2025年12月8日月曜日

羅生門 8 「老婆の論理」はあるか

 では行為の必然性を支えるもう一つの柱「老婆の論理」はどうか?


 先のAB論争は、「老婆の論理」と引剥ぎという行為の必然性との関係、ひいては行為の意味を問い直すことにつながる。ABのどちらを重視するかは、下人の引剥ぎを「自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す行為」と捉えるか「悪の容認の論理を受けて盗人になる決意」と捉えるかの選択につながる。

 従来の理解は下人の行為を後者として説明しているのだが、実際に訊いてみると前者を支持する者の方が多い。これは、後者のように考えることは、実はそれほど読者の実感に沿ってはいないことを示している。「極限状況」同様「老婆の論理」もまた、小説を読む読者の実感と乖離している。

 丁寧に論理をたどろう。先に三つに整理した立場のうち、3、引剥ぎは「生きるため」であり、それを語るBの論理が下人を動かしたのだとする理解はやはり脆弱であり、議論が進むとほとんど支持者がいなくなった。

 Bは最初からわかっていたことだ。実際に、物語冒頭の下人は次のような認識をもっている。

この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人を動かしたのはBではない。

 この主張は実に論理的だ。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのは無意味な循環論法だ。

 それでもなお次のように考えるのならば、Bの解釈も可能かもしれない。

 「羅生門」は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、実際に実行している者を見、その言葉を聞くとできるようになるということもあるという人間心理を描いているのだ、人は大義名分によって動く、他人の言葉を免罪符として実行しにくい行為に踏み切ることがある、「羅生門」はそうした人間心理を描くことを主題としているのだ。

 こうした解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川なら書きそうだという感じもする。

 だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が行為の必然性を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。周到な芥川がそこに気を配らないとは考えにくい。

 それに、これでは「嘲る・かみつく・手荒く」の説明ができない。老婆と同じように「生きるため」の悪を受け容れるならば、せめて後ろめたさと開き直りを老婆と共有してもよさそうだ。


 ではこの攻撃性はやはりAが下人を動かしたことを示しているのか。

 1の解釈のように、「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は確かに小説の味わいとしても悪くない。そしてこれは「極限状況」は実は描かれていないという見方にも整合する。

 だがこれも首肯できない。それは「羅生門」が何の話だということになるのか。

 それでは物語の主人公がむしろ老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。

 これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。単に引剥ぎによって老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面の印象だけを捉えているだけで、小説全体を捉えてはいない。

 では2の立場はどうか。

 少なくともAはBを支える根拠にならない。生き延びるためには、いちいち相手もそのようなことをしていたかどうかを確かめることは実用的ではないからだ。

 では行為の原理はBだが、その契機がAであると考えることは可能か。それは少なくとも従来の「羅生門」理解とは随分違った解釈になるはずである。主題は「極限状況における生きるためのエゴイズム」などという大仰なものではなく、老婆の自己正当化の論理に見られる、いじましくもしぶとい人間の悪知恵の「エゴイズム」とでもいうことになろうか。

 だがそれは「羅生門」という小説全体の書き込みが示す空気感と不釣り合いに思える。「生きるための悪を肯定することへの迷い」という当初の問題がどう解決しているのかがわからない。

 それでも、少なくとも「かみつくように」「手荒く」に表れる下人の攻撃性に説明をつける必要はあるし「嘲るような」はなおさら気になる。この問題は後で検討する。


 「老婆の論理」はどのように考えても、結局下人を動かすには論理的に脆弱だ。にもかかわらず「老婆の論理」が行為の必然性を導いていると考えられていることには理由がある。

 それは何か?


 理由は明白だ。老婆の長広舌の後の次の一文。

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 ここには、老婆の言葉が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせていると書いてあるように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が行為の必然性を支えているとして疑わない。

 本当にそうか?

