2025年3月4日火曜日

舞姫 32 比較読解「こころ」6 無作意の悲劇

 さて、先ほどのEの対応から見えてくる物語把握として、「不作為による悲劇」という表現を提示したが、さらに②の役割に照明を当てて、もう一つ「無作為による悲劇」という表現を提示したい。

 なんのことか?


 ここには、「奥さん―相沢」という対応から導かれる、さらにもうちょっと興味深い考察の可能性がある。

 「不作為」は「私」と豊太郎が、重要な事実や意志を「言わなかった」ことを指している。そして主人公を「不作為」に追いやるのは、主人公達の弱さのみならず、奥さんと相沢の「無作為」の介入だ。

 なんのことか?

 「私」と豊太郎は、「不作為=言わない」ことを選択したわけではなく、常にどうしようどうしようと先送りしていただけだ。豊太郎は「帰ってエリスに何と言おう」と思って帰り着いた途端、意識を失って、気づいたときにはエリスは廃人となっている。「私」が、とりあえず明日どうするか決めようと思った夜にKが死んでしまう。

 そして主人公が明かさなければならないと思っていた秘密を、③の二人に告げてしまうのが奥さんと相沢の行為は、殊更に「作為」のあるようなものではない(ように見える)。

 二人は、③のKとエリスがそのことを既に知っていると思っているからだ。

 二人は相手が当然知っているはずという前提で、その事実を告げる。つまり二人の行為は「無作為」であるはずだ。二つの物語は、②の「無作為」の介入によって①が「不作為」になるほかない事態によって③の陥る悲劇を描いているのだと言える。

 そうしてみると、奥さんと相沢はギリシャ悲劇における「不条理な運命」の象徴のようだとも言える。悲劇はある時に突然訪れ、そのことは、それが起こってしまった後で人はもう取り返しがつかない結末を知るしかない。そこには人為的なはたらきはない。

 「無作為の悲劇」とはそのような様相を捉えた表現だ。


 だが、近代小説としての仕掛けはそれだけにとどまらない裏読みの可能性をほのめかしている。

 奥さんと相沢の介入は本当に「無作為」なのだろうか?


 無作為というのは、②(奥さんと相沢)が③(Kとエリス)に告げたことについて、③がまだ知らないということを②が知らない(③は既に知っていると②は思っている)ことを意味している。

 だがそうか?

 奥さんについては、明らかにそうではない。「私」がまだ婚約成立のことをKに話していないことを、奥さんはほとんど確信しているはずだ。自分がそのことをKに話したときのことを「道理で変な顔をしていた」と言っているのだから。「道理で」というのは、Kにとってそれが初耳であることを充分に予想していたことが示されている。

 もちろんこの推論には別の論理も成立しうる。奥さんはKの反応を意外に思い、まだ聞いていなかったということなのだろうかと解釈し、それを「私」に確かめたところ確かに「私」がまだ話していないことを確認して「道理で」と言ったのだ。「道理で」は、事前の推測が当たっていたこととともに、事後の推測が当たっていたことをも意味しうる。

 だがおそらく事態は前者のはずだ。Kがまだ知らないはずだという奥さんの推測は、婚約成立以降の夕飯での「私」の態度から生じている。

 めでたく婚約は成立したが「私」はなかなかこの事実をこの共同体の中で公認のものとしない。こうした状態に対して〈奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟する〉。つまり婚約の件を早くKに話すよう促しているのだ。

 だがその話題は一向に夕飯の席にのらない。奥さんは、いかなる理由によってか、「私」がそのことをKに言わないでいるらしいことを充分察している。

 その上で、「私」が友人であるKに話すのは当然であるという建前から、自分の暴露が「無作為」であったふうを装って「私」に対している。

 一方相沢についても、豊太郎がエリスに帰国のことを話せないでいることは察していたと考える方が自然だ。相沢は、豊太郎とエリスの関係がまだ続いていたことを知っている。人事不省の豊太郎を見舞うためにエリスの家を訪れることができるのだから。

 そして、豊太郎がエリスに帰国の意志、またそのことについての大臣との口約束を伝えていないことは、あるいは長い付き合いである豊太郎の性格から、あるいは訪問した際のエリスの態度から、充分察せられただろうことは想像に難くない。

 にもかかわらず、相沢は「既に話は豊太郎からきいているはずだが」という前置きとともに、もはや既定事実として豊太郎の帰国をエリスに伝えたに違いない。そうした態度をとることによって豊太郎とエリスの破局を決定的なものにしたいのだから。


 二人はなぜ「無作為」に見える暴露をするのか?

