2025年9月24日水曜日

なぜ成績評価をするのか

  前期末でいったん成績評価をする。その具体的方法や基準については授業で説明するとして、その前提となる原理的な考え方について述べておく。

 成績評価とは何のためにするのか?

 一般的なイメージとしては、成績評価は、その学習成果(達成度や能力)を示す指標であり、それに対する公的な保証、といったところだ。

 試験を合格したことで得られる免許や資格もそうだ。ここでは成績評価は、どこかで線引きされて合否で二分される。

 入学試験なども同様に、得点は満点から0点までグラデーション状にバラつくが、合否はどこかで線引きして二分される。合格した者は、その能力が公的に保証されたのだ。運転免許は運転しても良いとその能力が保証されたのだ。

 普段の学校の学習活動に対する成績評価にもこれと同じ機能もある。いわゆる推薦入試などでは、高校側が算出した成績評価が大学によって合否の判断に一部、使用される。

 だがそうした機能は、成績評価に期待される役割の一部でしかない。

 問題は、成績評価が誰のためにあるのか、だ。上の機能は、合否を判断したい側のために成績評価が利用される、という側面を語っている。

 では評価される側にとって成績評価は何のためにあるのか。また、学校での学習活動の場合、評価する側である教師にとって成績評価は何のためにあるのか。

 例えば企業が製品を販売する場合、「成績」とは売り上げのことだ。売り上げが好調なら製品の開発や販売がうまくいっているということだ。だが売り上げが不調なら開発や生産や販売について見直さなければならない。

 この場合、売り上げとは、企業の活動にとってモニターの役割を果たしている。

 同様に、成績評価の機能とは、学習成果の評価を学習活動にフィードバックすることで、学習活動を修正することにある。良い評価がされた学習活動は強化される。低評価の学習活動は見直される。学習評価はそうした反省のためのモニターだ。

 学習と評価は互いにフィードバックするサイクルを成している。

 この場合、成績評価は、学習する生徒のためにある。学習活動が適切であるかどうかを確認するモニターの役割。


 新課程における成績評価は、文科省の定めた学習指導要領に基づいて、次の三つの観点をそれぞれA~Cの3段階で評価することになっている。

  1. 「知識・技能」
  2. 「思考力・判断力・表現力等」
  3. 「主体的に学習に取り組む態度」

 三つの観点は、学習にはそれぞれの側面がいずれもおろそかにされることなく重視されるべきであるという認識を、学習者と支援者(生徒と教師)が共有しようという理念をあらわしている。生徒は評価によって自らの学習態度を見直す。教師は三つの観点がそれぞれ必要な要素であることを自覚しながら授業を計画したり課題を設定したりして生徒の学習を誘導する。

 この機能は、教師がそれぞれの観点で生徒を評価することによっても働くかもしれないが、実際にそれぞれの学習成果において、1・2・3がどのように相互作用しているかを教師が判断することはできない。

 例えば「主体的に学習に取り組む態度」を評価することはどうすれば可能か?

 しばしば生徒の挙手の回数を数えるというような方法が、揶揄されるために例としてあげられる。それは滑稽で非現実的だ。そんなことを実際に行うのは甚だしく手間がかかる上に教育的でもない。それが馬鹿馬鹿しいことは誰もがわかっているのに、ではどんな方法が現実的に可能で妥当かは誰からも納得できるようには提案されない。せいぜい提出物や出欠席の数をもとに評価するくらいだ。それらは挙手の回数と違って算出可能だが、同じくらいに馬鹿馬鹿しい。例えば提出された論文の評価などはどうみても2「思考力…」によって評価されるべきだ。提出したかしないかを3「主体的に…」として評価し、内容を2で評価する? 可能だが不必要な二度手間だ。

 「主体的に学習に取り組む態度」などというものは、明らかに個人間でその強弱や濃淡、存否の差違があるにもかかわらず、同時に明らかに内面的なものであって、外側から適切に評価することは絶望的に不可能だ。「態度」だから、その表れを評価することはできるはずだという建前があるからといって挙手とか提出物とか出席率とかで評価するのは空しいアピール合戦になってしまうことは明らかだ。そんなもので「主体性」を測られたいか? 測るのが適切だなどと思っている人はどこにもいない。にもかかわらず、それをやることになっている。公式には。

