「ソクラテスの文字批判」に続く一節はますます謎をはらんでいる。
文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)
考察対象としたのは括弧内。たぶんスッと意味が入ってくる言い回しではないはずだ。括弧内の内容というだけでなく、なぜそれを言う必要があるかが納得されなければならない。すなわち括弧の前の部分に対して、括弧内のことを付け加える必要あると感じたのだ。「もちろん」というくらいには、読者が「わかる」ことが期待されてもいる。だが言っておく必要もあると判断されてもいる。
さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?
わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。
この括弧内の記述の「わからなさ」は次の3点による、というのが授業者の分析。
- ここにある「ではなく」型の対比では、何と何が対比されているのか?
- 〈「想起」は単なるインプットではなく〉と言っているが、これはまず「想起はインプットである」ことを前提に「単に」それだけではない、と言っている。だが「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなく「アウトプット」ではないか?
- 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?
これらの疑問が解消するように説明をする。
まず1、対比されているのは何と何か?
「インプット/検索作業」に見える。だとするとこの文は次の二文の合成であるということになる。
a「想起」はインプットである。
b「想起」は検索作業でもある。
単にa「ではなく」bでもある、と言っているのだとすると、少なくともaでもあるのだ。
そうして前の2の疑問に突き当たってしまう。
これは文構造の把握が間違っている。対比されているのはそれではない。
何か?
対比されているのは「インプット/外部化された」だ。
これが並列されて「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。
この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからであって、ここは「インプット(された)記憶」と「外部化された『記憶』」が並列なのだと、(された)を補って考える必要がある。
それが把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。
A.想起とはインプットされた記憶の検索作業である。
B.「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。
つまり、脳内に覚えている記憶を検索して思い出す(A)のが普通の「想起」だが、それに加えて、文字で記録した情報(=「記憶」)を検索する(B)ことも「想起」だと言っているのだ。
こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは別に難解なことではない。暗記してあることでもメモしておいたことでも、必要な情報が取り出せれば事足りる。それを「想起」と言おうというのだ。
解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に、抽象度の高い、深遠な、複雑な話をしているわけではない。
「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に文構造の把握が未整理だからなのだ(それを把握させにくくしている荻上のせいでもある。が、これくらい読み取ってくれよ、と言いたいのだろう)。
このことをなぜ言い添える必要があるかといえば、括弧の直前の「想起」がそういう意味なので、念のため一応ことわっておこう、という身振りを演じつつ、そのようなメディアを通じた「想起」概念の拡張に読者の注意を促したいからでもある。
このあたりのニュアンスも読み取りたい。