2025年4月30日水曜日

共に生きる 5 「つながり」と「ぬくもり」

 5つ目に読み比べる文章「『つながり』と『ぬくもり』」の筆者が鷲田清一(きよかず)だと聞いて、その名に反応してほしい。「真の自立とは」の筆者だ。

 授業で読んだ文章の筆者を覚えておくことは有益だ。次に問題集であれ模試であれ、大学入試であれ、同じ人の文章が出題されたときに、読むための構えができる。内容的に重なっていることも少なくない。初めて読む文章でも、そうした構えがあると入りやすい。鷲田清一は入試でも頻出の論者なので、できれば記憶にとどめておこう。


 さて、この文章を「読み比べ」よ、と要求されるのは、かなり難易度が高い、と感ずるはずだ。急に抽象度が増して、手応えがはっきりしない。こういう随筆的な文章は、論理的な評論文よりも趣旨がつかみにくいのだ。

 実はこの文章は旧課程(令和3年度まで)の2,3年生が使っていた「現代文」の教科書にも収録されていて、そこでは3年生が読む想定になっている。確かに1年生にはちょっと、とっつきにくい。

 だがまずは「同じこと」を探さないと「比べ」ようがない。

 共通点は?


 題名に「つながり」とある。もちろん他者と、だ。

 そう、これも「他者とのつながりは大事だ」という認識が共有されているのだ。

 さてもう一つ、いとぐちになりそうなのは「できる/できない」だ。ということは「真の自立とは」と「共鳴し引き出される力」とつなげて考えることができるかもしれない。

 だがそもそも「つながり」と「できる/できない」の関係が把握しにくい。これは「真の自立とは」でもそうだった。これまでの文章と関係づけるより前に、まず「『つながり』と『ぬくもり』」の内容把握が必要ならばやっておく。

 「つながり」「できる/できない」それぞれを使って、15字以内くらいの要約をしてみよう。その後、それらを関係づける。

  1.  現代人は「つながり」を求めている。
  2.  「できる/できない」で自分の価値を決められるのはつらい。

 これらはどういう関係か?

 感触として、逆接関係であると感じられるだろうか。同時に因果関係でもある。

 「できる/できない」が「自分の存在意義」を決めることと「つながり」が「自分の存在意義」を決めることは、反対方向だ。これを表現してみよう。

人は、ほんとうは「つながり」の中で自分の存在を確かめたいのに、「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえない。

 因果関係はどうか? 2が原因で、その結果として1になっていることを表現する。

現代人は「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえないので、無条件に自分を認めてくれる他者との「つながり」を求めている。


 さて、読み比べてみよう。

 「真の自立とは」は同じ鷲田の文章なので、ここは伊藤亜紗と鷲田が、「できる/できない」という対比と「つながり」を用いてどのような論を展開しているか比較してみよう。

 伊藤・鷲田に共通するのは、雑に言えば、「できる/できない」で分けてしまうのは良くない、といったような認識だ。「できない」と言われて排除されるのはつらい。

 鷲田の文章では、だから人は「つながり」を求めてしまうのだ、とつなげるか、それは人々の「つながり」が薄れてしまっている現代において起こった現象だ、とつなげるか。

 伊藤の文章では、個人で「できない」としても、他人との「つながり」の中で「できる」ことが大事だ、などとつなげることができる。


 ところで「できる/できない」を、それぞれの文章ではどのような言葉に言い換えているか?

 伊藤の文章では「能力」がそれにあたる。

 鷲田の文章ではそれが「資格・条件」という言葉で表現される。

 ここから「できる/できない」で分けるのは良くない、だからどうすると言っているのか、と考えてみる。

 伊藤は、「できる/できない」は、個人の「能力」のことを言っているから良くないのであって、他人との共鳴の中で「できる」ようになることもあるといい、そのような「能力」観を提示している。ここでは「能力」をめぐって「個人/他人との共鳴」という対比がある。

 鷲田は「資格・条件」で価値付けられるような社会の息苦しさから、若者は「他者による無条件の肯定」を求めるようになっている、と言っている。「できる/できない」という評価基準そのものからの離脱を述べているのだ。対比は「資格・条件/他者による無条件の肯定」だ。


 さてだが、単に「並べる」ことと「比べる」ことは違う。並べられても、だからどうだというのかわからない、ということもある。関連づける観点を示さないと、「問題」が見つからない。

 例えば、伊藤の主張は「できない」としても誰かの助けでできればいいのだ、という「行動」面についての主張をしていて、鷲田は「できる」ことを求められるとつらいので他人との「つながり」によって自分の存在を確かめたくなるといった「精神」面について論じているなどとまとめることができる。「行動/精神」といった対比を用いて、二人の論の違いを示す。

 あるいは、伊藤の「できる/できない」は障害のある方が「できる/できない」ことを問題にしており、鷲田は若者や子供が「できる/できない」で悩んでいることを問題にしている、と対比することもできる。論の対象となっている対象者の範囲の違いを示す。

 こうした、対比的な言葉をそれぞれの文章に対応させて比較するのも有効だ。


2025年4月24日木曜日

共に生きる 4 ほんとうの「わたし」とは?