 また例えば1・2は、これもまたそれぞれに学習の別の側面であるにもかかわらず、外側に表れている結果(例えばテストでの得点や小論文の出来や発言の適切さ)ではそれらが混ざった形で作用している。これを切り分けることの合理的な方法はない(例えばこの小問は「知識」で、こちらは「思考力」だ、などと振り分けることは粗雑で不合理だ)。そしてそこに3「主体的態度」が重なっている。高得点は1・2の能力が発揮されたからでもあるが、主体的に学習に取り組んだ成果でもある。テストの点数を1・2・3に分けることは原理的には不可能で、実際に設問によってそれを振り分けたりすることには、どうしたって現実的でない不合理が生ずるのだ。

 したがって成果は、1・2・3が複合的に働いているものと見なして、その評価は総合的にするしかない。


 三観点を分けて教師が適切に評価することは不可能だが、一方、生徒自身はそれを自覚できる。知識があるから漢字の問題を正解できたのか、努力して正解できたのかは自分でわかる。知っているからできたのか、考えて正解に辿り着いたのか、あるいはまた自分が主体的であるかどうかは、自分にはわかる。

 「学習へのフィードバック」という評価の目的は、本人にそれができるならば、機能はしている。

 教師は、三観点に分けた評価に手間をかけるよりも、三つの側面を意識した授業や学習課題を企画することに注力すべきである。例えば一問一答式に瑣末な知識を問うような問題ばかりのテストで成績を評価するのは1に偏りすぎている。一方的な知識の伝達に過ぎない授業は2・3の観点が欠落しているし、わいわい賑やかだが必要な知識の伝達されない授業も見直されるべきだ。

 三観点評価への移行には、そうした反省が期待されている。


 実際にこの学習評価とフィードバックが最も有効に働いているのは授業中だ。

 授業ではグループでの話し合いと、そこでの考察をクラス全体で検討する活動が繰り返される。話し合いに参加する姿勢や発表の意欲は3の観点から評価される。生徒同士は常にそれを評価し合っているし、当然自己評価もしている。あいつは積極的に発言しているなあとクラスメイトを評価し、自分が評価されていることを明確に感じ取っている。

 授業者も内心評価しているのだが、全員に対する公平な評価はできない。

 そこでの発言は、ある時には「よく知っているな!」(1「知識」)、あるいは「ああ、なるほど、そうか!」(2「思考力・表現力」)などと、自分の発言に対する相手の反応で、常に評価され、フィードバックしている。

 いずれはこれらの評価が何らかのテクノロジーによって自動的に数値化される未来もあるだろうが、少なくとも現状でもこうした評価は常時、歴然と行われている。

 したがって、学習と評価のサイクルは充分効果的に機能している。

 例えば教師がひたすら講義していて、生徒はひたすら板書をノートに書き写している、というような授業ではこうしたフィードバックは起こらない。

 三観点評価はそうした昔ながらの一斉講義式授業の改革を企図しているのだ。


2025年9月9日火曜日

小景異情 2

 語り手はどこにいるか?

 詩中で場所を表す4つの言葉のうち「みやこ」を挙げた者はごく少数だが、これはもっともなことだ。「みやこ」にいながら「遠きみやこに帰らばや」をどう解釈するのか、授業では聞きそびれた。どう解釈するのだろう。

 次に少ないのは「異土」を支持する人だ。そもそも「異土」って何だ?

