2022年5月26日木曜日

共に生きる 13 対立を超える

 「自立と市場」の松井と「交換と贈与」の近内の主張は、それぞれ逆方向のベクトルをもっているような感触がある。それは二人が何か、ある事柄についての見解が相違していて、直接会って話したら対立してしまうということなのだろうか?

 その印象は間違っていないが、とはいえ逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードだ。

交換/贈与

市場/個人的関係

 まず上記のような対比が対応しているという把握が必ずしも適切ではない。

 松井が「個人的関係」として挙げる熊谷さん親子の例は確かに「贈与」の関係かもしれない。

 だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、そこには不均衡な「交換」の関係しかない。「個人的関係」が「交換」によって成り立っている場合もあるのだ。

 つまり二つ文章の主たる対比は、正確には対応していないのだ。

 「市場/個人的関係」の対比の要素は、人間関係の「多い/少ない」と「弱い/強い」だ。「交換/贈与」はそうした要素の対立ではない。


 また松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけでもない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない

 一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。

ただし、その自由には条件があります。交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなって困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。これらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致している。


 また松井は次のようにも言っている。

特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 それこそ近内が問題にしている領域だ。

 確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。

 松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で自由に自立して生きるためには市場が必要になると言っているだけだ。だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。

 そして近内が問題にしているのはまさしくその点、友人や家族との関係における「信頼」の問題ではないか。

 あるいはまた松井の言及する、大震災の時に活躍したボランティアはまさしく「贈与」の論理で動いているではないか。


 こうして丁寧に見れば、二人は同じような認識を共有していて、その見解が全く逆転しているわけではないのである。


共に生きる 12 対立を明確にする

 「自立と市場」と「交換と贈与」は、何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、とまずは感じ取ってほしいが、それを明確に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。


 まず、論じている領域というかテーマに共通性がある。何か?

 二つの文章はともにある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 「交換と贈与」では「資本主義」

 「自立と市場」では「市場経済」

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。

 しかしそこには人間同士の「信頼」が成立しない。

 そうした「交換」の論理と対比されるのが「贈与」だ。

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では?

 これは確認済みの「市場/個人的関係」だ。

 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 つまり二つの文章の対比は次のように対応している。

交換/贈与

市場/個人的関係

 「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。したがって対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることは納得していい。

 一方「個人的な関係」の例として語られる、熊谷さんの母親の息子に対する献身は「贈与」だと言っていい。そこには金銭による「交換」なぞ介在しない。

 二つの文章の対比は確かに両辺で対応している(ように見える)。


 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に語られている。


 また、「自立と市場」で論じられている「自立」の状態と対応する語が「交換と贈与」にある。

 松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 ここから連想されるのは「交換と贈与」の次の一節。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

 つまり「自立」と「自由」は、反「依存」という意味で共通している。

 更に、「自立」と「自由」はどうして反「依存」たりうるか?

 前回見たとおり、「交換」によって成り立つ関係は「自由」だと言っている。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 選択可能性が確保されることで依存から脱して「自由」になる。

 松井もまた次のように言っている。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれる

 選択できることが反「依存」を可能にしている。 

自立=自由

 ここでも両論は共通した論点をもっている。

 そして松井論では自由に通じる「自立」は望ましい状態として肯定的な文脈で使われているが、近内論では「自由」は否定的イメージで語られる。

 やはり両者は反対方向の主張をしているような印象として感じられる。

 このことをどう考えたらいいか?


共に生きる 11 交換と贈与

 ここまで8本の文章の論旨を繋げてきた。

 「未来の他者と連帯する」、教科書の「自立」をめぐる3本、「ちくま」の「私という存在」をめぐる2本、プリントの内田樹の「労働」を論じた2本。

 ここに「交換と贈与」(近内悠太)を繋げる。


 「自立」も「私」も「労働」も、どれも「交換と贈与」という観点から語り直すことができる。

 ここでは2点ほど、論点を絞ってその繋がりを考えてみよう。


 題名にある「贈与」という言葉はただちに内田樹の労働論を連想させる。内田は「労働とは贈与である」と言っていた。

 内田が言う、すぐに仕事をやめてしまう若者の労働観とは、つまり「交換」の論理で労働という行為を捉えているわけだ。自分の提供した労働力は、相応の評価や報酬によって全て自分に返ってくるべきであると考えるものは、交換の論理に合わない労働を受け入れない。

