2025年10月19日日曜日

視点を変える 2 スキーマとゲシュタルト

 次の文章を読む前に、「ゲシュタルト」「スキーマ」という語に慣れておく。この二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。語彙はそれ自体、思考の武器だ。持っていると、それによって考えられることが増える。持っていなければ考えられないことが考えられるようになる。

 教科書に載っている図版を見て、そこにダルメシアン犬が見えるとはどういうことかを「ゲシュタルト」と「スキーマ」という言葉を使って説明しよう。

 言葉は「どういう意味か」を頭で理解するのではなく、使うことで身体になじませる。


 法則性もない、無秩序にインクが飛び散っているだけの白黒の図版の中に、ある瞬間、突然ダルメシアン犬が見える。この現象を「ゲシュタルト」「スキーマ」という言葉を使って言うとどうなるか?


 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注で「認識の枠組・図式」と説明されている。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注で「まとまり」「構造」と言い換えられている。


 簡単に言おう。あれこれの説明を抑えて、シンプルな表現に。

 白黒の図を、「ダルメシアン犬」の「スキーマ」にあてはめた時に、「ダルメシアン犬」という「ゲシュタルト」が構成される。

 これが「ダルメシアン犬が見えた」という現象だ。


 これをさらに抽象化して言おう。あるいは一般化。普遍化。

 そもそもこれは何についての話なのか?


 「何についての話なのか?」という問いかけで、それにふさわしい抽象度で問題を捉えることができるかどうかが、既に国語力の問題だ。「ダルメシアン犬についての話」ではない。「スキーマの話」でもない。ここではそれより一段抽象度を上げた問題の捉え方を要求している。「画を見る話」は一段抽象度が上がった。さらにもう一段。

 「ごんべん」の漢字二字の熟語で。


 これは「認識についての話」だ。「見える」とは「認識する」ということだ。

 文中から「認知」を挙げてもいい。「認識」「認知」「知覚」は、同じ現象を表現する言葉を、おおよそ複雑さの順に並べているだけで、実際はグラデーション状に連続している。ここでは、より複雑な過程を含む「認識」で代表させておく。

 つまり「見えるとはどういうことか?」は「認識とはどのような現象か?」ということだ。この問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使って答える。

認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。


 さらにこれをにしたりにしたり対偶にしたりしてみる。それができることは、それが理解できていることを示している。理解していないと機械的にひっくり返そうとして微妙に意味の違った文を作ったりする(厳密な論理学的意味での「逆・裏・対偶」ではない。また論理学では「逆・裏」は元の命題と同値とは言えないが、むしろ積極的に同じことを意味するように表現するところが国語的な練習だ)。

 命題も条件文の形にしておこう。

命題

認識できているとすれば、外界の情報が、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトが構成されている。

ゲシュタルトを構成されている(認識できている)とすれば、外界の情報がスキーマにあてはまっている。

もし外界の情報をスキーマにあてはめられないならば、ゲシュタルトを構成することができない(認識できない)。

対偶

もしゲシュタルトを構成することができない=認識できないならば、それはスキーマにあてはめられない(またはスキーマがない)ということである。

 こういう言い換えは論理的思考力とも言えるが、まあ平たく言って、国語力だ。言うべきことをいくつかの表現で想起できることも、複数の表現の内容を比較してその異同を見分けることも、重要な国語の力だ。


 例えば、国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。文章が「わかった」と思うことは、ダルメシアン犬が見えた、ということだから、つまりゲシュタルトが成立した、ということだ。

 「スキーマとゲシュタルト」という概念自体がスキーマだし、「自立と依存」とか「近代的個人の誕生」「個人と分人」とかいうのも評論を読む上での有効なスキーマだ。

 あ、この文章の主旨は近代批判だ、と思えたときには、ゲシュタルトができている(ダルメシアン犬が見えている)。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。とはいえ国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は、編集上も想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているのはわかるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、「〈私〉時代のデモクラシー」もその一編だ。「鳥の眼」と「〈私〉時代」はどうつながるんだろうか?)。


 「木を見る、森を見る」の作者、齋藤亜矢は「芸術認知科学者」だそうだ。よくわからん肩書きではある。

 だがみんなはこの名前に初めて出会うわけではない。みんなが受けた高校入試の国語の問題に、この人の文章が出題されたことを指摘したのはD組のMさんだった。しかも同じ『ルビンのツボ』収録の文章だ。みんなにとっては因縁の相手だ。


 さて、中学生にも読める想定なのだし、この文章も教科書の冒頭に収録されているということは高1の生徒に最初に読ませるつもりなのだから、難しいことは別にない。読めば「わかる」。すぐに一文に要約する。

 文章の主旨は「認識」か「主張」だ。

 「認識」ふうに言えばこう。

視点を変えると物事は違って見える。

 「主張」ふうに言えばこう。

いろんな視点から物事を見よう。


 教科書冒頭の文章は、なにがしかメッセージを含んでいる。これからこの教科を学ぶ高校生に向けた、編集者からの。

 とすれば、編集者は「現代の国語」という教科が、その学習によって、君たちにさまざまな「視点」から物事を見ることを推奨するものであるとメッセージを送っているのだと考えられる。

 だが具体的には「視点」とは何か?


