2025年7月9日水曜日

共に生きる 15 空虚な〈私〉時代2

  身近な人々の間で展開される承認ゲームはなぜ「空しい」か?

 この問いは「なぜ空しくなったか?」という問いではない。それは「共通前提」からの論理展開で示される。

 そうではなく、そのような事態をなぜ筆者は「空虚」と表現するのか? を問うている。

 題名にあるというのに、なぜ「空虚」なのかは判然としない。端的に書いてある箇所はない。全体の論理から、筆者の言う「空虚」さを読み取らなければならない。

 そしてそれを端的に表現する。「~から。」で終わるように。

 そうして発表を聞くと、その表現は、大きく言って2種類に分かれるのだった。

  1. 身近な人々の承認を得るために演じている「自分」は本意ではないから。
  2. 身近な人々の承認を得るために合わせている「価値」は、社会全体に共有されたものではないから。

 各クラスで聞いてみると、多くは1、たまに2が挙がる。

 この二つの理由はどう違うのか?


 だがそもそも上の1,2を「違う」と意識できるか、すべきかもさだかではない。

 図式化して違いを示そう。

 「身近な人々」は「小集団」とも言い換えられている。

 「小集団」は何と対比されるか?

 三層の対比になると言えば皆すぐに以下の対比構造を想起できる。

個人/小集団/社会

 問題は、これらの対比の間のズレ・食い違い・乖離・齟齬から生じている。とすると、それは「個人/小集団」「小集団/社会」どちらの対比の間で生じているか?

 つまり1は「個人/小集団」の間のズレから問題が生じていると言っていて、2は「小集団/社会」のズレが問題だと言っているのだ。

 さてどっちなのだろう。本文の論旨によると。


 一方「〈私〉時代のデモクラシー」の「難しさ」はどこから生じているか?

 これはいわば次の間のズレからだと言える。

〈私〉/〈私たち〉

 この「問題」は、上の1,2,どちらの「問題」と重ねられるか?


 小論文では、具体例を挙げて、その問題の「難しさ」を説明することが条件だった。

 例えば「米不足問題」では、生産者、消費者、流通業者、政府など、いくつかの立場の「当事者」が考えられる。そしてその利害は一致しない。消費者は安く米を買いたいが、生産者は高く売りたい。流通業者も、JAと大型商業施設と街の小さな米屋では利害が異なる。政府は選挙向けに有権者の不満を解消することばかりに腐心しているが、俗に言う「農水族」の思惑は違うかもしれない。

 これは「小集団/社会」のズレの問題と重なる。小集団がそれぞれの利害に従っていると、民主主義が成り立たない、という問題だ。


 だがそもそも「空しさ」の原因である1と2は「違う」のだろうか?

 異なった二つの「原因」が語られているのだろうか?

 むしろその関係を考えるべきなのでは?


 1と2は、「端的に言う(授業では「15字くらいで」という条件だった)」から違って見えるだけであって、もっと長ければ実は一続きで言える。

身近な人々の承認を得るために本当の「自分」を偽って演じているのに、その小集団内に通じる「価値」は、社会全体に共有されたものではなく、本心では自分でも信じていないから。

 これが空しさの理由だ。

 このことを本文では「自由と承認の葛藤」と表現している。

 これはすなわち「〈私〉と〈私たち〉の葛藤」であり、それはすなわちデモクラシーの困難なのだ。


 あえて違いを言うなら、言えないこともない。

 「〈私〉時代のデモクラシー」の宇野重規は政治学者であり、「空虚な承認ゲーム」の山竹伸二は心理学者・哲学者だ。ここから、「〈私〉時代~」は社会の問題に重点が置かれ、「空虚な~」は心の問題に重点が置かれている、とは言える。「難しい」は社会が直面している問題で、「空しい」は個人が直面する問題だ、と。


 「〈私〉時代のデモクラシー」は、時代の変遷を三層で語っている。

前近代/前期近代/後期近代

 これは次のような時代区分にあたる。

近世/近代/現代

 一方、「空虚な承認ゲーム」も、前近代から近代への論理展開は共通していて、かつ、問題は現代だ。近代から現代への変遷が語られている。

 この時代区分における変遷という切り口で、二つの文章を重ねてみよう。


 前近代から近代への変化は、自由な個人の成立ということで両者共通している。

 近代から現代への変化は?


