2022年9月26日月曜日

パンとバラ 3 詩を読む

 吉原幸子「パンの話」をとりあげたのは言わばオマケで、多くのクラスでは結局ほとんど時間をとれなかったが、実は「暇と退屈の倫理学」と「多層性と多様性」を「関連」させるより面白い考察になっただろうなあと思って残念ではある。プリントを配付したとたんでどこのクラスでもザワめくのが面白かった。E組Nさんが「これ日本語!?」と言ったのは可笑しかった。一読してみんな、わけがわからん、と感じたはずだ。

パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください
パンの話をせずに わたしが
バラの花の話をしてゐるのは
わたしにパンがあるからではない
わたしが 不心得ものだから
バラを食べたい病気だから
わたしに パンよりも
バラの花が あるからです


飢える日は
パンをたべる
飢える前の日は
バラをたべる
だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで
バラをたべることを せめてください――

 「パンの話」が思い浮かんだのは、「暇と退屈の倫理学」の次の一節と呼応するからだ。

人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。

 パンとバラがセットで登場するところで、オッと思わされるのだが、それだけでなくそうした共通性は両者の読解にも参考になる。


 詩を読む上での作法、あるいは「お約束」と言っても過言ではないのは、詩の中の言葉は様々な象徴性を帯びているという前提だ。

 象徴?

 「羅生門」の主人公、下人の頬の「にきび」は単なる「にきび」ではない。ある具体物が、何らかの抽象概念を表していると考えられるとき、それは「象徴」と呼ばれる。「にきび」は下人を支配していた空疎な観念の象徴だ。

 「パンの話」において、そのように読むべきなのは何か?

 言うまでもなく「パン」と「バラ」である。


 「羅生門」の場合は、「にきび」は小説内現実に存在する具体物ではある。だがそれだけではない象徴性を持っているとわかるように、殊更に意味ありげに描写されていた。

 一方、詩の場合はそもそも詩中の言葉に具体性がない。「パンの話」でも「パン」も「バラ」も、最初から具体物としてのそれではないことが明らかだ。そうであればこそ「バラを食べる」などという表現を読むことができるのだ。

 こうした、最初から具体物ではない形で登場するモノは、象徴と言ってもいいが、比喩とも言える。「~ような」をともなわない比喩を「隠喩・暗喩・メタファー」などと言うが、「バラを食べる」という表現は、直接の言葉通りの意味ではなく、何事かを喩えているのだ。

 パンとバラにどのような象徴性を読み取り、詩全体をどう読むか?

 話し合いの中で「パン=生活必需品」「バラ=嗜好品・贅沢品」という対比が語られている様子が多くのクラスで見られた。

 みんなが持っている「ちくま評論入門」の姉妹本である「ちくま評論選」(2,3年生が持っている)に「暇と退屈の倫理学」の別の一節が収録されていて、その題名は「贅沢のすすめ」だ。とすれば國分がバラを薦めることは贅沢を薦めているということになるのだろうか。

 とするとこの詩はどのようなことを言ってると考えればいいか?


 上の対比も悪くないが「パン=生活」にしておいて、「バラ」は「暇と退屈の倫理学」から、モリスの言う「芸術」を使うのが簡便。「贅沢のすすめ」の「贅沢」は「暇と退屈の倫理学」の「豊かさ」に近いニュアンスで、資本社会の与えてくれるモノと対比される物によってもたらされるから、例えば大量生産品ではない「芸術」などもそれにあたると考えていい。

  • パン=生活(貧しさ)
  • バラ=芸術(豊かさ・贅沢)

 「芸術」はさらに、画家なら絵画、音楽家なら音楽と考えると、吉原幸子にとってはがそれにあたる。とすれば「バラの花の話をする」「バラを食べる」は「詩を書く」ことを意味していると考えよう。

 これでこの詩の表現を論理づけられるだろうか。


 詩は理解すべきものではなく味わうべきものだ、というようなことを言う人が世の中にはいるが、味わう前にまず読むことが必要なのは言うまでもない。どの程度かはさておき、わからないものを味わうことはできない。読解の末に「わからない」という結論に至って、その段階でそれなりに「味わう」ということはある。全ての詩がわかるわけではないし、わからないと味わえないということでもない。だがわかろうとしていない詩を味わうことはできないのは間違いない。

 したがってまずは読まなければならない。

 読むということはテキスト情報を論理づけるということだ。そうでなければパンについてもバラについても詩人の思いについても、何事も受け取ることができない。


 この詩の趣旨を端的に表現するなら「詩人としての自負」といったところだというのが授業者の解釈である(こうした端的な表現がまた国語力の表れだ)。

 この表現を聞いて、ああなるほどと思えたろうか。もちろんそれは「正解」というようなことではなく、授業者の論理とあなたの「論理」が幸いにもだいたい一致したということだ。

 吉原幸子は、自分が詩を書く、書かずにはいられないことを「わたしが 不心得ものだから」と言っているのだ。生活に余裕があるからではなく「病気だから」詩を書かずにはいられないのだ。

 そしてそこに矜持もある。

 「だれよりもおそく パンをたべてみせる」とは、生活のことを後回しにしても、まず詩のことを第一に考えるのだ、という詩人としての自負を語っているのだと思う。

 ただ最後、3聯の2行がすっきりしない。特に「パンがあることをせめないで」は、誰が「責める」のか、何を責めているのか、どのような意図で「責める」のか、すっきりと解釈できない。