 そこにはおそらく二人の利己的な動機がある。

 奥さん=母親からしてみると、娘の結婚相手は、実家から離縁されて金のないKより遺産を相続して金に困らない「私」の方が良いに違いない。娘もそのつもりであることはとうに確認済みだ。

 なのに婚約の事実は一向に公認の話題とならない。奥さんは不安を抱いている。そもそも下宿にKを招くことにも反対したのは、娘に対して男が二人というのがトラブルを引き起こす可能性について懸念したからだ。奥さんの暴露は、不安の解消のためでもある。何やらためらっている「私」を出し抜いて、Kに婚約のことを告げてしまう奥さんに、どうやらこちらも娘に気があるらしいKへの牽制として、婚約を公然のものとすることで事態を安定化しようという意図があったのだと読むことは充分可能である。

 だが娘の相手にふさわしいのはどちらかという選択に、経済的な事情が考慮されていると考えるのは無理なことではない。

 それをことさらに「利己的」などと言って奥さんを糾弾する必要はないが、少なくとも、奥さんが自分に都合の良いように、かつ自らの責任を追及されるおそれのないようにふるまっていたと考えることは十分に可能だ。

 一方、相沢にとって豊太郎は友人ではあるが、日本に連れて帰れば、自分にとって「使える」人材になることは間違いない。語学に優れ、ドイツの事情に通じ、なおかつ一旦は官職を罷免された身として、その後、仕事の世話や帰国にあたって便宜を図った自分に恩を感じるべき立場にいる豊太郎は、相沢のその先の日本での活動にとって、便利な存在になるはずである。

 とすれば、病気に言寄せて豊太郎を見舞った折に、状況を把握するとともに事態をのっぴきならない方向に向かって押し遣った相沢に利己的な動機があったのではないかと考えることは十分できる。

 この推測は、「舞姫」末尾の一文の解釈にも新しい光を投げかける。末尾に記された「彼(相沢)を憎む心」は、読者にとっては不可解だ。自らを罪人と認めていた豊太郎が、なぜ最後に唐突に相沢を憎む心情を吐露するのか。

 それは相沢の隠れた利己的動機について、豊太郎が気づいていたことの表れではないかと考えるのは穿ち過ぎだろうか。


 二人の行為はその「無作為」に疑いの余地がある。「無作為」に見えるような巧妙な隠蔽を図る「作為」のあったという疑いが。

 二つの物語はそう読むことが可能な、近代小説としての深みを備えている。


舞姫 31 比較読解「こころ」5 不作為の悲劇

  さてここまでは考えるための準備運動だ。本当に検討したいのは、次のEの対応である。比較のために前回のDの対応も再掲する。


 ①先生 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③ K ―エリス


 ①先生 ―豊太郎

 ②奥さん―相沢

 ③ K ―エリス


 Eの対応はどのような作品把握を表しているか。

 ①と③はDと同じ。①の語り手と③の悲劇の犠牲者が同じであることから、これもまた物語の骨格を捉えうる十分な必然性がある。

 ところが②の相沢に対応する人物が「お嬢さん」から「奥さん」に変わることで、物語の把握はまるで違ったものになる。

 「お嬢さん―相沢」という対応を想定するDの把握を〈選択による悲劇(選択されなかった者の悲劇・排除される者の悲劇)〉とでも名付けるとすると、「奥さん―相沢」という対応を想定するEの把握はどのように捉えられるだろうか。「~による悲劇」という形にあてはまるように表現してみよう。

