2023年1月29日日曜日

小景異情 3

 この詩は、地方出身者が一時「みやこ」に上京し、今現在「ふるさと」に帰ったときに詠ったものだと考えるのが整合的だ。


 もう一つ、「異土」にいる可能性は?

 地方出身者が一度「みやこ」に出て、そこで「うらぶれて」、「みやこ」落ちして「異土」で「乞食」をしている時に詠んだ詩とは考えられないか?

 「ふるさと」には帰りたいが、やはり帰るべきではないと考え、もう一度「みやこ」に戻ろうと決意する…。

 これなら状況的にはありうる、とは言える。

 だがこれも、徒に複雑な解釈を読者に期待しすぎている。それに「遠きみやこ」の「遠い」という形容がなぜ必要なのかがわからない。秋田出身者が東京に出てきたが、うらぶれて岡山あたりに流れて「乞食」をやっていれば、東京はそこそこ「遠い」?

 これも、そんな特殊な状況を前提しなければならない解釈は妥当性が低いと見なすべきだ。

 「異土」は「ふるさと」からみた「よその土地」だから、「みやこ」も含んでも良いが、「みやこ」に限定しなくとも良い。「ふるさと」以外のどこか、だ。

 「異土の乞食となるとても」は、今「異土」にいるという意味ではなく、いるとしても=仮定なのだ。だから抽象的な「どこかよその土地」を意味すると考えていい。


 こうしてまずは整合的な状況設定を読み取って、ではどういう「思い」を詠っているのか、と考えるべきなのだ。


 まず、地方出身者が上京する。旅行くらいでは「ふるさと」とは言わないから、東京で一定期間生活していたはずだ。

 そして「ふるさと」に戻る。夢破れて故郷に戻るというのがありそうなケースだ。盆暮れの帰省くらいではこの詩の絶唱には釣り合わない。

 以下、最初の5行で述べられるのは「ふるさとが懐かしい」などという思いではない。「ふるさとは遠くで懐かしむべきものであって、決して帰ってはならない」と言っているのだ。どこかよその土地で乞食になったとしても、とまで言っている。

 「ひとり都のゆふぐれに/ふるさとおもひ涙ぐむ」はそのまま読むと「都」にいるように読めるが、続く詩行を読めば、そのような心を持って都に帰ろう、と言っているのだから、やはり「ふるさと」にいるのだ。そして本来ここは遠くで懐かしむべきものだ、といっているのだ。


 さてでは、ここで述べられているのはどのような思いか?

 故郷に対する愛憎半ばする複雑な思い、とでも言っておこう。

 当の故郷にいて、故郷とは遠くにいれば懐かしいのに、帰ってはならないところだと詠っているのだ。

 帰ってみると、懐かしかったはずの故郷では、家族親戚の冷たい(あるいはなま温かい)視線に居心地悪い思いを抱く。そういえばかつて故郷にいた頃には窮屈な村の慣習に嫌気が差していたことなど思い出す。それなのに都会に出てみるとそんなことを忘れて、愚かにもうっかり故郷を懐かしがってしまったりしたのだ。

 ここにあるのは普遍的な「幻滅」の感覚だと思う。幻は幻のままにしておいた方が良い。ふるさとは遠くで懐かしんでいるときこそが美しいのだ…。


 F組Oさんの班では、「ふるさと」に対する甘えを封印して、もう一度「みやこ」でがんばろうという決意を詠った詩だと読み取った。「みやこ」でがんばりながらなら、いくらでも「ふるさと」を懐かしんでいいが、実際に帰ってはだめだ、と自らを戒めている詩なのだ。

 これも、状況に整合的な解釈のひとつだ。


 「ふるさとは遠きありて思ふもの」と語る語り手が「みやこ」にいるものとして読むのと「ふるさと」にいるものとして読むのとでは、意味するものがまるで違う。「みやこ」に出てきた地方出身者が語っているのなら、単にふるさとを懐かしむ心情を述べているのだと読めるが、現に「ふるさと」に居る語り手が語るとしたら、こんなところに帰ってくるべきではなかったという悔恨を語っていることになる。

 テキストの読解とはこのように、テキスト内の情報を整合的に組み合わせることによってできあがる全体像=ゲシュタルトを捉えようとする思考である。


2023年1月23日月曜日

小景異情 2

 テキスト全体を整合的に解釈して、この詩がうたっている「思い」を括り出す。

 「どのような思い」というのは「ふるさとを思って涙ぐむ気持ち」「遠い都に帰りたいという気持ち」などと答えるだけでは不十分。

 こういう時は、何らかの抽象化した表現を求めているのだ。


 さて、読解において決定的な糸口になるのは次の問いだ。

語り手どこにいるか?

