2026年1月27日火曜日

視点を変える14 メディアがつくる身体3 メディアとは?

 一文要約をすると全体はそれなりにつかめる。だがもちろん隅々までクリアに、というわけにはいくまい。

 例えば「メディア」とは何か?


 題名にもあるこの言葉は、それが何を指しているのかを明示しないまま2ページあまり論が展開していくから、それが指しているものが具体的にイメージされない人には、何を言っているかがわかりにくいはずだ。

 後半に入って、たとえばそれはPCだったりスマホ(ケータイ)を指しているらしいことがわかってくる。だから問題はスマホが普及したネット社会のことを言っているんだろうと見当はつく。

 だが文中で最初に「メディア」の例として挙がっているのは「そろばん・電卓・コンピューター」であり、「紙や電子媒体」であり、「文字や数字」だ。

 これらはどういう意味で「メディア」なのか?


 「メディア」という言葉を我々が日常で目にするのはこんな用例だ。

・ そのニュースは、あらゆるメディアで一斉に報じられた。

・広報として、各メディアにプレスリリースを送った。

・ 彼女は有名人として、頻繁にメディアに露出している。

・メディアの報道内容が、必ずしも真実であるとは限らない。

 この「メディア」に「そろばん」を代入することはできない。「そろばんに露出する」って何だ?


 ここではメディアという言葉がそもそもどのような概念であるかを確認しておく。

 メディアは「媒体」と訳されている。「媒介するもの」という意味だ。媒介されるものの多くは情報だ。マスメディアは情報源と大衆を媒介して情報を伝えるものだ。

 日常使用される「メディア」の大半がこのマスメディアのことなので、我々はつい「メディア」と聞くとテレビや本やインターネットを思い浮かべてしまう。

 だがそれでは「文字はメディアだ」というのが何のことなのかわからない。

 だがこの文中ではマスメディアも含む原義の・広義の「媒体」という意味で「メディア」という言葉を使っているのだと了解したうえで考えよう。


 「そろばん・電卓・コンピューター」がメディアというのはわかりにくい。これらは道具・ツールとでも呼ぶべきものではある。でもまあ計算しようとする人の意志、頭の働き、手の働きを計算結果に「媒介する」ものであるともいえる。


 「紙や電子媒体」は? そもそもそのまま「媒体」と言っている。

 こういう時は例を想起できるかどうが問われる。しかも、概念の層を揃えるのが肝心。

 「紙」は、そこに文字や図、絵などを書いて(描いて)情報を伝える(媒介する)ことができる。

 それに対応する「電子媒体」は?

 PCとかタブレットとかいうのは概念の層が揃っていない。

 メディアとしての紙には文字や図が書ける。電子媒体には電子情報が載せられる。となると…。

 古くはカセット・テープ、ビデオ・テープなどのテープ類。その後継としてのCDやDVDなどのディスク類。さらにはHDや、メモリスティックやSDカードなどのフラッシュメモリ類などが想起できればいい。


 では文字はどのような意味でメディアなのか?

 文字は人と人、過去と未来を媒介して、情報を伝えるものだから、確かに媒体だ。

 文中では文字と「数字」が並列されているが、これは的確な記述ではない。数字は文字の一種だから、「文字と数字」は「動物と犬」のような包含関係になっている。並列ではない。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?


 概念の「層」を揃えよう。「文字と数字」は層を混同している(大した問題ではないから荻上は看過しているが)。「数字」は、「数字以外の文字(漢字や平仮名、アルファベット)」と、同じ層に並ぶ。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?

 例えば話し合いの中であちこちで挙がっている「記号」も「文字」とは並列しない。文字は「記号」の一種だから、これも包含関係になってしまう。

記号>文字>数字

 「文字はメディアである」と言う場合、文字によって伝えられる情報とは言葉だ。人から人へ言葉を伝える手段として、文字と並んで日常的な場面で多用されるのは何か?