 「異土」は少なくとも「ふるさと」ではない。どこかを「異土」と表現するアイデンティティは「ふるさと」を起点としていると考えるのが自然だ。

 それに「故郷で乞食になったとしても故郷には帰るまい」というのは意味がとれない。

 「都(みやこ)」は「ふるさと」と対義だから、「異土」と同一である可能性がある。「ふるさとは、都(=異土)で乞食になったとしても帰るところではない」なら意味がとれる。

 「異土」は「都」なのか? そうだとすれば「異土」支持者は「都」支持者でもあるのかもしれないが、「都」ではない別の「異土」にいると主張する人はどのくらいいたのだろう。

 授業中に訊いてみた感触ではほとんどいないらしいのだが、あえて問う。

 地方出身者が一度「みやこ」に出て、そこで「うらぶれて」、「みやこ」落ちしてさまよい、「異土」に流れ着いて「乞食」をしている時に詠んだ詩とは考えられないか?

 「ふるさと」には帰りたいが、やはり帰るべきではないと考え、もう一度「みやこ」に戻ろうと決意する…。

 状況的にはありうるのでは?


 反論はこうだ。

 「よしや(=もしも)」は仮定なのだから、異土にはいない。

 もっともな反論だが、さらに反駁としてこういう可能性を提示しよう。

 「よしや」は「異土にいる」ことではなく、「乞食になる」ことを仮定しているのだ。「みやこ」で食い詰めて、仕事を探して「異土」にさまよう。わずかな金も底をつきかけている。このままでは「乞食」にでもなるしかない。だが、「もしも」そうなったとしても「ふるさと」には帰るべきではないと考え、ふたたび「みやこ」に帰ろうとしている。

 ということで、現状は「異土」にいるのだ。

 この解釈は可能であり、否定する根拠を挙げるのは難しいはずだ。


 4つの言葉の関係については、まず「都」と「みやこ」が別なのか同一なのかが分かれているが、これは結局、どこにいるか、という解釈と結びついていて、場所の同一性だけを先に議論することはできない。

 それ以外のどの言葉とどの言葉が同じ場所を示しているのかも全体の解釈において検討する必要がある。

 イメージしやすくするために、具体的な地名をあててみよう。

 訊いてみたところ、「都」が東京を指すことに異論はなかった。

 「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使われない。東京出身者が東京に居続けるならば「ふるさと」という言葉は使われない。語り手は一定期間「ふるさと」を離れているのだ。「ふるさと」は東京から遠ければどこでもいい。千葉や埼玉や神奈川は「ふるさとは遠きにありて」のイメージとそぐわない。ここでは仮に室生犀星の出身の石川県にしておく。

 「異土」は、「都」と同じく東京を指していると考えるか、「ふるさと」でも「都」でもないどこかと考えるか。仮に滋賀県あたりをイメージしておこう。

 さて「みやこ」は?

 これは「都」と同じだから東京と考えるか、「ふるさと」と同じだから石川県と考えるか、だ。仮に金沢あたりをイメージしよう。

 これでおそらく3択か2択になったはずだ。

  1. ふるさと=みやこ(石川)・異土(滋賀)・都(東京)
  2. ふるさと=みやこ(石川)・異土=都(東京)←2択
  3. ふるさと(石川)・異土(滋賀)・都=みやこ(東京)
  4. ふるさと(石川)・異土=都=みやこ(東京)←2択

 これらはそれぞれ一体どのような解釈を示しているのか?


 多数派は1か2だ。

 1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」から、語り手は「ふるさと」から遠いところにいる。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。

 そして最後の「遠きみやこにかえらばや」とあるのは「ふるさとに帰りたい」という意味なのだ。つまり「遠きみやこ」(金沢)=「ふるさと」(石川)なのだ。

 この場合「異土」は東京であってもいいし、滋賀あたりであってもいい。「よしや」という仮定からすればむしろどこでもいい。


 一方3、4の支持者はこう解釈する。

 「みやこに帰りたい」と表現されるからには、このテキストの言葉を発している時点では「みやこ」にいないということになる。「みやこ」と「都」を区別せず、東京にはいないものとみなす。

