2025年1月29日水曜日

舞姫 26 比較読解「山月記」4

 「舞姫」と「山月記」の物語構造を空間の対比として捉え、それぞれの空間の移行が意味するものを重ねることで、物語が新たな相貌を見せる。

 〈虎〉になった理由こそが主題になっている「山月記」に対して、「舞姫」は〈虎〉から人間に戻る逡巡とそこに起こる悲劇にこそ主眼が置かれている。

 豊太郎にとって〈虎〉とは「まことの我」、つまり「自我」の象徴だ。

 これを前提に、少々理屈をこねてみる。

 豊太郎は「本当の自分=自我」を見出すことで自由になったと錯覚したが、結局は相沢や天方伯とエリスとの綱引きの間で、何ら主体的な選択をしないまま流され、エリスを発狂させるにいたる。

 これは「本当の自分」などというものがそもそも幻想なのではないかという主題を示してはいないだろうか?

 一方、李徴が虎になるのは、いわば自我の暴走だ。制御を失った「解放」の中で、結局は本来の自我=〈人間〉が消滅してしまうのだ。

 とすると、正反対の結末を迎える二つの物語が、実はどちらも「本当の自分=自我」(という幻想)の挫折を描いた物語だということになる。

 「本当の自分=自我」といえば?

 そう、おなじみの「近代」における「個人の確立」だ。

 「舞姫」という作品は、近代化の入口に立った日本から西洋を見た鷗外が、西洋から流入する「近代」に対する違和を語った小説だとは言えないだろうか。

 これは実は「こころ」の主題にも重なる。

 「こころ」は選択の物語のように見えるが、実は「先生」はほとんど選択の余地などなく、そのようにしかできないといったふうに運命に流されている。これは「主体的な選択をする自我をもった人間」などという近代的な人間観に対する漱石の違和を語っているのではないか、という考察を、昨年の授業の最終盤でした。

 図らずも「こころ」との比較を先取りしてしまったが、こうした考察に導かれるのもまた一興ではある。


 あるいは袁傪と相沢という登場人物の比較を考察の糸口としてみよう。二人を比較すると、どのようなことが考えられるか。

 袁傪と相沢の共通点は何か?

 二人がそれぞれ主人公の旧友であることは指摘できる。だがそれだけではない。象徴的には二人をどのように捉えればいいか?


 二人はともに現在も官職に就いている。つまり二人は李徴と豊太郎が失っている「故郷」と「エリートコース」という二つの世界を象徴する人物なのだ。物語は、〈虎〉になった李徴/豊太郎に対して、〈人間〉を象徴する袁?/相沢が再会する、という共通の構図において展開する。

 こうした比較はどんな考察を可能にするか?


 たとえば、袁傪が山中に消えてゆく虎=李徴を見送るのに対し、相沢は豊太郎を日本に連れ帰る。こうした対応の違いはなぜ生じたか?


 物語中、袁傪と相沢はそれぞれどこで主人公と会うか?