 そう考えれば自ずと想起されるのはだ。

 書いて伝えるか話して伝えるか。

 上の問いに、まず音声を想起できるできるかどうかは、「文字はメディアである」という命題を正しく把握できているかどうかの試金石となる。



視点を変える13 メディアがつくる身体2 スキーマとゲシュタルト

 ところで「メディアがつくる身体」は、「視点を変える」シリーズの流れで取り上げている。

 そうであることを納得するには、文型を揃えればいい。

 どんな文で表されるんだっけ?

視点が変わると世界観が変わる。

メディアが変わると身体観が変わる。

 どんなメディアを手にしているかで、世界の見え方は変わる。スマホが存在するのとしないとでは社会に対する振る舞い方は変わる。それは我々の世界観が変わることを意味する。


 さらに「視点を変える」シリーズということは、スキーマとゲシュタルトだ。何がスキーマ? ゲシュタルト?


 これも文型を揃えればいい。

スキーマがゲシュタルトをつくる。

メディアが社会的身体をつくる。

 題名がそのままそれを表している。

 つまりメディアによってつくられる「身体」がゲシュタルトだ。

 それはメディアのあり方に応じてそのあり方を変える。

スキーマが変わればゲシュタルトが変わる。

メディアが進歩すると身体イメージが変わる。

 次のような対応であることは以上のような文型の比較によって明らかだ。

視点=スキーマ=メディア

世界観=ゲシュタルト=社会的身体


 一方、「共に生きる」であるともいえる。

 どういうふうに言えばそうだと思えるか?


 例えば「共鳴し引き出される力」を思い出そう。

 能力というのは私一人が持っているものというより、周囲の人々との共鳴によって引き出されるものだった。

 同じように、この文章では、私の持っている能力は、メディアを使うことで、すなわち他人とのコミュニケーションによって形成されている。「社会的身体」とはそのような「能力」を持ったものだ。

 あるいは「ほんとうの〈わたし〉とは?」もいい。

 〈わたし〉とは完結した存在ではなく、他者とのつながりの中でさまざまな側面を持ったものとして存在している。そうした〈私〉を平野啓一郎は「分人」という概念で説明する。

 同様に、〈私〉は、メディアを介して世界・社会・他者とつながった存在だ。

 つまり「分人=社会的身体」なのだ。


視点を変える12 メディアがつくる身体1 一文要約

 「メディアがつくる身体」を読む。

 「鳥の眼と虫の眼」は「一文要約」や「問いを立てる」といったメソッドがまるで使えない文章だった。それでもう一つの常套手段「対比」をとっかかりとして文章を探ったのだが、それはそれで、だから簡単に読めるようになったとも言い難い。あれほど多様な対比が複雑に入り組んだ文章は珍しい。

 さて「メディアがつくる身体」はどうか。

 「鳥の眼と虫の眼」では歯が立たなかった「一文要約」は、こちらでは有効だ。

 一文で要約するというのは、その文章の主題材と結論を端的に、簡潔に組み合わせることを意味する。

 となると考えられる主語は何か?


 なんのことはない、候補となるのはまず「メディア」か「身体」だ。この安易な発想は有効だろうか?

