2025年12月10日水曜日

羅生門 13 最終考察のヒント

 下人の「心理の推移」が、どのような論理によって引剥ぎという「行為の必然性」を導き出すのか?

 「老婆の論理」に拠ってだ、と考えるとそこで思考停止してしまう。だが、「老婆の論理」を否定して、「心理の推移」が「行為の必然性」にいたる論理を見出すことには、やはりある発想の飛躍が必要だ。

 ここまでの心理の分析のすべてがその手がかりになるはず。丁寧にたどって、それが「おりて」くるのを待とう。


 考える手がかりをいくつか提供する。

 AB論争から明らかになったことを思い出そう。「なぜ引剥ぎをしたか」という問いには「なんのために引剥ぎをするか」と「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いが重なっている。一般的な解釈の「極限状況」は前者に対応し、「老婆の論理」は後者に対応している。また、ディベートにおけるA支持者は後者に答えようとしており、B支持者は前者に答えようとしているように見える。

○なんのために引剥ぎをするか

→極限状況=B「生きるため」

○なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか

→老婆の論理=A「相手もしているなら」

 「老婆の論理」からではなく、「心理の推移」によって後者の問いに答える論理を考えよう。


 さてこの問いに対する答えがそれなりに用意できたら、そこから「主題」として抽象化する飛躍の前に、一段階、次のような問いを置いたことを思い出そう。

引剥ぎという行為の意味は何か?

 「意味」を語るためには抽象的な把握を必要とする。

 授業ではこれを考えるために、例えば「実用/象徴」という対比で考えてみることを提案した。

 「実用」だとみなすのは先のB支持だが、それだけで説明することはできない。

 「象徴」のみで解釈する立場はAのみを重視するということだが、これも難しい。

 「実用」を否定せず、そこにAではない、どんな「象徴」性を認めるか?


 それを表現した先に、さらに主題へと抽象化する。


 さて、門の下で下人の中にあったのは、どのような論理・価値の拮抗か?

 具体的には「a.飢え死にをする/b.盗人になる」という選択肢の間で逡巡している。これを抽象化する。

 「死/生」が挙がるが、下人は「死」を「選択」しようとしているわけではない。

 選択すべき価値としては「善/悪」も悪くないが「a.正義/b.悪」がいいだろう。「a.良心・倫理/b.利己心・エゴイズム」などもいい。

 最初の時点で「a.飢え死に/b.盗人」に迷うということは、上の価値が拮抗しているということだ。

 この拮抗のバランスは、途中完全にa「飢え死に」に傾く。

下人は、なんの未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。

 そして最後には完全にb「盗人」に傾く。

飢え死になどということは、ほとんど考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 つまり最初の「a.正義/b.悪」の拮抗は一度完全にaに振り切れ、その後完全にbに振り切る。

 この変化は極端だ。

 「老婆の論理」説は最後にbを選ぶ必然性を説明しているだけで、aに振り切る極端な変化はなぜ生じているのか、なぜそのことを執拗に書くのかという疑問には答えていない。

 二度の極端な変化は、いずれも重要だ。不自然なことには意図がある。

 それらは何を示すか?


2025年12月8日月曜日

羅生門 12 「得意と満足」「失望」「憎悪」

 奇妙な「憎悪」は、後に言及される「勇気」を下人の心に生み出す。それに動かされて下人は老婆を取り押さえる。その後におとずれる②「安らかな得意と満足」もまた不自然だ。

 どのように?


 この「得意と満足」は「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」からだと言われているし、「ある仕事をして、それが円満に成就したときの」という形容がついている。説明はされている、にもかかわらずちっとも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。この脳天気さは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。

 これは老婆の行為を「悪」と判断する理由が「この雨の夜に、この羅生門の上で」と述べられることに似ている。書いてはあるが、どうしてそれが理由になるのかが読者にはわからない。読者にわからない理由が、あえて述べられている。

 だがもっと明確にこの不自然さを指摘しよう。

 この不自然さは、ある順序の転倒によって生じている。

 ②「安らかな得意と満足」が不自然だと感じられるのは、何より前に「得意と満足」が生じているからか?

 当然あるべき何がないことが不自然なのか?


