2022年5月8日日曜日

共に生きる 6 「社会から選択される」

 さて、部分的な読解をしよう。部分の読解は常に全体の読解と相補的だ。

 次の一節はどういうことを言っているか?

じぶんで選択しているつもりでじつは社会のほうから選択されているというかたちでしかじぶんを意識できない

 「どういうことか」という問いは、何を言えばいいのかよくわからない。

 説明を求められている当該の一節がそもそもわからない場合には答えようがない。

 といって、逆にそのままでわかると感じている場合にも、それ以上何を言うべきかわからない。

 いずれにせよ「どういうことか」を説明するのは難しい。

 ほんとうは目の前に「わからない」と言う人がいて、その人を相手に対話を繰り返す中で、その人が何を「わからない」と感じているのかが徐々に明らかになって、初めて「どういうことか」を言うことができる。

 だからテストで、誰がどう考えて「わからない」と言ってるかもわからないのに、「どういうことか」を訊かれるというのは困った事態ではある。

 が、答えなくてはならない。どうするか?


 実は問題の一節は、その直前が「つまり、」で始まっている。つまりこの文の前の7行を受けているのだ。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならないということである。言論の自由、職業の自由、婚姻の自由というスローガンがそのことを表している。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。

 前半が「じぶんで選択しているつもりで」に対応していて、後半が「じつは社会のほうから選択されている」に対応している。ここから適当に表現を選んで継ぎ接ぎすればいい。

 逆にこの一節が「わからない」と感じていた人は、この一節が前の7行とほぼ完全な対応を見せていることを見ていないだけだ。視野を拡げてみればそれは一目瞭然なのに、部分を見ていると「わからない」と感ずる。


 さてこれを、後から語られる「資格」を例にして語ってみよう。

 「わかる」とは、ある意味では、それに対応する例が思い浮かぶ、ということだ。

 「例えば『資格』を例にしてみると…」ということができれば、それは「わかっている」ということだ。


 上の「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」「じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならない」とは、例えば我々は「資格」をとることで自分が何者かを証明する、と言っているのだ。どんな資格をとることも我々は自由に選択できる。調理師免許をとって料理人になる、宅建(宅地建物取引士)資格をとって不動産屋になる、司法試験に合格して弁護士になる…。

 だがそもそも資格とは社会が用意するものだ。社会を動かすための歯車に適した人材であること証明するものが「資格」だ。

 資格をとって何らかの仕事をするということは「システム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆ」くということなのだ。

 資格をとることは自分が選択したことなのに、それはすなわち社会の要請する役割を果たすことになる。それが問題の一節で言っていることだ。

 例を用いて説明したときのこのスッキリ感を感じてほしい。


2022年5月6日金曜日

共に生きる 5 「つながり」と「ぬくもり」

 5つ目に読み比べる文章「『つながり』と『ぬくもり』」の筆者が鷲田清一(きよかず)だと聞いて、その名に反応してほしい。「真の自立とは」の筆者だ。

 授業で読んだ文章の筆者を覚えておくことは有益だ。次に問題集であれ模試であれ、大学入試であれ、同じ人の文章が出題されたときに、読むための構えができる。内容的に重なっていることも少なくない。初めて読む文章でも、そうした構えがあると入りやすい。鷲田清一は入試でも頻出の論者なので、できれば記憶にとどめておこう。


 さて、この文章を「読み比べ」よ、と要求されるのは、かなり難易度が高い、と感ずるはずだ。急に抽象度が増して、手応えがはっきりしない。こういう随筆的な文章は、論理的な評論文よりも趣旨がつかみにくいのだ。

 実はこの文章は旧課程(令和3年度まで)の2,3年生が使っていた「現代文」の教科書にも収録されていて、そこでは3年生が読む想定になっている。確かに1年生にはちょっと、とっつきにくい。

 だがまずは「同じこと」を探さないと「比べ」ようがない。

 共通点は?