 「語り手」は「作者」とは違う概念だ。室生犀星本人は遙か昔に死んだ人であり、もうどこにもいないし、この詩を書いた時点でどこにいたかもどうでもいい。

 「語り手」とは時として一人称で文中に登場していることもあるが、明示的には表われていなくとも、潜在的にはその言葉を語っている者として、どこかにはいる。それが抽象的な存在であって、それほど重要ではない場合もあるが、テキストによっては重要だ。誰がそれを語っているかは、テキストの解釈に決定的な影響を与える。


 選択肢は文中から選ぶ。

  • ふるさと
  • みやこ(都)
  • 異土

 「ふるさと」と「みやこ」の二択でいいと思っていたが、授業をしているうち「異土」説を主張するグループもあることがわかってきた。

 さらに漢字の「都」と平仮名の「みやこ」は別のものを指しているという解釈を主張するグループもある(グループどころかクラスの大半の者が主張することも)。

 さらに、これらのうちのどれかとどれかは同じものを指しているとかいうことだとすれば、四択ではなく三択かも、あるいは二択かもしれない。それもまだ確定されてはいない。

 どうなるやら。


 「ふるさと」という語は、住む場所の移動があった場合にしか使われないから、語り手は何らかの移動をしているにちがいない。「ふるさと」から離れた時期があったということになる。

 「みやこに帰る」と表現されるからには、ある時期に「みやこ」にいて、このテキストの言葉を発している時点では「みやこ」にいないということになる。


 この条件を満たすように考えるなら、地方出身者が一時「みやこ」に上京し、今現在「ふるさと」に帰ったときにこの詩を詠んでいると考えるのが整合的だ。


 だがこのように考えるのが容易なわけではない。

 1行目「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を読む人は、とにかく「ふるさと」から遠いところに語り手がいるのだと思ってしまう。後半で「ひとり都のゆふぐれに…」とあるから、地方から出て東京にいるのだな、と解釈する。

 よもや語り手が当の「ふるさと」にいるなどとは思いもしない。

 だが、東京で一人暮らしをして、故郷を思って泣いているのかと思っていたら、最後に「遠いみやこに帰ろう」と言われてしまう。

 混乱して、以下のような解釈を考えつく。


 「遠きみやこ」とはすなわち「ふるさと」なのだ。「遠きみやこにかえらばや」は「ふるさとに帰ろう」という意味なのだ。

 その場合、彼は「みやこ」の出身者で、どこかの地方に来ていて、「ふるさと」=「みやこ」に帰りたいと言っている?

 あるいは地方出身者が「都」に出てきて、そこで「ふるさと」を思って涙ぐんでいるとすると「都」は大都会、「遠きみやこ」は地方都市を指す?

 いずれにせよ、では「ふるさとは…帰るところではない」をどう解釈するのか?

 整合的な解釈は難しいと言わざるをえない。


 そもそも「遠きみやこ」と「ふるさと」は同じものを指しているのだとか、「みやこ」と「都」は別のものを指しているのだといった特殊な解釈を読者がすることを前提として作者が言葉を選んでいるのだと考えるのには無理がある。「みやこ」と「都」は、概念レベルとして違う意味合いを持たせている、くらいなら許容できるが、違う対象を指しているなどという使い分けの意図など、読者には伝わらない。読者からすると、そんな無理な解釈はできねーよ、だ。

 したがって、そんな無茶な設定を前提しなければ整合的に解釈できないような解釈は、妥当性が低いとみなすべきなのだ。

小景異情 1

 4回にわたって詩を読解する。

 やることは評論だろうが小説だろうが同じことだ。まずはテキストから読み取れる情報を整合的に組み合わせてゲシュタルトを形成する。評論と小説と詩を読むためのスキーマはそれぞれ違うとはいえるが、違った評論には違ったスキーマを用いなければならないように、評論を読むことと小説を読むことと詩を読むことには相対的な差しかない。

 そもそも中原中也「一つのメルヘン」と小池昌代「あいだ」を同一のスキーマで読める気がしない。

 「一つのメルヘン」は何となく「メルヘン」チックな雰囲気を味わえば良い詩のような気がする。いや、考えていけば何らかの読解が可能なのかもしれないが、そこに何らかの「意味」が読み取れることに確かな期待はできないから、何となくそれらしい幻想的な雰囲気を味わって、好きな人は好きだと言っていればいいんだろうと思う。

 それに比べて「あいだ」は、何となくで読んで良いも悪いもない。何を言っているかを明確に読み取ってからでなければ、好きも嫌いもないように感じる。そして、何を言っているかがにわかにはわからない。

 これはちょうど、「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」に似ている。

 「第一夜」は、そこにあれこれと「意味」を読み込まなくても雰囲気だけで楽しい。「物語」のカタルシスも、喪失の切なさも、そのまま感じられる。

 だが「第六夜」は何らかの「意味」を指し示していて、それを読み取らずに終わるのは不全感が残るように思える小説だ。何だか不思議な話、でもそれなりに印象的ではあるが、それでは不十分だ。

 というわけで「あいだ」は考察に価するのだが、こちらに充分な確信と見通しがないので今回は目を通すだけ。


 で、室生犀星「小景異情」について1時間限定で考える。

 「小景異情」は百年以上にわたって日本人に愛唱されてきた詩でありながら、必ずしもその情感が正確に理解されているとは言い難い詩だ。それは、冒頭の一節だけが独立して引用されてしまうせいでもある。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

 とりわけ一行目だけが口ずさまれることも多い。

 だがそれはどのような意味で人々に受け取られているのか?


 この詩に関して考えるべきことは次の問い。

この詩はどのような思いを詠っているか?

 この問いに、上の一行目をもって答えるのと、詩全体の読解をもって答えることがどれほど違っているかを示し、もって「読解」というものを実感してほしい。


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