 そもそも「視点」とは何か。例えば次の二つの文では「視点」の意味が違う。

  1.   さまざまな視点から物事を見ることが大切だ。
  2.   この絵画は、見る人の視点が自然と中央の人物に集まるように描かれている。

 「視点」という言葉には「どこから見るか」と「どこを見るか」の二つの意味が混在している。1は「どこから」で、2は「どこを」だ。それを区別したいときにはそれぞれ1「視座」、2「注視点」などと言い換えることもある。斎藤の言う「視点」はどちらか。

 「自分以外の何者かの視点に立つとドラマチックに視点が変わる」といった一節では「視座」のことを言っているようにとれるが、「手前の方の一つのリンゴにぐっとフォーカスして見るとおもしろい。そのまま少しだけ動くと、視点を中心に立体的な空間が立ち上がって、どきっとしたりする。」という一節では「注視点」の意味にもとれる。

 文中で「視点を変える方法」として紹介されている二つの方法は、見る「角度」や「倍率」を変えるということだ。これは「視点」の二つの意味とどう関係しているか。

 角度についての「正面から、横から、上から、下から。立ち位置を変えると、おのずと別の側面が見えてくる。」というのは「どこから見るか」、つまり「視座」の問題だ。だがすぐに「目線を少しずらしてフォーカスする部分を変えるだけでもよい。」と続く一節では「注視点」の意味に変わっている。

 一方倍率は対象との距離の問題だと考えれば「視座」の問題だが、これはフォーカスの中心=「注視点」を中心として周囲のどこまでを見るか、つまり視野の広さの問題と考えると「注視点」の意味にもとれる。

 題名の「木を見る、森を見る」はどちらかといえば視座の問題というより注視点と視野の問題だが、後半の「これまで、理学、医学、芸術学、教育学と、立ち位置の離れた分野に身を置いてきた。この右往左往した経歴の中で実感したのは、分野ごと、人ごとにさまざまな視点があり、そこから見える景色がまるで違うということだ。」における「視点」は「視座」の問題だと言える。


 さて、この「視点」という問題を、別の文章との読み比べの中で考える。


共に生きる 17 自由と自立

 もう一つ。考える手がかりを提案する。

 「交換と贈与」の「自由」という観念の扱いは、「自立と市場」における「自立」に対応している。

 どういうことか?


 「交換と贈与」では「自由」について次のように言う。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 これは「自立と市場」で論じられている「自立」の状態に対応する。松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 頼らない(依存しない)、選択肢が十分確保されている状態が「自由」であり「自立」なのだ。

 ここでも二つの論は共通した論点をもっている。

 そして近内論では「自由」は否定的イメージで語られるが、松井論では「自立」は目指すべき状態として肯定的な文脈で使われている。

 やはり両者は反対方向の主張をしているように見える。

 このことをどう考えたらいいか?


 「交換/贈与」における「交換」の否定と「自由」の否定は、どのような論理でつながっているか?


 特定の相手に頼らないで選択できる状態が「自由」であり、それは相手を(それはすなわち自分も)「交換」可能な存在だと見なすことだ(「交換」できないのは不「自由」)。

 近内は、それでいいのか? と問いかける。もちろん反語だ。「良くない」のだ。

 「市場/個人的関係」における「市場」の肯定は、もちろんそれが「自立」を支えるからだ。それはまさしく上の「特定の相手に頼らないで選択できる状態」だ。「自立」できるのは良いことに違いない。

自由・交換(否定)/贈与(肯定)

自立・市場(肯定)/個人的関係(否定)

 二人の見解をどう考えたらいいか?

 対立する見解が存在することは別におかしなことではない。何であれ、現実に賛否両論あることは世の常だ。

 だがそういって済まさず二つの論がどういう関係かを納得しよう。

 一つには、見解が相違するなら相違するで、なぜそういう結論になるかに、納得できる理由を見出すこと。

 もう一つは、相反しているようなここまでの整理が不適切であることを示し、二人の見解の関係を示し直すこと。

 授業者の想定としては、どちらも可能だ。二つの論旨が相反している「ように見える」のがそもそも意図的なミスリードによっている。思考を、議論を活性化させるには対立を作るといい。わざとそれをやっているのだ。

 だが議論の目的は、どちらかの殲滅ではない。融合だ。どう納得を共有するか、だ。

 どう考えたらいいか?