 だがこの理路を否定するには、実際に別の論理を提示するしかない。後半で展開する予定の授業はそれを企図している。

 この時点では抜け道の可能性を示しておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 並べてみればすぐにその違いは感じ取れる。

 といってその違いを適切に説明することが容易なわけではない。Aは「聞いている」途中に「生まれてきた」が、Bは「聞いた」後だ、などという説明はイマイチ。

 B「これを聞いて」は、老婆の言葉と「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。だが原文のA「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉が単なるBGMであってさえ構わないということになる、と言った生徒がいた。巧みな表現だ)。

 一般的な「羅生門」解釈は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えている。「老婆の論理」と行為の必然性の間にある因果関係は決して疑われることなく前提されてしまう。この思い込みによって、老婆の言葉がどのようにして下人に引剥ぎをさせたのかが説明される。これは論理が転倒している。老婆の言葉と引剥ぎの実行の間に論理的必然性を認めるから因果関係を認めているのではなく、先に因果関係があるはずだとみなして、その論理を説明しようとしている。だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。


 この小説に「極限状況」や「老婆の論理」はあるか?

 ある。だが「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。この二つの要因で引剥ぎという行為の必然性を説明することはできない。

 生きるための悪の容認、などという主題が想定されうるとしても、それがおよそこのように説得力のない形で作品として成立させようと考える作者がいるなどとは到底信じられない。それでも単にこれが失敗作なのだと断じないのならば、下人が引剥ぎをすることの必然性を支える論理を、芥川が意識的に作品に書き込んでいることを信じなければならない。その信頼がなければ「羅生門」を読むことはできない。


2025年12月7日日曜日

羅生門 7 「極限状況」はあるか

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解はネットをみても一般的だといって差し支えない。

 こうした「羅生門」理解を「理解する」ことは、繰り返すが授業の目的ではない。「羅生門」が巷間そのように語られていることを知ることは、一般教養としてはささやかな「言語文化」の継承に資するとも言える。だが国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、みんな気づいているとおり、これからこうした一般的な理解を否定するつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは授業者個人がそれを面白いと感じないという意味ではなく、それが面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は、「羅生門」というテキストを、小説として読まず、ただ理解のための理屈を立てているだけだ。小説を読んだ印象と乖離している。

 授業を受ける生徒としてではなく、小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として違和感を覚えるのは、まず「行為の必然性」の根拠の前提が「極限状況」だとする説明だ。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。


 そもそも授業者には昔から「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかった。「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。迷う余地があるということは「極限状況」などではないということだ。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体がピンとこない。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 そもそも「エゴイズム」と「極限状況」を結びつけることに違和感がある。「エゴイズム」などという観念は近代的個人が持つに至った自意識過剰な自意識にすぎない。それは平和な日常においてこそ浮上する問題だ。本当に「極限状況」があるとしたら、そこでむきだしになるのは、もはやそのような言葉が追いつかないような生存欲求だろう。

 「羅生門」にそうした「極限状況」は描かれていない。


 「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 小説の読解は読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。先の「問題」はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離しているのである。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、この小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 意識されてはいるものの確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずである。読者を「極限状況」に曝すはずである。下人の窮状を体感させるはずである。

 それをしていない以上、「極限状況」が「行為の必然性」を根拠づけるという説明は説得力をもたない。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、Aを支持する者が多かったのは、たぶんそのためだと思う。


 そうはいっても「極限状況」はやはり書かれてはいる。実際に下人は「そうしなければ、飢え死にをする」と言っている。この言葉を意味通り受け取ることには、先の検討の通り疑問もあるとはいえ、事実としての「状況」の存在そのものは否定できない。それは肉体的には描かれていないが下人の行為を動機付けるものとしてある。

 だが今問うている「なぜ引剥ぎをしたか」は、単に「何のために引剥ぎをしたか」ではなく「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いでもある。つまり行為の必要性ではなく、変化の必然性を問うている。

 だから、引剥ぎをしたのが「生きるため」だとしても、そうした「極限状況」が行為の必然性をもたらすという物語の論理を支えるためには、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って――どんどん腹が減って――こなければならない。そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は行為の必然性を支えてはいない。


羅生門 6「老婆の論理」を検討する

 ディベートは楽しかった。

 対立は盛り上がる。

 だがどのクラスでも1時間では決着がつかなかった。検討も十分とは言えない。

 だが重要な考察をするいとぐちにもなった。

 「老婆の論理」と引剥ぎの関係を見直すことを企図したこうした検討から明らかになることは、問題は、下人がAとBのどちらに動かされているか、ではないということだ。

 この議論を通して、何が明らかになるのか?