 それぞれを主語とする一文を作ってみよう。

メディアは、その進歩にともなって人々の身体イメージを変える。

身体は人々が手にするメディアによって、そのあり方(機能・イメージ)を変える。

 ほとんど題名を文にしただけだが、確かにそういうことを言っている文章だ。

 試みにAIに依頼してみる。「メディア」「身体」以外の主語も考えるようにと条件を付けて、10個ずつ。


ChatGPT

1. メディアは、人々の欲望を拡張しながら社会的身体の在り方を組み替えていく存在である。

2. 社会的身体とは、メディアを通じて形成される学習された能力と期待の集合である。

3. 新しいメディアの登場は、生物的身体ではなく社会的に構築された身体像を変容させる契機となる。

4. 人々は、メディアによって外部化・拡張された能力を前提とする社会に適応して生きている。

5. 社会は、特定のメディアを使いこなす身体能力を人々に当然のものとして要求する。

6. メディアの利用は、一度社会に埋め込まれると後戻りできない約束として固定化される。

7. 身体の拡張とは、生物的進化ではなく振る舞いや期待や制度の変化として生じる現象である。

8. 現代の身体は、メディアによって機能を付加された象徴的な義体として存在している。

9. メディアをめぐる不安は、身体や精神が変えられるという想像を繰り返し呼び起こしてきた。

10. メディアが更新するものは、人々の行為だけでなく身体や世界に関するイメージそのものである。


Gemini

1. メディアは、人々の「社会的身体」を絶えず解体し構築する。

2. 社会的身体は、メディアを通じて獲得される文化的な身体イメージを指す。

3. 現代社会は、メディアによって拡張された身体能力を人々の前提とする。

4. 人間は、新しいメディアを使いこなすことで自らの身体機能を外部化していく。

5. 新しいメディアの登場は、社会が個人に期待する振る舞いや作法を変容させる。

6. 一度社会に埋め込まれたメディアの機能は、もはや容易に手放せない。

7. 私たちの身体は、メディアを伴うことで象徴的な「義体」へと進化する。

8. 社会制度の更新は、メディアによる身体能力の拡張を前提に進行する。

9. メディアの定着は、単なる欲望の充足にとどまらず新たな欲望を創出する。

10. 技術環境への適応は、私たちの世界観や社会観をその都度アップデートする。

 いやはや時間をかければこれくらいやれるだろうが、これを一瞬で出力してくるから敵わない。

 それぞれ、原文の微妙に違った断面を切り取って見せている。いちいち、うん、そういうこと言ってるよなあ、と思う。


 授業では「二文要約」を課したが、上記のAI要約のどれか二つを、なるべく内容の重複を避けて取りあげればよさそうだ。


 さて「対比」はどうか。

 主要な対比が「生物的身体/社会的身体」であることはすぐわかる。しかも「ではなく」型の対比だ。ということは「社会的身体」がどういうものかを把握することが求められているわけだ。

 それを説明するために、文中から関連する言葉をあれこれと挙げた。

 イメージ・観念・機能・能力・振る舞い…(「予期の織物」「象徴的な義体」も挙がるが、この二つは集中的に考えたい表現なので後述する。)

 これらをすべて使って説明する。

 「生物的身体」が血や肉や骨でできた物理的(生物的と言いながら)であるのに対し、「社会的身体」は「観念」的に「イメージ」されたものだ。それは、どういうはたらきをするか(機能)、何ができるか(能力)、どのように振る舞うかによって把握(イメージ)される。

 そしてそれはメディアによって社会に接続し、コミュニケーションによって形成される。


2026年1月17日土曜日

視点を変える10 鳥の眼と虫の眼2 対比

 評論を読むためのメソッドとして今まで意識して実践したのは、例えば「一文要約」「問いを立てる」だった。

 一文要約は、その文章の最も重要なエッセンスを単文で表現しようとすることで、論理を把握することに頭を使うテクニックだ。一文にしておくと取り回しが楽なので、それを「使う」にも便利だ。

 単文とは主語述語の組み合わせが一つであるような文のこと(重文や複文は二つ以上ある)。

 その単文における「主語」とはその文章の主題・モチーフであり、「述語」は結論だ。その文章は「何が―どうだ」と言っているのかを簡潔に表現する。そうしようとすることで頭を整理する。

 「問いを立てる」は、その結論が、どのような問題意識から導かれたものかを明らかにしようというものだ。「どうだ」という結論だけを言われても、だから何? という印象にしかならない場合もある。その時、「問い」が何であるかを考えることで、筆者の思考をたどることができる。


 さてこれらのメソッドを使ってみよう、と考えると、それが「鳥の眼と虫の眼」にはまるで使えないことがわかる。

 何を主語として取り立てるべきかも、述語が何かも、まるで見当がつかない。

 終わりの一文「つつましい便りを送ることができたらと願う」が何のことを言っているのか、まるでわからないのだ。これが結論かどうかもわからない。その前あたりの終盤も、どこかを結論として認定できそうな感触がない。

