2023年2月27日月曜日

テストの「正解」とは何か

  国語のテスト問題において「正解」とは何か?

 多数の日本語の使い手が妥当だと認めるところのものだ。つまりテストの正解は多数決で決まる。

 多数決といっても過半数をようやく超えるくらいの賛成では、正解としての正統性(「正当性」でも「正答性」でもない)が疑問視されるから、テストの正解となれば、大多数の日本語の使い手が妥当と認めるものでなければならない。

 他の教科の「正解」も実は同じではある。「客観的事実」などというのものは大多数の者がそれを事実と認めているということでしかないから、単に知識を問うているだけにみえる社会科の問題の正解も、○×が明確だと思われがちな数学の正解も、多数決という意味では本質的には同じだ。ただ、国語科はその正解を支持する人が100%から大きく隔たるというだけの違いでしかない(これを称して「国語に正解はない」などという俗説が跋扈することになるのだが、これついては別稿で)。

 だが大多数の日本語の使い手がそれを妥当と認めるような答えが正解となるのなら、国語のテストというのは論理的必然として正答率が高く、つまり易しくなってしまう。

 だがそれでは受験者に差をつけることが目的であるようなテストの場合、その機能を適切に果たせない。テストは平均が6割くらいになるのが望ましいということになっている。受験者が、そこを頂点とする正規分布を作るように正答するのが適切なテストだ。

 ということは、実は「正解」は、本当に大多数の日本語の使い手がそれを妥当と認めるようなものではなくて、6割程度の日本語の使い手がそれを妥当と認めるようなものになっている可能性もある。それどころか「難しい問題」つまり正答率の低い問題とは、実は単にそれを妥当と認める人が少ない、おかしな問題というだけなのかもしれないのだ。


 テストにおける「良い問題」とは、その道の専門家が解けば正答率が高く、同時に素人には正答率が低くなるような問題だ。専門家にも正答率が低ければそれは単に問題が不適切だということだし、素人に正答率が高い問題は易しすぎる。

 あるいは、短時間で解いたときには正答率が低く、時間をかけたときには正答率が高くなるような問題が「良い問題」だとも言える。

 つまり、専門家が時間をかけて考えると正答率が極めて高くなり、素人が時間をかけずに解くと正答率が確率的ばらつきに近くなるような問題こそ「良い問題」なのだ。


 さて、公立高校の入試問題には、毎年いくらかの割合で「良くない問題」が出題される。問題作成者に比べてもその専門性が劣るはずのない国語科教員が揃って不適切だと思う問題が。

 その不適切さの度合いや種類は様々で、問題の条件からその「正答」に至ることが多くの偶然に依拠するしかないような「運ゲー」要素が強い問題や、「正解」と同程度に正解とするしかないような別解がある問題など。

 今年度の問題にもそうした不適切な問題はあった。

 本文についての解説が問題で示され、その解説文の空欄にあてはまる文言を、本文から抜き出してあてはめる、その一節を答えるタイプの問題。字数が示されていることが正解についての条件となっているから、それが別解を排除する一つの制限にはなる。だが、同じ字数で、その空欄にあてはめても全く問題がないと思われる箇所が他にも本文中に存在するのだ。

 全ての県立高校は、県の示す「正解」に基づいて採点しなければならない。したがって、「別解」に得点を認めることはできない。だが、設問はその「別解」を不適切であると言うことのできる条件を備えていない。県の示す「正解」でもいいが、別の、この一節を挙げることが国語力の低いことを意味しない。


 こうした不適切な問題がなぜできてしまい、なぜそれがチェックの眼を逃れて実施されてしまうか?

