2022年12月15日木曜日

視点を変える 4 少女たちの「ひろしま」

  さて「木を見る…」と、教科書のいう「関連教材」、「少女たちの『ひろしま』」をどのように読み比べるか?

 まず、両者の主旨を、共通する一文で表現してみよう。関連しているとは、共通部分があるということだ。

視点を変えると物事は違って見える。

 だいたいこんな言い方になるはずだ。これをスキーマとゲシュタルトという語を使って言うと?

スキーマが変わると違ったゲシュタルトになる。

 「スキーマ」と「ゲシュタルト」という言葉がどんな概念なのか、だんだんつかめてきたろうか。

 「スキーマ」とは言ってみれば「見方」のことで、「ゲシュタルト」は「見え方」だ。見方を変えると見え方は変わるのだ。


 さて、そうした言い方では、両者は共通しているが、では、それぞれの文章は、具体的にはどのように見方を変えると、どのように見え方が変わると言っているのか? 両者に相違はあるんだろうか?

 対応している要素を比べてみよう。

 だが何を比べるのか? 何と何の「対応」を比較するのか?


 こういう時には例によって対比を捉える。

 ただし今回の対比は「対立」ではなく「並列」だ。

 対比の多くは「対立」だ。「AではなくB」というとき、「A/B」は対立構造にある。Bのことを言いたいときに、Aを対立項として比較することでBの輪郭が明確になる(こうした対立構造もスキーマのひとつ)。

 一方、複数の項目をそれぞれ対等に扱うのが「並列」や「類比」だ(「並列」と「類比」の違いはまたいずれ)。

 今回の「視点を変える」では、どのような「視点」なのかを対比的に捉えよう。


 「木を見る…」では「視点」の「角度」と「倍率」を変える、と述べられている。対比としては「角度」についての言及は少ないので割愛して「倍率」の方のみ書き出してみる。

  全体/一部

遠くから/近づいて

 ひいて/寄って

といったところか。

 一方、見え方がどう変わるかといえば、「全体」を見るときには「まとまり」として見るのだと言っているが、それに対比される「一部」を見るとにどう見えているかは詳述されていない。「葉っぱの一枚一枚」「瞬間ごとに移りゆく模様」「光と影のゆらめき」といったイメージは提出されているが、それを抽象化した言葉が見つからない。むしろ「アリの目に世界はどう見えているか」と、疑問を呈して終わっている。


 さて問題は「少女たちの『ひろしま』」の方だ。ここではどのような「視点」が対比されているか?

 これは簡単にはいかないはずだ。一単語の対比で済むわけではないし、文中から容易く抜き出せるものでもない。いろんなレベルの表現を重ねることで、しだいにその視点の違いが捉えられる。

 対比が「視点(スキーマ)を変える」と「見え方(ゲシュタルト)が変わる」のどちらなのかを考えながら挙げてみよう。

 例えば

暗い/明るい

という対比が挙がるが、これはそのように視点を変えたというより、ある視点から見たときの印象の違いを表している。

 ではどのような視点の違いがここでは対比されているか?

 対比を挙げる時は、概念レベルを揃えよう。例えば名詞、動詞、形容詞などと品詞を揃えるとか。なるべく。

 一人三つ以上、班で5~6個、などと言ってみると、クラス全体では十数個の対比的な表現が挙がってくる。そのようにいくつもの言葉を重ねることで、視点の違いによる見え方の違いが捉えられてくる。

  歴史/生活

  戦争/日常

  悲惨/美しい

  史料/日用品

 これをひとつなぎにしてみると、「歴史」といった大きく物事を捉えようとすると、その服は「戦争」の「悲惨」な爪痕を示す「史料」と見えるが、一「生活」者の視点から見ればそれは戦時下を生きる少女たちの「日常」を想起させる「日用品」として「美しい」ものに見える…。

 実は挙げてみると、思いのほか「見方」と「見え方」の区別は明確ではない。「戦争」は「見方」か「見え方」か。どちらともいえる。「歴史」とか「政治」とかいうスキーマで見たときにそれが「戦争」というゲシュタルトを現すのだと言ってもいいし、「戦争」というスキーマから見たときに、服が「悲惨な過去」を示す「史料」として見えると言ってもいい。

 クラスによっては面白い対比が提起されたりもした。

  作家/一女性

 という対比は、まさしく視点の違いを指摘している。これは筆者・梯さんの中の視点の対比だが、これを

 梯さん/石内さん(写真家)