 このあたりをつっこんで考えていくともっと面白い読みにたどりつくかもしれない。

 ともあれ残り時間の少なくなった授業では上記のような読みを早口で語るのが精一杯だった。

 ただ、C組では指名したSさんが、ほぼこれと同じことを淀みなく語ってみせたのは、その読解の的確さも説明の明晰さも実に見事で、発表を聞いて、ほとんど感動させられた。周りで「鳥肌が立った!」というような声が聞こえたのもむべなるかな、だった。


 冬にもうちょっと詩を読む時間をとる。その時にはまたそれぞれの読解を語ってほしい。


2022年9月25日日曜日

パンとバラ 2 認識と主張

 まず「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」から考えよう。

 この「関連」は授業者が設定したものではなく、教科書編集部が「関連がある」と言っているものなので、どういう「関連」があると見なしているのかは推測するだけだ。だが読解というのはそもそも「正解」があるようなものではなく主体的に行われる一種の創作行為なので、こちらが納得いくように読めばいいのだ。


 共通して登場する言葉としては「豊か」や「退屈」がある。重要な接点だ。

 そしてもちろんここでも「近代」であり(「暇と退屈の倫理学」には直接は出てこないが)、近代の延長としての「現代」である。そして「近現代」の表れの一つである「資本主義社会」である。

 さてこれらの語をもちいて、両者を「関連」させよう。


 二人の主張を端的に取り出して比べてみる。まず「端的に」言うことが既に国語力を必要とする読解作業によって可能になる。さて。

 國分功一郎が言っているのは、生活はバラで飾られるべきだ、である。

 若林幹夫が言っているのは、多様である方が良い、である。

 これらは同じことを言っているのか? どう考えればこれらを「関連」させられるのか?


 論には「認識」の要素と「主張」の要素がある。これはまあ強引に分ければ、といったところで、もちろんある「認識」を語ること自体がある「主張」であるほかはないのだが。

 しばらく前に説明文と評論の違いとして、「主張」要素が強いのが評論だと言及したことがある。

 「主張」だけを端的に切り取ると上の通り、どう関連しているのかが見えにくい。そこで「認識」の部分を比べてみる。

 二人はどのように共通した認識を語っているか?

多層性と多様性

現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。

暇と退屈の倫理学

当時のイギリス社会では、産業革命によってもたらされた大量生産品が生活を圧倒していた。どこに行っても同じようなもの、同じようなガラクタ。モリスはそうした製品が民衆の生活を覆うことに我慢ならなかった。

 もちろんここでいう「当時のイギリス社会」の姿は広く近代社会の姿だ。二人が描く近代社会についての認識は共通している。

 共通した認識を語る二人は、それぞれどのような主張をしようとしているのか?


 「暇と退屈の倫理学」では、単純に言うと、現代は暇で退屈になった、と言っている。それは上のような社会がもたらす「同じような豊かさ」では埋められない空虚だ。

 モリスの言う「芸術」がそれを埋める。バラとは「芸術」を喩えたものだ。それは「産業革命によってもたらされた大量生産品」と対比される。したがって、「芸術」がただちに多様であるとは本来言えないものの、この論で対比されるものが「均質的」な工業製品であるということは、それと対比される「芸術」には独自性・固有性がもたらす「多様性」があるはずだということになる。

 こうして二人の論の主張は共通した方向性を持っていることが論証できる。

 芸術がもたらす「豊かさ」は、工業製品がもたらす「同じような豊かさ」とは違う、「退屈」に陥らない「豊かさ」であるはずだ。國分の「バラで飾ろう」はそういう主張だ。

 とすればそれは若林が「均質・単一」で「退屈」な世界で、多様性は重要だと主張することと同じなのだ。


パンとバラ 1 「関連教材」

 前回までの問題は、参照すべき項目が多く、まとめることが難しいはずで、授業数の少ないクラスに合わせて、テスト後に引き続き考察する。

 一方「多層性と多様性」には、教科書編集部によると「関連教材」として國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」が挙げられている。

 「関連教材」というのがどういう意味かは定かではないが、単元「共に生きる」の三編は相互に「関連教材」ということになっている。当然だ。読み比べることが最初から意図された単元だからだ。だから今年度の授業は最初にその単元から入ったのだった。

 そこに「生物の多様性とは何か」を「関連」させたのだが、それは「関連教材」としては明示されていない。聞けば意識しているというのに、あまりに領域の違う文章を「関連教材」と銘打つのためらったのだろう。惜しいことだ。領域の違う文章を「関連」づけることにこそ意義があるのに。全く違った分野の問題に共通した構造を見出す時にこそ、世界に対する認識は拡がるというのに。

 そこから「多層性と多様性」に繋げるのは、またしても領域が違うから「関連教材」という扱いではない。さらに「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げるのも授業者が設定した問題だ。

 では教科書編集部が設定した「多層性と多様性」と「暇と退屈の倫理学」の「関連」とは何か?


 実はそこにはそれほど豊かな読み比べの可能性が授業者には見出せないので、さらにそこに吉原幸子の詩「パンの話」をからめる。

 詩?