 国語の問題というのは、先に答えを決めてから問いを作る。ある解答を答えさせようと問題を設定する。確かにその問いに対してそう答えることは適切かもしれない。だが問題が受験者の思考をよほど的確に制限しない限り、その問いから考えられる範囲はその答えよりも広いかもしれないのだ。寿司を答えさせようとして「多くの日本人の好きな食べ物は?」と問う。寿司が不適切だとは言わないがカレーでもラーメンでもいい。

 問題作成者だけでなく、チェックをする者が必ずいるはずだ。だが、自分で問題を解いてみれば「カレーかラーメンかオムライスか…」と迷うはずなのに、自分で解く前に答えを見て「寿司」という答えに納得してしまう。問題の問題点は看過されてしまう。

 こうしたことは程度問題としては不可避だが、できるだけ避けるべく問題を真摯に検討するのが誠実というものだ。


 さて、県に、別解を認める気はないか問い合わせをする。そのまま採点して、後から訂正することになるのは面倒だから、という理由でもあるのだが、それよりもまず、このまま採点することは国語科教員としての良心に反するからだ。

 だが県が認めるだろうことを期待してはいない。問題に不備があったことを認めることなど、県はよほどのことがなければしない。そして、こうした、文章の解釈次第ですと言い逃れられるようなタイプの問題では、決して訂正を認めない。認めるのは、こちらの字でも辞書に載っています、といったような「客観的」証拠を示せるような漢字の問題くらいだ。

 で、結局認められない。「正解」には正解の理がある。もともとそれを否定しているわけではない。それよりもこちらの提示した別解もまた日本語の使い手として自然に思えると言っているだけだ。だが認めない。

 こうした結末は予想どおりだ。だがこうした意見表明には意義があるはずだ。

 先述の通り、国語の問題の「正解」は多数決であり、専門家であるところの採点をする国語教師たちが揃って別解も「正解」とすべきであると判断しているのだ。論理的に言ってこれが「正解」でないはずがない。

 本当は全ての県立高校がこうした問い合わせをすべきなのだ。そうすればそれが多数意見であることが白日の下に晒されるのに。どうせ認められないよといって問い合わせをしないでいることで、問い合わせをするような学校が「少数意見」であると県に言わしめてしまう。

 だがまっとうに考えてそんなはずがあるものか。一つの職場の全員が同意していることに、県下のほとんどの教員が賛成しないわけがない。

 だが現実には、ほとんどの教員は、県に何を言っても無駄だと諦めているか、単にその問題について自分では考えていないかだから、結局こうした「問題のある問題」が実施され、受験生はその分、運不運で合否が決定されるのだ。

 嘆かわしくも憤ろしく、いたましいことだ。

2023年2月25日土曜日

視点を変える 10 メディアがつくる身体2

 「メディアが作る身体」では、前回の「全体」の把握を短く済ませて、「部分」の読解に時間を費やした。最初に読解に入ったF組で「わからないところを挙げて」と無茶振りして挙がってきた箇所を、後のクラスでも考察した。

 文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)

 考察対象としたのは括弧内だが、もちろん解釈には括弧の前の部分から読む必要がある。「部分」を解釈するにも、文脈を見渡すことが重要だ。

 さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?

 わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。「わかる」ためには、なぜ「わからない」かを分析して戦略を立てる必要がある。また、説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。

 この括弧内の記述の「わからなさ」は次の3点による、というのが授業者の分析。

  • 「ではなく」型の対比がここに含まれているのは間違いないが、何と何が対比されているのか?
  • 「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなくむしろ「アウトプット」ではないか?
  • 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?

 これらの疑問が解消するように説明をする。


 まず対比されているのは何と何か?

 文型からは「インプット/検索作業」という対比なのだと考えたくなる。つまり「想起はインプットだ」と「想起は検索作業である」が対比され、「単なる」前者が否定されているのだ。

 そう考えて二つ目の疑問につきあたる。「想起はインプットだ」って何だ?