 という対比で表現した人もいた。なるほど。梯さんには服が「悲惨な戦争の史料」に見えているが、写真を撮った石内さんは「若い娘の密かなおしゃれ」として見ている。その時、その服の主は、

 被爆者/一少女

としてその姿を現す。


2022年12月4日日曜日

視点を変える 3 「わかる」とは

 「スキーマ」という語は文中に一度しか出てこないが、語注を参考にするとして「枠組・図式」と言い換えが可能だと心に留めておく。5頁の記述では「パターン」がこれにあたる。「型」もいい。

 「ゲシュタルト」は語注では「まとまり」「構造」と言い換えられている。

 さて、これらを使って、「認識とはどういうことか?」に答えてみよう。


 認識とは、外界の情報を、あるスキーマにあてはめて、ゲシュタルトを構成することである。

 こうしたシンプルな表現がまず難しいのだが、そこがまあ国語的練習だ。

 これを「見る」と「読む」の例に適用する。


 「木を見る、森を見る」では次のように言えば良い。

人は、例えば「顔というスキーマ」にあてはめて、外界の様々なものを「顔」というゲシュタルトとして見る。

 「顔というスキーマ」とは、何かの要素が逆三角形に並んでいるということだ。何かの要素がそういう配置に並んでいると「顔」に見える。人物の背景に幽霊が写っているといったような心霊写真に見られる現象だ。それがゲシュタルト(まとまり・構造)ができている状態だ。

 授業で考察した「小説を読む」も同じように表現してみる。

人は小説を「物語」の型にあてはめて「物語」として理解する。

 必ずしも厳密にスキーマがどの語に対応している、ということではない。

人は小説を「欠落→回復」の型にあてはめて「物語」として理解する。

でも

人は「第一夜」を「物語」の型にあてはめて「ハッピーエンド」として理解する。

でも良い。「物語」はスキーマでもありゲシュタルトでもある。

 「~として」捉えるときに採用する枠組・型・図式が「スキーマ」で、つまりスキーマとは様々な抽象度で、いくつもあるものであり、予め用意されているものだ。そしてそれによって構成された構造が「ゲシュタルト」だ。つまりその都度、そこにできるものだ。


 これをもっと敷衍して言えば、一般的に我々が何かを「わかる」とは、対象をあるスキーマにあてはめるということだと言える。あてはまるようなスキーマをもたないとき、対象はゲシュタルトを形成できず、「わからない」。

 例えば国語では読解力があるとかないとか言うが、読解できるということは、何かの枠組・型・スキーマに、文章の情報をあてはめることができるということだ。そうしたスキーマを豊富にもっていて、うまくあてはめられることが「読解力が高い」ということだ。


 これは、その理解が正しいことを意味しない。誤解もまた主観的には「わかる」ということだからだ。

 「羅生門」を「エゴイズム」というスキーマにあてはめて「人が生きるために持たざるをえないエゴイズムを描いた小説」だと理解することも、「観念」というスキーマにあてはめて「支配されていた観念から抜け出て現実を直視する小説」だと理解することも、それぞれに「わかる」ということだ。

 実際にはスキーマは様々なレベルで複合的に働いていて、それらの様々な「理解」の整合性が全体としての「理解」の正しさを保証する。「羅生門」を「エゴイズム」で読むことは、他の様々なスキーマ(例えば「登場人物の心理を描くことには相応の意味がある」とか)による理解と不整合だから間違っているのだ(たぶん)。


 「夢十夜」の「第六夜」、「先だっての暴風(あらし)で倒れた樫」が、「外国文化の流入でなぎ倒された明治日本文化を隠喩している」と読むのも、「第六夜」を「明治文化批判」というスキーマで読んだときに構成されるゲシュタルトだ。不規則な白黒模様が「ダルメシアン犬」というスキーマを与えられたとたんにゲシュタルトを成すように、この「あらし」は文明開化のことを意味していると考えると、もう、そうだとしか思えない。

 それは、3点の配置を無理やり「顔」に見立てる怪しげな心霊写真とは違って、「ダルメシアン犬」の絵くらいには信用して良い。それに比べれば「暁の星」は女の象徴だというような解釈は心霊写真レベルだ。


視点を変える 2 認識とは

 「木を見る、森を見る」はまた、授業の考察内容とも共通した趣旨が述べられている。茂木も小林も授業の一環で読んだのだから、まあそれを扱った授業の内容と重なってくるのは当然だが。

 さて、「夢十夜」の授業ではどんな考察をし、それが「木を見る」のどんな論旨と重なるか?