 これはあてのない問いだ。だが議論が自己目的化しないために、自分たちが考えていることの意味を俯瞰して捉えるのは望ましいことだ。

 問題はAかBのどちらが正解か、ではない。ABそれぞれを支持することがどのような意味をもっているかを自覚することだ。


 最初に述べたとおり、この議論は「老婆の論理」と引剥ぎという行為の関係を詳細に検討することを目的にしている。

 「ABのどちらが強く下人を動かしたか?」という問いに対して、A:Bの割合が3:7だとしたら、Bの方がより強い、と言っても良いが、問題は3が、この時初めて下人にもたらされた認識なのだから、Aが下人を動かしたのたのだと言うこともできる。共通した認識から二つの結論が導かれている。

 つまり下人の引剥ぎがA「生きるため」であるとしても、下人を動かしたのはB「相手もしているならしてもいい」という論理だと考えることが可能であることを示している。

 ここから、実は最初の問い「なぜ引剥ぎをしたか?」には、少なくとも二つの層があることが明らかになる。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」には「下人は何に動かされたか?」という問いと「何のために引剥ぎをしたか?」という問いが重なっているのである。Aは前者に答え、Bは後者に答えている、とも言える。とすれば、問題を整理すればA支持とB支持は融合できるのかもしれない。

 もちろんそうではない、という立場もある。

 あらためて立場を三つほどに整理してみよう。

  1. 下人の心を動かしたのはAの論理であり、この行為は老婆の論理をなぞることで老婆を処罰する意味合いがある。
  2. 行為は「生きるため」だが、下人は老婆のAの論理によって動くことができるようになった。
  3. 行為は「生きるため」であり、Aの論理は下人に不快感を与えてはいるが強く動かしてはいない。あくまでBの論理によって動いている。

 下人の行為を123どれで捉えるかは、「羅生門」の捉え方、つまり主題に直結する。従来の「羅生門」理解は2と3を区別していない。引剥ぎはすなわち、これから生きるために盗人になることを意味する。

 だが1では、この時の老婆に対して行われる行為だというところに重点がある。「生きるため」ではない。

 元々A支持者だった者が支持する2でさえ、従来の「羅生門」理解とは違った理解を示しているはずだ。しかも12を支持する者の方がずっと多い。それは何を意味するかが問われなければならない。


 考えるべきことを抽象的な表現で言うなら、引剥ぎという行為の「意味」が問われている、ということになる。

 議論から見えてきた解釈の相違を選択肢として示すなら、例えば引剥ぎを実用的な行為と見なすか、象徴的な行為とみなすか、とでもいえる。3は「実用」、1は「象徴」である。

 議論をすることはそれ自体、国語科授業としては意義のあることでもある。議論が盛り上がるのは楽しい。その盛り上がりを読解につながる考察に発展させられればなお意義深い。


2025年12月5日金曜日

羅生門 5 ディベート

 「羅生門」読解のための最大にして最低限の問題について考え、それを主題として表現した。つまりどんなことを言っている小説なのか、はわかった。

 ではこれからは細かい問題か発展的な問題について考察していくのか?

 そうではない。やろうとしているのはやはり最大にして最低限の読解、すなわち「羅生門」とはどんな小説なのかを考えることだ。

 つまり「一般的」解釈を再検討しようというのだ。


 端緒として「老婆の論理」の二つの要素を検討する。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の言葉は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと呼ばれる論理を語っているが、ここには二つの理屈が混ざって語られている。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 行為の必然性を支えるのはどちらか?