 みんなからは「すれ違いによる悲劇」「コミュニケーション不全による悲劇」などの表現が挙がった。

 悪くない。前回の考察によれば、二つの物語の悲劇はそのように表現していい。

 だがこれだけでは②の役割の共通性が不明確だ。


 ここからは少々もってまわった迂回路をたどった。

 「さくい」という言葉を漢字にしてみよう。ただちに「作為」が想起されれば良いが、「さくい」というのは「わざわざする=意図する」ことだから「作意」という漢字が想起されてもいい。実際に「作意」という言葉はある。「作品の創作意図」という意味だが、辞書には「たくらみ」ともあるから、これは随分「作為」に近い。

 次に「さくい的」と書くのは? と訊いた。

 これは「作為的」しかない。

 さてこの「作為」に否定の接頭辞を付す。

 ただちに想起されるのは「無作為」だが、「不作為」という言葉もある。

 この二つの言葉はそれぞれどういう意味か? 辞書を引かずにこの二つの言葉の違いを言い分けてみよう。

 …というところまで話が及んだら、G組で突如異様な反応が起こり、何事かと聞くと、日本史で話題になった言葉なのだそうだ。「想像の共同体」といい、今年は妙に日本史とシンクロする。

 話題になったのは「不作為」の方だという。「無作為」に比べ、「不作為」という言葉が使われる機会は少ない。だからこそ、わざわざ授業で紹介されたのだろう。

 「不作為」とは、すべき行為をしないことを意味し、法律用語として使われることが多い。そのままでは死ぬかも知れない怪我人・病人を放置して死に至らしめたら、その可能性の認識によって「未必の故意」を認定されれば「不作為犯」として罪に問われる可能性がある。作為について責任が明確な場合は直ちに不作為犯が成立するから、育児放棄=ネグレクトによる乳幼児の死亡は直ちに罪の問われる。

 授業で取り上げられたのは、公害やいじめ、その他の社会問題で、これらは、みんなが知っているのに、誰もそのことを言わずにいるから解決に向かわずに事態の悪化を招く。それを「不作為の問題」というのだそうだ。


 さて、授業者がこの言葉をとりあげたいのは、「こころ」と「舞姫」、二つの物語を「不作為による悲劇」と表現しようと思ったからだ。

 Kとエリスの悲劇は、「私」と豊太郎の、〈選択〉という〈作為〉によって生じたものではなく、むしろ〈選択〉しなかった〈不作為〉によって生じている。その〈不作為〉とは、具体的には両者が「言わない」ということだ。

 この〈不作為〉こそ、二つの物語の悲劇の決定的な引き金になっている。「私」が言っていればKは死なず、豊太郎が話していればエリスは発狂していない。

 そして①主人公が〈作為〉に至る前にその可能性を断ち切ってしまう役割を担うという点で②の奥さんと相沢が対応する。


 もし「私」がKに、自分もお嬢さんが好きなのだと言っていれば、あるいはお嬢さんとの婚約について、その経緯もふくめて告白していればどうなったか?

 Kがなぜ自殺をしたかという問題は、簡単に説明することが難しいのでここでは詳述しない。

 端的に言って、Kはお嬢さんを失ったり、それが友人に奪われてしまったりしたから「淋しくって仕方がなくなった」のではなく、意思疎通の断絶による孤独を自覚したときに、〈覚悟〉していた自己処決を実行に移すのである。

 とすれば、「私」がKに自らの行為を告白することは、裏切りに対する謝罪という意味合いにおいてではなく、Kを独りにしないという意味で、この悲劇を回避する決定的な手段であったはずなのだ。

 つまり「私」は、「裏切り」によってではなく、自らの心の裡を語らなかったことによって、Kを死に追いやったのだ。


 一方「舞姫」では、確かに豊太郎は、エリスとの生活と帰国を選択肢として意識している。だが、そうした選択肢に対して自らどちらかを選ぶという決断をすることはない。豊太郎はただ目の前にいる者に恭順しているだけだ。