 「空虚な承認ゲーム」はこれを「大きな物語」の喪失として語る。

 「大きな物語」は、現代には失われたもの、だ。

 これは「〈私〉時代のデモクラシー」では何に対応しているか?


 まず宗教が想起されるべきではある。だがそれは前近代からある「大きな物語」だ。

 近代に特有の「大きな物語」は?

 「空虚な承認ゲーム」で例として挙がっているのは「ナチズムやスターリニズムといったイデオロギー」だ。それとてそれなりにはでかいとはいえ「小集団」ではないかという突っ込みはできるだろうが、とりあえず一国の社会全体を覆い尽くすくらいにはでかい。

 これにあたるのは「〈私〉時代のデモクラシー」では?


 「自由な個人」も確かに近代になって生まれた「大きな物語」だが、これは現代には喪失したとも言いにくい。

 もう一つ、文中から挙げるなら「公正で平和な社会」だ。

 これとても「喪失した」とは言い難いものの、「社会正義」より「個人の自由」と言っているのが現代だと言えば、ある意味で「喪失した」とはいえる。

 それもまた近代におけるイデオロギーなのだ。

 社会共通のイデオロギーの喪失が「空虚」さを生んでいる。

 そしてイデオロギーの喪失は〈私たち〉を作ることを難しくさせている。

 ここでも「空しい」=「難しい」だ。


共に生きる 14 空虚な〈私〉時代

 次は予告通り「空虚な承認ゲーム」と「〈私〉時代のデモクラシー」を読み比べる。


 筆者が最も言いたかったことを、その文章の「結論」「主旨」などと言っておこう。

 それを言うまでには、ある「前提」があり、そこから「結論」まで、なにがしかの「論理展開」をする。

 二つの文章の「前提」と「論理展開」が共通していることを言うのは比較的容易だ。ここまでに確認されている共通前提がここにもある。そのまま文中から、共通して使われているキーワードを三つ、と指定すれば、すぐにみんなは「近代」「個人」「自由」を挙げることができる。

 この三語を使って、どのような「前提」からどのように「論理展開」しているかを語ってみる。


 前近代には、宗教や伝統などの「大きな物語」が人々の共通前提となり、人々はそれに拘束されていた。

 「近代」になるとそれが崩れ、人々は「自由」な「個人」となった。

 ここまでは二つの文章に共通する「前提→論理展開」。

 では「結論・主旨」は?


 できるだけ短く、と指定して次のようなフレーズを共有した。

「空虚な承認ゲーム」

現代人は身近な人からの承認を求めている。

「〈私〉時代のデモクラシー」

〈私〉時代とも言える現代において〈私たち〉を作らねばならない。

 共通前提から出発して、途中までの論理展開が共通しているからには、これらの結論・主旨にも、何らかの共通点があると考えるのは無理がないはずだ。どのような共通点があるか? というか、これら二つの結論・主旨は、どのような関係になっているのか?


 「関係」?

 関係を考えるためには共通点がなければならない。接点がなければ関係づけられない。

 その上で「関係」を語る。因果関係? 時系列? 並列? 言い換え? 包含関係?


 文章は「認識」を語るか「主張」を語るかに大別できる。「認識」を語らないということはありえないが、とくだん「主張」らしいことを言わない文章はある。

 上で言えば「~を求めている」は「認識」を語っているが、「主張」らしい言い方にするのが難しい。一方「作らねばならない=作るべきだ」は「主張」っぽい。

 「認識」と「主張」を関係づけようとするなら、因果関係に持ち込むのが有望?


 もう一つ。文章はなにがしかの「問題」があるときに書かれるものだ。何も「問題」がなければ、多くの文章は書かれない。

 それぞれの文章の「問題」を示す、否定的ニュアンスの形容は何か?


 それぞれ、上記の主旨の後に、次のような形容を足せば良い。

現代人は身近な人からの承認を求めているがそれは空虚だ

〈私〉時代とも言える現代に〈私たち〉を作ることは難しい

 この「空しい」と「難しい」の関係は?