 ここをとりあげるのは、意見が分かれるので議論が盛り上がって面白いから、ではあるが、考えるいとぐちになることが期待されるから、でもある。

 これを簡易ディベート形式で議論する。

 一般的な解釈によればBこそ行為の必然性を支えていることになるはずだ。下人は「生きるため」にやらなければならないという状況で、それをやったのだ。

 だが支持者は、学年全体ではA:B=8:2くらいの割合だった。

 Aを支持する者が多いことは、この解釈が意外と複雑な問題を看過していることを示している。


 さてAを支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜAを支持することになるのか?


 「飢え死に」を「考えることさえできない」というのだから、生死が問題ではないのだいうことになる…。

 だがそうか?


 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは単に心が決まったと言っているだけであり、別にどちらかの根拠になるわけではない。


 ではAを支持する根拠として何が挙がるか?

 原話『今昔物語』の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、小説「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。引剥ぎが生きるための実用的な行為であるなら、なるべく多くの物を奪うはずだ。これは引剥ぎが「生きるため」ではないことを示している。

 また、老婆が髪を抜く死体の女の身元は、原話では老婆の主人だったと書かれている。これが小説では『今昔』の別の挿話からもってきた、蛇を魚と偽って売っていた女に差し替えられている。原話ではAの論理がそもそも成立しない。この設定の変更によってAの論理が生じているのだから、この差し替えは、Aの論理の重要性を示している。

  • 男が奪った物
  • 死体の女の身元

 これらはA支持と論理的に整合するが、だからAの方が重要であると直ちに根拠づけられるわけではない。その改変には別の意味があるとか、大した意味はないなどということも可能だからだ。

 そもそもA支持者はこれらの論理によってAが重要だと感じたわけではないはずだ。まずAが重要だと感じ、それを補強する論理を探して、右の二点が有効だと考えたはずだ。


 一方B支持者は次の下人の言葉を挙げることができる。

では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、Bを支持する根拠になる。

 だがこれに対してA支持者は、そんなのは単なる口実に過ぎない、と返すこともできる。

 これでは水掛け論だ。

 だがそれよりも、このセリフこそ、A支持者の「感じ」の根拠なのではないか?

 これを説明するのは難しい。だがこうした小説の微妙な表現のニュアンスを分析的に語ることこそ重要な国語力だ。

 下人はまず「では」と、老婆の言葉を受けていることを強調し、相手が「恨まない」はずであることを念押ししている。その上で「俺も」と、自分と老婆が同じ立場であることを、すなわち自分の行為が相手の論理に則っていることを殊更に主張している。つまりこのセリフは、下人が本当に生きるために引剥ぎをすることを述べているというより、老婆に自分の行為の正当性を認めさせようとしているところに重点があるように感ずるのだ。

 むしろこのセリフの印象こそA支持者がAだと感ずる大きな理由なのかもしれない。


 さらにA支持の根拠を挙げよう。

 必ず指摘すべき重要な論点は、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に付せられた「嘲るような」という形容だ。

 さらに同様の働きをしている形容をこの場面からあと二つ指摘したい。

 「かみつくように」「手荒く」だ。

 これら三つの形容は何を意味しているか?


 これは下人の心理状態を説明しているのであり、三つとも、老婆に対する攻撃的な姿勢を示している。

 「生きるため」に引剥ぎをするなら、老婆に対する敵愾心が表現される理由はないはずだ。

 さらにこの中でも「嘲るような」は的確な分析が求められる。「嘲るような」とは下人のどのような心理を表しているか?