 だが内田は「労働は贈与である」と言う。労働は必ずしも等価交換にならない。

 「贈与」とはどのような行為か。例えば次のような一節。

信頼は贈与の中からしか生じない

 これを内田樹の論旨に置き換えれば、我々が未来の他者への贈与として労働するとき、我々は未来の他者を信頼しているということになり、逆に未来の他者からの信頼を根拠に労働しているということになる。それが「生き延びるため」だというのは、そうした信頼関係において、我々は現在の生存を安定させることができることを意味している。

 あるいは内田の論に登場する島崎氏やウェイター氏は、他者のために、契約で決められた範囲の仕事を逸脱しようとし、それが評価される。そのように他者への「贈与」を行う彼らは「信頼」を得ることができるし、彼らもまた他者に対する信頼からそれらの行為をなしているのだ。


 あるいは「自由」を糸口に「『つながり』と『ぬくもり』」とつなげてみよう。

 「『つながり』と『ぬくもり』」では、近代の都市生活では人々はそれまでの封建的なくびきから解き放たれて「自由な個人」になる、と言っていた。

 「交換と贈与」では、資本主義というシステムの中で、あらゆるものを商品として選択できることが「自由」なのだ、と言っている。

 内田はそうした「自由な個人」を「寂しい」と言い、「ぬくもり」を求めて他人と「つながり」たがっている現代人を描いている。

 近内はそうした「自由」な関係とは「交換」に基づく関係であり、そこには信頼がない、と言っている。

 「自由」な個人は他人との信頼関係を作れずに寂しいのである。


 C組Hさんはこの文中に出てくる「甘える/頼る」という対比が、「共鳴し引き出される力」の「予防/予備」という対比に対応している、と言う。

 わからないので本人に解説してもらったところによると、「甘える」は「本当は自分でできることを他人に頼む」という意味だから、やればできるのにやらずにいていつまでもできないままになる「予防」に対応し、「頼る」は「自分ではできないことを他人に頼む」という意味だから、他人との共鳴の中でそれができるようになることを保障する「予備」に対応しているのだそうだ。

 なるほど。納得した。


 このように、「交換と贈与」とこれまでの文章に共通した認識についてはそれなりに語ることができる。

 ではむしろ相違を、対立を語るにふさわしい文章はどれか?

 「自立と市場」だ。

 なぜか?

2022年5月24日火曜日

共に生きる 10 論旨を重ねる

 内田樹の労働論、二つの文章を総合すると、「労働の成果を受け取るのは、未来の他者であり、集団だ」ということになる。

 これはそのまま「未来の他者と連帯する」の問い「未来の他者と連帯できるか?」への答えになるではないか。

 …と言ってしまうと、二つの文章は同じことを言っている、で終わってしまうので、もうちょっとポイントを絞って言ってみる。

 内田は「労働するのは生き延びるためだ」と言っている。この表現を糸口に、大澤の文章にある原発や環境問題、年金問題について語ってみよう。


 これらの社会問題の解決が難しいのは、現在の自分が快適に暮らすことを優先するからである。しかしそうして自分のことを考えていると、環境も年金制度も、いずれは立ちゆかなくなって、その不利益は自分に降りかかる。ということは、例えばいくらかの現状の負担を我慢して「未来の他者」を慮ることは、結局は社会のためであり、ひいては自分が「生き延びるため」なのだということになる。

 そもそもなぜ「未来の他者と連帯できるか?」といった問いが生ずるかと言えば、それが難しいと考えられるからで、「未来の他者との連帯」が難しいと考えるのは、労働の利益を現在の個人が占有するような権利意識に基づいている。二人とも、そうした「個人」観にカウンターをつきつけているのだ。


 そして、こうした趣旨は、「共に生きる」で読んできた5つの文章にも共通している。

 「自立」をテーマとする二つ(三つ)の文章では「依存しない/する」が対比だったが、これは「労働」をめぐる「個人/集団」という対比に対応している。「労働」が個人の営みであると考えることと、他人に依存しない営みこそが「自立」であると考えることは根を同じくする。孤立・完結した「個人」のイメージだ。