 だから、決定的な悲劇の起こる直前にエリスに対して事の次第を問い質されていれば、エリスの涙や懇願や恨み言を前にして、豊太郎があくまで帰国を選び通すことはできまい。

 あるいは仮に、万が一、豊太郎が帰国を選んだとしても、それを直接エリスに告げていれば、実は発狂という最悪の事態は避けられたはずだ。エリスが叫んだ「わが豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」には、ただ豊太郎に選択されなかった悲しみよりも、それを自分に黙っていた豊太郎の裏切りこそが衝撃であったことが示されている。豊太郎の告白があれば、二人の話し合いは言わば、ありきたりな愁嘆場、健全な痴話喧嘩とでもいったやりとりになって、最悪の悲劇には至らなかっただろうと想像される。

 とすれば、ここでもやはり選択という〈作為〉ではなく、自分自身で選択をしなかった(言わなかった)という〈不作為〉こそが悲劇を招いているのである。


 「舞姫」の結末は、前に述べたとおり、発狂したエリスを置いて帰国するという、ある意味でバランスを欠いた奇妙な悲劇に終わる。このような展開にする必然性が読者にはわからない。小説が全体として豊太郎という人物の非倫理的な行為を道徳的に批難しているようには見えないからだ。

 だが上のように考えると、エリスの発狂は豊太郎を日本に帰すことを結末とする限り、やむをえない展開だったと言える。豊太郎には主体的な選択がなく、その帰郷をめぐって相沢とエリスが対立した場合、豊太郎に対する執着において、相沢がエリスに勝るとは思えない。

 鷗外には豊太郎をこのような性格の人物に設定し、かつ日本に帰す結末を描く必然性があった(事実鷗外が帰国しているのだから)。そのように物語を描くには、エリスを発狂させるしかなかったのだ。


舞姫 30 比較読解「こころ」4 ≠選択の悲劇

 「こころ」と「舞姫」において、確かに主人公の二人はある選択の前に葛藤している。そして悲劇的な結末に心を痛め、罪悪感と後悔に苛まれる。

 にもかかわらずこれらの物語を、主人公のエゴによる選択の悲劇として捉えることは不適切だと言える。なぜか?


 「舞姫」におけるエリスの発狂は、エリスの主観からすれば、選択されなかった絶望であるとも言えるのだが、物語の展開としてはむしろ、エリスは発狂したから選択されなかったのだと言える。豊太郎はその時、選択しなかった。意識を失っていたのだ。

 エリスと相沢の邂逅に豊太郎が立ち会って、その場で二人が選択を迫ったら、と考えるのは恐ろしい仮定だ。読者は、豊太郎がエリスを棄てる言明をする想像ができない。エリスが面と向かって豊太郎の非を責めるならば、豊太郎がそれに抗い続けることはできないだろう。お腹に赤ん坊がいればなおさらだ。

 つまり「舞姫」における悲劇は単に、豊太郎の〈エゴイズムによる選択〉によるものではないのだ。


 一方「こころ」についてはどうか。

 K自身にとっての自殺の動機は、エリスの発狂とはまるで性質を異にする。Kは選択の敗者になったから自殺したのではない。Kはあくまで自分の問題として自己処決を実行している。「私」がそのことを理解していないだけだ。

 さらに「私」が選択しようとしているのはKかお嬢さんかではない。

 通常はこの選択肢は「友情/愛情」の対立として捉えられる。さらに気が利いていると「倫理観/エゴイズム」などとも言われる。

 だが実際に小説を読んでみると、「私」がKとお嬢さんを選択の秤にかける逡巡を具体的に指摘できる箇所は、本文中からは見つからない。

 「私」は一度としてKを選ぶかどうかに迷ったりはしていない。「愛情と友情の選択」などという物語把握がそもそも錯覚なのだ。

 では「私」はどのような選択の前で葛藤しているか?


 物語の進行につれて葛藤の様相は変化する。下宿に住み始めてから。Kが居候を始めてから。またKが恋心を自白してから。また奥さんに談判をした後。談判の結果をKが知った後。Kが自殺した後。

 それぞれの局面を詳細に分析するのも興味深いのだが、ここでは割愛するとして、すべての状況下に共通する葛藤は何か?