 題名に「つながり」とある。もちろん他者と、だ。

 そう、これも「他者とのつながりは大事だ」という認識が共有されているのだ。

 さてもう一つ、いとぐちになりそうなのは「できる/できない」だ。ということは「真の自立とは」と「共鳴し引き出される力」とつなげて考えることができるかもしれない。

 だがそもそも「つながり」と「できる/できない」の関係が把握しにくい。これは「真の自立とは」でもそうだった。これまでの文章と関係づけるより前に、まず「『つながり』と『ぬくもり』」の内容把握が必要ならばやっておく。

 「つながり」「できる/できない」それぞれを使って、15字以内くらいの要約をしてみよう。その後、それらを関係づける。

  1.  現代人は「つながり」を求めている。
  2.  「できる/できない」で自分の価値を決められるのはつらい。

 これらはどういう関係か?

 感触として、逆接関係であると感じられるだろうか。同時に因果関係でもある。

 「できる/できない」が「自分の存在意義」を決めることと「つながり」が「自分の存在意義」を決めることは、反対方向だ。これを表現してみよう。

人は、ほんとうは「つながり」の中で自分の存在を確かめたいのに、「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえない。

 因果関係はどうか? 2が原因で、その結果として1になっていることを表現する。

現代人は「できる/できない」という条件付きでしか自分の価値を認めてもらえないので、無条件に自分を認めてくれる他者との「つながり」を求めている。


 さて、読み比べてみよう。

 「真の自立とは」は同じ鷲田の文章なので、ここは伊藤亜紗と鷲田が、「できる/できない」という対比と「つながり」を用いてどのような論を展開しているか比較してみよう。

 伊藤・鷲田に共通するのは、雑に言えば、「できる/できない」で分けてしまうのは良くない、といったような認識だ。「できない」と言われて排除されるのはつらい。

 鷲田の文章では、だから人は「つながり」を求めてしまうのだ、とつなげるか、それは人々の「つながり」が薄れてしまっている現代において起こった現象だ、とつなげるか。

 伊藤の文章では、個人で「できない」としても、他人との「つながり」の中で「できる」ことが大事だ、などとつなげることができる。


 ところで「できる/できない」を、それぞれの文章ではどのような言葉に言い換えているか?

 伊藤の文章では「能力」がそれにあたる。

 鷲田の文章ではそれが「資格・条件」という言葉で表現される。

 ここから「できる/できない」で分けるのは良くない、だからどうすると言っているのか、と考えてみる。

 伊藤は、「できる/できない」は、個人の「能力」のことを言っているから良くないのであって、他人との共鳴の中で「できる」ようになることもあるといい、そのような「能力」観を提示している。ここでは「能力」をめぐって「個人/他人との共鳴」という対比がある。

 鷲田は「資格・条件」で価値付けられるような社会の息苦しさから、若者は「他者による無条件の肯定」を求めるようになっている、と言っている。「できる/できない」という評価基準そのものからの離脱を述べているのだ。対比は「資格・条件/他者による無条件の肯定」だ。


 さてだが、単に「並べる」ことと「比べる」ことは違う。並べられても、だからどうだというのかわからない、ということもある。関連づける観点を示さないと、「問題」が見つからない。

 例えば、伊藤の主張は「できない」としても誰かの助けでできればいいのだ、という「行動」面についての主張をしていて、鷲田は「できる」ことを求められるとつらいので他人との「つながり」によって自分の存在を確かめたくなるといった「精神」面について論じているなどとまとめることができる。「行動/精神」といった対比を用いて、二人の論の違いを示す。

 あるいは、伊藤の「できる/できない」は障害のある方が「できる/できない」ことを問題にしており、鷲田は若者や子供が「できる/できない」で悩んでいることを問題にしている、と対比することもできる。論の対象となっている対象者の範囲の違いを示す。

 こうした、対比的な言葉をそれぞれの文章に対応させて比較するのも有効だ。


よく読まれている記事