 老婆の返答である(各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 下人は「何をしていた」と問うが、老婆の答えを聞く前に「満足」している。これが違和感の理由だ。

 これもまた、①「憎悪」の分析と対になっている。「悪」であると判断する合理的理由はないまま断定して燃え上がった「憎悪」は、その理由についての疑問が氷解する前に消滅する。

 つまり、髪の毛を抜く「理由」が「憎悪」の当為を支えるものではないということだ。

 このことが意味するのは何か?


 次の③「失望」ももちろん不自然だ。

 この「失望」から何が考えられるか?


 この「失望」も読者の自然な共感・理解を超えている。だから「なぜ下人は失望したか?」と訊きたくなるが、この問いでは答えまでの距離が遠すぎる(だが後でもう一度訊く)。

 まずこう考えよう。この記述を反転させるとどうなる?


 「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡(特殊・異常…)」な答えを「期待」していたことになる。

 では下人はなぜ異常なことを期待するのか? そして「非凡」な答えとはどのようなものか? というより、このことは何を示しているか?


 「失望」とともにまた再び「憎悪」が浮上してくる。

 ここでの分析には対比を使う。①「憎悪」と③「憎悪」を比較する。

 両者の共通点と相違点は何か?


 比較するためには共通性が前提となるのだが、みんなには相違点を挙げる方が容易だ。

 では相違点は何か?

 ①が、老婆の行為の理由がわかる前に生じた「憎悪」であるのに対し、③は、わかってから生じた「憎悪」である。また、①が「あらゆる悪に対する」という、奇妙に拡散した対象に向けられているのに対し、③は老婆という限定した対象に向けられている。

 対象が「不特定」(一般化)か「特定」(限定的)か。

 また、①が燃え上がるような「憎悪」であるのに対して、③の「憎悪」は、「冷ややかな侮蔑」とともにある。

 「熱い憎悪」と「冷たい憎悪」。

 こうした差異は何を示しているか?


 一方、共通点は何か?

 「また前の」という形容がわざわざ付されているのは、①の「憎悪」を受けて③の「憎悪」が捉えられていることを示している。そう書く意図があるはずなのだ。それが何であるかを理解しなければならない。

 だがこれを言葉にするのは難しい。聞いてみるとあっさり出てくることがある一方、なかなか出てこないで時間がかかる場合もある(これもまた、各クラスでこれを答えた者たちは自慢して良い)。

 実は拍子抜けするほど簡単な答えだ。

 共通点は、どちらも「悪に対する憎悪」だということである。

 このことをなぜ確認する必要があるかというのは、最終的な考察で明らかになる。


 またこの憎悪は「冷ややかな侮蔑といっしょに」下人の心に入り込む。

 この「冷ややかな」は、老婆の話を聞く下人の態度「冷然と」に、また「侮蔑」は「嘲るように」につながっているように思える。

 それなら「かみつくように」「手荒く」という老婆に対する敵意は「憎悪」からつながっていると言ってもいいかもしれない。

 それを認めるならば、先の「嘲る」「かみつく」「手荒く」「冷然と」といった、引剥ぎの実行周辺の形容からうかがい知れる下人の心情は、老婆の長広舌を聞く前に、既に生じているということになる。

 となると「嘲る」について前に一度考えた説明も、あらためて考え直す必要がある。


 ここまで見たような念入りに書き込まれた不自然は、それがこの小説にとって意味のあることだということを示している。

 「行為の必然性」は脆弱な「老婆の論理」に拠るのではなく、「心理の推移」によって準備され、その論理的帰結によって導かれている。

 とすればその論理とは何か?


羅生門 11 「憎悪」の分析

 「羅生門」の顕著な特徴である執拗な心理描写を有意味化し、そこから「行為の必然性」を導き出す論理を見出す。

 ここで考察すべき「心理」を以下の三点に整理する。梯子を登ってから老婆と応答するうちに下人の心に訪れる大きな変化である。

①「老婆に対する激しい憎悪」

②「安らかな得意と満足」

③「失望」「憎悪」「冷ややかな侮蔑」

 ①の直前の「六分の恐怖と四分の好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理だ。③の後の「嘲るような」「かみつくように」は後ほど考察する。

 これらの心理の描写や形容、すなわち記述そのものを分析せよ、と要求したいのだが、「分析」とは何を考えることなのか?