 「こころ」において「私」が葛藤するのは「言うか言わないか」という選択だ。それぞれの局面では「私」は言おう、言わねばならないと思い続け、だがその実行を先送りする。全編に渡ってそうした葛藤が続く。

 この葛藤が、巷間「友情か愛情か」という選択と同一視されてしまう。隠し立てをせずに「言う」ことが「友情」、策略から「言わない」ことが「愛情」を選択しているかのように誤解される。あるいは正直に「言う」「倫理」と、利己的動機から「言わない」「エゴイズム」が綱引きしているかのように。

 だがちょっと考えればそうでないことはすぐにわかるはずだ。

 「私」が「言わない」のは自己保身と戦況を有利に運ぼうとする計算によるものだから、それをエゴイズムと呼んでもいいのだが、一方の「言う」べき動機は倫理観によるものではない。実はそれもまた別の利害に基づいたエゴイズムなのだ。

 言わねばならないとしたら、それは友情のためではなく「公明正大」であるという対面を保つためだ。また「私」が最後まで言えないのは友情を選ばなかったということではなく、言うことによる戦況の悪化を怖れ、世間体が傷つくことを怖れたからだ。

 いずれにせよ「愛情」を得る上でどちらが有利かを考えて、その選択に迷っていただけであり、「友情/愛情」=「K/お嬢さん」は最初から選択の天秤に載ってはいない。


 「こころ」と「舞姫」を選択による悲劇と捉えることは間違っている。

 では二つの物語の悲劇はどのようにして起こったのか?


舞姫 29 比較読解「こころ」3 選択の悲劇

 「舞姫」と「こころ」の人物を対応させることによって考察したいのは、実はこれから提示する二つの対応DEがどのような物語把握を意味しているかという問題だ。ここまではその準備運動ともいえる。

 ① K ―豊太郎

 ②先生 ―相沢

 ③お嬢さん―エリス

 ①お嬢さん―豊太郎

 ②先生 ―相沢

 ③ K ―エリス

 BCは、登場人物たちの関係の、あるいは物語中でのふるまいの、ある一面を捉えてはいるが、物語の核心部分を捉えているとは言い難い。それに比べて、次に示すDは二つの物語を全体として捉えた構造を示しうる。

 ①先生 ―豊太郎

 ②お嬢さん―相沢

 ③ K ―エリス

 二つの物語を全体として捉えるには、BよりもCが、さらにDの対応が適切だ。

 なぜか? どこが問題なのか?


 重要なのはCDにおける③「K―エリス」の対応だ。なぜか?

 二つの物語がどんな物語なのかを表現しようとすれば、それは必然的に③の身に起こる悲劇へと収斂することになる。

 だから、それを表現することのできないBよりもCDの方が、物語全体を表現することができる。

 さらにDでは?

 ①の対応も重要だ。①は物語の主人公であり、一人称小説の語り手として、登場人物の中でも特権的な位置にある。その二人を対応させることによって、物語を全体として表現できる可能性は高まる。

 ではなぜ②お嬢さんと相沢が対照されるのか?

 二つの物語はどのように表現されるのか?


 「①と③の間に②が介入することで、その関係が悪化する」などということは可能だ。お嬢さんと相沢はそのような存在として対応している。

 だがこのような言い方ではまだABCの対応によって表現される物語把握とそれほどかわらない。

 Dの把握は、主人公の行為と、その結果としての悲劇を表現しうる点でABCよりも優位だったはずだ。それを表現してみよう。

①が②と③の選択に迷い、②を選んだから、③が死ぬ。

 「こころ」において、先生はKに対する友情と、お嬢さんに対する愛情という選択に悩み、最終的にお嬢さんを選んだために、Kを死に追いやる。

 一方「舞姫」において、豊太郎はエリスとの愛と、相沢に象徴される故郷や栄達との選択に悩み、最終的に後者を選んだためにエリスを狂気に追い込む。

 ① 私 ―豊太郎(エゴイズムによる選択)