 そうではない。並列的に対比されているのは「インプット/外部化された」だ。

 これが両方とも「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。

 この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからだ。ここは「インプット(した)記憶」と「外部化された『記憶』」とが並列なのだと、丸括弧内(した)を補って考える必要がある。

 それさえ把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。

  • 想起とはインプットした記憶の検索作業である。
  • 「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。

 つまり、脳内に覚えている情報を検索して思い出すのが通常の「想起」だが、単にそれだけではなく(それに加えて)文字で記録した情報を検索することも「想起」だと言っているのだ。覚えている電話番号を思い出すのが普通に言う「想起」だが、電話帳から探し出すのも「想起」と呼ぼうというのだ。

 こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは至極あたりまえのことだ。暗記してあることでもメモしておいたことでも、必要な情報が取り出せれば「想起」なのだ。

 「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に構造が未整理だからなのだ。


 もう一カ所は次の一節。

「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。

 ここは、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。

 評論文の一節が「なんだかわからない」と思っている時には、具体と抽象の変換が滑らかにいっていないことが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからない時に「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それを抽象化できなければ「わからない」。

 特にここでは「感情的メンテナンス」を必要としている人がどのような人かを的確に言うことができれば問題は解決する。クラスによって、これを的確に言える班がいくつ目の指名で回ってくるかはさまざまだった(「説教する人」「説教される人」等々、全く違うとは言わないが適切ではない)。

 ここでは「新しいメディアについていけないことに不安を抱いている人」と言えればOK。その「不安」が和らげられるのが「感情的メンテナンス」だ。

 また「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。

 さらにそこで期待されている「システム」が何のシステムなのかが、やはり具体例に応じて抽象的な言葉で表現されなければならない。

 これらの条件を満たすように具体例を設定する。

 例えばEメールで連絡したのに、直接対面での報告をしなかったからミスが起きたのだというような「説教」に対し、脇で聞いていた、同じくEメールを使いこなせないことに引け目を感じている人はホッとするが、それでは新しい連絡システムは構築できない、といったような例はすぐに想起されていい(ちなみに課題の提出が遅れた人はメールでなく直接言いに来いと言っている当授業者は、彼がどんな口調でどんな表情で言い訳をするのか直に見たいと思っているのであって、Eメールを活用した連絡システムを否定する気はない)。

 クラスによってシステムの例として「連絡」「流通」「決済」「宣伝広告」「記録」「情報共有」「教育」「接客」など、いろいろな例が挙がったが、こうした抽象度の言葉でそれを表せるようにしておくことも大切。こういうことができるのが国語力。

 上の「想起」をめぐる一節の直前に次の一節がある。

ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…

 これがなぜ「批判」なのかも問うた。

 これもまたわかってしまえば呆気ない。ソクラテスは文字は「想起」を可能にはするが「記憶」の助けになるわけではないと言っているのだ。これは裏返して言えば、文字で記録することはむしろ記憶の妨げになるともいえる。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。

 実はこれも上記の「説教」なのだ。文字はその時代、新しいメディアだったのである。ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安を代弁して「感情的メンテナンス」をしているが、世界はその後、文字を使った「記録システム」を構築していく。


 上記二つとも、解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に深遠な、複雑な話をしているわけではない。

 だがこの二カ所の解釈に、それぞれ30分くらいの時間を費やすことになってしまったのは、1年の終わりとしてはいささか情けない。10分くらいで片付けたい。「昔に返れ」から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいたのは、文脈を把握していないこと甚だしい。

 だがこれは単に「読解力」とか「理解力」という問題ではなく、どちらかというと「問題の整理力」というか「説明力」の問題だとも思う。上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがすぐにそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。

 これは「議論力」とでもいうべき問題であって、このあたりは今後の課題だなぁ、と思う。

 今年度の終わりに心に留めておく。


 時間がなくなってしまったが、次の一節も気にはなる。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。そうした身体の在り方は社会の在り方を「象徴している」という意味で「象徴的な」なのか、もっと軽く、「比喩的な意味で」くらいのニュアンスなのか。どちらもそれほど違いはないが。


視点を変える 9 メディアがつくる身体1

 「ちくま評論入門」から「東京タワー」も読むつもりだったが割愛し「グーグルマップの世界」を1時間読んだ。これらも「視点を変えると見え方が変わる」というスキーマに沿って読むことができる。

 さてその後は、要約課題として読んでいる「メディアがつくる身体」だ。

 このつながりは「メディア」という共通項を介している。

 「グーグルマップの世界」では地図が、「メディアがつくる身体」のいくつかの例の中では文字が「メディア」だという。どういうことか?