 ここではまた「自立」と上の「生き延びる」を重ねることもできる。社会で「自立」して「生き延びる」ためには、リスクを分散させた方が良い。そのためには、一人でがんばってその利益を独占しようとするより、利益を分かち合っておくほうが良い。

 そうした相互依存が自立を安定させる。


 同じように「自分」をテーマにした二つの文章でも、「自分」がスタンドアローンであるような存在だと認識することに対するアンチテーゼを掲げていた。平野啓一郎の「個人/分人」という対比をそれを表わしている。

 自分が自分であることを認めるためには、実は他人に認めてもらうしかない。同じように労働の価値は他人に認められることでしか確かめられない。

 内田の言う「労働」は給料をもらうような仕事だけを指すのではない。我々が生きていく営みの全てが「労働」だといっていい。我々の生の営みの全ては孤立してはありえない。他人との関わりの中にあるのだ。

 そうしたとの関わりの中で自分の存在が承認されていくのだ。


共に生きる 9 問いを立てる

 課題テストで問いに取り組み、最初の授業で読解した「未来の他者と連帯する」は「他者」といい「連帯」といい、ここまで読んできた5つの文章「共に生きる」の流れに乗りそうな気配はあるものの、考えてみてもそれほど炙り出される共通点が浮かんではこない。

 だがそこに内田樹の労働論を挟むと両者がつながってくる。


 評論文の読み方のスキルの一つに「問いを立てる」という方法がある。

 「評論文の読み方の」と限定する必要はない。「問いを立てる」ことは、何かを考えるために、何かを解決するために、あるいは何かを実行するためにですら有効な手段だ。難しい問題は、その問題がどういうものかがわかっていない時に「難しい」のであって、明確な問いが立ってしまえば解決までは半ば以上を過ぎている、と言う人もいる。

 問いに答えることより問いを立てることにこそ価値がある。

 評論文を読むときには、その文章がどのような問いを立てて、どのような結論を出そうしているかを「問い-答え」というセットで抽出してみると、にわかに論の輪郭が明確になる。

 

 「なぜ私たちは労働するのか」ではどのような問いが提起されているか?

 えっ何を言っている? 題名が既に「問い」ではないか。

 だがこの答えは文末近くにそのまま置かれている。

 「生き延びるためである。」と。


 だが「我々は生き延びるために労働している」というテーゼは、間違ってはいないがそれほど内容がない。このテーゼ自体に「どういうこと?」と問いを投げかけたくなる。

 労働するのは生き延びるためなのだという、それだけいうと当たり前に見えることをわざわざ文章にするのは、これに反した認識に対するためだ。

 それが「労働するのは…自己実現のため・適正な評価を得るため・クリエイティヴであるため」という一節で、それに対立して「生き延びるため」が置かれている。

 だが、この「一般的見解」がそもそもどういう文脈で出てきたのかわかりにくい。

 平たくいえば、世の中にはそういうことを言っている若造がいて、そいつらはすぐに仕事を辞めるが、労働ってのはそういうもんじゃないんだ、とオジサンが説教をしているわけだ。

 だがそのように言ってみても、この文章の趣旨がどのあたりにあるのかはまだわからない。


 この文章の適切な問いは次のように表現するのが良い。

労働の利益は誰が享受するのか?

 この答えは?

 「集団」である。これは何に対比されるか?

 「自分・労働者個人」だ。


 つまりこの文章の主旨は「労働の利益は、労働者個人ではなく集団が享受するものだ。」である。

 これと「労働するのは生き延びるためだ」の間にはいささかの距離があるが、その間がどういう論理で結ばれているか説明できるだろうか?


 労働の利益を個人が独占できることは、裏返して言えばリスクも個人で負うことになる。それは危険だ。

 それよりも利益を集団で分配するのと裏表でリスクも集団で分担するのだ。

 だから受益者集団であることは「生き延びる」ことにつながる。


 こうした労働観から素直に連想されるのは「ほんとうの『わたし』とは?」の文中で紹介されるパプアニューギニアの人々の考え方だ。

 彼らは「労働の産物は集団の関係の結果である」と考える。「産物」は、内田の「利益」と同じことだといっていい。作るにせよ、その恩恵を享受するにせよ、それは個人の営みではないということだ。

 つまり内田樹は、パプアニューギニアの人々の労働観は現代においてもそのまま本質を捉えていると言っているということになる。


 もう一つの文章「労働について」は冒頭が「働くとはどういうことか。」で始まる。そしてこの問いは、全体を捉えるための問いとして必ずしも悪くはない。

 ではこの問いに、内田樹はどう答えているか?