 ②お嬢さん―相沢(選択する価値の象徴)

    ↑

   主人公による選択

    ↓

 ③ K ―エリス(選択されなった悲劇)

 一般的には「こころ」は友情と愛情の選択の物語として、「舞姫」は愛情と栄達の選択の物語として紹介される。世間的には、二つの物語をそのように説明しても不審には思われないはずだ。そして浮上してくるのは、主人公①の選択に見出せる「エゴイズム」という主題だ。

 だが、Dの対応を発想した者は実は必ずしも多くなかった。それはこうした把握が間違っていることが、ここまで授業を受けてきた皆にはわかってしまうからかもしれない。

 上の文には三カ所、不適切な部分がある、どこ? と訊くと、間違い探しだ、と言ってみんなたちまち上の文の問題点を指摘する。

先生がお嬢さんとKの選択に迷い、お嬢さんを選んだから、Kが死ぬ。

豊太郎が相沢とエリスの選択に迷い、相沢を選んだから、エリスが死ぬ(狂う)。

 下線部がそれぞれ不適切だ。「こころ」では、先生の選択はお嬢さんとK(愛情と友情)ではないし、Kは先生がお嬢さんを選んだことで死んだわけではない。

 「舞姫」では、豊太郎は相沢を「選んで」はいない。その場面で豊太郎が意識を失っている間にエリスは廃人になっていたのだ。


 だが一般的には「こころ」や「舞姫」を上のように紹介する言説はありふれているし、それを聞いても、世間の人は不審に思いはしない。

 それは、二つの物語をDのように把握させる強い必然性があるからだ。

 何か?


 二つの物語はいずれも、主人公の語る手記だ。語り手は自分の内面を吐露する。その時どのような心理が読者に強く印象づけられるか?


 一つは主人公の葛藤だ。確かに彼らはある選択の前で迷っている。

 さらにもう一つは、彼らの抱く「罪悪感」「後悔・悔恨」だ。

 「私」はKに黙って自分とお嬢さんとの婚約を画策したことについて、自らを〈卑怯〉〈倫理的に弱点をもっている〉と認識している。そしてKが自殺した翌朝、目を覚ました奥さんに向かって、〈すみません。私が悪かったのです〉と告白してしまう。さらに葬式の後でも〈早くお前が殺したと白状してしまえ〉という〈良心〉の声を聞く。Kの自殺より後の部分は教科書には載っていないことも多いが、自殺の時点で既に「私」の抱く罪悪感は充分に読者にも感得される。

 一方豊太郎は天方伯爵に日本への帰国の意志を問われ、「承りはべり」と答えてしまった自分を〈我は許すべからぬ罪人なり〉と責める。

 そして一人称の語り手による手記という体裁によって、これらはいわば罪の告白=懺悔として読者の前に開陳される。

 「こころ」では「先生」が年下の大学生に対して「暗い人世の影」を伝えようとする。これは自らの犯した罪の告白だ。

 「舞姫」では手記を綴る動機を〈恨み〉によるものだと書き起こす。これは相沢に対するいわゆる「恨み=怨み」ではなく、むしろ自らの行為に対する「悔恨=罪悪感」が述べられていると考えられる。

 つまりDのような把握は、語り手の主観から見た物語構造として適切なのだ。一般的な読解が語り手の主観に沿ったものになるのは、一人称小説の享受として当然のことだ。


舞姫 28 比較読解「こころ」2 人物の関係

 「こころ」と「舞姫」の登場人物を対応させて、物語の骨格を示す。だがAに示した4人を入れ替えて全員を対応させるのは難しい。4人の中から3人を選び、その対応を考えよう。比較のために、どちらかを固定しておくのが良い。「舞姫」の①豊太郎、②相沢、③エリスを固定し、「こころ」の人物を入れ替える。④老媼を登場させるアイデアは今年も出なかった。

 かつて生徒から提出された対応関係のアイデアを紹介する(だがやはり今年も皆の中にこれらを発想した人はいた)。

 ① K ―豊太郎

 ②先生 ―相沢

 ③お嬢さん―エリス

 これはどのような物語把握に基づいた対応か?