 「自立」をめぐる三つの文章は、最初から読み比べることを意図して並べられている。そこに、読み比べることが適切かどうかが保証されていない文章をぶつけてみる。

 「ちくま評論入門」の「ほんとうの『わたし』とは?」(松村圭一郎)を読み比べる。そういう意識で読んでみると、ただ単独で読むのとは違ったように読めるはずだ。文章を読むという行為は、こちらの姿勢次第でかわる主体的なものなのだ。

 ここで論じられている問題は、自立をめぐる三つの文章とどう「読み比べ」られるだろうか?


 「読み比べ」によって何か考えるためには、まずは共通点が入口となる。どうやって共通点を見つけたらいいか。

 自然とみんなの中に想起されたフレーズは「他者とのつながり・かかわり」という表現だ。

 教科書の三つの文章を読んだ後の頭で「ほんとうの~」を読めば「他者とのつながり」(=ネットワーク)という表現がアンテナに引っかかるはずだ。


 ではそれぞれの文章のテーマ(モチーフ)を一単語で言うと?

 「真の自立とは」は、そのまま「自立」がテーマ。

 「自立と市場」を「市場」がテーマだということはできない。「市場とは?」という問いを掲げているわけではないのだ。言うならば、「市場」が「自立」に果たす役割とは? といったところだろうか。

 さらに「共鳴し引き出される力」は「能力」がテーマだ。「能力とは?」が問われている。

 同様に「ほんとうの「わたし」とは?」では「わたし」がテーマなのだと言える。「ほんとうの『わたし』とは?」と「真の自立とは」という題名は同じ構文ではないか!

 「自立」と「能力」と「わたし」が、どのような意味で同一視できるのか?


 ここに「他者とのつながり」を使えば「自立」「能力」「わたし」がそれぞれ説明できる。

 共通性を示すためには、それぞれを同じ文型で表現してみる。

 「真の自立とは」では「真の自立とは相互依存ができることだ」というのが、その主旨の最もシンプルな表現だった。「相互依存ができる」とは「他者とのつながりがある」ことそのものだ。また「市場」とは、多くの他者と緩いつながりができる場だ。

 「能力」は「他者とのつながり」によって「引き出される」。

 「わたし」は「他者とのつながり」によってできあがっている。


 「自立」「能力」「わたし」が主語となる文を共通して作れることはわかったが、では「自立」「能力」「わたし」の三つは、そもそもどういう関係にあるか?


 ここでは、共通する述語の部分を反転させて対比をとる。「他者とのつながりがある」の反対は「ない」だ。つまり「個人は独立している」というテーゼだ。完結した個人、というイメージ。

 すなわち、「能力」は完結した個人に属するのであり、そうした「能力」を持つ者こそ「自立」できる。「わたし」のアイデンティティは完結した個人としてイメージされるが、それは例えばある「能力」を持った者、という形で把握される。私は料理ができる、サッカーが上手い…。

 こうしたイメージを反転したのがこれら4つの文章だ。


 もう一つ、共通点といえば「ほんとうの~」の文中に「引き出される」という言葉が傍点付きで登場する。当然「共鳴し引き出される力」が連想される。

 この連想は有効か?


 直ちに同じことを言っていると断言することはできない。何が「引き出される」かが違う。

 「共鳴し~」では、そのまま「力」だ。能力が「引き出される」のだ。

 「ほんとうの~」では「わたし」が「引き出される」。

 引き出される対象は同一ではない。だがそれらを重ねていくことはできる。

 「能力」は「わたし」を構成する一要素であり、それは「わたし」の中に完結するものではなく、他者とのつながりの中で形成されるものだ。

 個人として優れたサッカープレーヤーでなくとも、自分のいるチームがチームとして強ければ(別に強くなくても楽しければ)、その一員としての「わたし」のアイデンティティは成立する。伊藤亜紗が提示しているのはそうした「能力」であり、松村圭一郎はそうした「わたし」を「分人」というイメージで語っているのである。


2025年4月20日日曜日

共に生きる 3 自立と市場

  読み比べのもう一つは、教科書では二つ目に収録されている「自立と市場」(松井彰彦)だ。

 「自立/依存」をめぐる論旨と「市場」は、何の関係があるか?