 パンの話

                        吉原 幸子 


まちがへないでください

パンの話をせずに わたしが

バラの花の話をしてゐるのは

わたしにパンがあるからではない

わたしが 不心得ものだから

バラを食べたい病気だから

わたしに パンよりも

バラの花が あるからです


飢える日は

パンをたべる

飢える前の日は

バラをたべる

だれよりもおそく パンをたべてみせる


パンがあることをせめないで

バラをたべることを せめてください――

 この詩は現在2,3年生が使っている「現代文B」の教科書に収録されているものだが、授業者は授業でこの詩を扱ったことはない。今回も、単独でこの詩を読解しようと考えたわけではない。

 今年度の授業では、冬頃に詩をいくつか読もうかと思っている。が、そもそも「現代の国語」は詩を扱わない想定なのだ。それが唐突に、ごりごりの評論を理屈っぽく読んでいる最中に詩を読もうというのはなぜか?

 ここに唐突に詩をからめようと企画したのは、「暇と退屈の倫理学」を読んでいればピンとくるはずだ。

 さて、どのような読み比べが可能か?

2022年9月22日木曜日

多様性をめぐって 7 問題を確認する

 保留中の問題も含め、考察すべき問題を総括する。

 まず「共に生きる」という単元から「生物の多様性とは何か」という文章に繋がる流れを捉えようとした。つまり「自立」「環境」をめぐる問題に同じ構造を読み取ろうというのだ。

 次に「多層性と多様性」を繋げることで、それを「社会」の問題としても展開する。そこから「〈私〉時代のデモクラシー」に繋げることで、「社会」の中でもとりわけ「民主制・民主主義」の問題を取り上げる。

 これらをつなぐためには、ある時は「多様性」あるいは「近代」を接点として、あるいは福岡の論にしか登場しない「動的平衡」という概念を応用して、全てを一続きの展望におさめる。


 考え方のガイドとして、それぞれの対比を確認しておく。

 対比の考え方は、考えを整理する上でも説明をわかりやすくするためにも極めて有効だということは、いくら繰り返し言っても言い過ぎではない。前回も「多層性と多様性」を読解するために次の対比を整理した。

多様性/単一性・均質性

 豊か/退屈・つまらない

 強い/脆弱

 「多様な方が強い」というためには、一度「均質だと脆弱だ」という言及が説明に説得力を持たせるためにも有効だし、「~ではなく~」という構文を使うのが、主張を明確にするにも有効だ。

 「自立」における対比は何だったか?

 「自立/依存」というのが一般的な対比だが、「共に生きる」の文章は「依存できることがより良い自立だ」という主旨なので、対立点を明確にするために言葉を換える。かつ左辺に肯定的な項「依存」を置く。どのように対比させるか?

 「依存」の対立項にはどのクラスでも「独立」という言葉が挙がったが「独立」という言葉はやや肯定的なニュアンスもあるので、対立を明確にするのには

 依存/孤立

と言い換えておこう。

 これと「多様/単一・均質」という対比は、対立している要素が違っている。「多様/単一・均質」は「種類が多い/少ない(一つ)」という要素の対立だが、「依存/孤立」はそうではない。

 では?

 「依存/孤立」の対立要素は「関係が繋がっている/切れている」といったところか(こういうところで適切に表現できることが国語力だ)。

 「繋がっている/切れている」と「種類が多い/少ない(一つ)」という対立はどのような関係か?


 「民主制・民主主義」の対立は?

 「社会主義・共産主義」が挙がったが、それらは「自由主義」の対立で、「自由主義」=「民主主義」は多くの場合は結びついているが、概念としては同じではない。

 ということで「民主制」の対立概念は「専制・独裁制」あたりがいいか。

 民主制/専制

という対立を、上の対立要素で語る。


 もう一度問題を確認する。

 「自立」「環境」「民主制」という三つの領域の問題を関連させて論じ、そこに共通した構造があることを明らかにする。それぞれは「多様性」で関連させられる。「動的平衡」は「環境」以外の領域の問題にも応用したい。

 その際に次のそれぞれの対比を意識しておくこと。対立項を考えることは主張を明確にする有効な手段だ。

自立→ 依存/孤立

環境→ 多様/単一・均質

社会→ 民主制/専制


 テスト前の授業で結論を出すつもりだったのだが、授業の少ないクラスに合わせて、結論はテストの後、小論文という形で全員が文章化することにする。


多様性をめぐって 6 近代と「多様性」

 福岡と若林を読み比べたところだが、問題を総合的に扱うためにもう一つの文章との読み比べをしておく。夏休みの課題にも指定した宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」を「多層性と多様性」につなげる。


 まずは共通点を探す。

 ここまでの流れで考察してきた「多様性」は、直接の用語としては「〈私〉時代のデモクラシー」には登場しない。だから「多様性」という概念に対応する論点が何かないか、と考える。

 それとともに、そもそも共通する言葉も登場している。しかも重要なキーワードとして。何か?


 これも、そう言われて探さないと意識できないのは、今までの学習成果が充分に活かせていないということだ。話し合いに時間をとっても、それが言及されていないグループが多かったのは残念。

 さて、共通する言葉は、またか、と思ってもらっていい、「近代」だ。近代という概念はそれくらいそこら中に関連する、様々な論の基礎になっている概念だということだ。

 つまり「近代」ないし「近代化」及びその果てに訪れる「現代」における「多様性」のありさま、という観点でそれぞれの文章を比較することが可能なのだ。

 さて、何が言えるだろう?


 次のような一節は、互いに似たようなことを語っていると感じないだろうか?

多層性と多様性

一つであり、かつ多様である」という在り方は、社会の中のさまざまな事物に見いだされる。(略)社会を構成するそうしたさまざまなものによって、人間の社会自体が「一つであり、かつ多様であるもの」として存在している。

〈私〉時代のデモクラシー

〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 「多様性」という言葉は「〈私〉時代のデモクラシー」には登場しない。だが上の「一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります」を「多様性」と置き換えることはできないだろうか。

 すると「一つである」が「全体として…似通っており、誰一人特別な存在はいません」と対応することになる。

 みんな「同じ」でみんな「違う」。

 こうした状態は「近代化」とどういう関係にあるか?


