2024年12月12日木曜日

舞姫 21 豊太郎の「逆境」

 これまで述べたように、この手紙によって豊太郎が日本に帰れる可能性に初めて気づいたのだと考えるのは難しい。

 ではこの手紙の核心はどこにあるか?


 ここで先の「否」による逆接の考察が活きる。この手紙に書かれているのは残される不安に対するエリスの積極的な姿勢だ。「我が愛もてつなぎとめではやまじ。」には強い意志の表明がある。

 だがこれだけならば一通目の手紙にある、不安と裏返しの愛情の延長上にある。では何が問題なのか?


 この手紙が豊太郎にもたらした衝撃の核心は、上記に続く「それもかなはで東に還りたまはんとならば」からの、豊太郎の帰国に対する具体的な方策の記述だ。ここには路用と母親の処遇についての解決の見通しが書かれている。つまり、豊太郎が日本に帰る場合、エリスが日本に着いていくというのだ。

 この手紙がここに引用されてることの重要性からすると、この方針は二人の間で、この手紙によって初めて示されたものだと考えられる。そのような可能性は、豊太郎にとってこれまでは想定外だったということになる。

 エリスが日本に着いてくるという可能性は豊太郎の認識にどのような変化をもたらすか?


 こう考えてみよう。

豊太郎はどのような選択肢の前に置かれているか?

 ここまでの豊太郎にとっては、未来は次の二択として捉えられている。

a エリスと共にドイツに残る。

b エリスを棄てて日本に帰る。

 またこの手紙によって示された新たな選択肢はどのようなものか?

c エリスを連れて日本に帰る。

 三つ目の選択肢が加わったことは豊太郎の認識にどのような変化をもたらすか?


 abの選択に迷っているのなら、cは最も喜ばしい選択肢のはずだ。イイトコドリではないか。

 にもかかわらず、cが豊太郎にとって最も避けたい選択肢であることは、読者には直感的にわかる。

 なぜか?

 ここが説明できれば、ここで「明視し得た」「我が地位」を説明できる。


 豊太郎はabの板挟みになっている「我が地位」について自覚していないわけではない。だがそのことについて本気で「決断」せずにいられたのは、それが相手任せにできたからだ。事実、大臣に「東に帰るぞ」と言われれば「承りはべり」と答えてしまうし、ロシアからドイツに帰れば「低徊踟躕の思ひは去」ってエリスを抱きしめてしまう。豊太郎はそのような人物として描かれている。

 このab二択の帰趨は、言わば他人任せの成り行きで決まる。決まった後の、選ばなかった相手からは逃げてしまえばいい。

 だがこの手紙に示された可能性は、そのような他人任せの二択では済まされない。

 エリスとともに日本に帰るとすれば、まずは「エリスと別れる」と言った相沢との約束が嘘だったことを告白し、あらためて外国人の卑しい舞姫を日本に連れ帰ることを大臣や相沢、日本での生活で関わる全ての人々に受け入れさせなければならない。そのための強固な意志に支えられた自己主張と説得が必要になる。

 それができずエリスと別れるとなれば、エリスに直接別れを切り出さなければならない。黙ってドイツを去るだけでは片付かない事態になったのである。そこにもまた同じ強固な意志による主張と説得が必要になる。といってエリスの妊娠が明らかになった以上、そのような意志を持つことは豊太郎には絶望的といっていい。

 いずれにせよ、相手に任せた成り行きで事が決し、その後は、選ばなかった相手とは関わらずに済む(と思えた)abの二択では済まされない事態に陥ったのだ。

 cの選択肢は、豊太郎の弱点を確実に衝いている。

 むろんabの選択においても既に「強固な意志に支えられた自己主張と説得」は必要だ。だが「逆境」におかれた豊太郎は、そのことを敢えて見ないようにしていた。この手紙によって示されたcの可能性が、自分が置かれた「地位」を、今こそ豊太郎の眼前にさらけだしたのだ。

 単に選択の前に置かれている、というだけでなく、選択するためには相手に「否」を言わなければならないという「立場」を。


 通読に伴う大きな考察ポイントはこれが最後で、あと3章は一気に読み切る。そうしたらいよいよ小説全体を捉える読解に進む。

舞姫 20 我が地位

 11章では、手紙と関係してもう一点、考察したい問題がある。この手紙の直後の「ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視し得たり。」という述懐だ。

 ここで述べられている「我が地位」とはどのようなものか?