 端的には、自立に有益な依存先のとして市場が挙げられている、と捉えられればいい(こういう言い方がすぐにできるのが、国語力の高い人だ)。

 さてそのように捉えられる市場の特質は文中でどう言われているか?

 2点に分けて挙げる。

 文章の中ではこの「2点」は文脈に埋もれてしまって目立ちにくい。あえて二つの要素を分離する。

 ここで述べられている市場の特質とは次の2点。

  • 選択肢が多いこと
  • つながりが緩いこと(文中では「しがらみがない」)

 これらが市場の特質だというのだが、それぞれ対比をとるなら

  • 少ない/多い
  • きつい/ゆるい

 の左辺が、自立にとって好ましからざる性質であるということだ。

 そうした性質をもっているのは何か? すなわち、「市場」と対比されるのは何か?


 文中に適切な言葉はない。

 文中では対比的な位置に「命綱」という言葉がある。

太いが切れたら終わる一本の命綱に頼っていた生活から、緩いつながりで形成された支援の市場の網の目に支えられる生活となる

 確かにここでは「命綱」と「市場」が構文上、対比されているが、「命綱」は比喩だ。「市場」という言葉と、概念の階層が揃っていない。

 例えば「命綱よりも市場の方が自立の助けになることがある」という文は、何を言っているか、よくわからない。これは「命綱」が「市場」と対立的な概念として揃っていないことを表わす。


 「市場」と対比される側に、二つの例が挙げられている。何か?


 文中で語られる例は、前半の「熊谷さん親子」と、中盤の「小十郎と商人」だ。これらを括って一般的に言える言い方を考えよう。

 対比をとるには、概念レベルを揃えることが大切だ。

 「親子/市場」「小十郎と商人/市場」は対比的だが、それらをまとめて、「市場」と釣り合う言葉で表そう。

 ということで「個人的な関係」あたりがいいだろうか。「個人的な関係」という表現は、抽象度を一段上げた概念を表わしていて、「親子」も「小十郎と商人」もその具体例だ。

  • 個人的な関係/市場
  • 選択肢が少ない/多い
  • 結びつきがきつい/ゆるい

 この対比を前の二つの文章の対比と結びつけてみよう。

 「リーダー/フォロワー」の左辺が否定的であることと、上記の対比の左辺が否定的であることはどのように並べられるか?

 「リーダー/フォロワー」の左辺の否定的側面は「社会・組織のもろさ」だった。「自立と市場」ではまず何が問題になっているかを適切な言葉で考える必要がある。

 熊谷さんと小十郎の何が問題か?

 「生活」くらいの言葉がちょうどいい。

 さて、うまく並ぶか?


 左辺に共通しているのは、依存先が少ないことだ。リーダーが強い集団は、それだけリーダーへの依存が強くなる。

 すると、「組織」も「生活」も「もろくなる」。依存先に不都合が起こったら、あるいは関係が悪化したら、組織も生活も存続が危うくなる。


 もう一つ、「予防/予備」もこの文章の例とうまくむすびつく。どちらか?

 もちろん「なめとこ山」よりも熊谷さん親子だ。

 どう結びつける?


 熊谷さんの母親は、もちろん息子の自立を目指して厳しい教育をした。だが現実的な限界もあって、時には熊谷さんのチャレンジの機会は制限されただろう。心ならずもリスクに対する「予防」をしたのだ。

 それに対して、上京した熊谷さんは多くの支援者を得た。これこそ、自立を助ける「予備」のネットワークだ。


 つながりが強い・きついと過度の「依存」に陥る。多くの「依存」先とゆるくつながっている状態が安定した相互依存を可能にする。

 つまり「市場」は、ある時には「自立」の助けになるのである。


2025年4月17日木曜日

共に生きる 2 共鳴し引き出される力

  「共鳴し引き出される力」(伊藤亜紗)には「自立」という言葉は出てこない。だがその主張は上の二つの文章と濃厚に重なっているように思える。

 この文章の主張をまとめ、それと「自立」というテーマの関わりを示そう。


 この文章にも「できる/できない」「ネットワーク」がキーワードとして登場する。そこにもう一つ、この文章独自の論点を表わすキーワードを加えて、それらを使ってこの文章の論旨を語ってみよう。

 どこのクラスでも共通して挙げられたのは「能力」という言葉だ。これは題名の「引き出される」のことだろうという見当はつくし、「できる/できない」との関わりも明らかだ。

 これらのキーワードを使って本文の趣旨を語り下ろす。


 「能力」は普通は個人に属するものだと考えられている。だが、他人との「共鳴」の中で引き出される力を、あらためてその人の「能力」と言ってしまってもいいのではないか。

 つまり独りで「できない」のなら他人との「ネットワーク」の中でできるようになってしまえばいいのだ。

 そのような新たな「能力」観を提示しているのがこの文章だ。


 ところで文中には「予防/予備」という対比も登場する。

 では「予防/予備」という対比を使って語られているのは?