 例えばこんな一節。

多層性と多様性

〈近代性の層〉が人類史上持つ重要な意味の一つは、そのような多様な人間集団が「同じ人間の社会」であり、それゆえ集団を構成する個々人も民族や文化の拘束から自由な一人の人間として主体たりうるという、「普遍性としての人間と人間性」の理念を提示し、それを規準とする社会を実現しようとしてきたことだ。(略)人間とは基本的に同じものであり、それゆえどの人間の社会も同じ理想的状態を実現しうるという、普遍主義的な理念を基底に持っている。

〈私〉時代のデモクラシー

「近代」の目標の一つは、これまで人々を縛り付けてきた伝統の拘束や人間関係から、個人を解放することでした。(略)近代においても、最初の頃には歴史において実現されるべき目標の理念がありました。「公正で平和な社会」などというのが、それです。 

 どちらも、近代になって人間はみんな「同じ」という「普遍的」で「平等な」人間観という「理想・理念」が社会を動かしてきたと言っている。みんなが「同じ」であることは、近代に発見されたのだ。

 一方でそれは「理想・理念」といった肯定的な面ばかりではない。

だが現実の近代社会は、資本制とそれに基づく産業社会を地球的な規模で押し広げ、世界中どこでも同じような建物が建ち、鉄道や自動車から家庭電化製品に至るまで同じような機械を用い、民族衣装を捨てて洋服を着る「同じような社会」と、そんな社会の目指す「同じような発展」や「同じような豊かさ」を世界化していった。(「多層性と多様性」)

 若林の論は基本的に「多様性」を良しとする主張だから、こうした近代の均質化・画一化の方向は否定的に語られている。

 つまり近代になって人はみんな同じになれたが、みんな同じになることは好ましからざる事態でもあり、その反動として現代はまた多様化を目指している、と考えればいいだろうか。

 そして宇野はその多様化がまた別の難しさを生んでいることを最後に述べている。多様化する〈私〉は、みんなが一致団結した〈私たち〉を形成することが難しくなっているのだ。

 これは「多様化」と「民主制」に対してどのような議論を招来するのか?


2022年9月21日水曜日

多様性をめぐって 5 若林と福岡の「多様性」

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」と若林幹夫「多層性と多様性」を読み比べる。

 読み比べる時には、まず共通点を探してそこを重ねる。そしてその周囲の重なり方にどの程度の広がりがあるか、そこに相違があるか、などと考えていく。

 「多様性」というキーワードが共通しているのは明らかだが、それがどのような意味で共通しているというのか?


 若林幹夫は社会学者だ。この文章も、扱っている領域は「社会と文化」だ。

 これと分子生物学者である福岡の論を「多様性」というキーワードでつなげる。

 福岡の論で扱われているのは「環境・生態系」といったところだ。

 それでも若林は生物学の「多様性」の概念を援用して社会や文化の多様性について語っている。したがって、比較は可能なのだ。


 まず明らかなことは両者が「多様性」を肯定的な概念として使っているということだ。そして「問いを立てる」で明らかにしたように、「生物の多様性とは」は、その概念自体の説明ではなく、それが大事であることの理由を説明した文章だった。

 一方若林の「多層性と多様性」では「多様性」はなぜ「良いもの」だということになっているのか?

 対比を使って文章の論理を整理してみよう。

 「多様性」の対比(対立項)はこの文章中ではどのような言葉で示されているか?

多様性/単一性・均質性

 左が肯定、右が否定という対立だ。

 それがなぜ肯定されるべきかを、若林はどのような形容で語っているか?

 文中から二組の形容の対比を拾う。

豊か/退屈・つまらない

強い/脆弱

 「形容」を探す、という問いに戸惑った者もいたが、話し合っているうちに上の対比でみんなの意見は一致した。

 こうした形容が、多様性を肯定する、いわば根拠だ。こうした「多様性が良いことだと言える根拠」は、福岡と一致しているか?

 そもそも「豊か」だから良いということと、「強い」から良いということの間にはどのような関係があるのか?


 若林が「強い」と言う意味は、次の一節に示されている。

一つの種の生物の遺伝子の多様性を保持することは、起こりうる種々の環境変化に適応する可能性を大きくすることになる。

 生き残る可能性が高いことが、それだけ「強い」ということだ。

 これと福岡の次の一節を比べる。

生物多様性の価値は、バリエーションが多ければそれだけ適応のチャンスが広がるから…

 両者は正確に対応している。だが福岡の文章は続けて言う。

…適応のチャンスが広がるから、というふうに漠然と理解されているけれど、それは生物多様性の一面でしかない

 若林が多様性を良しとする根拠は「一面でしかない」と言うのだ。

 これは二人の論に決定的な齟齬をもたらすのか?


 読み比べでとりわけ「相違点」に着目したのは「自立と市場」と「交換と贈与」を読み比べた時だった。二つの論には相反する方向性があるのではないかと一度は考え(授業者のミスリードによって)、その後でそれらを統合して、二人がどのような認識を共有しているのかを考察した。あれは第1回テスト前の考察では最も難易度の高い、それだけに充実感のある有意義な課題だった。

 同じように福岡と若林の論を互いに補完することはできないだろうか?