 こうした対応に基づく物語把握を一文で表す。

・①が③に心惹かれて求めようとするのを②が妨害する

「こころ」

Kがお嬢さんに心惹かれて求めようとするのを先生が妨害する

「舞姫」

豊太郎がエリスに心惹かれて求めようとするのを相沢が妨害する

 それぞれの物語を、恋愛に係わる駆け引きという点から捉えている。


・①が③によって「道を外れる」のを②が引き戻す

「こころ」

Kがお嬢さんによって「道を外れる」のを先生が引き戻す

「舞姫」

豊太郎がエリスによって「道を外れる」のを相沢が引き戻す

 多くのクラスで同様の表現が提起された。おそらくKにおける「道」というキーワードを想起したとき、それが豊太郎にとってのエリートコースをも指しうることに気づいて、いける、と思うのだろう。

 ここで興味深いのは、そんなことをする②の動機だ。②は純粋に①のためを思う友情から①を引き戻すのだろうか? もちろん「こころ」の「私」はそうではない。そこには私利がある。そして相沢は? これは興味深い問題として後で振り返る。


 次の対応はどのような構造を示すか?

 ①お嬢さん―豊太郎

 ②先生 ―相沢

 ③ K ―エリス


 Bに比べ、「こころ」の①と③が入れ替わっている。

 この対応をたとえば「①と③の関係を②が妨害する」などと表現することは可能だが、同時にこの表現はBにもあてはまる。BとCでは「こころ」の①と③が入れ替わっているだけだから、「①と③の関係」というふうに①と③を並列させる表現では、どちらも同じことになってしまう。

 だがKと豊太郎を対応させる把握(B)と、お嬢さんと豊太郎を対応させる把握(C)が同じであるはずはない。別の表現においては、その適否が問題になるはずだ。

 例えばどのような表現が可能か?


 クラスによって様々な表現が提案された。

  1. ③の①への思いを②が妨げる
  2. ②は①といたくて③が邪魔になる
  3. ①が②を選んだせいで③がダメになる
  4. ①は②と③の選択を最後まで明かさない
  5. ①と②の関係に③が介入し①が選択を迫られる

 1はBと同じだからいいとして、2はその「妨げる」動機について述べている。「先生はお嬢さんといたくて」はいいとして、「相沢は豊太郎といたくて」はどうか。これもまた相沢が豊太郎と日本で仕事を一緒にしたがっていることを指していると考えればあながち言えない表現でもない。

 5は面白い。まずは「①と③の関係に②が介入し」と言いたくなる。先生はお嬢さんとKの間に介入しようとしているし、豊太郎からすれば自分とエリスの間に相沢が介入して事態が複雑になっているのだ。1が示しているのはそれだ。

 だが5はそうではない。豊太郎と相沢の関係にエリスが介入しているというのだ。なるほど、豊太郎がエリートコースを歩んでいるうちは、相沢とは学友同士として安定した関係でいられたはずなのだ。

 だがそうか? エリスの存在によって豊太郎は相沢と道を違えたのか?

 「山月記」との比較で考察したのは、豊太郎は自我の目覚めによってこそ道を外れたのであって、エリスとの出会いはその後だ。もちろんエリスとの出会いがなければ豊太郎の惑いも一時のものだったかもしれないとも言えるが。

 一方「こころ」においては「お嬢さんと先生の関係にKが介入して、お嬢さんが選択を迫られる」というのは何のことか?

 これは教科書よりも前の部分の話だが、そもそもは先生が下宿していて、お嬢さんに好意を持っていたところへKを居候させることになって、お嬢さんがKに惹かれていかないか、先生は気を揉むようになったのだ。先生からするとKは自分よりも意志も強いし頭も良いし背も高いし、顔だって女にもてそうに思えている。つまり5は先生の主観による状況把握を表現しているといえる。


 こんなふうに、どちらかの物語の一断面を表現して、それをもう一方の物語に適用できないかと考えてみることが、それぞれの物語について考えることになる。

 それが物語の意外な一断面を浮かび上がらせるのも楽しい。


舞姫 27 比較読解「こころ」1 人物を対応させる

 読み比べ二つ目は「こころ」だ。

 共通=対応する要素は何か?


