これは軽く読み切る。「読解」というほどの労力も必要としない。
それよりも、これはまあ呆れるほど、今まで読んできたあれこれの文章の論旨と共通した論旨が語られる。それらを思い出せればOK。
まず昨年来の文章。「共に生きる」「視点を変える」両シリーズのあれこれ。
「ほんとうの自分」という表現が出てくる。そのまま「ほんとうの『わたし』とは?」だ。「偽の自分」も聞き覚えがある。
どんな論旨が共通している?
わたし=自分とは完結した存在ではなく、他人との関係によってできるのだ。だから「本当の自分」などという幻想に囚われる必要はない。「偽の自分」などという必要もなく、それはそうした局面で他人と関わる中で出来た「分人」のひとつなのだ。
平野啓一郎の「分人」というのは流行りのキーワードでもあるから、この際思い出しておこう。
さらに、「支配的な物語」は「大きな物語」だ。ということは「空虚な承認ゲーム」。となれば「近代」をつないで「〈私〉時代のデモクラシー」もつながってくる。
どんな論旨が共通している?
「物語」が我々の精神・認識・思考を形作る。近代以前にあった「大きな物語」、例えば宗教や、近代では「民主主義」だったり「個人の自由」だったりが人々に共有された。ところが、現代それらは共有の拘束力を弱め、小さい共同体にのみ通用する「小さな物語」によって人々は自分の存在を確認しようとしている…といったところか。
上記二つの論点は「共に生きる」シリーズで、「視点を変える」シリーズからも共通した論旨を抽出しよう。
「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。
これが何に対応してるか。
スキーマ=物語
ゲシュタルト=自己
であることが把握できれば良い。
対応しているということは同じ文型にはまるということだが、そもそも同じ文型にはまることがわかっているから対応していると思えたはずだ。
「スキーマによってゲシュタルトができる」は、認識という現象を説明しているが、これを「物語によって自己ができる」といえば、そのまま野口が言う自己認識のことだ。
「によって」ということは、それが認識を制約することにもなるということだ。スキーマが認識を方向付け、かつ制約する。
これもまたそのまま野口が言っていることだ。物語が自己認識を方向付け、制約もする。
さて今年度は、言うまでもなく「物語」が共通項になるのだが、「物語るという欲望」はそれほど共通した論旨が汲み出せるわけではない。それよりも「他者の言葉」に共通した論旨が見てとれる。
どんな論旨?
つまりは「物語」というのはスキーマだ、と言っているのだな、と読み取れればよい。「物語」が現実理解を制約する=洞窟の中に我々をとじこめる。
「物語」が我々の精神・認識・思考を形作るのだが、それは何より「物語る」ことによって、それを内面化することによってそうなるのだ。「物語」がストックフレーズ(他者の言葉)として他者からもたらされるというだけでなく、我々はそれを他者に「語る」ことによって、自分をそのように形作っているのだと、内田も野口も言っている。
以上、なんだかここ1年余りの評論の総復習みたいな文章なのだった。
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