 袁傪が李徴に会うのは山中、つまり〈虎〉の世界である。〈虎〉になった李徴を目の当たりにしている袁傪にとって、李徴を人間界に連れ戻すという選択肢が最初から無い。

 一方相沢が豊太郎と会うのはどこか。カイゼルホオフだ。つまり〈人間〉の世界なのだ。

 だから相沢には、そもそも豊太郎が〈虎〉になっていることが見えてはいない。それは相沢と豊太郎の置かれている位相の差がもたらす認識のずれだと言ってもよい。


 このことは、最初の通読の際に考察した、カイゼルホオフに向かう前の豊太郎の身支度の場面に象徴的に表われている。

 この場面はいわば、エリスのいる〈虎〉の世界から相沢のいる〈人間〉の世界へ越境するために豊太郎が変身する場面だ。

 身支度を整えた豊太郎を見てエリスが「何となく我が豊太郎の君とは見えず。」と言う。虎の娘であるエリスには人間の姿になった豊太郎は「私の豊太郎さん」ではないのだ。

 一方で相沢の目に映る豊太郎は単なる〈人間〉でしかない。だからこそ相沢は疑いもなく豊太郎が日本に帰るものと決めてかかる。


 また、〈人間〉の世界に妻子を残してきた李徴に対し、豊太郎はいわば〈虎〉の世界に妻子をつくったのだといえる。

 李徴は〈人間〉の世界に妻子を残して〈虎〉になってしまう。また豊太郎は〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子を残して豊太郎が〈人間〉の世界に戻る。それぞれに方向は反対だが、悲劇の構図としては同じだとも言える。

 〈人間〉の世界に残してきた妻子の面倒を請け負う袁傪が「良い人」に見えてしまうのに対し、相沢は悪役の印象を免れない。だが、相沢もまたエリスとお腹の子に対して相応の手当をしているし、なにより豊太郎の家族が日本にいたとすれば(母親が生きていたならば)、豊太郎を日本に連れ帰った相沢は恩人となるはずだ。読者が〈虎〉の世界の妻子=エリスとお腹の子に感情移入してしまっているがゆえに、「舞姫」が悲劇になり、相沢は悪役の汚名を被ってしまうのだ。

 こうした比較が授業にもたらすものは何か。そもそもそうした比較が可能なのかを検討すること自体が、それぞれの作品を「読む」ことになるのだ、とまずはいえる。同じだとか違うとかいう結論が重要なのではない。

 さらに、そうしてそれぞれの物語を透かして見たもう一方の物語に、新たな光をあてるのだ、といってもいい。

 「舞姫」とは豊太郎が虎になる話だ、というフレーズが浮上した瞬間、「舞姫」が新しく目に映ると同時に、何か腑に落ちるものがなかっただろうか。


 あるいはこんな想像をしてみるのも面白い。

公務でドイツのベルリンを訪れた袁傪は、夜になって、治安が悪いから気をつけろと忠告されていたクロステル巷に足を踏み入れる。残月の下歩いていると、街角で出会い頭にぶつかりそうになって謝る一人の男の声に聞き覚えがあってその姿をよくよく見ると、それはすっかりドイツ人と見まごう姿をした旧友、李徴だった。久闊を叙したあと、どうしてそんな姿になってしまったのかを李徴は袁傪に語り出す…。語り終わった李徴は故郷に残してきた妻子の面倒を袁傪に託し、ドイツ語で何やら一声叫ぶと、朝まだきクロステル巷の薄闇の中に消えてしまう…。

 あるいは、汝水のほとりを出張で訪れた相沢が、近くの山中で、行方知れずになって数年経つ豊太郎と再会する物語。

 これが「山月記」という物語だ。あるいは「舞姫」かもしれない。


舞姫 25 比較読解「山月記」3

 読み比べは、共通性を見ようとすることによって、「細部」を削ぎ落とした「構造」を浮かび上がらせる。

 「山月記」の主題に直結する問題は何か? 「山月記」とは何を言っている小説なのか?

 もちろんこれは既習事項でもあるが、素朴な読者として考えてみてもすぐにわかるはずだし、大方の読者には同意される。

 これに相当する問題が「舞姫」に見出せるか?


 「山月記」の問題とは「李徴はなぜ虎になったのか」だ。

 ということは「舞姫」の問題は「豊太郎はなぜ一度虎になり、再び人間に戻ったか」だ。

 「虎になる」とは何を意味しているか?


 これを考えるための手がかりが、「舞姫」「山月記」それぞれを、空間の対比によって捉える位相的分析であり、それらを並べてみることだ。

   日本/ドイツ

ウンテル・デン…/クロステル巷

カイゼルホオフ/エリスの家

人間の世界/虎の世界

  里・街/山の中

 左辺は李徴と豊太郎が元々所属していた世界を象徴する空間・場所であり、右辺は言わば異界だ。「山月記」は主人公が異類となる話であり、「舞姫」は異類となった主人公が人間に戻る話だ。

 二人はなぜ元々いた左の空間から右の異界に移行したのか?