 ならば石川か滋賀か。上記の通り「異土」説は支持者が少ないようなので、今現在「ふるさと」=石川=金沢に帰ったときにこの詩を詠んでいると解釈しているのだ。


 以上2つ乃至3つの解釈を比較する。

 普通はみんなそれぞれただ一つの解釈を思いついて、別の可能性を考えるわけではない。

 だがこうして授業の場には別の解釈をした人が居合わせる。両者が相対して、それぞれの解釈を認めつつその妥当性について検討すべきなのだ。

 「正解」を教えられることは何の学習でもない。


 さて、諸説の検討だが、「異土」説を殊更に主張したいわけではない。だが否定するなら否定する根拠を出すべきだ。

 上記の通り、「ふるさと」でも「都」でもない「異土」に、現在語り手がいるという想定はできないわけではないはずだ。

 だがこれは、いたずらに複雑な解釈を読者に期待しすぎている。

 それにこれでは「遠きみやこ」の「遠い」という形容がなぜ必要なのかがわからない。石川出身者が東京に出てきたが、うらぶれて東北あたりに流れて、「乞食」になりそうだということならば、東京は「遠い」?

 これも、そんな特殊な状況を前提しなければならない解釈は妥当性が低いと見なすべきだ。

 たとえば「異土の乞食になるとても」が「この異土の」とか「このまま異土の」「こうして異土の」だったらもう異土にいることが確定される。そうでなくても異土にいることが否定されるわけではないが、やはり「異土」説は、わざわざ主張するほどの妥当性があると考える必要はない。


 残りは大きく言って二つ。

 「都」にいて「ふるさと=みやこ」に帰りたいと言っている。

 「ふるさと」にいて「みやこ=都」に帰りたいと言っている。

 多数派は前者だが、妥当性は後者の方が高い。

 語り手は今「ふるさと」にいる。授業における授業者の見解を「正解」というのなら、正解は後者だ。前者の方が多数派であるにもかかわらず。

 なぜか? どう考えたらいいのか?


 そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのに無理がある。

 そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。

 だが、と反駁がある。ではなぜ「都」と「みやこ」は漢字と平仮名で書き分けられているのか?

 だが、それを言うなら「思う」「帰る」も、詩の中に漢字の箇所と平仮名の箇所がある。「うたふ」「ひとり」「ゆふぐれ」「こころ」なども、漢字でも書いてもいいだろうが平仮名で書かれている。それに対して「遠き」「悲しく」「涙」がなぜ漢字なのか。必然性はあるのか。

 結局、「都」と「みやこ」を区別する特段の理由など見つからない。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせているという解釈ならいいが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図があるとみなすことはできない。

 区別すべきだという主張は、「都」にいるという解釈を合理化するために考えられている。書き分けられているから別の対象を指しているはずだ、という主張は因果関係を逆転している。別の対象を指していると考える必要があるから(なぜなら「みやこ」が「ふるさと」でなければならないから)、「みやこ」と「都」は違う、と主張しているのだ。

 だが。その妥当性は低い。

 とりわけこの解釈では「遠いふるさと=みやこに帰りたい」と「ふるさとは…帰るところではない」の矛盾をどう解釈するかがわからない。

 この不整合を曖昧に看過することで、この解釈は成立している。


 それより「みやこ=都」に上京した地方出身者が、一時的に「ふるさと」に帰ったときに詠ったものだと考えるのが整合的だ。

 東京に出た地方出身者が夢破れて故郷に戻る。「うらぶれて」も、「異土」に流れていく仮定における形容だが、ここでの語り手の状況をもイメージさせるものと考えて良いはずだ。盆暮れの気楽な帰省くらいではこの詩の絶唱には釣り合わない。

 最初の5行で述べられるのは「ふるさとが懐かしい」などと軽々しく言える思いではない。「ふるさとは遠くで懐かしむべきものであって、決して帰ってはならない」と言っているのだ。どこかよその土地で乞食になったとしても、とまで言っている。

 「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」はそのまま読むと単に「都」にいる現在の状況を表現しているように読めるが、続く詩行を読めば、「そのこころ」の内容を言っているのだとわかる。そのような心を持って「ふるさとに帰ろう」と言っているわけではなく「都に帰ろう」と言っているのだ。


 こうしてまずは整合的な状況設定を読み取って、ではどういう「思い」を詠っているのか、と考える。

 さてでは、ここで述べられているのはどのような思いか?