2022年9月7日水曜日

多様性をめぐって 4 もう一つの「多様性」

 ところで夏休み明けの最初の教材がこれだというのはどういう意図があるか。

 実はこれもまた「羅生門」以前に読んでいた文章が扱っていた主題に関連させようというのだ。

 どれと?


 この文章が載っている頁の直前が実は見慣れた「共に生きる」という単元だ。自立という主題をめぐる三つの文章の読み比べが企図された単元だった。

 「自立」と「生物多様性」?

 「共に生きる」の三つの文章、鷲田は哲学者、松井は経済学者、伊藤は美学者で、それぞれまったく異なった分野の専門家の文章だが、それでも「共に生きる」では「自立」という共通テーマを読み取ることができた。今度はそこに分子生物学者、福岡伸一の「環境」「生態系」をテーマにした文章を並べる。分野は違うのに、その論旨には奇妙な類似性がある。

 どんな?


 実は「生物多様性はなぜ大事か?」という問いに対する答えをここまで明示していないが、これはここで併せて表現してしまった方が面白いと思ったからだ。

 それは「どうしたらより良い自立ができるか?」とか「自立にとって市場はなぜ有効か?」とか「人が持っている力とはどのようなものか?」といった問いに対する答えと意外なほど共通しているのだ。

 これは偶然だろうか?

 そうではない。そのことは、この教科書を作った編集部も自覚的だ。編集者の一人に直接確かめてみた。こんなふうに共通する論旨をもった文章が単元違いで並んでいるのはわざとか?

 わかってやっているのだそうだ。


 その共通点が何かをここに語る前に、もう一つの文章を接続させる。

 若林幹夫の「多層性と多様性」は、そのまま「多様性」について述べているから、「生物の多様性とは何か」と読み比べることはもちろん可能だ(ただ、全体を充分に読解しようとするには難易度が高いので、ここでは「多層性」に絡む議論にはあまり踏み込まない)。

 この文章で語られる「多様性」を「生物の多様性とは何か」の議論と読み比べると何が言えるか?


多様性をめぐって 3 自転車操業

 授業数の多いH組のみで扱ったネタなのだが、思いの外面白かったので記しておく。

 文中で「動的平衡」を「永遠の自転車操業」と表現する箇所があるが、この意味はすんなりと腑に落ちているだろうか?


 必要ならば「自転車操業」を辞書で引いて、意味を確認しておく。その上で、この文章では何を言っているかを理解できているか、自らに問う。

 まず「自転車操業」という慣用表現は、「自転車」が「操業」の比喩になっている。そうしてできた「自転車操業」という言葉がさらにここで表わしたい何事かの比喩になっているという二重の比喩がここにはある。

 比喩というのは、二つの間に共通する特徴や構造があるときに成立する。「綿のような雲が空に浮かんでいる」といえば、綿と雲の間に「白くてふわふわする」という共通点があることで成立している。空一面を覆う雨雲には「綿のような」という比喩は使わない。

 ここでは次の三つにどのような共通点があるか?

  1. 自転車
  2. 操業
  3. ここで表したい何か

 まず、2の「操業」が何のことを指すのか、という問いに適切に答えられない人が多かった。ここで「操業」を辞書で引いてしまうと「機械設備を動かす」などという説明が出てくるのだが、それでは「自転車を運転するように機械を動かし続けること」ということになるが、これは何のことだ?

 ここでは「会社を経営する」か「お店を営業する」くらいの答えがほしい。「自転車操業」というのは、赤字で倒産寸前の企業の経営状態を指す慣用表現なのだ。「機械設備を動かす」に近いイメージでは「工場のラインを稼働する」といったところだが、工場の稼働を「自転車操業」と言ったりはしない。工場の稼働を含む会社の生産活動全体を指す表現だ。

 また、3は何か?

 端的にそれを表わす言葉を文中から指摘するなら「生命」ということになる。だが「自転車」と「操業」と「生命」の共通点は何? という問いは難しい。

 「生命」という単語では漠然としていて概念が広すぎる。一つ前の段落からの論旨のつながりをたどるなら「生命(または生態系)が動的平衡であること」あたりが適切か。

 あらためて三つを並べてみる。

  1. 自転車の運転
  2. 赤字企業の経営
  3. 生命の動的平衡

 共通した構造は?


 さしあたり「動き続けることでバランスを取っている」「止まると倒れる」くらいに言ってみる。

 これは自転車の運転についてはそのまま実感できる。それを2,3に適用してみると?

 2でいうなら「動き続ける」は営業を続けることであり、「倒れる」とは倒産することだ。借り入れの返済のために、営業して得られた収入をそのまま借金返済と次の営業のための資本に充てるという回転を続けないと、直ちに倒産する。

 これを3にあてはめると「倒れる」とは死ぬとか生態系が壊れる、ということだ。

 では3で「動き続ける」は?


 文中から指摘できるのは次の段落で「絶え間なく元素を受け渡しながら循環している」といった表現で表わされるような生命の在り方だが、これはいささか抽象度が高い。具体的には?