 同様に主語にすべき何事もわからない。「主語にすべき」とは、文中で明示されているか、結論から遡って設定されるかだが、それらしきものが明示もされていないし、結論もわからないから、取り上げようもない。

 そして結論がわからないから「問いを立てる」こともできない。


 ではどうするか。ここはもう一つ、ここまで最も頻繁に実践してきたメソッドを想起しなくてはならない。

 そう「対比」だ。


 ところが考え始めるとすぐに一筋縄ではいかないことがわかってくる。

 例えば題名から「鳥の眼/虫の眼」という対比がありそうだと見当はつくが、これが文中で登場するのは半ば過ぎだ。

 まずはサン・テクジュペリ「人間の土地」から次の対比が挙がる。

主人公/不帰順族・モール人

 その次は「大草原の~」から次の対比。

白人/黒人・先住民

 「オリエンタリズム」からは「西洋/東洋」の対比が挙げられる。「東洋」とは西洋から見た「東」という意味だから、アジアだけでなく中近東を含む地域・文化圏を指している。

西洋/東洋

 このうち

白人/黒人・先住民

西洋/東洋

は同じ軸上にあると言っていい。だがこれは最初の「主人公/」と同じではない。

 3ページ目に次の対比がある。

主人公/異端者

 「主人公/不帰順族」の対比は、これと同じともいえるが、「西洋/東洋」の対比と同じともいえる。だが、「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比はまるで違った対比だ。

 なぜ?


 「白人/黒人」と「西洋/東洋」が同じ対比軸だと言えるのは、両者を並べたときに、左右は対応していて、それを入れ替えることはできないからだ。

 だが「主人公/異端者」と「西洋/東洋」は左右を入れ替えて対応させることもできる。「主人公」は「西洋」でも「東洋」でも、時によってどちらにも対応しうる。

 「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比がどう違うかを端的に表現するのは難しい。がこういうときにこそ分析力や表現力を総動員した国語力が問われる。

 たとえばこんなふう。

「主人公/異端者」は視点の違いを示す主観の対比

「西洋/東洋」は対象の対立を示す客観的な対比

 最初の「主人公/不帰順族」の対比は、二つの対比が複合している。


 「大草原の~」からは次の対比も抽出できる。

子ども/大人

 だがこの「子ども/大人」は文中では二つの例を指している。

子どもの頃の松村さん/大人になってからの松村さん

ローラ/父親

 この二つの対比は、同じではない。

 なおかつ、これは上の対比のどれとも同じではない。


 一つの軸上に並んでいるわけではないいくつもの対比が次々と登場する。

 例えば次の二つの対比はどうか。

主人公/異端者

 英雄/普通の人

 これらはまたしても同一軸上には並べられない。

 「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人」は対応しそうな気配はない。

 例えば次の一節を参照してみよう。

その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。

 「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。


 後半、「近年の人類学」に話題が及ぶとようやく「鳥の眼/虫の眼」が登場する。

 その直前に、「征服者/訪問者」という対比も文中から見つかる。

 これはなかなかに解釈の難しい対比だ。

 英雄/普通の人

征服者/訪問者

 は並べられそうな感触がある。が「普通の人」と「訪問者」は対応しそうだが「英雄」と「征服者」には反対の印象がある。いや、共通性が見出せないこともないのだが。「反対」と見なすには共通の土俵が必要でもある。

 また「白人/黒人」と並べてみると、「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。では「黒人」は「訪問者」なのか?

 そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アメリカ人である白人のアリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。

 これは対比の軸が違っているということだ。


 対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。ここまでに挙げたいくつもの対比のうち、これにあてはまるのは「征服者/訪問者」だけだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。

 では「征服者」とは誰か?

 「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。

空からの視線は支配者の視線に通じる

 「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。

 それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。

 だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。

 「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっと、ある意味で正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味で」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。

 そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているようには思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。

だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。

 ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?


 明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。

 二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?