 ただちに思いつくのは、自分が大臣に重く用いられるようになるということは日本に帰れる可能性が高まってきたということであり、そうなるとエリスを棄てなければならず、どちらをとるかという選択の板挟みになるという状態を指しているのだ、といった説明だ。

 これは、次の段落の次のような記述と対応している。

    大臣は既に我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらむ、絶えて思ひ至らざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。

 「ここに心づ(いた)」が「我が地位を明視し得た」に対応していると考えれば、帰国の可能性と、それ故に生ずる板挟みに「心づいた=明視した」のがこの時だったということになる。


 だがこうした説明に素直に納得することはできない。このような状態であることは、とうにわかっていたことではないのか。今更「明視し得たり」などと言うことなのか。

 いや、わかっていなかったわけではないのかもしれない。ただ「胸中の鏡は曇」っていたのだ。心の奥底で「わかっていた」としても、それが今初めて「明視し得た」、つまり明らかに自覚されたのだ。

 だがこのような説明でも腑に落ちない。この場面より2ヶ月ほど前の天方伯への面会の際、身支度を整えている場面において、豊太郎の「不興なる面持ち」が示すものは、既にそうした未来を予想してのものだと分析したではないか。

 また実際に相沢と再会した際にはエリスと別れることを相沢に口約束していた。そしてホテルを出る時に「心の中に一種の寒さを覚え」ているのは、約束に従うことでエリスを棄てて東へ帰る可能性が心に兆しているからではないか。

 では「今ここに心づきて」という記述は嘘なのだろうか?


 この問題について考える上で気になるのは、この続きの文章だ。

余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとする時は、頼みし胸中の鏡は曇りたり。

 この一節における「逆境」とはどのような事態を指すか?


 この「逆境」は「我が地位」と同じ状況を指している。「逆境」において「胸中の鏡は曇」っていたため「我が地位」が見えなかったが、エリスの手紙によって初めてそれを「明視し得た」といっているのだ。

 エリスを棄てて日本に帰る道とエリスと共にドイツに残る道、自分が大臣とエリスのどちらを選ぶかという板挟みになっているという状況のことを指して「逆境」と言っているのだと考えることは容易い。また、それを指して「我が地位」と言っているのだと考えることも。

 だがそうだとしても、豊太郎がそのことに気づいていないはずはない。

 だから少なくとも、それまでの認識とここで「心づ」いた認識には差がなければならない。

 そして、問題はその認識の更新が、この手紙に因っているということだ。

 この手紙の何が、どのような認識の更新をもたらしたのか?


2024年12月6日金曜日

舞姫 19 「否」から始まる手紙

 天方伯爵の訪欧に随行してきた相沢との再会後、文書の翻訳を依頼された豊太郎は伯爵らが宿泊するホテル、カイゼルホウフへ出入りすることが多くなる。一月ほど過ぎたある日、天方伯は豊太郎にロシア訪問の通訳としての随行を依頼する。例によって豊太郎は咄嗟に肯うことしかできない。

 ロシア旅行の間、エリスは毎日豊太郎宛に手紙を書き送る。11章には、最初の一通目と、出発後二十日ほど経ってからの手紙についての記述がある。後者の手紙は「否といふ字にて起こ」されている。

 この奇妙な(そして重要な)手紙について考察したい。

 「いいえ」「そうじゃない」「違うわ」…、口語訳はいくつも考えられるが、いずれにせよ否定する前部がないのに否定の言葉から始まる文章の奇妙さにもかかわらず、この書き出しが持つ切迫感は確かに読者にも感じ取れる。

 そしてその論理もまた、わかっているような気がする。まるでわかっていなければその謎がもっと強く意識されるはずだ。

 だがその論理を明晰に語ることはそれほど易しくはない。

 この「否」は、何が「そうではない」といっているのか? 何に対する否定か?


 同様の考察を、カイゼルホオフへ向かう前の身支度の場面のエリスの科白でも考えた。科白の冒頭が「否」で始まるが、その前後にはどのような逆接があるか。あれはこの考察の準備運動だったのだ。

 その論理を語るには慎重に本文を追わねばならない。


 これは何に対する否定なのか?