 かつてのある生徒は、「ふるさと」に対する甘えを封印して、もう一度「みやこ」でがんばろうという決意を詠った詩だという解釈を語った。「みやこ」でがんばりながらなら、いくらでも「ふるさと」を懐かしんでいいが、実際に帰ってはだめだ、と自らを戒めている詩なのだ。随分前向きな決意だ。

 これも、状況に整合的な解釈のひとつだ。

 また最初の段階でE組M君の挙げた、この詩の情感が「嫌悪」だというのも、ここまでくれば何のことかわかる。そしてそれは「郷愁」と矛盾するわけではない。

 ここには故郷に対する愛憎半ばする複雑な思いがある。

 故郷は、遠くにいれば懐かしいのに、帰ってしまうとそこに嫌悪を抱く。

 帰ってみると、美しいふるさとの風景が、開発によってすっかり様変わりしてしまっていたのかもしれない。あるいは懐かしかったはずの故郷では、家族親戚の冷たい(あるいはなま温かい)視線に居心地悪い思いを抱く。そういえばかつて故郷にいた頃には窮屈な村の慣習に嫌気が差していたことなど思い出す。

 「小景異情」とはそういう感情を表している。目の前のありふれた風景に違和感を感じているというのだ。

 それなのに都会に出てみるとそんなことを忘れて、うっかり故郷を懐かしがってしまったりする。

 だがこの情感は「郷愁」を否定するものではない。「嫌悪」と「郷愁」は同居する。帰らずに都から思う故郷は美しく懐かしい。

 ここにあるのは普遍的な「幻滅」の感覚だと思う。幻は幻のままにしておいた方が良い。ふるさとは遠くで懐かしんでいるときこそが美しいのだ…。


 「ふるさとは遠きありて思ふもの」と語る語り手が「みやこ」にいるものとして読むのと「ふるさと」にいるものとして読むのとでは、意味する情感がまるで違う。「みやこ」に出てきた地方出身者が語っているのなら、単にふるさとを懐かしむ心情を述べているのだと読めるが、現に「ふるさと」に居る語り手が語るとしたら、それは苦い悔恨をともなった望郷だ。

 テキストの読解とはこのように、テキスト内の情報を整合的に組み合わせることによってできあがる全体像=ゲシュタルトを捉えようとする思考である。


小景異情 1

 4回にわたって詩を読解する。

 やることは評論だろうが小説だろうが同じことだ。まずはテキストから読み取れる情報を整合的に組み合わせて「読解」する。評論と小説と詩を読むためには、それぞれいくらか違う作法が必要だが、違った評論には違った作法が求められるように、評論を読むことと小説を読むことと詩を読むことには相対的な差しかない。

 そもそも中原中也「一つのメルヘン」と小池昌代「あいだ」を同一の作法で読める気がしない。

 「一つのメルヘン」は何となく「メルヘン」チックな雰囲気を味わえば良い詩のような気がする。いや、考えていけば何らかの読解が可能なのかもしれないが、そこに何らかの「意味」が読み取れることに確かな期待はできないから、何となくそれらしい幻想的な雰囲気を味わって、好きな人は好きだと言っていればいいんだろうと思う。

 それに比べて「あいだ」は、何となくで読んで良いも悪いもない。何を言っているかを明確に読み取ってからでなければ、好きも嫌いもないように感じる。そして、何を言っているかがにわかにはわからない。

 だから「あいだ」は考察に価するのだが、こちらに充分な確信と見通しがないので今回は扱わない。


 で、まずは室生犀星「小景異情」を1時間限定で読む。

 「小景異情」は百年以上にわたって日本人に愛唱されてきた詩でありながら、必ずしもその情感が正確に理解されているとは言い難い詩だ。それは、冒頭の一節だけが独立して引用されてしまうせいでもある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

 とりわけ一行目だけが口ずさまれることも多い。

 だがそれはどのような意味で人々に受け取られているのか?