 二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?


 なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。

 あとは各自、小論文執筆、健闘を期待します。


視点を変える9 鳥の眼と虫の眼1 木を見る

 文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(小説・随筆)の方がはるかに難しい。

 この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、所々急に話題が跳んで、論理を追うのは難しい。すっきりと読み下せない。


 この文章が「視点を変える」シリーズなのだということは見当がつく。

 題名の「鳥の眼と虫の眼」がそもそも「木を見る、森を見る」みたいだな、という印象がある。

 どう対応する?


 「木を見る」は近づいて見ることを意味し、これが「虫の眼」に対応するのだろう。「森を見る」は離れて全体を見ることだから「鳥の眼」がそれに対応しそうだ。

 その上で「木を見る、森を見る」は「視点を変えると違う見え方がする」ことを語った文章だった。メッセージ風に言うと「いろんな視点からものを見よう」。

 「鳥の眼と虫の眼」はどうか?


 この文章も「視点を変える」というモチーフを共有していそうだと感じられるのは、例えば次のような一節を見ても明らかだ。

同じ風景が広がっているのに光の色が異なっているような

図像を反転させるように別の見方を取る

異なる光の下で別様に見えてくる

 もっとはっきり「視点が変わる」という表現も出てくる。

違う光の下で景色を見るように、こうした場面に昔は気づかなかった何かを感じ取ってしまうのは、自分の視点が変わったせいだろう。

 違う視点から石井さんに見えてきたのはどんな景色なのか?


 この文章の「森」の姿は、最後に各自でスケッチしてもらうことにする。600字の小論文として。

 授業では「木を見る」ことから始める。


 新年早々、贅沢な時間の使い方をする。「わからないところ」を出し合い、答え合う。

 わからないことがないのなら教わる必要もないのだから、「わからないないところ」があるかないかを確かめずに行われる授業というのはナンセンスだ。だから本当は、授業(教授)は、学ぶべき事柄を提示した上で(テキストなどを読ませて)、どこがわからない? とまず訊くべきだ。というより学習者自身が、そのテキスト情報だけではわからないことを教授者に問いかけるべきだ。

 実際にはそうした一対一対応をすることが時間的にも人的にも不可能だから、一斉に「授業」という形態で教授が行われる。それだけでなく、そもそも学習者は何を「わかる」べきか、どうなら「わかった」と言えるのかを判断できないから、教授者が「教える」べきことを判断して「教える」ことの有効性にも一理はある。

 だがそうして行われる「授業」が、実際は自分で「わかる」べき学習者を怠惰にしていたり、学習者自身が読めば「わかる」ことを、授業者が説明している無意味な展開に陥っていることはよくあることだ。特に国語の、特に現代文分野では。

 だから、やむをえず上のように行われる「授業」とともに、学習者の側も常に「わからない」ことを問いかけようとする必要がある。


 新年に始まったNHKのドラマ「テミスの不確かな法廷」の主人公である松山ケンイチ演ずる判事は、「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません」と繰り返し言う。

 そう、真実に迫るには、「わからないこと」を明らかにしようとする姿勢が必要だ。「わかったこと」は「わかっていないこと」との対比によって輪郭づけられる。

 そこで、「何がわからないかがわからない」と言いたくなるのは人情だが、そう言わず、粘り強く自分の中の「わからない」が何なのかを見つめる。その「わからなさ」が適切な問いになった時には、半ば以上その問いは解けている。

 ただし「全体として何を言っているか?」は今回はナシ。それは「森」の問題でもあり、思考停止でもある。「全体=森」は自分で考えることを課題にする。

 授業では「木」の姿を明瞭にすることをめざす。


 だがやはり、何がわからないかがわからない、文章ではある。それでも、二人で一緒に「わからない」ことに安住して思考停止していないで、何かを投げかけてみれば、隣の人は、授業者は、何らかの反応をする。それらは思考を前に進めるために有益な情報のはずだ。


 いくつものクラスで、サン・テクジュペリが遊牧民に救われるエピソードの近辺が質問される。確かにこのあたりはなんだか「わからない」。問いも、何を問うべきか、はっきりしない。

 ただ、解釈を阻む要因として次の一節の読みにくさが問題ではある。

遊牧民はあくまで無言だ。それでもは、遭難した者たちに水を与えるという行為を通して、〈人間〉の顔を受け取っている。

 この「彼」とは誰か?