共に生きる 13 空虚な承認ゲーム2 偽の/偽りの自分

  「共通している」とは、両者に「対応している」要素があるということだ。

 ということで次の一節を比べてみる。

このような鬱屈した気分のなかで、子どもたちは何もできなくてもじぶんの存在をそれとして受け容れてくれるような、そういう愛情にひどく渇くようになるのだろう。(…)上手に「条件」を満たすさなかに、もしこれを満たせなかったらという不安を感じ、かつそれを(かろうじて?)上手に克服しているじぶんを「偽の」じぶんとして否定する、そういう感情を内に深く抱え込んでいるはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」

一般的に、承認に対する不安が強い人間ほど、他者に承認されるための過剰な努力、不必要なまでの配慮と自己抑制によって、自由を犠牲にしてしまいやすい。自分の自然な感情や考え(本当の自分)を抑圧し、「偽りの自分」を無理に演じてしまうのだ。その結果、心身ともに疲弊してうつ病になったり、心身症や神経症を患ってしまうケースも少なくない。「空虚な承認ゲーム」

 この「『偽の』自分」と「偽りの自分」は、同じことを言っているか? 違うか?


 同じか、違うかと訊いて挙手させると、どこのクラスでも違うに多く手が挙がる。

 だが実は「同じ/違う」は排他的な二択とは言い切れない。

 「違う」というためには比較をしなければならず、比較をするためには共通した土俵に両者を載せなければならない。まったく共通する要素がなければ比べることもできず、「違い」を言うこともできない。

 従って両者は共通している要素がある。前回対応を確認した「肯定/承認」されるために、「本当の自分」を偽って演ずるのが「偽の/偽りの自分」だ。それがいずれも否定的に表現されている。そういう意味で「同じ」であることは認めなければならない。

 ではどこが違うか?


 違いを言うことができなければ上記の通り、両者は同じだということになる。

 だが違いを言うのは簡単ではない。それぞれの文章から、それぞれの説明をして、それを並べれは違いを示したことになるわけではない。

 例えばAとBは違うと言うために、それぞれの文章から次のような表現を切り取ったとする。

  • Aは大きい。
  • Bは軽い。

 これでは違いを示したことにはならない。それぞれが大きさと重さを表現していて、同じ軸上の比較になっていない。軽いものは総じて小さいが、風船のように比重が小さければ、軽くても「大きい」。だからまず「軽い」を解釈して「小さい」ことを示す必要がある。

 だが「Aは大きい/Bは小さい」と言えれば違いを示したことになるかと言えば、それもまだ確かにそうだとは言えない。

 「大きい/小さい」は相対的な捉え方であって、基準が揃っている保証はないからだ。二つの文章はもとより別々の文章なのだから、互いが比較対象な訳ではないし、互いを対象として相対的に「大きい/小さい」を言ったとて、それが何の「違い」なのかは、まだ明らかではない。Aは何かを基準として「大きい」と表現され、Bは何かを基準に「小さい」のだ。その基準が同じである保証はない。


 「違い」を言うためにはそうした精細な思考が求められる。だからこの問題は意外にみんな手こずった。というより思いのほか盛り上がって、ほとんどのクラスで1時限以上の話し合いになったのだった。しかも多くのクラスでは自主的にどんどん発言者が出現する、というような。

 とても結構なことだ。楽しい。


 さて、各クラスで、「違う」と言うためのさまざまな切り口が提案された。漫然と言うのではなく、切り口を明示することは重要だ。思考が整理されて、議論が有意義になる。

 例えば「強制/自発」という対比が提案された。「偽の/偽りの自分」を演じるのは強制されたからか自発的になのか。

 だが結局、どちらをどちらに割り振ることもできないという結論に落ち着いた。「偽の/偽りの自分」を演ずることには、どちらもなにがしかの強制力が働いており、それにしたがうことはどちらも自発的でもある。そうすると決めた時点で、自発的でない演技というのはそもそもありえない。


 「自覚がある/ない」で、違いが言えるだろうか?

 だがこれも「偽の/偽りの」と言う以上、自覚がないことはありえない。


 そうした「自分」が「」にあるか「」からできるか、では?