 ①の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。どうみても不自然だ。解釈と納得が要請される。

 思いつきやすい問いは「なぜ憎悪が湧いてきたか」だが、これは難しい。書いてあることは指摘できる。だがそれが腑に落ちないからこそ、それについて考えようとしているのだ。そもそも読者はこの「憎悪」に共感することができずにいる。だから自分の心を探って、それと照らし合わせて推測することができない。

 「憎悪」がこのように書かれていることの意味を捉えたい。

 そこでまずこう考えよう。

 読者が①「憎悪」の描写に感ずる不自然さはどこから生じているか?


 「憎悪」はまずその不自然さ故に考察すべきであると感じられている。その不自然さを分析する。

 分析というのは、ある種の抽象化をすることだ。そしてこれができることが「説明」という行為にとって欠かせない条件となる。

 「どこがおかしいか?」と問うたとき、本文の一節をそのまま引用して「だからおかしい」と言ったのでは「説明」にならない。それが「おかしい」というのがどういう論理に基づくのか、一段抽象度を上げる。

 こういうときにも「対比」の考え方を使う。どうだったら「自然」なのか、どうでないから「不自然」なのか、という説明を考えるのだ。


 授業で提示されたのは次のような諸点。

  • 急すぎる。いきなり。
  • 激しすぎる。過剰。極端。
  • 憎悪の対象がなぜか一般化する(「あらゆる悪」)。
  • 自分が被害を受けるわけでもないのに憤っている。
  • 自分が盗人になるかどうか迷っていた事実が棚上げされている。
  • 老婆の行為の理由がわかっていないのに「悪」と決めつけている。

 これらの特徴は、相反する方向性をもっている。

 対象の一般化自分が害を受けないこと理由の不明といった特徴は、その「憎悪」が激しいことに反している。「憎悪」すべきことが納得されれば激しいのも当然だと思えるかもしれないがそうした納得はない。だからこそそれが「過剰」だと感じられるのだ。こうした矛盾する方向性が、この「憎悪」を不自然だと感じさせている。

 作者はそうした不合理を充分承知の上であえてそのことを読者に明言してみせる。

従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。

 悪であるとする理由がわからないまま下人が「憎悪」する不自然さに作者は意図的であり、なおかつ意図的であることを読者に伝えようとしている。


 下人の「憎悪」は確かにおかしい。よくわからない。

 といって完全に理解することができなかったら、もっと読者の注意を引くはずだ。

 だから読者は下人の「憎悪」をそれなりに了解してもいる。

 死体の髪の毛を抜くことはなぜ悪いのか? とりあえず読者はどう理解しているのか? 通読したときには自分はどのように理解したのか?


 「他人のものを盗むのは良くないことだから」ではない。本文には「下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。」と書いてある。下人は老婆の行為を「盗み」だと判断して「悪」と決めつけているわけではない。


 とりあえずこんなふうに言えればいい。

 死体の損壊を、死者への冒瀆と感じて憤っているのだ。

 だがそんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか。

 だからこそ、ここには「極限状況」などないのだ、とも言えるのだが、ともあれ読者はこの「憎悪」に違和感を感じつつも、下人が老婆を「悪」と決めつける判断は全く理解不可能というわけではないから、この「憎悪」の不自然さがどのような意味をもっているかを本気で追究することから巧妙に目を逸らされている。

 読者が先回りしてこうした推測でひとり合点する一方、下人にはそれを判断することはできない、と作者はわざわざ明言する。

 では作者は下人が判断した根拠を何と書いているか?


 かろうじてそうと認められるのは「この雨の夜に、この羅生門の上で」という一節だ。それに続けて「それだけで既に許すべからざる悪であった」という、これもまたよくわからない断定がなされている。

 わかろうと思えば、確かにそれは不気味な雰囲気を醸し出している舞台設定だし、もうちょっと合理的に言っても、死体がごろごろ放置されているような場所に、わざわざ雨の夜にやってくるのは、何か不穏当なことをするつもりだからだろう、といった納得をすることはできる。

 だがこれがなぜ「悪」と判断する根拠なのか、すんなりとは腑に落ちない。読者はわかったようなわからないような曖昧な気分にさせられる。

 これは上記の、下人が老婆の行為を悪と判断した理由を読者が先回りして推測してしまうことと似ている。死人の髪の毛を抜くことは確かに悪いことのように感じる。そして「この雨の夜に、この羅生門の上で」しているのだから、確かに悪いことなのかもしれない


 さて、注意すべきはこの表現が羅生門の上層に上る途中にも見られることである。

この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

 この反復は何を意味するか?

