2022年5月26日木曜日

共に生きる 13 対立を超える

 「自立と市場」の松井と「交換と贈与」の近内の主張は、それぞれ逆方向のベクトルをもっているような感触がある。それは二人が何か、ある事柄についての見解が相違していて、直接会って話したら対立してしまうということなのだろうか?

 その印象は間違っていないが、とはいえ逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードだ。

交換/贈与

市場/個人的関係

 まず上記のような対比が対応しているという把握が必ずしも適切ではない。

 松井が「個人的関係」として挙げる熊谷さん親子の例は確かに「贈与」の関係かもしれない。

 だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、そこには不均衡な「交換」の関係しかない。「個人的関係」が「交換」によって成り立っている場合もあるのだ。

 つまり二つ文章の主たる対比は、正確には対応していないのだ。

 「市場/個人的関係」の対比の要素は、人間関係の「多い/少ない」と「弱い/強い」だ。「交換/贈与」はそうした要素の対立ではない。


 また松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけでもない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない

 一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。

ただし、その自由には条件があります。交換し続けることができるのであれば、という条件が。

 交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなって困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。これらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致している。


 また松井は次のようにも言っている。

特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 それこそ近内が問題にしている領域だ。

 確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。

 松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で自由に自立して生きるためには市場が必要になると言っているだけだ。だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。

 そして近内が問題にしているのはまさしくその点、友人や家族との関係における「信頼」の問題ではないか。

 あるいはまた松井の言及する、大震災の時に活躍したボランティアはまさしく「贈与」の論理で動いているではないか。


 こうして丁寧に見れば、二人は同じような認識を共有していて、その見解が全く逆転しているわけではないのである。


共に生きる 12 対立を明確にする

 「自立と市場」と「交換と贈与」は、何だかその主張に逆のベクトルがあるなあ、とまずは感じ取ってほしいが、それを明確に語ることは容易ではない。

 ともかく、比較するためには共通する土俵を用意しなくてはならない。


 まず、論じている領域というかテーマに共通性がある。何か?

 二つの文章はともにある社会システムにおける人間のありようについて論じている。それを表わす言葉は共通してはいないが、対応している。

 「交換と贈与」では「資本主義」

 「自立と市場」では「市場経済」

 資本主義のシステムの中で、我々は「交換」の論理で生きる。

 しかしそこには人間同士の「信頼」が成立しない。

 そうした「交換」の論理と対比されるのが「贈与」だ。

 一方「自立と市場」では「自立」と「市場」は対比されているわけではない。では?

 これは確認済みの「市場/個人的関係」だ。

 「市場」とは市場経済システムにおける関係が構築される場だ。そこでは「交換」の論理で人々は結びついている。

 つまり二つの文章の対比は次のように対応している。

交換/贈与

市場/個人的関係

 「市場経済=資本主義」システムとは、サービスを含む全てが商品として、貨幣を媒介にした「交換」によって取引される社会だ。したがって対比の左辺「交換」と「市場」が対応していることは納得していい。

 一方「個人的な関係」の例として語られる、熊谷さんの母親の息子に対する献身は「贈与」だと言っていい。そこには金銭による「交換」なぞ介在しない。

 二つの文章の対比は確かに両辺で対応している(ように見える)。


 なのに「交換と贈与」では右辺「贈与」が肯定的に、「自立と市場」では左辺「市場」が肯定的に語られている。


 また、「自立と市場」で論じられている「自立」の状態と対応する語が「交換と贈与」にある。

 松井彰彦は熊谷さんの言葉によって「自立」を次のような状態として示す。

依存先が十分に確保されて、特定の何か、誰かに依存している気がしない状態が自立だ。

 ここから連想されるのは「交換と贈与」の次の一節。

誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

 つまり「自立」と「自由」は、反「依存」という意味で共通している。

 更に、「自立」と「自由」はどうして反「依存」たりうるか?