 これも、再帰的な循環の中で、いつが「先」か「後」かを言うことは難しい。


 そうした「偽の/偽りの自分」は「自分」の一部全体と重なっているかで言い分けられる?

 これもなんとも言い難い。

 こうした試行錯誤は議論を明確にするためには有益だ。

 

 結局、違いを言うためにかろうじて有効らしいと合意を得たのは、「演ずる」ことが何に従っているのかに、「違い」と言える相違があるのでは、という案だった。

 「『偽の』じぶん」は「条件(資格)」に合わせることによって「本当のじぶん」ではなくなる。

 「偽りの自分」でこれにあたるのは?

 「価値」が相当する。

 では「条件」(「つながり」と…)と「価値」(空虚な…)の相違点は?


 目の前の誰かに「肯定」されるために「『偽の』じぶん」が満たすべき「条件」は、しかし社会が突きつけてくる「条件」でもある。子供にとって、勉強ができることは、親や先生が突きつけてくる「条件」だが、それは社会が認める「価値」だ

 一方、身近な人=小集団に「承認」されるために守るべき「価値」は、むしろ「社会」全体が認める「価値」ではない、というのが「空虚な承認ゲーム」の主旨だ。その「価値」は小集団の内部でしか「価値」たりえない。だから「空虚」なのだ。

 「偽りの自分」はそのようなものに合わせて演じられたものだ。

 「偽りの自分」をやめることは、小集団からの離脱を意味するが、「『偽の』じぶん」をやめることは社会からの離脱を意味する。


 このあたりが、「違い」としてとりあえず言える切り口として納得できるところではある。

 が、同じか違うかと問うたときにみんなが「違う」と感じた印象は、これを読みとったからでは、たぶんない。それはそれで文脈上違っているように感じられる理由が別にあり、だが、では何が違うかを言おうとすると、同じであることばかりが確かめられる、両者はそのような表現なのだった。

 精密に読み、精密に表現することの難しさが考察の面白さにつながる、興味深い問題だった。



共に生きる 12 空虚な承認ゲーム

 4月以来ここまで6本の評論を読んできて、7本目、山竹伸二「空虚な承認ゲーム」をここに合わせる。ここまでの論者と共通するどんな問題意識があるのだろうか。

 共通した論旨が読み取れそうなのはどれ? という問いに挙がったのは「『つながり』と『ぬくもり』」が最も多かった。次が「〈私〉時代のデモクラシー」。

 まずは「『つながり』…」から考える。


 「共通した論旨」は、いろんなレベルで指摘できる。

 論の前提となる認識、論理展開、結論、途中で言及される部分的な論旨…。

 まずは「似ている」という印象を手がかりに、どこに注目するかを探る。その時点でその「印象」を語ってもいい。おそらくそれぞれの文章を、自分なりに解釈して説明することになる。それはそれで有益な国語的言語活動ではある。

 さらに精細に考えるためには「対応する」記述を探す。

 「共通する」とは、双方に対応する記述があるということだ。文字通り「共通する」、どちらにも同じ語を使った、ほとんど同じ趣旨であることが明らかな一節があればそれが「共通」している。だが、同一の語でなくとも、解釈して同趣旨と見なせるならば、それは「共通」していると見なそう。そのような「対応」している語、表現を指摘しよう。


 さて、指摘できるのは次のような表現。

「『つながり』と『ぬくもり』」

親密な個人的関係の中で肯定されることを求める

「空虚な承認ゲーム」

身近な人々に(小集団の中で)承認されることを求める

 対応している「肯定/承認」は、どちらもそれを人々が欲していることで「対応している」と感じられる。

 さらに、単に同一ということで「対応している」のは、またしても「近代」「個人」だ。

 この「前提」と「結論」を結ぶ論理展開はどのようなものか?


 「近代」と「個人」が登場したら、言うべきことは決まっている。前近代には人々を縛る「くびき」があったが、そこから解放されて、人々が「自由な個人」となったのが近代だ。

 だが自由になったことで拠り所を失った人々は、身近な人からの肯定/承認を求めるようになったのだ。

 そうした状況を鷲田は「さびしい」と表現し、山竹は「空虚」と表現する。


 両者ともに、近代化に伴う社会と個人の変化がもたらす問題を、現代的な状況として描いている。


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