 前回の二人の経歴の重ね合わせは妥当だろうか?

  • 李徴 「官吏→詩人→官吏」
  • 豊太郎 「官吏→通信員→官吏(?)」

 「山月記」では、この展開の後に虎になる。

 これを豊太郎の物語に合わせると、エリスを棄てて日本に帰ることになるが、その印象は適切だろうか?


 いささか誘導的に、以下の箇所を全員で読んだ。李徴が「虎」になった時のことを具体的に語る場面、袁傪との邂逅の後、比較的最初の辺りだ。

今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと目を覚ますと、戸外でだれかがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出てみると、声は闇の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駆けて行くうちに、いつしか道は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地をつかんで走っていた。なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気がつくと、手先やひじのあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映してみると、既に虎となっていた。

 本文を読むことは、具体的な描写や形容によって感じ取れるニュアンスを掴む上で必須だ。そうして掴んだ印象は、作者がそれをどのようなものとして描こうとしているかを表している。

 闇の中から李徴を呼ぶ声などは気になるところだ。

 これが、李徴が「虎になる」場面だ。それは「舞姫」のどの展開と対応しているか?


 なかなか誘導通りにみんながすぐそこに目を付けたりはしなかったが、そもそも経歴が対応しているという指摘がミスリードなのだった。李徴が虎になるのは経歴の最後であり、豊太郎においては日本に帰るところにあたる。それをどう対応させるというのか。

 そうではない。もちろんこちらの想定と一致した重ね合わせを感じとってくれた人もそれぞれのクラスにはいた。

 授業者は、李徴の「虎になる」は、豊太郎の最初の免官と対応していると考えている。次の箇所を引こう。

かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらん、余は(…)自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なにとなく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。(…)今までは瑣々たる問題にも、きはめて丁寧にいらへしつる余が、このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。

 闇の中から李徴を呼ぶ声は、何か超自然的なものでも、外部にあるものでもないだろう。李徴自身の心の声であると考えるのが素直だ。

 とすればそれは、ドイツ留学後三年経って豊太郎の〈やうやう表に現れ〉た〈奥深く潜みたりしまことの我〉ではないのか。

 声にいざなわれて闇の中に駆け出す李徴は〈なにか体中に力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行〉く。こうした描写には何か充実感とともに解放感のようなものが感じられる。

 一方で豊太郎は学問の脇道に逸れつつ、官長に対しては、本質さえわかれば細かいことは一挙に片づくなどと尊大な態度をとる。

 これらは裏返して言えば、二人にとってそれ以前の生活が桎梏であったことを示している。

 李徴は妻子を養うために再び就いた地方官吏の職に満足できずにいたのだし、豊太郎は官長や母の期待を今更ながら抑圧と感じている(自分が受動的な機械のような人間だったと振り返る)。

 虎になって束の間の解放感と全能感に酔っていると、気がついたときにはこれまで手にしていたものを失っている。「虎になる」ことは二人にとって、桎梏と抑圧からの解放であるとともに、それまで手にしていたものの喪失でもある。

 李徴は虎になった自分に呆然としつつも、視界に入った兎を思わず喰らう。豊太郎もまた免官され、母を失い、茫然自失の中でエリスを喰らっていたのだ。


舞姫 24 比較読解「山月記」2

 読み比べのために、共通点を探し、対応関係を定位していくという以外の方法がある。評論では何度か使ってきたやり方だ。

 「無常ということ」と「場所と経験」には共通点が見出せない。どうやって比較したか?

 対比だ。

 それぞれの論の対比をとり、その対比同士が対応しているかどうか、と考えたのだった。もちろん対比の中に共通要素があれば、対応もすぐにそれとわかる。だが、直接的な共通要素でなくとも、対比の上下(例えば「肯定的/否定的」)を揃えて並べれば、それぞれが対応しているかどうかを考えることができる。

 さて「舞姫」と「山月記」で、それぞれどのような対比を見出すことができるか?