共に生きる 16 交換と贈与

 「共に生きる」シリーズとしてここまで読んだ7本の文章に続いて、近内悠太「交換と贈与」を読む。

 事前課題の要約とともに、ここまでの7本で、最も論旨の共通点があるのは? と聞いてみると、最も多く上がったのは松井彰彦「自立と市場」だった。みんな勘が良い。ねらい通りだ。

 さあ読み比べよう。


 連想が働くのは「交換と贈与」の文中に何度も「市場」という言葉が登場するので自然なことだ。それは、論じている領域というかテーマに共通性があるからだ。何か? 

 二つの文章はともに、ある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 それを表す言葉を文中からそれぞれ4字で拾うと?

 「交換と贈与」では「資本主義」。

 「自立と市場」では「市場経済」。

 この対応=共通性によって、みんなは二つの文章が関連した話題を扱っていると感じているはずだ。


 この共通性によって二つの文章を比較したときに、まずはある違和感を感じ取ってほしい。何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、と。

 それはどのようなものか?


 二つの文章の関係、などという抽象的な問題がどのようなものかを明晰に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。

 「共通する」というのは、一つには上に見たとおり「資本主義」と「市場経済」を重ねてみるということだが、まだその先の展開は容易には読めない。

 もう一つは、文章の構造を明らかにして、その構造を対応させるというやり方もある。

 構造?

 論理構造を把握し、明示する一つの方法は、対比をとることだ。

 両者の主な対比を挙げる。

 「交換と贈与」は言うまでもなく「交換/贈与」

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では? と問うとすぐに「自立/依存」の声が挙がる。もちろんそれは対比だが、それはこの文章の主旨を示す、重要な対比ではなく、語る上で使う対義語、というほどの位置づけだ。

 「自立と市場」の主要な対比は確認済み。「市場/個人的関係」だ。

 「主要な対比」というのは、その文章の中心的要素と、それを主張するために、それと対義的な項目を否定的に対置したセットのことだ。「交換と贈与」ではそれが題名に示されているが、「自立と市場」では「市場」の対比項目が文中では明示されていない。だが「自立を支えるために市場が有効だ」という主旨を明確にするため、有効でない具体例が対比的にとりあげられている。それを「個人的関係」と表現しておいたのだった。

 二つの対比を並べてみよう。まず「交換/贈与」をこの向きに並べておいて、そこに「市場/個人的関係」を比較するには、どちらをどちら向きに並べるべきか?

交換/贈与

市場/個人的関係

 この並べ方は適切か?


 まずこの向きでいいとして、これで先の違和感が明確になっただろうか。

 二つの対比は、「肯定/否定」が、左右逆になっているのだ。

交換(否定)/贈与(肯定)

市場(肯定)/個人的関係(否定)

 この「肯定/否定」の、二つの文章での捻れをどう考えたらいいのだろうか?


 何気なく並べた左右が不適切なのでは?

 いや、そうではない。「交換」と「市場」が同じ側に置かれることには十分な必然性がある。

 どんな?


 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 「交換の論理」とは何か?

 「交換と贈与」の文中に次の一節がある。

「割に合うかどうか」という観点のみに基づいて物事の正否を判断する思考法を、「交換の論理」と呼びたいと思います。

 「割に合うかどうか」というのは、経済合理性があるかどうかということだ。それはすなわち「市場」の論理だ。需要と供給のバランスで適正な価格が決まり、代金を払えば品物やサービスが受けられる(払わなければ受けられない)。誰かが一方的に損をするような不合理なことは起こらない。起こさないために例えば独占禁止法などの措置がとられる。

 一方「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。この場合「市場」は「交換」の場だと言えるが、それは商品と貨幣が「交換」されるというだけではない。

 さらに重要な「交換」とは何か?


 「交換と贈与」では、商品と貨幣が交換されるから「交換の論理」が良くないと言っているわけではない。次の一節に表れているのは何の交換か?

交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる。」というメッセージが透けて見えます。

 この「交換」を「市場」経済の場に適用すると、何が「交換」可能になるということになるか?


「自立と市場」に次の一節がある。

特定の誰かと強い依存関係に陥ることはない。A店でものが買えなくてもB店に移れる。Cという客に嫌われてもDという客がものを買ってくれれば店は商売になる。

 これはつまり、売り手と買い手双方にとって、それぞれが「交換」可能になるということだ。

 市場では、正当な対価さえ払えば、誰から買ってもいいし、誰に売ってもいい。売り手から見て、買い手はそれぞれ交換可能な存在でしかないし、買い手から見ると売り手は交換可能なのだ。


 こうしてみると、対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることには納得できる根拠がある(ように見える)。

 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に主張されている。

 このことをどう考えたらいいか?


 ひとまず「贈与」と「市場」が肯定される論理を確認しておこう。

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。しかしそこには人間同士の信頼が成立しない。みんな孤独だ。そうした「交換」の論理と対比され、肯定されるのが「贈与」だ。

 一方、自立を支えるために「個人的関係」に頼るのは危うい。それに比べて「市場」は自立にとって有益だ。

 やはり二つの文章の肯定/否定は捻れている。


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