 これが問いとして発想されたりはすまい。それぞれの読者は、”どちらか”を代入して、そうでない候補の可能性を考えたりはしない。だからほぼ半分の人はこれを誤解している。そしてそのまま無理矢理解釈しようとしている。

 この誤解の可能性に、例えば話し合いの中で気づくかというとそれも難しい。いや、気づいてほしい。何か話が食い違うぞ、と思って、「彼」が指すものが違っているのだと気づいてほしい。

 だがそれはなかなか難しいことだ。相手の話を注意深く聞いて、自分の考えとすり合わせる、真摯な姿勢が必要だ。

 ではこの問いがどうして発想されたかと言えば、授業者自身の読解過程での誤解からだ。そう、「彼」が指す対象を誤解していたことに、しばらく考えてからわかったのだった。

 「彼」とは遊牧民か? サン・テクジュペリか?


 意見はほぼ半分ずつに分かれた。

 候補を二つ並べてさあどちらが適切か、と考えたら、結論は早急に統一されるにちがいないと思っていたのだが、いやはや簡単には決着しなかったのは、問題でもあり、面白くもある。”正しくない”方を代入しても、それはそれで解釈できてしまうのだ。

 考える手がかりは、「彼は」の述語が「人間の顔を受け取っている」であることと、「それでも」に含まれる逆接の論理をたどることだ。

 「彼」を「遊牧民」だと思ってしまうのはごく自然なことだ。「彼」という代名詞で代替される対象は近いところで候補が探される。そして「彼は」の直後の「遭難した者たちに水を与える」が明らかに「遊牧民」の行為なのだから。

 にもかかわらず、ここはサン・テクジュペリを指していると読むのが正しい。そう考えてこそ、「それでも」の逆接も「受け取る」の述語もしっくりとはまる。

 こういう誤解がほぼ半分(以上?)の読者に生ずるのは石井美保のミスだとも言えるが、読者の不注意でもある。広い視野で、やや長い文脈を読む必要あるのだ。


 「遊牧民は無言」なのだから、サンがそこから何かを(言葉を)受け取ることはできないはずなのに、でも「受け取っている」、という逆接の論理が「それでも」で示されていると読むのがしっくりいく。

 ここから、前の段落の「ただそれでも」に注目するのも有効だと気づいた。

ただそれでも、その物語から失われない人間性というものが、もしありうるのだとしたら。

 まずこの文末が不自然ではある。倒置法の可能性も考えてはみるが、それらしい候補がないので、これは省略なのだと考えよう。何が続く?


 いたずらに難しく考える者が意外と多くて困ったものだが、「~としたら」には「それはどういうものなのか?」あたりが続くのだろうということは自然にわかるはずだ。さらに読解が進めば「それはどういう状況で・条件であるのか?」くらいの疑問を隠しているのだと考えることはできる。

 さてこれが「それでも」の後にくるのだから、前には、それと逆の方向性があったと考えられる。となると、文章の論理展開は次のようになっているのだと考えられる。

失われそう

 それでも↓逆接

失われない人間性はあるのか

ある

 最後の「ある」の部分が上述の遊牧民のエピソードで示されているのだと考えられる。

 そして論理的に推測される「失われそう」だという方向は、その前の「人間の土地」「大草原の~」「オリエンタリズム」によって示されている。そう読むことができるだろうか? それらのエピソードがいずれも、幼い頃に疑問も持たずにいた「人間性」に対する信頼がグラつきそうなことを示すエピソードだと。