 「メディア」という言葉を我々が日常で目にする時には、ほとんどが「マス・メディア=マスコミ」の意味で使われている。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・インターネットなどの、マス(大衆)に情報を発信するメディアのことだ。だがそれでは「地図・文字はメディアだ」というのが何のことなのかわからない。

 ここではメディアという言葉がどのような概念であるかを確認しておく。

 メディアは「媒体」と訳されている。「媒介するもの」という意味だ。媒介されるものの多くは情報だ。マスメディアは情報源と大衆を媒介して情報を伝えるものだ。

 では地図は何と何を媒介しているというのか?

 「グーグルマップの世界」で「地図はメディアだ」という時、地図を通して人は「世界」(社会・土地・場所・空間…)を捉えているのだと、その機能が論じられている。地図は人と「世界」を媒介しているのである。

 同じように文字は人と人とを媒介している。

 この場合、文字と並列されるのは、例えば何か?

 並列を想起できるためには、その概念がどのような「層」に位置づけられるかを正しく捉えている必要がある。

 文中で並列されている「数字」は、しかし文字とは正確な並列ではない。数字は文字の一種だから、概念のレベルが違う。「文字と数字」は「動物と犬」のような包含関係になっている。並列ではない。

 文中の「数字」は、実際は「数」という概念を表しているのだ。「数」は、人間が外界の「量」を把握するために使うメディアである(一種の「スキーマ」だと言ってもいい)。

 また、話し合いの中であちこちで挙がっている「記号」も「文字」とは並列しない。文字も「記号」の一種だから、これも包含関係になってしまう。

 「文字はメディアである」と言う場合、文字によって伝えられる情報とは言葉だ。人から人へ言葉を伝える手段として、文字と並んで日常的な場面で多用されるのは何か?

 そう考えれば自ずと想起されるのはである。書いて伝えるか話して伝えるかである。

 上の問いに、まず音声を想起できるできるかどうかは、「文字はメディアである」という命題を正しく把握できているかどうかの試金石となる。

 それに続いて各クラスで挙がった手話・ジェスチャーあたりはまだ「言葉」に翻訳可能な情報だろうが、図・映像となると「言葉」を含む「情報」というレベルに層が上がっていることになる。確かに「情報」という概念には「言語」も含まれるし、言語で表せない種類の情報も含まれる(それを言おうとすると言語に翻訳してしまうので「それ以外」とでも言うしかない)。


 さてこの文章もまた「視点を変えると見え方が変わる」なのだ。

 どこが?


 人は地図によって世界を、ある見方で把握する。縮尺によって、地図に盛り込まれた情報の種類によって。地図の中心をどこにするかでさえ、すでに世界の見方を示している。

 そしてグーグルマップというメディアは、世界の見方を「個人化」する、というのが「グーグルマップの世界」の主題だ。これはこれで「フィルターバブル」「エコーチェンバー」の問題としてまたこの先どこかで触れることになるかもしれない。

 同様に、どんなメディアを手にしているかで、世界の見え方は変わる。スマホが存在するのとしないとでは社会のあり方は変わる。それは我々の世界観が変わることを意味する。そういう意味でメディアは我々の世界観を作るスキーマなのだ。