 「老婆を見下している」「馬鹿にしている」は単なる言葉の言い換えにすぎないので不十分。なぜ「見下す」のかを説明しなければならない。

 ここでは、自己正当化の論理がそのまま自分に対する引剥ぎを容認する論理として跳ね返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、といった説明がほしい。

 お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。そしてそれはAを支持しているように思われる。


 一方、Bの根拠を挙げるのは難しい。そのままBを言っている下人の言葉はむしろAを支持する根拠として解釈し直されてしまった。それ以外に挙がるのは次の箇所。

 この場面で「勇気が生まれてきた」と言われている「勇気」は、「門の下で欠けていた勇気」と説明される。

 これは物語のはじめの「『盗人になるよりほかに仕方がない』ということを積極的に肯定するだけの勇気」だ。つまり「生きるための悪」を肯定する勇気だ。Bによって肯定された「勇気」が下人を動かしたのだ。

 これは真っ当にBの論理を語っており、かつ下人の言葉ではなく語り手の言葉=地の文なので信頼できる。これに対するA側の反論はあるか?


 これに対する反論として切れ味鋭かったのはF組Tさんの言葉だった。

 「勇気」がBの勇気であることは認める。だが今問題にしているのは、何が下人を動かしたか、だ。その契機がAであると主張しているのだ。

 そもそもBは元々下人自身が自覚していたことであり、それでもできなかったのだから、この場面で下人を動かしたものは、門の下では下人になかった認識であるはずだ。それがAなのだ。

 この反論自体が、強力なA支持の根拠を示している。


 このやりとりは興味深い問題をはらんでいる。この議論の意味そのものが問われている。


2025年12月4日木曜日

羅生門 4 とりあえず解釈

 さて「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いに、現状で答えてみよう。

 謎だと言っているのに答えろとは矛盾した話だが、まあ現状で言えるだけ言ってみよう、と投げかけると、みんなあれこれ喋る。

 言えることがないわけではないのだ。全く支離滅裂な話ではない。それなりには引剥ぎにいたる条件や要因は言える。

 さてここでは、この条件・要因を二つに分けて言ってみよう。あるいは二つの要素を揃えて言おう。

 とりあえず「なぜ」と聞いているので、答えは「理由」だ。「~から。」で終わるように言う。

 そこに二つの要素を揃える。


 文型を指定する。

   において   を得たから。

 それぞれの空欄に当てはまる内容は?


 水色は言わば前提で桃色は言わば契機だ。

 こんなふうに言えば良い。

極限状況において老婆の論理を得たから。

 これはどのようなことを言っているのか?


 「極限状況」「老婆の論理」をそれぞれさらに二つの要素に分解しよう。

 三回の分解過程は、要するに分析的な思考をしようということなのだが、それによって考察を緻密にすることを企図している。

 難しくはない。答えを聞けばわかっていたことだと感じるようなことだ。

 とはいえ「極限状況」の方にどこのクラスも苦労した。抽象度を揃えて二つを並べるのが難しいのだ。「行き所がない」「腹が減った」「このままでは死んでしまう」はいずれも、それこそが「極限状況」なのであって、それを成立させる二つの条件ではない。

 さて、次の2点が揃えばOK。

  • 天災により都が荒廃していること。
  • 下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。


 では「老婆の論理」は?

 下人の引剥ぎの実行の直前、老婆が長々と語る理屈は「悪の容認の論理」「自己正当化の論理」などと言われるが、ここには二つの理屈が混ざっている。これを分ける。

A 相手もしたことなら許される。

B 生きるためなら許される。

 老婆は二つの理屈を混ぜてしゃべっている。


 さてこれで下人が引剥ぎをしたわけはわかった。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の理由」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 考えることは重要だが、これが一般的になんと言われているかをネットで調べることもできる。Yahoo!知恵袋やWikipediaで。あるいはAIに聞いてみてもいい。世の中には国語の先生のブログなどもあれこれある。

 いくつもの記事を読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解だ。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎが、エゴイズムの発露として理解されているのだ。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って行為の必然性を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。


 さてこれで「羅生門」はわかった。

 もしそうならば、「羅生門」の授業はもうおしまいだ。


 本当にそうか?


羅生門 3 行為の重要性

 ではなぜ、この行為=引剥ぎが「羅生門」を読むためには最も重要だと言えるか?


 どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の下人は、雨止みを待ち、石段に腰掛け、老婆を取り押さえ、羅生門の梯子を上がったり下がったりする。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。


 下人の心が大きく変化した瞬間だから?