 こう言ってみよう。


 これは、下人には   があったことを示している。

 さて空欄には何が入る?


 「予断」が思い浮かんだら大したもんだ。高校生からは出てこない語彙だ。

 「思い込み」「前提」あたりが出てくれば上出来。

 「先入観」が出ればOK。

 下人は既に老婆の行為を目撃する前に、それが異常なことであると決めつけているのだ。

 これは下人が老婆の行為のわけがわからないまま悪と決めつけていることと正しく整合している。


 下人の「憎悪」は、老婆の行為を「悪」と決めつけるために、読者がかろうじて了承できるような「死者への冒瀆」といった理解の余地を残しながら、一方でそうした納得できるような理由は注意深く否定され、代わりによくわからない理由が置かれる。読者は宙吊り状態におかれる。なのに、とりあえずの納得もできるから、それ以上には考えようとしない。

 だが注意深く読むと「憎悪」についての描写、形容は、やはり意図的に不自然に書かれている。この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感できないという意味でも不自然だが、それだけではなく、こうした情報をどのような論理に組み込むべきかがわからないことが、この部分を「不自然」と感じさせている。下人の心理が共感しにくいという以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことが「不自然」なのだ。

 こうした分析は、すべて「行為の必然性」につながるべきであり、その論理の中でこうした違和感を感じさせる表現がなぜ必要なのかは明らかにされねばならない。


羅生門 10 「心理」を考える意味

 一般的解釈において未解決な問題とは何か?

 これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、やはり注意深く小説を読んでいないのだとも言えるし、全体をバランス良く客観視することができていないとも言える。

 実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものだ。

 どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。

 一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。


 いや、気になっていたことを表明していた人もいる。最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってはいる。

 それらのどれかを単独でとりあげるのではなく、まずこれらを一括して、一段抽象度を挙げて表現したい。

 「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 これを、一つ一つばらばらにではなく、まとめて「心理描写」「心理の推移」といった抽象度で表現できることが重要だ。そうした抽象的・包括的な把握こそ国語力というのだ。

 ところでようやく思考がそのような抽象度に届いたときに、それを「下人の心情」と表現する人は多い。だがここは「心理」という言葉を使いたい。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのだ。「心情・気持ち」という言葉は国語科教育が論理よりも共感を重視することの表れかもしれない。だがそうした表現は曖昧な読解を許容することになる。共感も、まず適切な読解の上にしか生じ得ないはずだ。

 小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないとは到底考えられない。

 一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えているとは思えない最大の理由だ。

 こうして描写される「心理の推移」には何の意味があるのか?


 わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。

 根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いだ。主題は「移ろいやすい不安定な人間心理」とでもいうことになる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。

 だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたま、ある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。

 それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触だ。それは「不安定な心理」説とは相容れない。


 詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずだ。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過ということになる。

 「老婆の論理」ではなく「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。



羅生門 9 未解決の問題

 「極限状況」+「老婆の論理」=行為の必然性という一般的な解釈は、一見確かにわかりやすい。だが上記に見たように、詳細に考えてみるとそれは脆弱な論理によってわかった気になっているにすぎない。

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい理由は他にもある。

 それは、 ある重要な小説要素がまだ解釈も、言及さえされていないまま、一般的「羅生門」解釈では論理が完結していることだ。

 それは何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか。

 なぜ「作者」がたびたび登場するのか。

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか。

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。

 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか。

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方は?

 ある意味ではわからなくても良いのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いている。

 それを「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わないが)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。

 他に動物比喩が多用されているという指摘もあったが、再重要ではない。生が剥き出しになった動物的な世界を描こうとしている、などと説明すれば一般的解釈に収まる。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。

 それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときに「にきびから手を離す」ことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?