 直前に記述されているのは一通目の手紙であり、これとただちに逆接するわけではない。一通目は豊太郎の出発の翌日に書かれており、問題の手紙は「二十日ばかり」経ってからの手紙だ。そして手紙は「日ごとに」書かれている。つまり二十通目前後の「ほど経ての書」なのである。

 とはいえ、二通目以降も同じようなことが繰り返し書かれていたとすると、この一通目に対して「否」という逆接でつながる論理を説明すればいいのかもしれない。

 また、豊太郎からの返信に対する逆接かもしれない。その頻度は明らかではないが、豊太郎もまたエリスに手紙を書いている。「書き送りたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば」と、ロシアでの通訳の仕事ぶりについて、エリスに知らせている。これらの返信の内容に対する反対の意志表明なのだろうか。

 だとすればこの逆接から、豊太郎の手紙の内容を推測すべきなのだろうか?

 おそらくそうではあるまい。「否」から豊太郎の手紙の内容を推測させるような迂遠な論理を読者に期待しているとは考えにくいからだ。

 では何か?

 手紙を書き出す前にあれこれと考えをめぐらせ、それを自分自身で否定したのがこの冒頭の「否」なのだろう、とは思われる。それは自身のこれまでの手紙にも書かれたような内容であったかもしれない。同様の内容をまた書こうとして、それを否定したというのならやはり、書き出す前に頭をよぎったあれこれ、ということで、逆接の論理を捉えよう。

 エリスの頭にはどのような思いがよぎったのか?


 論理の組み立て方のアイデアは一つではない。手紙の内容のどこまでに視野を拡げて考えるか。

 まず一つは、「否」に続く書き出しの一文「否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。」を素直に逆転させるアイデア。

a 「今までも豊太郎を思う心については充分その深さを知っていたつもりだった。だがその思いがこんなにも深かったのだと今初めて知った(今まで自分でも知らなかった)。」ということ。

 エリスの手紙は、一通目から「あなたが恋しい」ということを訴えているに過ぎない。それは自分でも自覚している。だがこれほどとは思わなかった、と言っているのだ。いつも通りに「あなたが恋しい」と書きそうになり、それでは足りないと思う思考が「否」に表われているのだと考えられる。これはすこぶる論理的な説明だ。


 もう少し視野を拡げる。続く手紙全体からしかるべき趣旨を抽出した上で、それを逆転させる。これには、ポジティブな方向とネガティブなな方向が考えられる。「否」の前後でネガ/ポジが逆転するように論理を想定する。

 一通目の手紙に示されているのは、豊太郎との別離の不安だ。それは問題のこの手紙にも通底している。それに対し、この手紙には何が書かれているか?

 まずネガ/ポジの逆転。

b 豊太郎の帰りを待つ不安が心に兆して、つい弱気な泣き言を書きそうになる。それを打ち消し、「我が愛もてつなぎとめではやまじ」という強い意志を表明している。

 もう一つ、ポジ/ネガの逆転。

c 不安の裏返しとして安易な希望的観測(「大丈夫、あなたはきっと帰ってくる」など)にすがりそうになるのを自ら打ち消し、自分の意志で事態を変えることを宣言するため「それもかなはで東に還りたまはんとならば、親とともに行かん」と具体的な対抗策を提示する。


 これらの説明には、論理を整理して語ることと、表現のニュアンスに気を配ることが求められる。

 繰り返すが、入試で問われるのもそれなのだ。


 ところで、話題に挙がっていた班もあったようなので附言する。

 美川憲一という歌手に「さそり座の女」というヒット曲がある。



 その歌い出しは「いいえ」で始まる。

いいえ 私は さそり座の女

お気のすむまで 笑うがいいわ

あなたはあそびの つもりでも

地獄のはてまで ついて行く

思いこんだら いのち いのち

いのちがけよ

そうよ私は さそり座の女

サソリの星は 一途な星よ


 この歌詞を取り上げたとあるサイトでは、この前に男が星座の話題をふったのだろうと考察している。つまり「君の星座を当ててみよう。乙女座かな?」などというチャラい問いかけに対して「いいえ私はさそり座の女なのよ」と答えているのだ、というのだ(これを美川憲一の声で言われたところを想像すると怖い)。

 しかし1番の歌詞全体を見ると、「笑うがいいわ」「ついて行く」などから、何を否定しているかが見えてくる。

 男は、棄てようとしている愚かな女の思いを軽く見ているのだ。あなたは気軽な遊びのつもりでたやすく棄てられると思っているかもしれないけれど、軽く見ないで頂戴、私はさそり座の女=一途な女なのよ、「地獄のはてまで ついて行く」わ、というわけだ。

 「地獄のはてまで」って!

 この逆接の論理は、まるで上で想定したエリスの手紙の「否」と同じだ。

 エリス=「さそり座の女」!


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