 植物が光合成をして、それを動物が食べ、その動物をさらに捕食者が食べ、死骸を微生物が分解する…といった様々な食物連鎖を想像したい。あるいは個体の身体ならば、食べたものが消化され、身体組織を作り、新陳代謝によって排泄される…という生命現象。

 そこでは、ある生物が死ぬことで別の生物に取り込まれるという元素の受け渡しが行われる。「自らを敢えて壊す。壊しながら作り直す」と表現されているのは、食物連鎖における個体の「死」と別の個体の「生」だ。「壊すことによって蓄積するエントロピーを捨てることができる」は、個体が死ぬことで「老化」というエントロピーをリセットして、新しい個体はエントロピーのない状態からスタートできる、ということだ。


 比喩表現は「何となくわかる」といったわかり方で伝わるものなのだが、こうして厳密に説明できるかどうかで「ちゃんとわかっている」かどうかが試される。というか、厳密に説明しようとすることで「ちゃんとわかる」ようになるところが授業としては有意義だ。

 以上の考察に、1時限を費やした。機会があればまた文中の比喩を使った考察をしたい(今の時点でも来年の授業で「永訣の朝」とか「こころ」とか、そういう考察をする予定はある)。

多様性をめぐって 2 問いと答え

 この文章が述べているのは、どのような問いに対する答えなのか?

 「環境保護のために人間には何ができる・すべきか?」といった問いも挙がった。この問いの答えによってこの文章の主旨が表現できるか?

 答えをどう想定しているのかと聞いてみると「動的平衡の考え方を理解する」というような答えが挙がったが、これは「動的平衡とは何か?」が「~とは何か?」型の問いとしてはまあ一番良いだろ、といったやりとりに影響されている。

 あるいは「生物多様性を守ること」といった答えはとても真っ当だが、これは最初の、題名をそのまま問いとして立てた時とそれほど変わらない把握に終わってしまう。そりゃそうだ、という感じ。


 総じて中学校の教科書に載っているのは「説明文」、高校の教科書に載っているのは「評論」と言われる。その違いは、どれほど筆者の主張が入っているかだ。説明文は何が書いてあるかを正確に読み取ることが要求され、評論では筆者の考えを(ある時には批判的に)読み取ることが要求される。

 「生物の多様性とは何か」を評論と見なすならば「生物の多様性を守るべきだ」が「筆者の主張」と言ってもいい。だが、そんな主張は自明のことで誰も反対はしないから、あらためてそうした主張をこの文章から読み取ることにそれほど意味はない。

 あるいは収録部分の末尾「パラダイム・シフトを考えねばならない」を主張だと見なすことはできるが、これはつまり「何をすべきか?→動的平衡の考え方を理解すべき」ということになり、まだ全体の主旨を捉えているというにはイマイチ。


 一方で科学説明文と見なしたとき、読者は何を「説明」されていると見なせばいいか?

 一つには上記の「動的平衡」だが、「動的平衡」の概念を理解すればこの文章の主旨を捉えたことになるかといえば上の通りまだ不十分だ。

 さてでは。


 元々は題名の「生物の多様性とは何か」がイマイチ、と思って考え始めたのだが、まずは素直にこの題名を使うのが発想しやすいはずだ。

なぜ生物の多様性が必要・大事か?

 これは、生物の多様性は大事だという一般常識に対して、ホントにその意味がわかってる? という問いを読者に投げかけているのだと考えられる。

 さてこの答えは?

 短い答えと長い答えを考えよ、と指示した。短いのは本文中にある。

地球環境という動的平衡を保持するため

 これを長くしようとすれば、「動的平衡」という概念について説明し、それを保持することと「生物多様性」の関係を説明し…、ということになる。そうなればもうこの文章の主旨は充分に捉えられていると言って良い。

 つまりこの文章は、生物学者による科学読み物として、説明文的に読んでもいいのだ。読者としては「動的平衡」という考え方を理解し、「生物の多様性の重要性」についてあらためて認識を確かにすることが求められている。


多様性をめぐって 1 問いを立てる

 福岡伸一「生物の多様性とは何か」を読む。

 読んだら「何が書いてある文章なのかな?」と自分で考える。考える癖をつける。「何が書いてあるの?」と質問されたら答えられるように準備する。

 「何が書いてあるか?」を適切に捉えるためのメソッドとして、「問いを立てる」練習をしたことがある。内田樹の労働論と「羅生門」を読解したときだ。

 小説と評論では「問いを立てる」意味合いが若干違う。

 「羅生門」において立てた「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」は、その答えが小説中に書いてあるはずだが、それは直截的なものではなく、読者がそれを読み取ることを要求されている。何を読み取るべきかを明確にするために問いの形にする。読者がその問いに答える。

 一方評論では、その文章がどのような問いに答えようとしているか、を問いの形で表現する。読者ではなく、筆者がその問いに答えようとしているのだ。

 この問いは文中に明示されている場合とされていない場合がある。明示されてある場合は答えが何かを確認すればいい。それが最も重要な論点であると感じられれば、それで文章の主旨が理解できたということだ。

 ない場合は、書いてあることから遡って、それはどのような問いに答えようとしているのか、と考える。

 例えば内田樹の労働論で、見出しが既に「なぜ私たちは労働するのか?」という問いの形になっているにもかかわらず、それに対して「生き延びるためである」という結論を文中から探しても、何のことかはすっきりとは腑に落ちなかった。だから自分で問いを立てたのだった。

 結局「労働の利益は誰が享受するのか?」という問いが適切であることを皆で納得したのだが、それはこの文章が「労働の利益は個人ではなく集団が享受するものだ。」という趣旨を述べている文章なのだと読解することと表裏一体だ。

 一方で「個人/集団」という対比において「集団」を強調しているのがこの文章の主旨であると捉えると、主張が明確になる。

 問いと対比。どちらも文章の論旨を明確に捉えるために有効な方法だ。


 さて「生物の多様性とは何か」ではどうか?