 「象徴」という言葉は誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、という具体物平和という抽象概念を表わしている。

 もちろん、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。鳥類図鑑に載っている鳩はただの鳩だ。だが、「平和式典」のニュース映像などで青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしていることが視聴者に了解されている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされる。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」「葛藤」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」「倫理観」あたりか。そこまで心にあった「良心」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。「倫理観に縛られて悩む若さ故の葛藤」などと言えば一続きに言える。

 そこから手を離させたのは「エゴイズム」だと言えば、「にきび」の解釈は従来の一般的解釈の枠内で可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?

 それは「にきび」以上に、読者にとってはあからさまに気になるはずであり、なおかつ一般的解釈の論理にまだ組み込まれていない小説要素だ。

 それは何か?


羅生門 8 「老婆の論理」はあるか

 では行為の必然性を支えるもう一つの柱「老婆の論理」はどうか?


 先のAB論争は、「老婆の論理」と引剥ぎという行為の必然性との関係、ひいては行為の意味を問い直すことにつながる。ABのどちらを重視するかは、下人の引剥ぎを「自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す行為」と捉えるか「悪の容認の論理を受けて盗人になる決意」と捉えるかの選択につながる。

 従来の理解は下人の行為を後者として説明しているのだが、実際に訊いてみると前者を支持する者の方が多い。これは、後者のように考えることは、実はそれほど読者の実感に沿ってはいないことを示している。「極限状況」同様「老婆の論理」もまた、小説を読む読者の実感と乖離している。

 丁寧に論理をたどろう。先に三つに整理した立場のうち、3、引剥ぎは「生きるため」であり、それを語るBの論理が下人を動かしたのだとする理解はどうか?

 だがBは最初からわかっていたことだ。実際に、物語冒頭の下人は次のような認識をもっている。

この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人を動かしたのはBではない。

 この主張は実に論理的だ。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのは無意味な循環論法だ。

 この論理はやはり脆弱であり、議論が進むとほとんど支持者がいなくなった。

 それでもなお次のように考えるのならば、かろうじてBの解釈も可能かもしれない。

 「羅生門」は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、実際に実行している者を見、その言葉を聞くとできるようになるということもあるという人間心理を描いているのだ、人は大義名分によって動く、他人の言葉を免罪符として実行しにくい行為に踏み切ることがある、「羅生門」はそうした人間心理を描くことを主題としているのだ。

 こうした解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川なら書きそうだという感じもする。

 だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が行為の必然性を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。周到な芥川がそこに気を配らないとは考えにくい。

 それに、これでは「嘲る・かみつく・手荒く」の説明ができない。老婆と同じように「生きるため」の悪を受け容れるならば、せめて開き直りの後ろめたさを老婆と共有してもよさそうだ。


 ではこの攻撃性はやはりAが下人を動かしたことを示しているのか。

 1の解釈のように、「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は確かに小説の味わいとしても悪くない。そしてこれは「極限状況」は実は描かれていないという見方にも整合する。

 だがこれも首肯できない。

 それでは物語の主人公がむしろ老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。

 これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。単に引剥ぎによって老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面の印象だけにとらわれて、小説全体を捉えてはいない。

 では2の立場はどうか。

 少なくともAはBを支える根拠にならない。生き延びるためには、いちいち相手もそのようなことをしていたかどうかを確かめることは実用的ではないからだ。

 では行為の原理はBだが、その契機がAであると考えることは可能か。それは少なくとも従来の「羅生門」理解とは随分違った解釈になるはずである。主題は「極限状況における生きるためのエゴイズム」などという大仰なものではなく、老婆の自己正当化の論理に見られる、いじましくもしぶとい人間の悪知恵の「エゴイズム」とでもいうことになろうか。

 だがそれは「羅生門」という小説全体の書き込みが示す空気感と不釣り合いに思える。「生きるための悪を肯定することへの迷い」という当初の問題がどう解決しているのかがわからない。


 「老婆の論理」はどのように考えても、結局下人を動かすには論理的に脆弱だ。にもかかわらず「老婆の論理」が行為の必然性を導いていると考えられていることには理由がある。

 それは何か?


 理由は明白だ。老婆の長広舌の後の次の一文。

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 ここには、老婆の言葉が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせていると書いてあるように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が行為の必然性を支えているとして疑わない。

 本当にそうか?