 あまりにあてもないと考えようがないので、「第一夜」の最初の2時限だ、と誘導した。教えられる前に気づいた人は偉い。

 茂木・小林の文章は4回目あたりに配ったものなので、その前、「形容と描写を抜く」の前だ。授業ではどんな問いを発して考えさせたか?

「主題」を考えることと「要約」することはどう違うか?

「物語」とは何か?

 これら二つの問いによって、もっと大きな枠組としては何について考えたか?


 「第一夜」に入って繰り返してきたのは次のような問いだ。

「小説を読む」とはどういうことか?

 上の二つの問いに対する考察から、この問いについてどのような知見が得られたか?

 一方で「木を見る、森を見る」の何をこれと重ねることができるか?


 「木を見る、森を見る」からは次の問いに対する答えを抽出すれば良い。

「ものを見る」とはどういうことか?

 

 実は「小説を読む」と「ものを見る」を重ねることは、上記の、茂木・小林との比較でも考えたことだ。「見る」ことは「要約」と「視覚的アウェアネス」の両面があり「小説を読む」もそうだ、という。

 だが「第一夜」の最初の2時限はまだ「視覚的アウェアネス」の面について考察する前の部分だ。そこではどんなことを考察したか?


 さて、もう一つ条件をつけた。「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使え、という条件だ。この際だからこの二つの心理学用語を使い回して、その概念を自分のものにしよう。使える語彙は多い方が良い。


 重ねる上での見当をつけるために「小説を読む」と「ものを見る」に共通する、一段抽象度の高い言い方をしておく。

 こういう時に適切な表現を思いつくかどうかが、何度も言っている通り国語力の高さを示す。各クラスでそれを指摘できた人は偉い。


 両者は「認識」という言い方で重ねることができる。つまり「物事を認識するとはどういうことか?」という問いに、「ゲシュタルト」と「スキーマ」という語を使い、それを、一方では「第一夜」の考察結果から、一方では「木を見る、森を見る」から、適切な具体例を挙げて説明すれば良い。


視点を変える 1 木を見る、森を見る

 新シリーズ「視点を変える」に入る。

 これは教科書冒頭の単元名だ。国語の教科書の「単元」というのが何を意味しているかはよくわからない。何となく共通したテーマがあるということなのだが、といって読み比べに有効なほどの関連性は想定されていない。それができたのは唯一「共に生きる」だったので、そこから今年度の授業を始めたのだった。

 この「視点を変える」も、三つの文章をまとめていて、それなりには「視点を変える」というテーマが共通しているとは言えるが、どうも有効な読み比べの見通しが立たない。

 それよりも教科書の目次を見ると「視点を変える」の第一編、つまり教科書冒頭教材の「木を見る、森を見る」と、教科書後半の「鳥の眼と虫の眼」というのが、題名からすると関連づけられそうだ。「見る」と「眼」だし、「木/森」と「鳥/虫」という対比も重なりそうだ(ところで「鳥の眼と虫の眼」が収められている単元は「近代の先へ」で、あとの二編は「暇と退屈の倫理学」と「〈私〉時代のデモクラシー」なのだ。その二編とのつながりはあるんだろうか?)。


 さてそう思って「木を見る、森を見る」の第一頁を開くと、「関連教材」として名を挙げられているのは豈図らんや「少女たちの『ひろしま』」という教材なのだった。教科書編集部の設定する「関連教材」としては前に「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」をつなげたことがあったが、まあ確かに「関連」はしているものの、それほど有効な読み比べができたわけでもなかった(それに「関連教材」だというのならなぜ同じ単元に収録しないのだろう?)。

 さて「木を見る、森を見る」と「少女たちの『ひろしま』」はどうか。


 だがその前に、「木を見る、森を見る」を読むと、新シリーズと言いながら、ここまでの授業ともつながりがあることに気づく(気づいてほしい)。

 どこが、何と?