2023年2月16日木曜日

視点を変える 8 鳥の眼と虫の眼4

 小論文はうまく言いたいことが書けたろうか。600字はみじかすぎる。収めるのに苦しんだかもしれない。

 字数を気にせずに以下に授業者の読解を示す。


 この文章で最も重要な対比が「鳥の眼/虫の眼」であることは明白だ。

 そしてこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスであることもまた明白であり、この二人が「鳥の眼/虫の眼」という対比に対応していることがまず指摘されなければならない。すなわちサン・テグジュペリが「鳥の眼」を持つ者、アリスが「虫の眼」を持つ者である。

 そしてこの対比は、どちらかが中心だったり、どちらかが肯定的/否定的であったりはしない。アリスもサン・テグジュペリも、どうみても肯定的な存在として描かれている。

 だから「鳥の眼も虫の眼もどちらも大事」ということになるのだが、それだけで終わってはならない。「木を見る、森を見る」なら結論はそれでもいい。だがこの文章ではどのような論理で、どちらも大事、と言っているのかが論じられなければならない。


 問題は、もう一つの交換不可能な対比「西洋/非西洋」と「鳥/虫」の対比、二つの対比の関係をどう考えるかだ。

 この二つの対比は「鳥の眼」が「支配者」に通じるところから、同一軸上に並びそうにも思える。だがそうではない。

 「鳥/虫」は肯定否定の対比ではなく、対立的でもない。だが「西洋/非西洋」は対立的な対比だ。二つの対比は同じ軸上にはない。

 そもそもサン・テグジュペリもアリスもどちらも西洋人だから、「鳥/虫」の二人とも「西洋/非西洋」という対比の左側にきてしまうのだ。そういう意味でも二つの対比は同じ軸上にはない。


 「征服者/訪問者」は文中で対比的に言及されているが、よく考えるとこの対比は捻れている。

 「征服者」の対立項目は征服者」だ。

 「訪問者」の対比項目は訪問者」だろう。

 征服者/被征服者

被訪問者/訪問者

 二つの対比の左辺同士、右辺同士は、まるで違う。だからこの二つの対比は、別の軸による別の対比だ。
 ではなぜ「征服者/訪問者」が対比として並べられるのか?

 「訪問者」はアリスを指している。白人(アメリカ人)のアリスが南の島を訪れる。そこにいるのは「非西洋」の人々だ。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 「西洋/非西洋」の関係は歴史上「征服者/被征服者」の関係だった。

征服者/被征服者

 西洋/非西洋

 だがアリスにとってそれは「訪問者/被訪問者」の関係だ。
 「アリスは征服者ではなく訪問者だ」というのは、アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係だが、それは「征服者/被征服者」の関係ではなく、「訪問者/被訪問者」の関係だ、と言っているのだ。二つの対比同士対比されているのである。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 ×征服者/被征服者

  訪問者/被訪問者 

 つまり「虫の眼」とは、「西洋/非西洋」を「征服者/被征服者」としてではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉えることで、その対立を乗り越える一つの視点を示しているのである。


 一方「征服/被征服」における「被征服者」に近い対比要素にあたるのは、文中の語では「不帰順族」だ。「帰順」とは征服を受け容れるという意味だから、本当は「征服者/被征服者=帰順族」が対になるのだが、「帰順」するにせよしないにせよ、どちらも「征服者」に対立する立場としては同じだから、「不帰順族」もまた「征服者」に対置される。

 そして「鳥の眼」は「支配者=征服者」の視点に通じるように見える。

 西洋/非西洋

征服者/被征服者

支配者/不帰順族

  鳥/虫

 だが文章の流れが、そうではないと言っていると読めることは明らかだ。

 「鳥の眼」をもつサン・テグジュペリの在り方は、「西洋/非西洋」の対立を超える、アリスとは違うもう一つの可能性を示している。

 白人であるサン・テグジュペリは、非西洋人である遊牧民に「人間」の顔を見る。西洋人/非西洋人という対立を超えて、どちらも「人間」として対峙することを可能にしているものこそ「鳥の眼」だ。