 前回見たとおり、「交換」によって成り立つ関係は「自由」だと言っている。

あらゆるもの、あらゆる行為が商品となるならば、そこに競争を発生させることができ、購入という「選択」が可能になり、選択可能性という「自由」を手にすることができます。

 選択可能性が確保されることで依存から脱して「自由」になる。

 松井もまた次のように言っている。

市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれる

 選択できることが反「依存」を可能にしている。 

自立=自由

 ここでも両論は共通した論点をもっている。

 そして松井論では自由に通じる「自立」は望ましい状態として肯定的な文脈で使われているが、近内論では「自由」は否定的イメージで語られる。

 やはり両者は反対方向の主張をしているような印象として感じられる。

 このことをどう考えたらいいか?


共に生きる 11 交換と贈与

 ここまで8本の文章の論旨を繋げてきた。

 「未来の他者と連帯する」、教科書の「自立」をめぐる3本、「ちくま」の「私という存在」をめぐる2本、プリントの内田樹の「労働」を論じた2本。

 ここに「交換と贈与」(近内悠太)を繋げる。


 「自立」も「私」も「労働」も、どれも「交換と贈与」という観点から語り直すことができる。

 ここでは2点ほど、論点を絞ってその繋がりを考えてみよう。


 題名にある「贈与」という言葉はただちに内田樹の労働論を連想させる。内田は「労働とは贈与である」と言っていた。

 内田が言う、すぐに仕事をやめてしまう若者の労働観とは、つまり「交換」の論理で労働という行為を捉えているわけだ。自分の提供した労働力は、相応の評価や報酬によって全て自分に返ってくるべきであると考えるものは、交換の論理に合わない労働を受け入れない。

 だが内田は「労働は贈与である」と言う。労働は必ずしも等価交換にならない。

 「贈与」とはどのような行為か。例えば次のような一節。

信頼は贈与の中からしか生じない

 これを内田樹の論旨に置き換えれば、我々が未来の他者への贈与として労働するとき、我々は未来の他者を信頼しているということになり、逆に未来の他者からの信頼を根拠に労働しているということになる。それが「生き延びるため」だというのは、そうした信頼関係において、我々は現在の生存を安定させることができることを意味している。

 あるいは内田の論に登場する島崎氏やウェイター氏は、他者のために、契約で決められた範囲の仕事を逸脱しようとし、それが評価される。そのように他者への「贈与」を行う彼らは「信頼」を得ることができるし、彼らもまた他者に対する信頼からそれらの行為をなしているのだ。


 あるいは「自由」を糸口に「『つながり』と『ぬくもり』」とつなげてみよう。

 「『つながり』と『ぬくもり』」では、近代の都市生活では人々はそれまでの封建的なくびきから解き放たれて「自由な個人」になる、と言っていた。

 「交換と贈与」では、資本主義というシステムの中で、あらゆるものを商品として選択できることが「自由」なのだ、と言っている。

 内田はそうした「自由な個人」を「寂しい」と言い、「ぬくもり」を求めて他人と「つながり」たがっている現代人を描いている。

 近内はそうした「自由」な関係とは「交換」に基づく関係であり、そこには信頼がない、と言っている。

 「自由」な個人は他人との信頼関係を作れずに寂しいのである。


 C組Hさんはこの文中に出てくる「甘える/頼る」という対比が、「共鳴し引き出される力」の「予防/予備」という対比に対応している、と言う。

 わからないので本人に解説してもらったところによると、「甘える」は「本当は自分でできることを他人に頼む」という意味だから、やればできるのにやらずにいていつまでもできないままになる「予防」に対応し、「頼る」は「自分ではできないことを他人に頼む」という意味だから、他人との共鳴の中でそれができるようになることを保障する「予備」に対応しているのだそうだ。

 なるほど。納得した。


 このように、「交換と贈与」とこれまでの文章に共通した認識についてはそれなりに語ることができる。

 ではむしろ相違を、対立を語るにふさわしい文章はどれか?