 事前に考えておいてもらったのは2点。一つは次の問い。

この詩はどのような思いを詠っているか?

 先回りして言うと、この問いに、上の一行目のみをもって答えるのと、詩全体の読解をもって答えることがどれほど違っているかを示し、もって「読解」というものを実感してほしい、というのがこの詩を最初にとりあげる狙いだ。

 「どのような思い」というのは「ふるさとを思って涙ぐむ気持ち」「遠い都に帰りたいという気持ち」などと答えるだけでは不十分。

 こういう時は、何らかの抽象化した表現を求めているのだ。

 課題では、一単語で、と指定した。どんな言葉?


 最初の方で授業が回ってきたクラスでは2列くらい回して訊いてみたのだが、大体出揃った気がするので、後のクラスではこちらから提示した。

 一つは「郷愁・望郷」系統。これは、この詩のもつ情感として世の大方の人の納得するところだろう。

 もう一つは「悲哀」系統。こちらはさらに「何がどう悲しいのか」が問われると思ってほしい。

 ほとんどの人がこの2系統のどちらかで、明らかにそれ以外の情感を提示したいという人は、今の時点で挙げておいて、と言ったところ、E組M君が名乗り出て、次の語を挙げた。

嫌悪

 ? これは一体何のことか?


 さてもう1点、この詩の読解において決定的な糸口になるのは次の問いだ。

語り手はどこにいるか?

 「語り手」は「作者」とは違う概念だ。室生犀星本人は遙か昔に死んだ人であり、もうどこにもいないし、この詩を書いた時点でどこにいたかもどうでもいい。

 そうではなく、この詩に潜在的な一人称を想定し、その「語り手」のいる場所を考えようというのだ。

 「場所」の選択肢は文中から選ぶ。文中から、場所を表す言葉を順に挙げる。

  • ふるさと
  • 異土
  • みやこ

 訊いてみると、4つそれぞれを支持する者がクラス内にいる。

 事前に課題としてこの問いに答えてもらっているが、それぞれを挙げた人数は以下のとおり。

  • 都 162
  • 異土 41
  • ふるさと 48
  • みやこ 7

 これ以外にはあれこれ形容のついた表現になっているので、実際は「都」がもうちょっと多い。

 ともあれ意見は分かれている。これは議論しがいがある。


 だがその前に、なぜ漢字の「都」と平仮名の「みやこ」が選択肢になっているのか。これらは別なのか。だが別だと主張する人は多い(どころかクラスの大半の者が主張することも)。「都」と「みやこ」が同じだと考えれば3択だが、別だと考えれば4択だ。

 だが、さらにこれらのうちの別のどれかとどれかは同じものを指しているとかいう解釈も可能かもしれない。だとすれば、これはどのような選択肢なのか。4択か3択か、あるいは2択かもしれない。それもまだ確定されてはいない。

 こんなふうに意見が分かれてしまうのは、この詩において、語り手がどこにいるかを読み取ることは、案外に難しいからだ。わずかこれだけのテキスト情報しかないというのに。

 いや、情報量の問題ではない。あるいはむしろ情報量が少ないから場所の確定ができないとも考えられる。


 「語り手」とは時として一人称で文中に登場していることもあるが、明示的には表われていなくとも、潜在的にはその言葉を語っている者として、どこかにはいる。

 それが抽象的な存在であって、それほど重要ではない場合もあるが、テキストによっては重要だ。

 とはいえ例えばこのブログのような文章では、語り手の「場所」などそもそも問題にはならない。特定する必要もない。

 だが、フィクションの享受においては、語り手のいる場所が、解釈に決定的な影響を及ぼす場合がある。いや、論説でも、空間的な意味での「場所」ではなく、比喩的な意味での「立場」というなら大問題だ。どういう立場の人が言っているかで、その見解・意見・主張は全然違って見えるはずだし、見なければならない。

 テキストは、位置づける文脈によって意味を変える。

 このことを、今回の読解では「語り手のいる場所」という問題を通じて実感してもらう。


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