 上空から見るとすべての人々が「ともしびの一つ一つ」に見える。彼らと「心を通じあう」ことをサン・テグジュペリは希求する。そのとき、サン・テグジュペリにとって「西洋/非西洋」という対立は存在せず、同じ「人間」がいるだけだ。彼が救援する者と待つ者の「奇妙な役割の転倒」を確信するのは、自分を救援してくれる者が「人間」であるように、自分も同じ「人間」でありたいと彼が思っていることを示している。

西洋/非西洋

サン/遊牧民

人間/人間

 現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を「鳥の眼と虫の眼」という二つの視点から語るのがこの文章のメッセージである。

 「鳥の眼」によって、全てを人々を同じ「人間」として見ることで。

 「虫の眼」によって、全ての人々に同じ「人間」として接することで。


 以上、600字をはるかに超えるのでちょっとズルい。

 600字程度にまとめてみる。

 題名に明示されている「鳥の眼/虫の眼」という対比は、『オリエンタリズム』や『大草原』で示される「西洋/非西洋」という対比とどのような関係にあるか。
 「西洋/非西洋」という対比は歴史上「征服/被征服」という対立の関係にある。サン・テグジュペリとアリスによって示される「鳥の眼/虫の眼」という対比は、現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を、二つの視点から語る。
 アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係である。だがアリスは両者の関係を「征服/被征服」の関係ではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉える。それは「西洋/非西洋」という対立を超えた、同じ人間として両者を見る視点を示している。これを可能にしているのがアリスが体現している「虫の眼」である。
 一方「鳥の眼」を体現するサン・テグジュペリも、自分に水を与える遊牧民に「人間」の顔を見る。フランス人であるサンと遊牧民は「西洋/非西洋」の関係である。だが両者を「征服/被征服」という関係ではなく、同じ「人間」として見る視点を可能にしているのが、空からの視点である。はるか上空から見下ろすとき、地上の人々は全て小さな「ともしび」なのである。
 そしてこれら二つの視点を共にもつことが「人類」学者である石井氏の願いである。
以上、評価の参考に。

追記
 小論文を書く段階で、当ブログの「鳥の眼と虫の眼3」前回記事までがアップされていたので、それを参照することができた。その中で「西洋/非西洋」という対比が重要であり、それと「鳥/虫」という対比の関係を考えるように誘導したのだが、やはり「西洋/非西洋」という対比を組み込んだ論を展開している人は少なかった。単にそこまでの考察をたどって、「鳥/虫」のどちらも大切、と結論するだけの論も多かったし、さらに逆にそこまでの考察が的確に把握されていない論も多かった。
 確かにこの文章はなまなかなことでは読みこなせない。だが一方で、自分の文章を客観的に読む意識ももってほしい。相互評価はそうした意識を高めるのが狙いだ。
 評価の高かった小論文の中でも出色の作と授業者が評価したF組Eさんの文章を紹介する。

 黒人と白人、西洋人と非西洋人、世の中にはそんなあらかじめ決められた絶対的な対比が溢れている。そのため、ローラの父のように人々は自分の中に固定概念を確立し、物事を多角的に見られなくなる。
 絶対的な対比に対し、英雄と普通の人、主人公と異端者などのような相対的な対比も存在する。これらの対比は、視点を変えれば違った風に捉えることができる対比だ。例えば、物語の隅に登場する異端者も、その人物に焦点を当てれば主人公に変わる。
 視点を変えるために必要なこと、それは鳥の眼と虫の眼、その両方を持つことだ。飛行家という職業柄、鳥の眼で物事を見ることが多いサン・テグジュペリを筆者が征服者と表現しなかったのは、彼に小さなともしびと通じ合おうとする虫の眼の視点があったからであろう。また現地の人と親しみ、虫の眼で土地を歩いたアリスは村に花の種をまくが、そこには風に乗って運ばれ、遠い場所で花を咲かせたルピナスを見たという背景がある。もし鳥の眼で遠くに目を向けなければ、村に花が咲き誇ることはなかったであろう。
 筆者が調査地から遠ざかる瞬間、それは虫の眼が鳥の眼にかわる瞬間だ。虫の眼で人々と心を通わせたからこその相手に対する理解、鳥の眼への変換があるからこそ感じる懐かしさ、二つの視点があることによって、はじめて調査地の人々に対する愛が生まれる。二つの視点を持つことで愛をおくりたい、そんな筆者の想いが伝わる。
  論理も的確な上に、なにより文章が美しい。驚嘆すべきエッセイだ。