 「自立と市場」だ。

 なぜか?

2022年5月24日火曜日

共に生きる 10 論旨を重ねる

 内田樹の労働論、二つの文章を総合すると、「労働の成果を受け取るのは、未来の他者であり、集団だ」ということになる。

 これはそのまま「未来の他者と連帯する」の問い「未来の他者と連帯できるか?」への答えになるではないか。

 …と言ってしまうと、二つの文章は同じことを言っている、で終わってしまうので、もうちょっとポイントを絞って言ってみる。

 内田は「労働するのは生き延びるためだ」と言っている。この表現を糸口に、大澤の文章にある原発や環境問題、年金問題について語ってみよう。


 これらの社会問題の解決が難しいのは、現在の自分が快適に暮らすことを優先するからである。しかしそうして自分のことを考えていると、環境も年金制度も、いずれは立ちゆかなくなって、その不利益は自分に降りかかる。ということは、例えばいくらかの現状の負担を我慢して「未来の他者」を慮ることは、結局は社会のためであり、ひいては自分が「生き延びるため」なのだということになる。

 そもそもなぜ「未来の他者と連帯できるか?」といった問いが生ずるかと言えば、それが難しいと考えられるからで、「未来の他者との連帯」が難しいと考えるのは、労働の利益を現在の個人が占有するような権利意識に基づいている。二人とも、そうした「個人」観にカウンターをつきつけているのだ。


 そして、こうした趣旨は、「共に生きる」で読んできた5つの文章にも共通している。

 「自立」をテーマとする二つ(三つ)の文章では「依存しない/する」が対比だったが、これは「労働」をめぐる「個人/集団」という対比に対応している。「労働」が個人の営みであると考えることと、他人に依存しない営みこそが「自立」であると考えることは根を同じくする。孤立・完結した「個人」のイメージだ。

 ここではまた「自立」と上の「生き延びる」を重ねることもできる。社会で「自立」して「生き延びる」ためには、リスクを分散させた方が良い。そのためには、一人でがんばってその利益を独占しようとするより、利益を分かち合っておくほうが良い。

 そうした相互依存が自立を安定させる。


 同じように「自分」をテーマにした二つの文章でも、「自分」がスタンドアローンであるような存在だと認識することに対するアンチテーゼを掲げていた。平野啓一郎の「個人/分人」という対比をそれを表わしている。

 自分が自分であることを認めるためには、実は他人に認めてもらうしかない。同じように労働の価値は他人に認められることでしか確かめられない。

 内田の言う「労働」は給料をもらうような仕事だけを指すのではない。我々が生きていく営みの全てが「労働」だといっていい。我々の生の営みの全ては孤立してはありえない。他人との関わりの中にあるのだ。

 そうしたとの関わりの中で自分の存在が承認されていくのだ。


共に生きる 9 問いを立てる

 課題テストで問いに取り組み、最初の授業で読解した「未来の他者と連帯する」は「他者」といい「連帯」といい、ここまで読んできた5つの文章「共に生きる」の流れに乗りそうな気配はあるものの、考えてみてもそれほど炙り出される共通点が浮かんではこない。

 だがそこに内田樹の労働論を挟むと両者がつながってくる。


 評論文の読み方のスキルの一つに「問いを立てる」という方法がある。

 「評論文の読み方の」と限定する必要はない。「問いを立てる」ことは、何かを考えるために、何かを解決するために、あるいは何かを実行するためにですら有効な手段だ。難しい問題は、その問題がどういうものかがわかっていない時に「難しい」のであって、明確な問いが立ってしまえば解決までは半ば以上を過ぎている、と言う人もいる。

 問いに答えることより問いを立てることにこそ価値がある。

 評論文を読むときには、その文章がどのような問いを立てて、どのような結論を出そうしているかを「問い-答え」というセットで抽出してみると、にわかに論の輪郭が明確になる。

 

 「なぜ私たちは労働するのか」ではどのような問いが提起されているか?