 この大きな論の展開を捉えるだけで、全体に対する見通しはかなりすっきりする。

 それでも「あるのか?」以降の展開はなお手強い。


2026年1月9日金曜日

羅生門 補遺 ペリシテ人のモラル

 いくつかのクラスで触れたが、その余裕のなかったクラスもあったので、ここに書き留める。

 芥川本人が「羅生門」について書き残したメモが見つかったのは30年ほど前で、公開されたのは今世紀に入ってからなので、これに基づく「羅生門」解釈はまだあまり一般的ではない。

 Teamsにはアップしてあり、論考を提出する気のある人は目を通すことを勧めたのだが、読んでいる人は少数らしい。

 原文は英語で書かれた「Defence for “Rasho-mon”」。以下はその一節を和訳したもの。


「羅生門」への弁明

「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。

 芥川は「羅生門」の主題を「moral」だと言う。

 なるほどそうだと、素直にのみこめるだろうか?


 「エゴイズム」がスキーマであるように、「moral=道徳」もやはりスキーマだ。だから「モラル」という言葉を使って、ある「羅生門」理解=ゲシュタルトを顕現させることはできる。

 これを「エゴイズム」というスキーマによるゲシュタルトと一致させてみよう。

 「モラル」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。

 通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。だから「生きるためのエゴイズム」が許容されるということは、「道徳」が否定されるということだ。

 これは一体何のことを言っているのか?


 そもそも「エゴイズム」とは何のことか?

 言うまでもなく引剥ぎのことだ。引剥ぎという行為の根拠となる論理のことだ。己の必要の為に他人の物を奪う原理だ。

 では「モラル」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?


 この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。「引剥ぎ」は上の通り「エゴイズム」に対応している。

 では、というと老婆に対する「憎悪」が挙がる。いやそれより前に挙げるべきことがあるはずだ。

 まず物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うのが「モラル」だと考えるべきだ。

 悪を為さないことで飢え死にの可能性があるのに迷っているのは「モラル」があるからだ。死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理はその延長にある。

 なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?


 芥川のメモは、一度「モラル」と書いてから「少なくとも“philistine=ペリシテ人のモラル”は」と言い直している。「ペリシテ人」とは「教養のない俗物」を指す慣用表現だ。「知識人」が一般大衆を見下すときにつかう形容だ。

 芥川は、世間の人が口にする「モラル」を皮肉って、「俗物の道徳」と呼ぶ。

 「俗物の道徳」がどうだというのか?


 「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。

 だからフラフラと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど浮薄なものだ。

 「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を下人の行為を通して表わしているのだ、と理解することができる。

 これは「エゴイズム」を主題とする「羅生門」把握と一致する。

 本来であれば悪であるはずの「エゴイズム」が、生きるためなら正当化されるというのなら、それを断罪するはずの「モラル」など、上記のように脆弱なものだという認識と一致する。


 さてでは「エゴイズム」をスキーマとする「羅生門」解釈ではなく、「観念」をスキーマとする「羅生門」読解と「モラル」というスキーマによる読解は一致するのだろうか?


 「羅生門」とは、空疎な観念による幻想から醒めて現実を認識する話、だ。

 つまり「ペリシテ人のモラル」、つまり世人の「モラル」こそ、空疎な観念の上に載っている脆い物だと言っていることになる。

 「モラル」とは「善」と「悪」をめぐる価値の対立だ。だが人々の言う「モラル」など、頭の中にある図式に過ぎず、それが現実ではなく空疎な観念でしかないから「時々の情動や気分」に容易く左右される。

 例えば下人の心に突如燃え上がる異様な「憎悪」はモラルの表れだが、その歪なありようを通して、我々の持っているモラルの歪さを描く。

 そのようなモラルが「観念的」だということが自覚されることで、盗人になることを止める力を失ったということが、結末の引剥ぎの実行で表現されている。


 ということで「観念」をスキーマとする「羅生門」理解は、そのまま「モラル」をスキーマとする「羅生門」理解に適用できる。

 「モラル」は「極限状況」と「老婆の論理」に敗れたのではなく、その観念的な脆弱さによって否定されたのだ。


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