 

 物語の構造分析でしばしば用いられる手法として、物語中の空間を対比的に捉えることがある。位相的=トポロジカルな把握、といってもいい。

 「舞姫」の物語には位相的な空間の対比が設定されている。その対比を、抽象度の違いに応じて「大/中/小」三段階に分けて抽出してみよう。

 みんなからすぐ挙がったのは「日本/ドイツ」という対比。

 豊太郎は日本からドイツに来て、最後に日本に帰る。勘の良い人はここで「ドイツ留学」が豊太郎にとって「虎になる」ことだと考えられると気づくかも知れない。

 これが「大」だ。「中/小」を挙げる。対比においては抽象度を揃えることが重要だ。ここでは指し示す範囲、といってもいい。

 何か?


 「公使館」「大学」「モンビシュウ街」など、あれこれの場所や地名が挙がったりもするが、やはり問題は対比構造を成立させる対立要素が明確であり、抽象度が統一されているという条件に適ったペアを見つけることだ。

 「舞姫」において象徴的な空間の対比が「ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷」であることは、ドイツに着いてすぐのウンテル・デン・リンデンの描写と、エリスが登場する場面のクロステル巷の描写を読んでみれば明瞭に感じられるはずだ。

 そしてとりわけその対比を象徴する場所は「ホテル・カイゼルホオフ/エリスの家」だ。

 日本/ドイツ

 ウンテル・デン・リンデン/クロステル巷

 ホテル・カイゼルホオフ/エリスの家

 とはいえ「ウンテル…」も「カイゼルホオフ」も「ドイツ」にあるのだから、この三つのペアが同じ対比として並列されるのは理屈に合わない。

 だがもちろんこれらは物理空間としての対比ではなく、象徴としての「場所」の対比、意味の対比だ。

 いったいどのような?


 一方の「山月記」における空間の対比を考えよう。

 「山月記」にもあれこれの地名が出ないこともないが、それらにいちいち注意を払う必要はない。実は「山月記」の文中には空間的な対比的は、明示的に登場しない。

 だから本文から探そうとせず、物語全体を俯瞰して、物語の構造を示す空間・場所を表現しようとすれば、その一方が、題名にもある「山」だと気づく。それは李徴が虎になるときに駆け込んだ空間であり、現在虎として過ごす場所だ。とすれば、その対比を表す言葉は「里・街」とでもいっておこう。  

 里・街/山の中

 「山月記」は「虎になる話」、つまり空間的には左から右に移行する物語だ。対比を重ねれば、「舞姫」は左から右に行くが、最後には左に戻る、ということになる。

 つまり「舞姫」とは、豊太郎が〈人間〉からいったんは〈虎〉になり、再び〈人間〉に戻る話なのだ。

 「虎になる」とは何のことか?


舞姫 23 比較読解「山月記」1

 比較読解の最初にとりあげるのは中島敦「山月記」。

 どう比較するか?

 評論の読み比べでも毎度、まず何を考えるかといえば? と訊くと、主題だ、要約だ、対比だ、と今までやってきたことが次々と挙がった。もちろんそれらも有効な方法だが、まず、といえば「共通点を定位する」だ。

 両者の共通点を探してそこをピン留めして、その周囲に拡がる構造を徐々に重ね合わせていく。そうすることで双方の構造が明らかになっていく。一方で重ならないところ=違いが明らかになっていくところも、それぞれの文章の読解として有益だ。

 読み比べは、読み比べることによってそれぞれの文章が、ある姿で立ち上がってくる読解のメソッドだ。


 さて「山月記」と「舞姫」、両作品を思い浮かべ、その共通点が何かと考える。すぐにわかる。主人公のキャラクターがあまりに似ている。

 まずはその人物造型の共通性を具体的な表現の中で跡付けていく。そして、きわめて似通った性格をもった主人公がどのような物語の中に置かれているのかを考察する。


 文章中から必要な情報を探して目的に沿った再構成をする力というのは、必要とされる国語力の中でもとりわけ基本的であり、重要なものだ。李徴と豊太郎の人物造型の共通性を述べるためには、どのような設定、どのような挿話、どのような形容を物語中から探し出して併置すればよいか?