 えっ何を言っている? 題名が既に「問い」ではないか。

 だがこの答えは文末近くにそのまま置かれている。

 「生き延びるためである。」と。


 だが「我々は生き延びるために労働している」というテーゼは、間違ってはいないがそれほど内容がない。このテーゼ自体に「どういうこと?」と問いを投げかけたくなる。

 労働するのは生き延びるためなのだという、それだけいうと当たり前に見えることをわざわざ文章にするのは、これに反した認識に対するためだ。

 それが「労働するのは…自己実現のため・適正な評価を得るため・クリエイティヴであるため」という一節で、それに対立して「生き延びるため」が置かれている。

 だが、この「一般的見解」がそもそもどういう文脈で出てきたのかわかりにくい。

 平たくいえば、世の中にはそういうことを言っている若造がいて、そいつらはすぐに仕事を辞めるが、労働ってのはそういうもんじゃないんだ、とオジサンが説教をしているわけだ。

 だがそのように言ってみても、この文章の趣旨がどのあたりにあるのかはまだわからない。


 この文章の適切な問いは次のように表現するのが良い。

労働の利益は誰が享受するのか?

 この答えは?

 「集団」である。これは何に対比されるか?

 「自分・労働者個人」だ。


 つまりこの文章の主旨は「労働の利益は、労働者個人ではなく集団が享受するものだ。」である。

 これと「労働するのは生き延びるためだ」の間にはいささかの距離があるが、その間がどういう論理で結ばれているか説明できるだろうか?


 労働の利益を個人が独占できることは、裏返して言えばリスクも個人で負うことになる。それは危険だ。

 それよりも利益を集団で分配するのと裏表でリスクも集団で分担するのだ。

 だから受益者集団であることは「生き延びる」ことにつながる。


 こうした労働観から素直に連想されるのは「ほんとうの『わたし』とは?」の文中で紹介されるパプアニューギニアの人々の考え方だ。

 彼らは「労働の産物は集団の関係の結果である」と考える。「産物」は、内田の「利益」と同じことだといっていい。作るにせよ、その恩恵を享受するにせよ、それは個人の営みではないということだ。

 つまり内田樹は、パプアニューギニアの人々の労働観は現代においてもそのまま本質を捉えていると言っているということになる。


 もう一つの文章「労働について」は冒頭が「働くとはどういうことか。」で始まる。そしてこの問いは、全体を捉えるための問いとして必ずしも悪くはない。

 ではこの問いに、内田樹はどう答えているか?


 この問いの答えにあたる内容を端的に言うなら、「贈与である」だ。

 これは何と対比されているか?

 無理矢理挙げるなら「報酬を得ること」くらいがいいか。

 だが「働くことは贈与である。」というテーゼは、やはりまだよくわからない。「労働するのは生き延びるためだ。」と同じような、読者をびっくりさせてやろうという筆者の作為が表に立って、趣旨がストレートに伝わってこない感じがする。

 そこで、こちらも上の文章と同じく答えが「個人/集団」のように単語の対比になる問いの形を考えよう。

 そしてこの文章における対比は、二つ想定できる。したがって問いも二つ。

労働の価値は誰が決めるか?

労働の価値はいつ決まるか?

 1に対する答えは「自分ではなく他者」。2は「現在ではなく未来」。

 これを一つにすれば「働くことは、未来の他者への贈与である」と言うことになる。

 これは上の対比「報酬を得る/贈与する」と対応している。

報酬を得る/贈与する

   現在/未来

   自分/他者

 つまり労働は「現在の自分が報酬を得る(ためではなく)/未来の他者に贈与する(ために)」するのである。


2022年5月13日金曜日

共に生きる 8 「社会から選択される」

 「『つながり』と『ぬくもり』」との読み比べは急に抽象度が増して、難易度が上がったように感じていると思う。実はこの文章は2,3年生が使っている「現代文B」の教科書にも収録されていて(違う題名だが)、今年度の最初に、3年生が選択の「現代文探究」の方でこの文章を読んでいるはずだ。みんなは3年生が読んでいるのと同じ文章を読んでいる。

 去年の3年生も読んだ。そこで何人かに質問された一節を最後にとりあげよう。

 次の一節はどういうことを言っているか?