 「能力」を「個人に属するもの」と考えるのが「予防」思想だ。その人が「できない」なら、困らないよう守らなきゃ、と考える。障害を「防ぐ」思想になる。

 だが「能力」を「ネットワークに属するもの」と考えるのなら、そのネットワークを「備える」ことが重要なのだ。

 したがって、この対比は、能力観をめぐる「個人/ネットワーク」という対比に対応しているということになる。


 これを「真の自立とは」の「リーダー/フォロワー」の対比とつなげて考えてみよう。

 まず、鷲田が「リーダー/フォロワー」という対比を用いて語ろうとしていることと、伊藤が「予防/予備」という対比を用いて語ろうとしていることが、とても似ている、という感触を、自分の中で確かめてみよう。

 両者はどんなふうに「似ている」か?


 「リーダー/フォロワー」の対比は「大事なのは予防ではなく予備だ」と同じく「大事なのはリーダーシップではなくフォロワーシップだ」と表現される対立的対比だ。この形で並べるときには、右辺を肯定的に取り上げるために、左辺が対比的に否定される。

 対比の左辺、「予防」と「リーダー」を直接結びつけることは難しい。だが右辺の方が容易だ。両者の共通性はどう表現できるか?

 右辺の共通性が語れたら、左辺がどのような意味で否定されるのかを本文から確認しておこう。「予防」「リーダーシップ」はどうして否定されるか?

 最後にそうした左辺の問題に潜む共通性を語る。


 本文では「失敗を未然に防ぐよりも失敗が起きたときにそれをネットワークの中で解決できるように備えておくこと。」の後に「予防ではなく予備」と言っている。単なる言い換えだということはわかる。

 「予備」とは、まさしく何かあったときにみんな(ネットワーク)で「フォロー」するというリスク管理のあり方だ。

 鷲田が重要視する「フォロワーシップ」もネットワークのことだ。

 両者は同じ主張をしている。


 さて「予防」が否定的に語られるのはなぜか?

 直前の「そうした忖度(=予防)が結局、当事者の自由やチャレンジする機会を奪い、ますます無力にしていく」に「から」をつけるだけでいい。

 一方「リーダーシップ」が否定的なのは?

 文中には「もろい」という否定的な形容が使われている。

 この「予防」「リーダーシップ」両者の否定的側面を直接繋ぐことは難しい。どのクラスの発表を聞いても、適切で自然な説明がすぐに提示されることはほとんどない。

 なぜか?

 

 人称が違うからだ。

 各クラスで発表を聞いていても、しばしばひっかかるのは、「リーダー/フォロワー」が直接の主語になりすぎることだ。

 「リーダー/フォロワー」で語られる趣旨の主語は前項で確認したとおり「社会組織・集団」だ。

 「予防/予備」の対比は、個人的な関係において語られているから、その人称の違いを意識して並べないと「リーダーが成長できない」などといった微妙な表現が相次ぐことになる。


 人称を意識して、両者を繋ぐ。

予防によって危険を避けることは、当事者をますます無力にする。
リーダーシップが重視される社会・組織は、リーダーへの依存が高まってもろくなる。

 これで二つの対比の左辺を繋ぐことができた。

 ここからさらにもう一つの「自立と市場」を参照して、この問題を再考する。


2025年4月14日月曜日

共に生きる 1 真の自立とは

  我々が使用する東京書籍「現代の国語」教科書の読解編4「共に生きる」という単元には三つの文章が並べられている。

 「単元」?