2023年2月9日木曜日

視点を変える 7 鳥の眼と虫の眼3

 「鳥の眼と虫の眼」の読解・考察は最終的に600字の小論文にまとめる。その前に授業で共有した考察結果を整理する。


 前回、対比のグループを三つに整理した。

「近年の人類学」で示される「鳥/虫」軸。

『大草原』『オリエンタリズム』で示される「西洋/非西洋」軸。  

「視点を変える」というテーマを表す、視点の相対性を示す対比軸。

 これらの関係を考える。


 前々回挙げた「主人公/異端者」「英雄/普通の人」「大人/子ども」とともに「征服者/訪問者」という対比も文中から容易に見つかる。この対比はどのような位置付けになるか?

 例えば「征服者/訪問者」は「英雄/普通の人」と並べられそうな感触がある。「征服」という行為は「英雄」的に映る。「普通の人」でなければ「訪問者」たりえない。

 また「西洋/東洋」にも並べられそうに見える。「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。

 では「黒人」は「訪問者」なのか?

 そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。

 これは対比の軸が違っているということだ。


 対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。「征服者/訪問者」はそうだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。

 では「征服者」とは誰か?

 「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。

空からの視線は支配者の視線に通じる

 「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。

 それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。

 だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。

 「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっとある意味では正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味では」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。

 そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているのか? とてもそうは思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。

だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。

 ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?


 「鳥/虫」対比において登場する「支配者」は左辺。

 「支配者=征服者」と見なしていいように思える。

 では「鳥/虫」と「征服者/訪問者」は同じ軸か?

 さらに「征服者=支配者」は「西洋」に対応しているから、これは「鳥/虫」軸と「西洋/非西洋」軸がそのまま接続するということか?

 恐らくそうではない。それは論理が混乱している。


 そして明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。

 二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?

 二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?


 なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。

 後は各自で考えて。

2023年2月8日水曜日

視点を変える 6 鳥の眼と虫の眼2

 この文章にはいくつもの対比が登場するが、それらの対比軸はすべて同じというわけではない。

 対比とは何事かの問題を考えるための手掛かりを提示しているから、対比軸はその都度なんらかの問題を提起している。

 それらの対比の中で、同一軸上に並んでいると考えられる対比を「グループ化」しよう。グループを形成するということは、それだけその軸で示される問題が、この文章で重要であることを示す。

 そしてそれらのグループの関係を考えよう。


 この文章が「視点を変える」というスキーマによって捉えられそうだと感じられるのは、例えば次のような一節を見ても明らかだ。

  • 同じ風景が広がっているのに光の色が異なっているような
  • 図像を反転させるように別の見方を取る
  • 異なる光の下で別様に見えてくる

 もっとはっきり「視点が変わる」という表現も出てくる。

違う光の下で景色を見るように、こうした場面に昔は気づかなかった何かを感じ取ってしまうのは、自分の視点が変わったせいだろう。

 こうした「視点が変わる」ことを示す対比が、前回とりあげた「大人/子ども」や「主人公/異端者」といった対比だ。どちらから見るか、という視座の在処の違いを対比している。

