「自立」をめぐる三つの文章は、最初から読み比べることを意図して並べられている。そこに、読み比べることが適切かどうかが保証されていない文章をぶつけてみる。
「ちくま評論入門」の「ほんとうの『わたし』とは?」(松村圭一郎)は春休みの課題で読んである。だがあらためて「読み比べ」という意識で読み直してみると、前とは違ったように読めてくるはずだ。文章を読むという行為は、こちらの姿勢次第でかわる主体的なものなのだ。
ここで論じられている問題は、自立をめぐる三つの文章とどう「読み比べ」られるだろうか?
「読み比べ」によって何か考えるためには、まずは共通点が入口となる。どうやって共通点を見つけたらいいか。
論理構造を比較して、それが同じであることを指摘する、などという高度なワザもそのうち実践してもらいたいが、とりあえずは二つの文章に同じく登場する言葉を手がかりにするという手はある。あるいはほとんど同じ、言い換えと見なしていい言葉を対応させることができるかもしれない。
例えば「ほんとうの~」の文中に「引き出される」という言葉が傍点付きで登場する。当然「共鳴し引き出される力」が連想される。
この連想は有効か?
直ちに同じことを言っていると断言することはできない。違っている。だがその先に、それらの趣旨を繋げて考えることもできる、と言った。どういうことか?
まず、何が「引き出される」かが違う。
「共鳴し~」では、そのまま「力」だ。能力が「引き出される」のだ。
「ほんとうの~」では「わたし」が「引き出される」。
引き出される対象は同一ではない。だがそれらを重ねていくことはできる。
それぞれの文章のテーマ(モチーフ)を一単語で言うと?
「真の自立とは」は、そのまま「自立」がテーマだ。
同様に「ほんとうの「わたし」とは?」では「わたし」がテーマなのだと言える。「ほんとうの『わたし』とは?」と「真の自立とは」という題名は同じ構文ではないか!
「自立と市場」を「市場」がテーマだということはできない。「市場とは?」という問いを掲げているわけではないのだ。授業では保留しておいたが、言うならば、「市場」が「自立」に果たす役割とは? といったところだろうか。
さらに「共鳴し引き出される力」は「能力」がテーマだ。「能力とは?」が問われている。
「自立」と「能力」と「わたし」が、どのような意味で同一視できるのか?
気づいた者が多かったのは「他者とのつながり」という表現だ。
教科書の三つの文章を読んだ後の頭で「ほんとうの~」を読めば「他者とのつながり」(=ネットワーク)という表現がアンテナに引っかかるはずなのだ。
「他者とのつながり」を使えば「自立」「能力」「わたし」がそれぞれ説明できる。
「真の自立とは」では「真の自立とは相互依存ができることだ」というのが、その主旨の最もシンプルな表現だった。「相互依存ができる」とは「他者とのつながりがある」ことそのものだ。
また「能力」と「わたし」は共に「他者とのつながり」によって「引き出される」。
また「市場」とは、多くの他者と緩いつながりができる場だ。
「他者とのつながり」が四つの文章に共通するモチーフだ。
「自立」「能力」「わたし」が主語となる文に、共通する述語を置くことができることはわかったが、では「自立」「能力」「わたし」の三つは、そもそもどういう関係にあるか?
ここでは、共通する述語の部分を反転させて対比をとる。「他者とのつながりがある」の反対は「ない」だ。つまり「個人は独立している」というテーゼだ。完結した個人、というイメージ。
すなわち、「能力」は完結した個人に属するのであり、そうした「能力」を持つ者こそ「自立」できる。「わたし」のアイデンティティは完結した個人としてイメージされるが、それは例えばある「能力」を持った者、という形で把握される。私は料理ができる、サッカーが上手い…。
こうしたイメージを反転したのがこれら4つの文章だ。
個人として優れたサッカープレーヤーでなくとも、自分のいるチームがチームとして強ければ(別に強くなくても楽しければ)、その一員としての「わたし」のアイデンティティは成立する。伊藤亜紗が提示しているのはそうした「能力」であり、松村圭一郎はそうした「わたし」を「分人」というイメージで語っているのである。