 「山月記」との比較では、まず主人公の共通点を確認した後、空間の対比を重ねることで二つの物語を重ね、それぞれの物語が新たに見える瞬間を捉えようとした。

 ここでは主人公以外の登場人物も挙げて、対応させてみる。


 ①私(先生)―豊太郎

 ② K ― 相沢

 ③お嬢さん―エリス

 ④ 奥さん―老媼


 これはどのような対応か?

 ①は主人公。それだけではなく、それぞれが手記であるような一人称小説における語り手(書き手)でもある。「山月記」が三人称小説であり、李徴が語り手ではないことに比べても大きな共通性が予想される。

 ②は主人公の友人。①にとって東大の学友でもある。

 ③は物語のヒロイン。

 ④はヒロインの母親。

 「山月記」比較同様、まずは人物造型の共通性を考えてみる。

 「私」と豊太郎は、似ていると言えなくもない。一人称の語り手は自らの心の裡を語るからどうしても内向的に見えがちだ。

 二人のヒロインもまた、ともに小悪魔疑惑のある魅力的な少女という点では似た印象もある。そしてそれが二人の賢さ故であって、その清純を疑うには至らない、といった巧みなバランスで描かれている。

 奥さんとエリスの母は、悪巧みをしていそうな雰囲気が似ていなくもない。もちろん二人とも生活上の知恵としてそうしているのであって、悪人というわけではない。

 そして二人のヒロインはともにみんなと同じく16-17歳で、なおかつ主人公の二人は25-26歳だ。

 このように主要な登場人物4人が、設定としては見事な対応を見せる。

 この対応を元に、物語を記述してみる。

 人物を示す番号を使って文を作る。例えば「①が③をめぐって②と争う」などという文だ。番号に、それぞれ二つの物語の登場人物名を代入する。

 だがこの文はうまくいかない。

 「先生がお嬢さんをめぐってKと争う」がかろうじて言えるとしても、「豊太郎がエリスをめぐって相沢と争う」はまるで「舞姫」の物語とは似ても似つかない(本当は「こころ」も、そういう物語だと言えはしないとみんなはわかっているはず)。

 ではどのような文なら、それぞれの物語が表現できるか?

 みんなの考えた文を挙げてみよう。

  1. ①が②と③の選択に悩む
  2. ①と③の関係に②が障害となる
  3. ①の③への思いを②が妨げる
  4. ①は③との関係を②に隠す

 1を翻訳すると次のようになる。

「こころ」

先生がKとお嬢さんの選択に悩む

「舞姫」

豊太郎が相沢とエリスの選択に悩む

 これもまた「こころ」については本当はそうは言えないとわかったうえで、かろうじて、というところではある。

 2ではこうだ。

「こころ」

先生とお嬢さんの関係にKが障害となる

「舞姫」

豊太郎とエリスの関係に相沢が障害となる

 この「関係」を明確にしたのが3だ。

「こころ」

先生のお嬢さんへ想いをKが妨げる

「舞姫」

豊太郎のエリスへの想いを相沢が妨げる


 このように、物語の構造を、人物の関係という点から抽出して、二つの物語を比較しようというのがこの試みだ。

 だが、実はAの対応はこれ以上、何らの発展的な考察を生まない。主人公の二人には共通したものも感じられるが、お嬢さんとエリスの印象はかなり違う。さらにKと相沢の対応には強い違和感がある。人物としての共通性は「優秀」くらいで、その人物造型はまるで似ていないし、何より物語上での役割が違いすぎる。

 登場人物を対応させるのは、物語を対応させるためだ。物語を重ね合わせようと考える思考と、登場人物の印象を重ねようとする思考を相補的にはたらかそうとすれば、このような対応はむしろ思いつかない。

 では、物語の構造を表現することを目的として人物を対応させるには、どのような組合わせが考えられるか?


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