 だがこの理路を否定するには、実際に別の論理を提示するしかない。後半で展開する予定の授業はそれを企図している。

 この時点では抜け道の可能性を示しておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 並べてみればすぐにその違いは感じ取れる。

 といってその違いを適切に説明することが容易なわけではない。Aは「聞いている」途中に「生まれてきた」が、Bは「聞いた」後だ、などという説明はイマイチ。

 B「これを聞いて」は、老婆の言葉と「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。だが原文のA「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉が単なるBGMであってさえ構わないということになる、と言った生徒がいた。巧みな表現だ)。

 一般的な「羅生門」解釈は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えている。「老婆の論理」と行為の必然性の間にある因果関係は決して疑われることなく前提されてしまう。この思い込みによって、老婆の言葉がどのようにして下人に引剥ぎをさせたのかが説明される。これは論理が転倒している。老婆の言葉と引剥ぎの実行の間に論理的必然性を認めるから因果関係を認めているのではなく、先に因果関係があるはずだとみなして、その論理を説明しようとしている。

 だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。


 この小説に「極限状況」や「老婆の論理」はあるか?

 ある。だが「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。この二つの要因で引剥ぎという行為の必然性を説明することはできない。

 生きるための悪の容認、などという主題が想定されうるとしても、それがおよそこのように説得力のない形で作品として成立させようと考える作者がいるなどとは到底信じられない。

 それでも単にこれが失敗作なのだと断じないのならば、下人が引剥ぎをすることの必然性を支える論理を、芥川が意識的に作品に書き込んでいることを信じなければならない。その信頼がなければ「羅生門」を読むことはできない。


2025年12月7日日曜日

羅生門 7 「極限状況」はあるか

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解はネット記事をみても一般的だ。これはそもそもそのように考える文学者の研究論考が、学校教育を通じて一般化したものだ。つまり専門家も含めてみんなそう考えているのだ。

 こうした「羅生門」理解を「理解する」ことは、繰り返すが授業の目的ではない(そもそも「羅生門」自体を理解することすら授業の目的ではない)。そんなものは国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、みんな気づいているとおり、これからこうした一般的な「羅生門」理解を否定するつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは解釈が面白くないということではない。そのような主題が、小説の面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は小説を読んだ印象と乖離している。それはただ「羅生門」というテキストを、小説として読まず、理解のための理屈を立てているだけだ。

 授業を受ける生徒としてではなく、小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として違和感を覚えるのは、まず「行為の必然性」の根拠が「極限状況」だとする説明だ。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。

 小説を読むことは読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。

 そもそも授業者には昔から「飢え死にか盗人か」という問題設定が「問題」と感じられなかった。「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と感じていた。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体がピンとこない。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 そもそも「エゴイズム」と「極限状況」を結びつけることに違和感がある。「エゴイズム」などという観念は近代的個人が持つに至った自意識過剰な自意識にすぎない。それは平和な日常においてこそ浮上する問題だ。本当に「極限状況」があるとしたら、そこでむきだしになるのは、もはやそのような言葉が追いつかないような生存欲求だろう。

 「羅生門」にそうした「極限状況」は描かれていない。


 「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離している。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、なにやら深遠なテーマについて考えているようでいて、実際はこの小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 意識されてはいるものの確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずである。読者を「極限状況」に曝すはずである。下人の窮状を体感させるはずである。

 それをしていない以上、「極限状況」が「行為の必然性」を根拠づけるという説明は説得力をもたない。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、Aを支持する者が多かったのは、たぶんそのためだと思う。


 そうはいっても「極限状況」はやはり書かれてはいる。実際に下人は「そうしなければ、飢え死にをする」と言っている。事実としての「状況」の存在そのものは否定できない。

 だが今問うている「なぜ引剥ぎをしたか」は、単に「何のために引剥ぎをしたか」ではなく「なぜできなかった引剥ぎができるようになったのか」という問いでもある。つまり行為の必要性だけではなく、変化の必然性をこそ問うている。

 だから、引剥ぎをしたのが「生きるため」だとしても、そうした「極限状況」が行為の必然性をもたらすという物語の論理を支えるためには、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って――どんどん腹が減って――こなければならない。

 そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は行為の必然性を支えてはいない。


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