 授業では「属性」「性格」「言動」「経歴」などとタグ付けして項目立てることを提案した。排他的な項目ではない。きれいに分類せずとも、あれこれ考えるための手がかりにすればいい。


 二人はともに優秀で、いわゆるエリートである。

 李徴は〈博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた〉。

 豊太郎は〈旧藩の学館にありし日も、東京に出でて予備黌に通ひし時も、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎といふ名はいつも一級の首に記されたり〉。

 二人はともに高級官吏となるが、やがてその職を辞する。

 経歴だけではない。性格もきわめて似ている。

 二人はともに強い自尊心をもっている。

 李徴は最初の任官の折は〈自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった〉ために官を退き〈詩家としての名を死後百年に遺そうとした〉がかなわず、二度目の奉職の折は〈彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難くない〉としてついに発狂する。

 一方豊太郎は、官命により〈わが名を成さんも、わが家を興さんも、今ぞと思ふ心の勇み立ちて〉、洋行したがひそかに〈幼き心に思ひ計〉っていた〈政治家になるべき〉道にすすむこともかなわず、三年もたつと〈このころより官長に寄する書にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあらぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ〉と尊大な態度をとったり、免官されたあと、新聞社の通信員となると〈今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などのおほかたは、夢にも知らぬ境地に至りぬ〉と同輩を軽侮する。

 一方で二人はともに自尊心と表裏一体の怯懦(臆病で意志薄弱)を心にひそませている。

 李徴は〈己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった〉と告白する。

 豊太郎は留学生仲間と〈勇気なければ、かの活発なる同郷の人々と交はらんやうもなし〉と告白する。

 これらの「弱さ」が、どちらも物語中で重要な自己発見として語られるのも共通している。

 「山月記」の最重要フレーズ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」は、まったくそのまま豊太郎をも表わしている。

 こうした性格故に、二人とも人づきあいが悪い。友達は少ない(だが、一方で重要な友人が物語中に配されているところも共通している。あの二人だ)。


 二つの物語の主人公は、できすぎではないかと思われるほど似ている。

 主人公が似ているということは、そうした主人公を中心とする物語に、共通した構造がある可能性を示している。物語を「~が~する話」「~が~となる話」などと要約するとき、その主語は述語に必然性をもたせるように造型されるはずだ。

 そう考えたとき、「山月記」と「舞姫」を重ね合わせることが可能になる。


 例えば二人の経歴を重ねてみる。李徴の「官吏→詩人→官吏」という経歴と、豊太郎の「官吏→通信員→官吏(?)」という経歴を重ねると、何が見えてくるか?

 こうした経歴は一見似たような軌跡を辿っている。だが最初の転職は李徴にとって辞職だが豊太郎にとっては免職である、といった差違は指摘できる。

 それよりも、二度目の官吏への復職の際の二人の葛藤を重ねてみよう。

 李徴が復職しようとするのは「詩人としての名声/妻子の生活」という選択の上で後者を選んだからだ。同様に豊太郎は「名誉の回復/エリスとの生活」という選択で前者を選んでいるように見える。

 そしてこのように考えたときに、二つの物語の共通性よりもむしろ違いが見えてくる。一見したところ、二人が選ぶものがともに官吏への復職であるにも関わらず、それは逆の価値観に基づいているようにも見える。一方、両者とも「実生活」に重心があるいう点では共通していると言えなくもない。

 だがそれよりも相違として指摘したいのは、一つは、豊太郎の復職の可能性が、豊太郎自身の選択によるものであったか、という問題と、もう一つは、棄てられたものの意味合いである。前者の問題は「こころ」との比較で検討するので措くとして、後者の問題において比較されるのは何か。

 李徴にとっての詩と豊太郎にとってのエリスの意味だ。


 李徴にとっての詩の意味とは何か?

