2026年2月1日日曜日

視点を変える16 メディアがつくる身体5 「想起/記憶」

 「ソクラテスの文字批判」に続く一節はますます謎をはらんでいる。

文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)

 考察対象としたのは括弧内。たぶんスッと意味が入ってくる言い回しではないはずだ。括弧内の内容というだけでなく、なぜそれを言う必要があるかが納得されなければならない。すなわち括弧の前の部分に対して、括弧内のことを付け加える必要あると感じたのだ。「もちろん」というくらいには、読者が「わかる」ことが期待されてもいる。だが言っておく必要もあると判断されてもいる。

 さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?

 わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。

 この括弧内の記述の「わからなさ」は次の3点による、というのが授業者の分析。

  1. ここにある「ではなく」型の対比では、何と何が対比されているのか?
  2. 〈「想起」は単なるインプットではなく〉と言っているが、これはまず「想起はインプットである」ことを前提に「単に」それだけではない、と言っている。だが「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなく「アウトプット」ではないか?
  3. 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?

 これらの疑問が解消するように説明をする。


 まず1、対比されているのは何と何か?

 「インプット/検索作業」に見える。だとするとこの文は次の二文の合成であるということになる。

a「想起」はインプットである。

b「想起」は検索作業でもある。

 単にa「ではなく」bでもある、と言っているのだとすると、少なくともaでもあるのだ。

 そうして前の2の疑問に突き当たってしまう。


 これは文構造の把握が間違っている。対比されているのはそれではない。

 何か?


 対比されているのは「インプット/外部化された」だ。

 これが並列されて「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。

 この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからであって、ここは「インプット(された)記憶」と「外部化された『記憶』」が並列なのだと、(された)を補って考える必要がある。

 それが把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。

A.想起とはインプットされた記憶の検索作業である。

B.「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。

 つまり、脳内に覚えている記憶を検索して思い出す(A)のが普通の「想起」だが、それに加えて、文字で記録した情報(=「記憶」)を検索する(B)ことも「想起」だと言っているのだ。

 こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは別に難解なことではない。暗記してあることでもメモしておいたことでも、必要な情報が取り出せれば事足りる。それを「想起」と言おうというのだ。

 解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に、抽象度の高い、深遠な、複雑な話をしているわけではない。

 「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に文構造の把握が未整理だからなのだ(それを把握させにくくしている荻上のせいでもある。が、これくらい読み取ってくれよ、と言いたいのだろう)。


 このことをなぜ言い添える必要があるかといえば、括弧の直前の「想起」がそういう意味なので、念のため一応ことわっておこう、という身振りを演じつつ、そのようなメディアを通じた「想起」概念の拡張に読者の注意を促したいからでもある。

 このあたりのニュアンスも読み取りたい。

視点を変える15 メディアがつくる身体4 ソクラテス・感情的メンテナンス

 さて、ここまでは一文要約、つまり「森を見る」から入ったが、「メディアが作る身体」では、「木を見る」の方にも考えるネタが豊富にある。

 荻上チキの文章は、「わかる人にはわかるだろ」といったレトリックに満ちている。クールで切れ味がいいが、嫌味だと感じる人がいるかもしれない。

 そういう箇所をいくつか取り上げて考えてみる。


 次の一節は?

ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…

 これはなぜ「批判」なのか?


 もう一つ、次の一節を考える。

「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。

 それぞれの一節を説明するのも、それぞれに難しい。

 ところでなぜこの二カ所を同時に問うか?

 関連付けられるのだ。

 両者はそれぞれどのような趣旨のことを言っていて、どのような関係があるか?


 後者は、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。

 評論文の一節がなんだか「わからない」と思っている時には、具体と抽象の対応が不明確であることが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからないと「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それが示す抽象的な意味がわからなければ「わからない」。

 実はこの、具体例の一つがソクラテスなのだ。

 どういうことか?

 そして条件の「具体例」はソクラテス以外に、最近の社会状況からも出す、という条件。


 さてソクラテスの批判は、一体どういう趣旨の「批判」なのか?

 この言い方のわかりにくさの原因の一端は「秘訣」だ。「想起の秘訣」? 「記憶の秘訣」?


 「秘訣」などと言わず、「文字は記憶に役立つ」「文字は想起に役立つ」と言ってみる。そして前者なら良いのに、実際は後者なのが好ましくない、と言っている。 

 これはつまり、文字で記録すると、思い出すときには役立つから、むしろ覚えることの妨げになると言っているのだ。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。

 そして(ここから先は本文からは読み取れないはずなので調べてしまうと)、ソクラテスの文字批判は、そうして文字によって伝わる情報は、本物ではない、という趣旨につながる。曰く、真実は対話によってはじめて伝わるのであって、文字を読んでわかったような気になるのは人間を愚かにする、のだそうだ。

 さて、これがなぜもう一方の一節に適用されるか?


 「感情的メンテナンス」はまず、どういう人のどういう「感情」?


 この人は「説教する/される人」のどちら寄りに立つ人?

 しばらく話し合った後でみんなにこう問うと意見が二分したのは、こちらの狙い通りで、しめしめと思いつつも困ったものでもある。これはどちらかに一致すべき問いだ。 


 「昔に返れ」という言い方から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいるが、この言い換えは見当外れ。


 「感情的メンテナンス」を必要としている人とはどのような人か?

 これを的確に言えることが適切な理解の条件。

 「時代に乗り遅れている人」は悪くないが、この文脈に必要なくらいに、もうちょっと解像度高く。

 「新しいメディアを使いこなせないことに不安や劣等感を抱いている人」と言えればOK。


 つまりソクラテスは「『昔に返れ。』といった説教」をしているのだ。

 「秘訣」という言葉は、ソクラテスの時代には、文字がまだ広く一般人に普及してはいない「新しいメディア」であったという時代背景を表している。文字という新しいメディアを批判し、文字のない「昔に返れ」と言っているのだ。文字などを頼っていると、人は馬鹿になる、と。

 「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。

 だからソクラテスの文字批判にも一理ある。文字を使うと人は覚えなくなるし、真実が伝わらないことに無頓着になる。

 ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安な「感情」を「メンテナンス」する。だが世界はその後、否応なく、文字を使った「記録・伝達システム」を構築していく。いったん手にしたメディアを人々は手放しはしない。


 さて最近の例では?

 最も想起しやすいスマホでもAIでもいい。そんなものを使っていると馬鹿になるという主張=「説教」は世の中にある。それは、そうした新しい技術を使えないで不安を感じている人を安心させる(=メンテナンス)。

 だがそんな主張は、新しいメディアを組み込んだ新しいシステムの構築には役に立たない。

 時代は否応なく新しいメディアを組み込んだシステムによって動いていく。


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