 あまり遠い過去の話ではない、最近の授業だと誘導して、多くの者が思い至る。茂木健一郎の「見る」はそのまま「見る」で共通しているではないか。ということは小林秀雄もつながるんだろう。そういえばどちらも絵画を見ることが話題になっている。

 具体的に本文を引用しながら、対応していることを示すよう指示し、あちこちから共通した趣旨と考えられる記述が見つかった。

デッサンでは、物を「何か」として「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」を描こうとする。まとまりではなく、部分に注目するということだ。でも部分だけに注目して描いていると、全体のプロポーションにひずみが出やすい。だからときどきキャンバスから離れて全体を確認する。

 上の一節の 物を「何か」として「認知」する が茂木の「要約」に、 「認知」する前の一次的な視覚情報、すなわち「知覚」 が「視覚的アウェアネス」に対応している。デッサンでは視覚的アウェアネスを描こうとするが、バランスを見るために、ときどきは離れて「要約」することも必要だということだ。

 茂木の「要約」は小林の「言葉に置き換える」に対応しているのだったから、画家は言葉にならない見たままの「花の美しさ」を描こうとしているのだという小林の趣旨はそのまま上の一節と重なる。

私たちは、いったん「何か」としてまとまりで認知すると、細かい部分を見落としがちだ。

の 「何か」としてまとまりで認知する が「言葉に置き換える」だから、それを「菫の花だ」と言ったとたんに、花の美しさを見なくなる、つまり 細かい部分を見落としがち になるのだ。

目に入るものを常に「何か」としてラベル付けして見ようとする、人間の認知的な癖

 の 「何か」としてラベル付け(する) はもちろん「要約」であり「言葉に置き換える」だ。


 共通していることを示すには、対応する表現を同じ文型に置いて並べるといい。

 狙ったわけではないが「夢十夜」の後に「視点を変える」シリーズに入ったら、はからずも同じ論旨の文章が並んだのだった。


要約というトレーニング

 「現代の国語」教科書に収録されている文章で、今年度の授業で扱えるかどうかが微妙で、しかし読まずに済ますのは惜しい、という文章について、要約することを家庭学習課題とする。

 国語の現代文分野は一般に、学習の方法がわかりにくい科目だと言われている。それは理科や社会や英語のように「覚える」ことが即勉強であるような科目ではなく、数学のように問題演習が有効かどうかもわからないからだ。国語科でも漢字や語句や古典分野には覚えることがそれなりにあるし、問題演習は、とにかく慣れるために有効だ。現代文分野も慣れるための問題演習はそれなりに有効だが、その効果が実感しにくいために「勉強の仕方がわからない」という世人の嘆きとなっている。

 とりあえず、それなりに手応えのある文章を読むだけで学習になっているのだが、それをより有効にする場が授業だ。読んだことについて他人と語るという状況が、読むことに明確な目標を与える。一人で読むのなら、いくらでも頭を弛緩させることができてしまう。わかろうがわかるまいが「流して」しまえる。だが自分で何かを語るとなれば否応なく頭を使わざるを得ない。発信が厳しく求められる授業が最良の学習の場なのだ。

 出来合いの問題集や大学入試の過去問などの問題演習も、意味はある。頭を使わざるを得ないという意味では。ただ、テスト問題というのは、「正解」を設定せざる得ないから、考えるべきことが狭く限定されていて、授業ほど多様な階層の思考をする余地がない。

 したがって、入試問題の演習をするような塾・予備校の現代文の授業は、それが一方的に聞いているだけのものならば、解説の充実した問題集で問題演習をする以上の意味はない。


 話が迂回したが、独りで行う現代文の学習として最も有効なのが要約だ、という話につなげたかったのだった。

 文章の要約というのは、独りで行う現代文の学習方法として、最も包括的・総合的で確実に効果的な方法だ。

 要約は、それをしようとし、実際にできたことが目に見える形になる。時間がかかったり、あまり適切でなかったとしても、要約文を書くことはできる。「理解する」という入力で終わる学習は形が外に表われないので手応えがないが、要約という出力まで求められる学習は手応えがある。

 文章を要約する過程では、言語を用いたさまざまな思考が必要になる。文章の枝葉や幹を見分け、文章中の各部分を相互に関係づけることで有意味化し、文章全体の構造を把握したうえで、そのエッセンスをすっきりとわかりやすい文章にまとめる。国語力を高める練習として必要な要素の多くが一連の過程に詰まっている。