 世の中の「山月記」論の中には、李徴の発狂を詩への執着に起因すると論じているものもあるが、李徴にとっての詩とは、文学=芸術としての詩ではない。

  ・下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとした

  ・俺は、俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。

 これらの表現から感じられるのは、李徴にとっての詩が、それ自体目的ではなく名声を得る為の手段に過ぎないということだ(去年の授業でこのことは確認した)。

 それ以外に、李徴が本当に良い詩を書こうとしていたとか、詩の魅力に取り憑かれていたと読めるような記述はない。袁傪が李徴の詩に「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか」と感じたという「山月記」の重要な論点の一つを、ここから説明することも可能だ。

 一方豊太郎にとってのエリスの意味は、「舞姫」全体の主題把握に関わる大きな問題であり、「檸檬」との比較で論ずる予定なのでここでは深く立ち入らないが、上のように把握される李徴にとっての詩とはまるで印象が違う、とは言える(ただし、エリスもまた目的ではなく手段だったのだ、という言い方は、また新たな「舞姫」論につながりそうな予感もある)。

 共通性よりも相違の方が強く感じられるという意味で以上の考察は授業者の意図したものとは違っているが、それでもこのような考察を可能にするという意味では、それ自体が比較読みの意義ではある。


2025年1月16日木曜日

舞姫 22 全体を捉える

 さて、ここまで10時限ほどかけて、全編を読み終えた。

 「舞姫」は、高校の国語科授業にとって「羅生門」「こころ」「山月記」に次ぐ「定番」小説教材だ。授業者も高校時代に授業で読んだ。

 だがこの小説は、その文体と長さから読むに難渋するわりには、物語にカタルシスがなく、むしろ不快と言ってさえいい。「舞姫」が近代文学の出発点に位置する、文学史的に価値の高い作品であることをいくら喧伝されても、単にエンターテイメントとして享受するにはコストとベネフィットのバランスが悪すぎる。

 だがこうして途中に考察をはさみつつ時間をかけて読み進めてきた過程は、それなりに面白かったはずだ。みんなで考察し合うことは楽しい。

 だがそれは日常で「小説を読む」行為とはだいぶ違う。半ばは勉強と思って粘り強く取り組むうちに、じわじわと感じられてくるような面白さだ。

 ここまでは、そうして読み進めること自体に楽しみを見出してきたが、ここからいよいよ「舞姫」という小説を全体として捉える。


 「舞姫」という小説の主題は何か? 「舞姫」というのは、何を言っているテクストなのか?

 高校生であった頃の授業者には、授業において提示された「愛か出世かの選択」というテーマ設定は凡庸なものに思えた。積極的にそうではないと考えていたわけではなく、まあそうなんだろうと思いつつも、それが自分の身に迫るような問題として捉えられたりはしなかった(もちろん「羅生門」の〈生きるために為す悪は許されるか〉とか、「こころ」の〈友情か愛情かを巡るエゴイズム〉などといったテーマも、同様につまらない。今ではこうした把握自体が間違っていると思っているわけだが)。


 物語には型があり、読者はそれぞれの物語の終わりを、いくつかの型に合わせて予想したり期待したりする。その型に収まることが期待される定番の物語もあるし、型を破る「型破り」な物語もある。

 そもそもこうしたテーマとして「舞姫」を描くなら、結末は3通りにしかならないはずだ。

1.大臣と相沢の誘いを断ってドイツに残る(ハッピーエンド)

2.悲しみ暮れるエリスをおいて帰国する(悲劇)