 これもまた、題名が問いの形になっているにもかかわらず、その答えがこの文章の主旨であるとは読めない。

 「生物の多様性」は文字どおり、いろんな生物がいる、ということだ。それについての予断に反した説明はあらためてあるわけではない。

 「生物の多様性」はいわばテーマで、それをめぐって何事かを議論しているわけだが、「生物の多様性」という概念自体の説明をしているわけではないのだ。


 さてではどのような問いを立てるのが適切か?

 みんな同じ問いを思い浮かべるに違いないと想定していたら豈図らんや、けっこうとっちらかったのだった。

 まず「ニッチとは何か?」が挙がったのにびっくりした。確かにこの文章では「生物多様性」と比べれば「ニッチ」についての説明は、あると言っていい。しかも「ニッチ」についての一般的な理解とは違った意味合いを読者に伝えてもいる。だがそれが中心的な話題かといえば、イマイチだ。部分に過ぎる。

 「~とは何か?」という形で問いを立てるなら、それが一般には知られていない概念であるか、一般的な定義ではない、別な側面をとりあげようとするのがその文章の目的であると見なされる場合だ。「生物多様性」についてはそんなことはまるでなく、「ニッチ」については、一般的な「隙間」という訳語よりも一歩深掘りした「分際」という言葉を提案しているところが新鮮なのは確かなのだが、といってそれがこの文章で最も重要な概念だというわけではない。

 「~とは何か?」型の問いにするなら、一単語、何を取り上げる? 「生物多様性」でも「ニッチ」でもなく。

 社会一般への浸透度合いからしても「動的平衡とは何か?」が最も適切だと言っていいだろう。


 とはいえ「~とは何か?」型の問いは、結局のところある概念の説明がその文章の主旨なのだと見なしているということだ。それではどうしても文章の一部分になってしまう。

 ではどのような問いの型が適切か?

2022年9月1日木曜日

夏季休暇課題

 夏休みの宿題は、まあ漢字テキストなんかは自主的に進めていることを信じるとして、提出を求めたのは「『〈私〉時代のデモクラシー』『空虚な承認ゲーム』と4,5月に読んだ9本の文章のいずれかの論旨の関連を600字以内でまとめる」だった。みんなどれくらいの時間をかけて取り組んだのだろうか。授業である程度は読み込んである文章だとはいえ、自分でもう一度文章にまとめるのは、相当に手応えがあったと思う。

 提出された課題は、クラスを入れ替えて生徒自身が相互評価した。これもまた、集中力を必要とする、難しい課題だったと思う。

 評価を他人任せにせず、自分の生み出したものを自分で評価する意識を持ってほしいということもあるが、どんな文章がどのような評価に値する文章なのかを判断する意識は、今後自分が文章を書くことにフィードバックする。これも重要な学習なのだ。

 そういえば入学直後の課題テストも相互採点したが、漢字テストを採点すると、どういうところで漢字を書き間違えるのかを意識するようになる。


 さて、みんなの文章について、いくつか気になったこと。

 課題を提示する時点で、文章の引用は必ず「 」で括る、と注意した。意識したろうか。ひどいものは文章の題名にすら括弧を付けていない者もいた。

 そういえばスマホのフリック入力では、「 」をつけるのが面倒だから、みんなは文章に括弧を付ける習慣がつかないのかなあ、などと思っていたが、フリック入力でも「や」から括弧の入力ができるのだと、調べて初めてわかった。まあこのブログの文章などを見てわかるとおり、授業者はやたらと括弧を付ける傾向にあるが、それが引用の言葉なのかどうかを意識することは重要だ。自分が発想して自分が発信する言葉と、他人が言っている言葉を区別する意識。

 知的な英語話者は、喋りながら、頭の両脇で人差し指と中指でチョキを作って少し曲げたポーズをとることがある。その言葉は「” ”」がついた、「いわゆる」というニュアンスですよ、というメッセージだ。

 外向けの文章では、必要に応じて適切に括弧を使う習慣をつけたい。


 「価値」を「価値」と書く誤字が多く見られた。最近では「価値感」を許容する傾向もあるのだが、原文では「価値観」となっている。

 「価値観」とは「価値」に対する「見方(観)」。


 特に書き出しの部分で「私は~と思う。」と書いている者が多かったが、論文中に「私」が出てくる必要は、原則的には、ない。書かれた内容は全て「私」が「思った」ことに決まっているので、書く必要がない。「思った」内容だけを書けば良い。

 「私は~と思う。」と書きたくなるのは、断言することに自信のないときでもある。

 だが論文では責任をもって断言する覚悟を持つべき。この部分は個人の好みや立場に過ぎないということをよほど強調したいというときにだけ限定して使うとして、基本は「私は~と思う。」という書き方はしない。

 単に「~と思う。」という文末でもNG。

 せめて「私は」と書かず、「~について述べる。」とだけ書く。


 さて、評価する前に複数の他人の文章を読んで、「相場感」をとらえておいた。これくらいできれば上出来、というつもりでこちらも同じ課題に取り組んでみた。


例1

 「〈私〉時代のデモクラシー」で宇野は社会学者バウマンの言葉を借りて「私たちの生きる近代は(…)〈個人〉や〈私〉中心の近代だ」と述べる。「近代の目標」はそれまでの社会的伝統や宗教からの「個人」の解放だった。そうして出現した「個人」が自由な近代社会を作っている。だがそうした自由の中で「自覚的に関係を作らない限り、人は孤独に陥らざるをえ」ないと宇野は言う。解放を目指していた近代は、その反動で個人に、人間関係の維持を強いるようになっているのだ。

