さて、部分的な読解をしよう。部分の読解は常に全体の読解と相補的だ。
次の一節はどういうことを言っているか?
じぶんで選択しているつもりでじつは社会のほうから選択されているというかたちでしかじぶんを意識できない
「どういうことか」という問いは、何を言えばいいのかよくわからない。
説明を求められている当該の一節がそもそもわからない場合には答えようがない。
といって、逆にそのままでわかると感じている場合にも、それ以上何を言うべきかわからない。
いずれにせよ「どういうことか」を説明するのは難しい。
ほんとうは目の前に「わからない」と言う人がいて、その人を相手に対話を繰り返す中で、その人が何を「わからない」と感じているのかが徐々に明らかになって、初めて「どういうことか」を言うことができる。
だからテストで、誰がどう考えて「わからない」と言ってるかもわからないのに、「どういうことか」を訊かれるというのは困った事態ではある。
が、答えなくてはならない。どうするか?
実は問題の一節は、その直前が「つまり、」で始まっている。つまりこの文の前の7行を受けているのだ。
社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならないということである。言論の自由、職業の自由、婚姻の自由というスローガンがそのことを表している。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。
前半が「じぶんで選択しているつもりで」に対応していて、後半が「じつは社会のほうから選択されている」に対応している。ここから適当に表現を選んで継ぎ接ぎすればいい。
逆にこの一節が「わからない」と感じていた人は、この一節が前の7行とほぼ完全な対応を見せていることを見ていないだけだ。視野を拡げてみればそれは一目瞭然なのに、部分を見ていると「わからない」と感ずる。
さてこれを、後から語られる「資格」を例にして語ってみよう。
「わかる」とは、ある意味では、それに対応する例が思い浮かぶ、ということだ。
「例えば『資格』を例にしてみると…」ということができれば、それは「わかっている」ということだ。
上の「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」「じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならない」とは、例えば我々は「資格」をとることで自分が何者かを証明する、と言っているのだ。どんな資格をとることも我々は自由に選択できる。調理師免許をとって料理人になる、宅建(宅地建物取引士)資格をとって不動産屋になる、司法試験に合格して弁護士になる…。
だがそもそも資格とは社会が用意するものだ。社会を動かすための歯車に適した人材であること証明するものが「資格」だ。
資格をとって何らかの仕事をするということは「システム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆ」くということなのだ。
資格をとることは自分が選択したことなのに、それはすなわち社会の要請する役割を果たすことになる。それが問題の一節で言っていることだ。
例を用いて説明したときのこのスッキリ感を感じてほしい。