 だが最終盤のエリスの発狂という意外な展開を受けるなら、結末はもう一つにしかならない。

 それはいわばギリシャ悲劇的な結末だ。

3.発狂したエリスを抱えて失意の中でドイツに残る

 これは、豊太郎がドイツに残るという、ヒロインにとってのハッピーエンドのはずの結末が最悪のかたちで実現するという、ギリシャ悲劇的、「こころ」的アイロニーを示している。

 ところが「舞姫」の結末はどれでもない。4.発狂した女をおいて帰国する という不可解な決着を迎えるのだ。

 この結末が選択されていることの不全感は、西洋列強に伍して立国していこうとしている明治という状況をいくら勘案して、豊太郎にとって「やむを得ない選択だった」という判断に落ち着こうとしても、到底無理だった。

 だから「舞姫」をテキストとして「自分だったらどうするか」を問うのは的外れだ。自己を豊太郎の立場において問うのなら先の3択のうちの1・2であり、悲劇を享受という意味では、どうにもならない3を受け止めるという姿勢もありうるが、現実にそのような立場に置かれれば4を選ぶかも知れない。だがいずれにせよ、この小説が示す結末は選択に迷うような釣り合いにはない。


 ではこの小説をどう読めばいいか。

 アカデミックな「舞姫」研究の多くは、鷗外の伝記的事実から「舞姫」の執筆動機や主題を考察するものだが、そうした、テクスト外部の情報を「教える」ことが高校の国語科授業の使命ではない。

 とはいえ、「舞姫」を読むための構えとして、知っておくべき最低限の基礎的知識はおさえておこう。

 「舞姫」が鷗外の実体験に基づいているということは、たびたび触れてはいた。だがそれだけを知っていると、うっかりすると豊太郎と鷗外・森林太郎を同一視してしまいかねない。鷗外はなんてひどいやつだ、エリスはなんてかわいそうなんだ…。

 事実はどうか。


 まず豊太郎が19歳で東大を主席で修了したことは、鷗外=森林太郎の実話だ。東大開校以来のことだという。

 その後豊太郎は法律を扱う省庁に勤めるが、典医の家に生まれた林太郎は医学を学んで陸軍軍医となる。その後、豊太郎は法律を、林太郎は医学を学ぶためドイツへ官費留学する。時期も大体事実に基づいている。

 天方伯爵は山県有朋のことで、その大陸視察旅行も事実に基づく。もちろん相沢謙吉のモデルらしき人物も同定されている。

 このあたりの異同に大きな意味はないかもしれないが、以下は重要かもしれない。

 豊太郎は一人っ子で早くに父を亡くし、物語中で母を亡くす。頼りになる親族はいない。

 だが林太郎の両親は帰国時も健在で、弟妹もいる(妹の孫はSF作家の星新一)。

 こうした違いは、結末の豊太郎/林太郎の選択にどのように影響しているか。


 林太郎と恋愛関係にあったエリスもまた実在する。本人と思われる写真も見つかっている。

 そして、現実のエリーゼは、帰国した林太郎を追って来日するのである。名前を記した船員名簿が見つかっている。

 つまり、実在のエリーゼは発狂してはいない。妊娠もしていないかもしれない。

 来日したエリーゼは横浜のホテルに一ヶ月ほど滞在する。その間、森家の説得により、諦めてドイツに戻る。

 翌年、林太郎は軍関係者の娘と結婚する。


 史実が小説ほど酷いことにはなっていないと知ったことで、読者の不快感はいくらか減じるかもしれないが、そのぶん、ではなぜ小説をこのように描いたのか、という謎はいっそう深くなる。

 その謎がすっきりと解けるという保証はできない。そもそも問題は、なぜ鷗外は「舞姫」を書いたか、ではなく、「舞姫」という小説をどう読むか、だ。

 ここからは、評論でも用いた「読み比べ」という方法を使う。

 その相手は、高校の国語の授業で読む小説としては「舞姫」以上の「定番」と言っていい「山月記」「こころ」「檸檬」「羅生門」である(「羅生門」は時間次第)。


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