一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならないとされます。今日、自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえません。ここには、「伝統的な人間関係の束縛からいかに個人を解放するか。」という、近代の初めの命題は、見る影もありません。(宇野重規 教科書135~136頁)

 二つの文章を、近代化の流れをたどるくだりとして重ね合わせてみる。

 二人とも「現代」について話そうとする時に、妙な言い訳をして語り始める。切り出しに、鷲田は「唐突にとおもわれるかもしれないが」と語り始め、宇野は「話が少々飛躍するようですが」と始める。二人が揃って、読者に対して微妙な気遣いをしているところが可笑しい。

 二人とも「現代」の源流を「近代」として捉えているのだが、そう語り起こすことが読者に混乱を起こさないか心配しているのだ。

 さて、鷲田の文章では「くびき」という比喩で語られるものが「社会的コンテクスト」「中間世界」と言い換えられる。「身分~民族」「血縁・地縁」はその具体例だ。

 そうした「くびき」から「個人」を解放してきたのが「近代」だ。

 これは宇野が「これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放する」と言っていることに対応している。「くびき」=「拘束」だ。

 そうして生まれた「個人」は「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」(鷲田)ことを余儀なくされる。「個人の選択を根本原則と」(宇野)するようになったのだ。

 自分の居場所が「伝統的な社会における家」から「当事者の合意に基づく婚姻によって生みだされる近代家族」(宇野)へ変わったという推移は、「くびき」としての「家」から「親密なものの圏内」に推移した(鷲田)ことに対応している。

 「一人一人の個人が「スキル(技術)」によって作りだし、維持していかなければならない」(宇野)は、「緊密に、そして大規模にシステム化された社会というのは、「資格」が問われる社会である。」(鷲田)に対応している。「スキル」=「資格」=「できる」。

 そうすると「人は孤独に陥らざるをえない」(宇野)=「近代の都市生活というのは寂しい」「個人は社会のなかを漂流する」(鷲田)。

 二人が「近代化と個人の誕生」を語る一節は、見事に対応している。これは不思議なことではなく、誰でも、語ろうと思えば似たような論旨になってしまうのであり、それだけそうした認識が常識として前提されているということだ。

 「近代」にしろ「個人」にしろ、見慣れた言葉だが、こうした歴史的背景を背負っていることを認識しておきたい。


2025年5月4日日曜日

共に生きる 9  〈私〉時代のデモクラシー ー要約

 宇野は、2020年の菅義偉政権下で問題になった「日本学術会議任命問題」で、政府に任命を拒否された6人の中の一人として話題になった政治学者(おりしも2025年5月現在、日本学術会議を特殊法人化する法案が国会で審議中だが、これは上の問題を引きずっていて、その帰結ともいえる。反対論も巻き起こって、デモが行われたりもしている)。

 駆け足で読み進めるために、要約を課題とした。

 要約は、現代文分野の学習方法として、最も簡便で最も有効な学習方法だ。とにかくやりさえすれば絶対に勉強になる。

 国語の学習は入力(勉強)と出力(テストでの回答)が明確に対応するような教科の学習と違って、やったこと点数の相関がわかりにくい。国語は教科の性質上、スポーツや楽器の練習などと同じ「実技」科目だから、今日の練習でいきなりうまくできるようになるわけではないからだ。

 それで、「国語の勉強は何やったら良いのかわからない」という意見が世に溢れていて、その揚句「国語は生まれつきの才能だから勉強しても無駄」などといった俗説も飛び交う。

 だが、練習しないよりした方が上達するのは間違いない。中学高校の部活だって、もちろんみんながオリンピック選手だのプロだのになれるわけではないが、部活外の人よりはまず上手くなるものだ。少なくとも昨年の自分よりは絶対うまくなる。その上達が一日二日では(あるいはテスト直前の勉強では)わかりにくいというだけだ。

 で、その練習方法として最も有効なのが要約だ。


 要約は、字数を変えると、いくらか効果の異なる学習になる。

 短くすれば原文の本質・核心をつかむ練習。

 長くするほど展開の論理的組み立てが必要になる。

 今回のはノート2行くらい、50~60字くらいに、という指定だった。みんなどんなふうに要約したろうか。


 試みに、ひとつ。

現代のデモクラシーは、一人一人他人とは違った〈私〉が集まって〈私たち〉をつくらなければならないという問題に直面している。(60字)

 最後の2頁の論旨を中心にしている。題名との関連も重視している。

 一度書く時間をとってから、今度は「近代」「個人」という言葉を入れて、もう少し長く、という条件をつけてみる。半分以上の人は最初から使っていたが。

 例えばこんなの。

近代、古い伝統や宗教から自由な「個人」が生まれた。一方で誰もが同じような〈私〉になってしまう中で、かえって自分の個性を求めるようになっている。

 最後の2頁より以前の趣旨は、こちらの要約の方が適切に表現しているように感じる。両者の趣旨は、これだけ見ると結構異なっている。

 みんなはどちらの論点を中心に要約しただろうか。もっと長ければ両方の趣旨を含む要約を書けば良い。だが短いときにどちらの趣旨を採るかは判断に迷う。

 つまり要約に正解はない。とにかく要約しようとすることが練習になる。


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