 この問いの答えにあたる内容を端的に言うなら、「贈与である」だ。

 これは何と対比されているか?

 無理矢理挙げるなら「報酬を得ること」くらいがいいか。

 だが「働くことは贈与である。」というテーゼは、やはりまだよくわからない。「労働するのは生き延びるためだ。」と同じような、読者をびっくりさせてやろうという筆者の作為が表に立って、趣旨がストレートに伝わってこない感じがする。

 そこで、こちらも上の文章と同じく答えが「個人/集団」のように単語の対比になる問いの形を考えよう。

 そしてこの文章における対比は、二つ想定できる。したがって問いも二つ。

労働の価値は誰が決めるか?

労働の価値はいつ決まるか?

 1に対する答えは「自分ではなく他者」。2は「現在ではなく未来」。

 これを一つにすれば「働くことは、未来の他者への贈与である」と言うことになる。

 これは上の対比「報酬を得る/贈与する」と対応している。

報酬を得る/贈与する

   現在/未来

   自分/他者

 つまり労働は「現在の自分が報酬を得る(ためではなく)/未来の他者に贈与する(ために)」するのである。


2022年5月21日土曜日

共に生きる 11 〈私〉時代のデモクラシー 3 再帰的

 ところで「後期近代」は「再帰的近代」でもあるという。「再帰的」とは「跳ね返ってくる」ことだそうだ。わかりにくい。

 どういうことか?

 「再帰的」とは、そのことの結果が、それ自身の原因になるような構造を言う。結果が「跳ね返って」原因になるわけだ。

 授業では「鶏が先か卵が先か」を例に出した。

 卵が「原因」、そこから孵って育った鶏が「結果」だと言うことは可能だが、その鶏が卵を産むのである。その場合は鶏が「原因」、卵が「結果」だ。この構造は循環している。「再帰性」とは例えばこういう構造を言う。

 上の「後期近代」はどうか?

束縛からの解放/関係の維持

では、解放されればされるほど、バラバラになってしまった不安から関係をつくらずにはいられない。「解放」という「結果」が、「関係の維持」の「原因」として「跳ね返ってくる」。

社会的な理想/一人一人の〈私〉の選択

 「公正な社会」などの「理想」の実現には、みんなが同じ理想を抱く必要がある。そうして「個人」の権利が保障される社会では、それと裏腹の自己責任が一人一人にかかってくる。自分でそれぞれ違った「選択」をすることが求められてくるのだ。つまり「同じ」であろうとすると「違う」ことが求められ、「違う」からこそ「同じ」であること求められる。

 このように、近代化の運動による前期近代成立の「結果」が、今度はそれとは違った後期近代へと移行する「原因」となる。そのような循環構造を「再帰的」と呼んでいる。


 時間のあるクラスでは最後の見開きで扱われている「問題」について論じた。

 後期近代たる「現代」の我々は、〈私〉時代におけるデモクラシーという難題に直面している。

 〈私〉個の確立を目指すが、逆に、デモクラシー集団の形成を必要とする。相反する方向性が「問題」を生む。

 そうした「問題」を、本文で挙げられているいくつかの問題、あるいは前回の衆院選でいえば「ジェンダー平等」の問題、今回の参院選後なら「改憲」問題といった具体的な問題にあてはめて考えることができるだろうか?

 評論が「読める」というのは、ある意味では、抽象的に論じられている事柄が、どのような現実と対応しているかの見当がつくということだ。小説の読解が「具体」から「抽象」を目指すのに比べ、評論の読解は「抽象」から「具体」を目指しているとも言える。

 授業ではいくつかの班の発表を聞き、いずれも適切に問題を捉えていると感じた。本文で論じられている「問題」と現実の「問題」、両者が適切に捉えられ、かつその対応が適切に捉えられる必要があるのだ。

 これは実に、入試の「小論文」のテーマっぽい課題だった。


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