 今回の課題では一橋大学の大問3にならって、200字に要約する。

 200字というのは絶妙な長さだ。読解力と文章表現力がともに高いレベルで問われる。

 良い要約文は次の条件を満たしているものをいう。

  • 原文の内容と合致している。
  • 原文の内容をバランスよく含んでいる。
  • 日本語として自然に読める。

 とりわけ大事なのは三つ目の「自然な文章であること」だ。

 100字では、本当に核心部分を語ることしかできない。ある意味で、掬えない内容については諦められる。

 400字あれば原文の内容をあれこれと盛り込むことができる。要約文の長さにも余裕があるから、それほど表現の細部に気を遣わなくても書ける。

 それに比べて200字は、あれこれと内容を盛り込むことができて、かつ表現を切り詰めないと収まらない。原文のあちこちを接ぎはぎしたような文章では日本語として不自然になってしまう。自分で文章を書き下ろすしかない。内容を精選して、重複しないように、読みやすい自然な日本語の文章にする。

 高い読解力と表現力が必要だ。


 具体的方法として、次のように進めるとよい。

  1. 読み進めながら、自分の読解力・把握力の限界がきそうなところで一旦切って、そこまでを一文にしてみる。
  2. 先を読み進めながら上記と同じように次の文をつくる。その際、前の文とどのような関係になっているか把握できているか自覚する。
  3. 最後まで読み進めてから、できた文を通読し、中心的な内容を一文で考えておく(書いても良いが書かなくても良い。できあがっている文の中に「中心的な内容」といえる文があるかもしれないが、ないかもしれない)。
  4. 全体をあらためて3~4文に再構成する。

 問題は「自分の読解力・把握力の限界がきそうなところ」の見極めができるかどうかだ。最初から文章全体の4分の1くらいずつが把握できていれば、それで4文ができあがる。あとはそれをもとに調整して200字におさめればいい。上記の3と4にそれほどの飛躍がない。

 それが、3の段階で5文以上になっている場合は、そこまでに既に時間がかかっているだろうし、再構成にも時間がかかることになる。

 場数を踏んで慣れてほしい。


2022年12月3日土曜日

問いを立てる

  テストの後、出題した問題の文章について再考した。

 出題した小坂井敏晶の文章は、去年までの1年生の「国語総合」には、またとびきり読解しがいのある文章が載っていたのだが、今年の「現代の国語」には載っていない。

 高1に不適切なほど難しい文章なのは申し訳ないが、これもまた4月から考えてきた「近代的個人」への疑い、という趣旨の文章のひとつではあるのだった。

 テスト問題について再考するのも、全体の構造を捉えるために、キーワードを探したりするのも楽しくて有益な議論になったが、「問いを立てる」という課題もまた有益だという手応えがあった。

 4月から度々、「問いを立てよ」という問題提示をしている。

 評論の読解のためには、その文章の筆者がどのような問いを立てているのかを、結論から遡って明確にする。この文章はどのような問いを立てているか?

 小説では、読者がその小説を読解するために考えるべきことを明確にするために問いを立てた。「羅生門」では「下人はなぜ引剥をしたか?」だ。


 さらに今回の課題では、単に「わからない」と感じているはずの文章のどこが「わからない」かを明らかにしろ、という要求をした。

 「どこがワカラナイかがワカラナイ」というありがちな嘆きは人情としては共感できるが、そんなことを言ってないで、とりあえず問いを立ててみて、答えられそうなら次の問いに進めばよい。

 「ワカラナイ」ことを明らかにしようとすることは、「わかった」ことと「わからない」ことを切り分け、「わかった」ことの領土をひろげていこうとする思考だ。

 「問いを立てる」という課題は、それ自体が、深いところまで読解を促そうという試みなのだ。

 まあ確かにこの文章はいかんせん難易度が高く、どこもかしこも「ワカラナイ」とこだらけだとも言える。だから「なぜ~だと言えるのか?」とか「~とはどういうことか?」という問いは量産できる。それでもいい。それがなぜ「ワカラナイ」のかを考えているうちに、いつしかわかってしまうかもしれない。それも狙いのうちだ。

 また、これはという文章を扱ったときには同じような課題を課してみよう。


 気になったのは、なぜそれが疑問なのかを説明する文中に「矛盾」という言葉が頻出したことだ。こちらでは「責任は個人に内在する」と言っているが、ここでは「責任は個人に内在しない」と言っていて矛盾している、それはなぜか? などと。