じぶんで選択しているつもりでじつは社会のほうから選択されているというかたちでしかじぶんを意識できない

 「どういうことか」という問いは、何を言えばいいのかよくわからない。

 説明を求められている当該の一節がそもそもわからない場合には答えようがない。

 といって、逆にそのままでわかると感じている場合にも、それ以上何を言うべきかわからない。

 いずれにせよ「どういうことか」を説明するのは難しい。

 ほんとうは目の前に「わからない」と言う人がいて、その人を相手に対話を繰り返す中で、その人が何を「わからない」と感じているのかが徐々に明らかになって、初めて「どういうことか」を言うことができる。

 だからテストで、誰がどう考えて「わからない」と言ってるかもわからないのに、「どういうことか」を訊かれるというのは困った事態ではある。

 が、答えなくてはならない。どうするか?


 実は問題の一節は、その直前が「つまり、」で始まっている。こういうときは「つまり」以前が同じ内容を述べていることが多い。つまりこの文の前の7行がこの一節に対応しているのだ。

 社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならないということである。言論の自由、職業の自由、婚姻の自由というスローガンがそのことを表している。けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、いわゆるシステム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆかざるをえず、そして個人はそのなかに緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。

 前半が「じぶんで選択しているつもりで」に対応していて、後半が「じつは社会のほうから選択されている」に対応している。ここから適当に表現を選んで継ぎ接ぎすればいい。

 逆にこの一節が「わからない」と感じていた人は、この一節が前の7行とほぼ完全な対応を見せていることを見ていないだけだ。視野を拡げてみればそれは一目瞭然なのに、部分を見ていると「わからない」と感ずる。


 さてこれを、後から語られる「資格」を例にして語ってみよう。

 「わかる」とは、ある意味では、それに対応する例が思い浮かぶ、ということだ。

 「例えば『資格』を例にしてみると…」ということができれば、それは「わかっている」ということだ。


 上の「みずからコンテクストを選択しつつ自己を構成する」「じぶんがだれであるかをみずから決定もしくは証明しなければならない」とは、例えば我々は「資格」をとることで自分が何者かを証明する、と言っているのだ。どんな資格をとることも我々は自由に選択できる。調理師免許をとって料理人になる、宅建(宅地建物取引士)資格をとって不動産屋になる、司法試験に合格して弁護士になる…。

 だがそもそも資格とは社会が用意するものだ。社会を動かすための歯車に適した人材であること証明するものが「資格」だ。

 資格をとって何らかの仕事をするということは「システム化というかたちで大規模に、緻密に組織されてゆ」くということなのだ。

 資格をとることは自分が選択したことなのに、それはすなわち社会の要請する役割を果たすことになる。それが問題の一節で言っていることだ。

 例を用いて説明したときのこのスッキリ感を感じ取ってほしい。

共に生きる 7 「個人的関係」をめぐって

 さて、「『つながり』と『ぬくもり』」に「個人的関係」という言葉が出てくる。

こうして私的な、あるいは親密な個人的関係というものに、ひとはそれぞれの「わたし」を賭けることになる。近代の都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもあるのだ。


 ここから連想されるのはどの文章か?

 「自立と市場」(松井彰彦)が思い浮かんでいてほしい。ただし文中にはこの言葉は出てこない。だがテーマである「市場」の対比が「個人的関係」であることを授業で確認した。すぐに連想できただろうか。

 では「個人的関係」をめぐって、鷲田と松井の見解を比較してみよう。


 それぞれの文章で「個人的関係」と対比されている概念を確認する。

 松井の論では「市場/個人的関係」。

 鷲田の論では何か?