 だが「大きく変化」は他にもある。


 だが引剥ぎは悪への変化であり、これが主題につながるから?

 それは、重要だから重要だと言っているのだ。もちろん重要そうな見通しができることは重要であるという判断の根拠として自然であるとも言えるのだが、いや解釈をする前に重要であることは言えるのだ。

 確かにこの実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。

 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさとともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。

 だがだがそれだけではない。これこそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからだ。

 その対応を示すのは、二つの箇所に共通する単語だ。

 何?


 「勇気」だ。

 「羅生門」では冒頭で行為に対する迷いが「勇気が出ない」と提示され、その行為が実行される場面で「勇気が生まれてきた」と語られる。

 つまり物語全体をこの問題と結論をつなぐ論理の中で把握するよう促されているのだ。

 この物語の構造は、明確にその論理を作者が読者に対して提示しているように見える。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問いは「何が下人に引剥ぎをさせたか?」という問い、すなわち下人に引剥ぎをさせた物語的な力は何か、を問うている。

 それはつまり「羅生門」という物語における引剥ぎという行為の必然性が問われているということであり、すなわち行為の意味が問われているということだ。


羅生門 2 原話との比較

 「行為」に焦点を絞ることが適当であることを確認するために、この小説のもとになっている『今昔物語』の一編「羅城門登上層見死人盗人語」と読み比べよう。

 原話と、翻案された小説「羅生門」の相違点は何か?


 まず、原話の「羅城門」が小説では「羅生門」と表記されていることにすぐに気づく。

 これはしばしば、小説が生と死をテーマにしているからだ、というような説がまことしやかに語られることがある。だがこれは眉唾だと思う。羅城門が羅生門と表記されるようになったことは歴史的な事実であり、別に芥川の創作ではない。どちらの表記も存在したのだ。それをわざわざ「羅生門」という表記を選んだのだ、と考えることにそれほどの蓋然性があるか怪しい。

 次の2点は重要かもしれない。

 老婆に髪を抜かれている死人の女の素性が違う。原話では老婆の主人、小説では蛇を干し魚と偽って売っていた女だ。これは芥川が小説化にあたって『今昔物語』の別のエピソードを合成したものだ。このことによって主題に関わる相違が生じているか?

 また、原話では盗人は老婆の着物以外に死人の着物と老婆が抜いた髪の毛を奪って逃げる。だが小説では老婆の着物だけを奪う。このことは後の議論にどう影響するか?


 次の諸点に気づいた者は注意力がはたらいている。

  • 原話では羅城門の近くに人の往来があるが「羅生門」では人気はない。
  • 原話では「日のいまだ明」るい時刻だが「羅生門」では上層に上がる頃には暗くなっている。
  • 原話では雨が降っていないが「羅生門」では雨が降っている。

 これらの描写が小説版の、陰鬱な雰囲気を醸し出している。


 さて、最も重要な相違点として挙げられたのは各クラスで共通していた。

 原話との最も重要な相違点は、原話での男の引剥ぎが、最初からそうしようとしていたものとして「迷い」が描かれていない、という点である。原話の「盗人」が小説では「下人」と称されている。

 『今昔物語』の原話では「男はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いが生まれようがない。「盗人」が老婆の着物を剥ぎ取るのは当然であり、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 ではこの原話は何を伝えたい話なのか?


 この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることにある。老婆と男の「行為」も、その「状況」の一部だ。

 一方「羅生門」では「状況」を背景にして、引剥ぎという「行為」の意味が前面に現れている。

 「行為」は当然「動機」や「情動」によって意味づけられる。つまり下人の「内面」「心理」を考えないわけにはいかない。

 そこにこそこの小説の主題を捉えるいとぐちがありそうだ。


 下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそれをすることにしたのか?

 だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。

 それを自覚的に問いとして立てる。下人はなぜ引剥ぎをしたのか? すなわち引剥ぎという行為の物語的な必然性、あるいは意味を問う。



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