 授業の流れのあるまとまりを「単元」と言う。教科書は三つくらいの文章をひとまとめにして一つの単元として編集されている。

 この単元は「共に生きる」というテーマの共通性によって括られているのだが、実はこの単元はそれ以外に明らかな企図がある。

 文章の読み比べだ。


 授業で評論を読むときには、ほとんどの場合、複数の文章を読み比べる。

 最初の「授業を始めるにあたって」で、教材の文章を理解することは授業の最終的な目的ではないと述べた。とはいえ、理解しようと思って読むべきではある。だが「理解しようと思って読む」というのが、何をすれば良いのかは、実はわかったようでわからない。

 そこで何かしらの課題を投げる。問いをかける。

 それに答えようとすると、その前提として理解せざるをえないように課題を設定するのだ。「理解する」を最終目標ではなく、途中経過に置く。

 その課題の一つとして、文章の読み比べを設定する。

 比べることは人間の頭の働きの基本的な形式だ。

 それそれであることは、それ以外のものとそれを比べることによってしか認識することができない(意識的にであれ無意識的にであれ)。

 単に一つの文章を「理解する」のではなく、複数の文章を読み比べると、読み比べることによってその文章を明晰に読むことができる。

 

 読み比べる時には、まず共通点を探す。

 違う文章は違うことを言っているに決まっているので、まずは比べるために共通の土俵を用意する。共通点がなければ比べることはできない。

 この単元の三つの文章は読み比べるために設定されているので、共通点が比較的容易に意識できる。それは何かと聞きたいところだが、教科書で既に解説されている。

 しかし敢えて訊く。20字以内くらいの簡潔な一文で言え。


 これもまあ教科書に書いてはある。三つの文章に共通した主旨は例えば次のように表現できる。

自立とは相互に依存することだ。

 文章が書かれるには、書かれるべき動機があるはずだ。文章は通常、そのことを知らない人か、そのことに反対する人に向けて書かれる。知らない人がいない、反対する人がいないことを文章に書く必要はない。だから文章の主旨は、潜在的にであれそれに反する主旨に対立するように書かれている。それを意識すると、その文章の主旨は明確になる。

 これは、どのような主張に反しているか?

 実は教科書では丁寧に、これがどのような通説に反しているかも解説している。通常「自立」とは「依存しないこと」という意味だが、それを敢えて逆転させて「依存すること」と言っているのだ。

 そこで、上記を「~ではなく~」という文型で言ってみる。

自立とは依存しないことではなく、相互に依存することだ。

 このように、本文の主張がどのような見解に対する反論なのかを意識することは、上の「読み比べ」同様、比べることの重要性そのものである。


 さて、共通点が既に指摘されてしまっているので、あとはそれぞれの文章独自の論旨・論理展開を概観しよう。



 三つの文章は共通して「自立とは相互に依存することだ」という論旨を語っている。

 ではそれぞれの文章は、どのようなモチーフ、どのようなキーワード、どのような観点から、そうした主旨を述べているか?


 ここでも「比べる」ことを意識する。文中に登場する対比を手がかりに使う。

 評論における対比の重要性は、上の「読み比べ」の有効性と同じ原理だ。それが何であるかは、それ以外のものとの比較でしか捉えられない。

 最も重要な対比は言うまでもなく「自立/依存」だ。「自立」について語ろうと思ったら「依存」との対比において語るのは必然なのだ。それは既に上の「共通した論旨」で語られている。

 あと二つ、と言えばすぐに見つかる。

できる/できない

リーダー/フォロワー

 これらの対比を使って、上の主旨を語ってみよう。


 まず「できる/できない」。

 自立とは通常、独りで「できる」ことだと見なされる。「できない」のなら依存するしかない。

 だが必ずしも独りで「できる」必要などないのだ。独りで「できない」のなら誰かと協力して、相互に依存しながら「できる」ようにすればいい。それが「自立とは相互に依存できること」なのだ。


 「リーダー/フォロワー」の方がやや難しい。

 いくつかのクラスでは「リーダーとフォロワーが互いに依存しあって『できる』ようになればいいのだ」といった言い方で説明する発表が相次いだ。

 まちがってはいない。だがこの言い方では「リーダー/フォロワー」という対比がどうして措定される必要があるのかわからない。リーダーかフォロワーかに限らず誰でも、互いに依存しあうのが良いのだから。

 ここは例えばこんな風に言ってみる。

 リーダーシップが大切だと世間では言われている。だが本当に大切なのはフォロワーシップだ。フォロワーは「依存」する存在ではなく、相互に助け合う役割をもっているのだ。

 このように「普通は~だと考えられているが」とか「~ではなく」といった言い方こそ、繰り返し言っている通り、比べることで意味が明確になる、の実例だ。


 ところでこれは誰の「自立」のことを言っているのか?

 「リーダー/フォロワー」という対比が示すことがらが捉えにくいのは、それが誰の「自立」のことを言っているのかがわからないからだ。リーダーが自立するのか? フォロワーが自立するのか?

 どちらでもない。

 これは本文から一語、という指定をすると「社会」という言葉が飛び交った。

 ことは個人の自立にとどまらず、「社会」の問題なのだ。


よく読まれている記事