 それらの多くは「矛盾」ではない。

 文章内にはそもそも対比がある。自分の言いたいことを明らかにするため、それと対立した見解が文中に語られるのは当然だ。それらを取り上げて「矛盾」と言うのは、単に文章の構造が把握されていないだけだ。対比構造を捉えていれば「矛盾」でもなんでもない。

 そうではなく、構造的に同一側に置かれている見解に食い違いがあるようなら「齟齬がある」「乖離がある」「相反している」などと言いようはある。


 さて、8クラス中で最も真摯な考察をした上で疑問を呈したのはB組のMさんの班だ。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?

 これはまさに問うにふさわしい、すぐには腑に落ちにくい一節だ。他にこれを挙げた班はなかったのだが、ではみんなはこれを疑問に思わなかったかといえばそんなことはありえない。これを問いとして立てたMさんの班はその「わからなさ」に真摯に向き合ったことは、下の考察からもひしひしと感じられる。

 近代社会では、個人には自由があり、その自由意志が行為を起こすため、その行為の結果に対しては個人が責任を負う必要があるという論理が成り立っている。決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。しかし行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と大いに関係しているように思われる。なぜなら、個人→自由→行為→結果という一連の因果関係の一部である自由→行為(自由意思が行為を起こす)が成立しなければ責任を個人に負わせることができないからだ。「行為が~本来関係ない」以前の本文では「行為が自由意思によって生じない」と結論付けたうえ、「なら、責任をどう考えるべきか。」と問題提起し、直後の段落で偶然の導入を用いてその問題に対する検討までしている。しかしすぐに「このアナロジーは的外れだ」と述べ、「行為が~本来関係ない」へと論を急転させている。「このアナロジーは的外れ」な理由として「人間は自己の行為を~制御できるのか」という点を指摘し、さらにその後「偶然生ずる行為」には責任を問えないと主張してはいるが、これらに素直に納得し「行為が~本来関係ない」を受け入れることは難しい。また「行為が~本来関係ない」直後の本文において、ギリシャ哲学やキリスト教においては社会や神によって罰が要請されていたと説明があるが、それがなぜ「行為が~本来関係ない」につながるのかわからない。このように難解な点が多かったため、私たちの班では『「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」のはなぜか?』について議論した。その結果、この問いの「本来関係ない」の「本来」はギリシャ哲学やキリスト教に基づいて罰が下されていた時代を指すのだと考えた。その時代では、大した根拠なしに犯罪を象徴する責任者を選び、罰を下すことで社会秩序を回復してきた。このような時代において「責任」は存在するが、「責任」を導くまでに自由意思と行為の因果は用いられていない。ゆえに「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言えるのではないかと考えた。するとこの問題は本文全体に関わる重要な問いに思える。そのため、クラス全体で議論したい。


 残念ながら議論する時間がとれなかったが、これは本当に考えるに価する問いだし、しかも上の考察は既に実によく考えている。ただ下線部の

決定論は自由の否定であると考えられるため、「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が自由意思によって生ずるかどうかは責任と本来関係ない」と言い換えられる。

は飛躍があってわかりにくい。「決定論的に生ずる」がなぜ「自由意志によって生ずる」に言い換えられるのか。「決定論」と「自由意志」は完全に対立項目なのに。

 「行為が決定論的に生ずるかどうかは責任と本来関係ない」は「行為が仮に決定論的に生じたのだとしても責任を問うことはできる」という意味だ。行為が自由意志に基づいていなければ責任を問えないという前提に立てば、決定論は責任を否定しうるけれど、そもそも決定論に立ってさえ責任を問うことは可能だと言っているのだ。

 これは、いったん「決定論」によって「自由意志」を否定する可能性を検討しておいて、それができないことを示した揚句に、そもそも「決定論」諸共「自由意志」が「責任」と関係ないことを示そうとしているのである。

 「決定論」を「自由意志」に「言い換えられる」と言うM班はそうした論理構造が理解できていることになる。

 見事な読解だ。


 それにしても、こうして文章を読んでも、授業と違って集中力を欠いた状態では、ほとんど何を言っているかわからないはずだ。

 そういう意味で、授業に勝る学習は、なかなか一人ではできない。自分の意見を表明しなければならないというプレッシャーが、考えることに集中力を強いるのだ。

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