 山竹「空虚な承認ゲーム」では、「宗教やイデオロギーなど、個人が生きる意味を見出だすための社会共通の価値観」=『大きな物語』が信用を失」っているのが現代だと言う。これは「伝統・宗教」から「個人」を解放してきたのが近代だと宇野が言うのと同じことだ。そしてその反動で人間関係を自分で選択して構築・維持しなくてはならないのが宇野の言う「後期近代」=現代だ。そうした人間関係の維持を、山竹は「空虚な承認ゲーム」と呼ぶ。

 鷲田清一が「『つながり』と『ぬくもり』」の中で次のように言うのも同じだ。「『近代化』というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき(…)から身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明(…)しなければならない社会をつくりあげてきた」。ここで述べられている「近代化」は宇野や山竹の言う「近代化」と完全に同一である。こうしておとずれる「親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの『わたし』を賭けることになる」(鷲田)という状況は山竹の「空虚な承認ゲーム」にほかならず、宇野が「人間関係は、一人一人の個人が(…)維持していかなければならない」という状況とも重なる。

710字

例2

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」と山竹伸二「空虚な承認ゲーム」と鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」に共通して述べられている現状認識は、概ね次のように要約することができる。近代は、伝統や宗教といった、多くの人が信じていた「大きな物語」のくびきから人々を解放し、自由にしてきた過程である。そうして生まれた「自由な個人」は、かえって自分の存在に不安を覚え、今度はあらためて身近な人々との人間関係の中で、自らそれを再確認しようとする。

 三者は、そうした「後期近代」=「現代」に生じている問題について、それぞれ次のように述べる。

 鷲田はそうした他人との「つながり」を求める人々のありようをシンプルに「さびしい」という言葉で表現する。若者たちが他人との「つながり」を求めるのは、断絶しているという感覚の裏返しであると言う。

 山竹は「大きな物語」が既に失われている中で個人が身近な人々の承認を得ようとつながりを求めることを「空虚な承認ゲーム」と呼ぶ。そうして承認を求めるために時に自分を抑圧することから、個人の自由と承認の間に葛藤が生ずると述べている。

 そして宇野は、それぞれが「自由な個人」=「私」になった社会で、一人一人がユニークになっているはずなのにかえってみんながそれぞれ似通ってしまう皮肉を指摘し、併せてバラバラな「私」を集めて社会問題を解決しなけれならない民主主義制度の難しさにも言及している。

601字

 例1と例2はどう違う、と授業では訊いた。内容の適否だけでなく、それがどのように書かれているかについても分析的に把握できることが望ましい。

 書き出す前には、例2の一段落のようなことが「共通点」として想定されていた。

 それを実際に文章におこすにあたっては、それぞれの文章でそうした論旨が、どのような表現で書かれているかを実際に引用するつもりだった。そうして書いたのが例1だ。

 だが書いているうちに600字に収まらないことがわかった。引用もしつつそれぞれの文章の主旨をまとめる。しかも相互の対応を示しながらだ。短くまとめるのは難しい。

 そこで例2では、最初に共通した論旨を作文してまとめた。もちろんいくつかの文中の語は括弧を付してそのまま使っている。それでも相当に300字までに余裕があるくらいだったので、その後に、それぞれの文章で、重なっていない、その文章独自の論旨についてそれぞれ短くまとめていった。「関連を示す」ということでは、共通点を示すことが前提で、その上でそれぞれに共通していない論旨がなんなのかを示すことも有効だ。


 さてみんなの文章には、とてもよく書けていて、上の例と遜色ないものもあった。今回の課題は、それほどオリジナリティの出るタイプのものではなく(だからこそ「私は~思う」はいらない)、いわば「正解」があるようなものなので、あとはどれくらい的確に、手際よくまとめるかが評価の分かれ目になった。

 一つ、目を引いた文章を紹介する。C組Sさん。

 私は「〈私〉時代のデモクラシー」「空虚な承認ゲーム」「『つながり』と『ぬくもり』」の三作は、近代における他者からの承認という点で関連していると思う。

 近代では「個人の自由」を求め、「伝統や宗教からの解放」という動きが広まった。しかし、解放された人々は次第に不安を抱き、学校や会社などで集団を作る。

 宇野は、「平等」な個人の集団の中で「一人一人の〈私〉」を、つまり「『このままの』じぶん」を承認してくれることを人々は求めていると述べている。鷲田も、何かが「できる」資格が求められている社会の中で、何もできなくても「『このままの』じぶん」を受け容れてくれる愛情を求めていると述べている。対して山竹は、本当に信じているわけではないような形式的な行為をしている「偽りの自分」を承認してもらおうとしている人が多いと述べている。

 宇野の「〈私〉時代のデモクラシー」、鷲田の「『つながり』と『ぬくもり』」は「『このままの』じぶん」を、山竹の「空虚な承認ゲーム」は「偽りの自分」をそれぞれ承認の対象としている。人々は「『このままの』じぶん」が承認されることを求めているが、実際は「偽りの自分」が承認される自体が蔓延してしまっているのだ。

 このように、三つの文章は近代における他者からの承認について述べている点で関連していると考えられる。

 出だしが早速「私は~思う」型になっているがそれはさておき、「他者からの承認」を三つを関連させるキーワードとして使い、その中で「『このままの』じぶん」と「偽りの自分」という対比に注目して論を展開しているところが鋭い。


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