 そうした視座の違いによって変わる「見え方」の違いを表す対比が、例えば次のような対比だ。

奇跡/日常

憧憬/陰影

表面/奥行き

 敵/人間

 「鳥/虫」の対比もまたこれら「視点が変わると見え方が変わる」ことを示す対比グループの一部ではある。

 だが、上記のいくつかの対比とは違って、単に相対的であることを示す対比でなく、明確に異なる絶対的な視点の違いであり、入れ替えができない。「主人公/異端者」はどちらを「主人公」とするかによって反転するが、「鳥/虫」は入れ替わったりしない。

 このように、相対的であって入れ替えが可能であるような対比と、絶対的で入れ替え不可能な対比がある。

 そしてそうした絶対的な対比群がもう一つ、文中にある。『大草原の小さな町/家』と『オリエンタリズム』において提示される視点の対比だ。

 「大草原の小さな」シリーズで示されるのは「白人/黒人・先住民(インディアン)」という対比。

 『オリエンタリズム』ではそれが「西洋/東洋」として対比されている。「オリエンタル」という時の「東洋」とは「非西洋」という意味だから、実際にはいわゆる「東洋」よりももっと広い、アジア・アラブ・アフリカ・オセアニアなども含む地域・文化圏を指している。

 そこから遡ってサン・テグジュペリのエピソードから抽出できるのは「不帰順族」「黒人・奴隷」「モール人」と自分たち「白人」との対比だ。頭から読んでいるとその対比が見えにくいが、『大草原』『オリエンタリズム』から遡るとそうした対比が見えてくる。

白人/黒人

   先住民

   モール人

   不帰順族

西洋/東洋(非西洋)

 この対比は明瞭で、しかもこのようにいくつもの例が挙がっているので「グループ」として存在感がある。だが授業中の話し合いの様子を見ていると、これがグループとして捉えられている班は多くはないという印象だった。なぜだ?

 この対比は「絶対的」である。黒人と白人を入れ替えることはできない。この対比と「鳥/虫」という対比はどのような関係にあるか?


2023年2月6日月曜日

視点を変える 5 鳥の眼と虫の眼1

 文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆(エッセイ)というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(随筆を含む)の方がはるかに難しい。

 この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、論理を追うのは難しく、すっきりと読み下せない。

 「わかる」ためにはスキーマがはたらかせるのが有効だ。ここでも、これまでの流れに従って「視点を変えると物事は違って見える」というスキーマにあてはめてみよう。


 前の二つの文章にしたがって、二つの視点の対比を文中から挙げる。

 ところがこの段階で既に一筋縄ではいかないことがわかってくる。

 みんなが挙げるいくつもの対比は、どうやら一つの軸上に並んでいるわけではないのだ。

 そのことは、自分たちでいくつもの対比を挙げながら気づいていったろうか?


 一つの対比軸は、いうまでもなく「鳥の眼/虫の眼」だ。これが「森を見る/木を見る」と重なるのではないかと予想していたのだった。

 確かに「近年の人類学」に言及しているくだりではその対比が浮上してくる。だがこの部分、この対比によって何を言っているのか捉え難い。


 さらに、この文章で対比されている視点はこれだけではない。

 文中から見つけ易い対比として

主人公/異端者

 英雄/普通の人

がどのクラスでも挙がったが、これらは同一軸上には並べられない。

 「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人々」はどのような意味で同じなのか?

 例えば次の一節を参照してみよう。

その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。

 「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。固定的に並べられない。

 大人/子ども

も同様だ。そもそも「大人/子ども」とは文中の何を指しているのか?

 「ローラの父親/ローラ」という対比か?

 「大人になってからの松村さん/子どもの頃の松村さん」?

 このエピソードは、「大人」になった松村さんが、「ローラ(子ども)」の視点から物語を見直したときの「別様に見えてくる」思いを語っている。つまり上の具体例の対比は、左右が捻れているのだ。どちらの例に対応しているかによって「大人/子ども」は逆転する。このような軸に、他のどのような対比を並べられるのか?


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