 「個人」の対比は「社会」だから、「個人的関係」の対比は「社会的関係」だろう。それにあたる言葉として「社会的コンテクスト」が挙がる。悪くない。だがここでは「システム」がさらにいい。

 農村の「社会的コンテクスト」から逃れて都市へ流入した「自由な個人」は「システム」の中に組み込まれる。そこから逃れようとする先が「個人的関係」だ。「社会的コンテクスト」は近代の「社会的関係」を指し、「システム」は現代の「社会的関係」を指している。したがって「システム/個人的関係」という対比がいい。

  市場/個人的関係

システム/個人的関係

 さてここから少々ミスリードする。

 松井は、自立にとって、前者が有益であることを述べている。

 鷲田の論における対比「システム/個人的関係」は、前に挙げた対比「資格・条件/他者による無条件の肯定・受容」のことだ。そして、若者は前者によって判別されることよりも、後者を求めている。

 とすると、「個人的関係」は松井の論では否定的に、鷲田の論では肯定的に扱われているように感じる。

 どう考えたらいいのだろうか?


 二人の論は一見したところ正反対のベクトルをもっているように見える。

 だが松井は「個人的関係」への依存の危険に代わる「市場」を全面的に礼賛しているわけではない。

先立つものがないのはさすがに困るが、お金で手に入れることができないものもたくさんある。特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。

 この「市場以外のところ」とは、例えば「個人的関係」ではないか。


 一方の鷲田が、「個人的関係」にすがる若者を、単に肯定的に描いているわけでもない。「ますます親密なものの圏内に縮められてゆく」「だれかと『つながっていたい』というひりひりとした疼き」「だれかとの関係のなかで傷つく痛み」などという表現は、あきらかに「個人的関係」の閉塞感を語っている。

 それは「個人的関係」が自立の妨げになる危険を述べる松井の論に見られる認識と違っているわけではない。 


 ここにはやはりいずれも「孤立した個人」のイメージがある。

 「自立」をめぐって、「個人的関係」の中で縛られてしまう危険と、そこから市場への緩い「つながり」に期待する松井の論。

 「自己」をめぐって、「孤立」の不安の中で「つながり」において自分を確かめようとする鷲田の論。

 これらはいずれも、近代において成立した「孤立した個人」のイメージへの乗り越えを企図している。

 そうした意味で、両者はやはり同じ認識を共有しているのである。


共に生きる 6 「近代的個人」とは

  教科書の三つの文章の共通テーマが「自立」だとすると、「ちくま評論入門」の二つの文章の共通テーマは何か?


 「私という存在」といった表現が適当だろうか。あるいは「自分・自己」あたり。

 「ほんとうの『わたし』とは?」は題名の通り「私という存在」についての新しい見方を提示しているし、「『つながり』と『ぬくもり』」は「私という存在」があやうくなった現代人の問題を論じている。


 さて「自己」の捉え方の一つとして「個人」という言葉がある。「私」は一「個人」だ。

 「個人」という言葉をキーにして「ほんとうの『わたし』とは?」と「『つながり』と『ぬくもり』」をつないで考えてみる。

 さらに共通して登場するキーワードをもう一つとりあげる。二つのワードをつなぐと方向性が見えてくる。点が二つあれば線分が引ける。

 それはみんなにとっても見慣れた言葉のはずなのだが、それが重要な言葉であることはなかなか意識されにくい。中学生の語彙にはないからだ。何か?

 「近代」である。


 「個人」と「近代」をとりあげ、その関係を考えてみる。

 それぞれの文章で、「個人」と「近代」がどうだと言っているのか?


 まずそれぞれの文章から、それらが登場する一節を探す。

ほんとうの「わたし」とは?

自分がつねに同一の存在であり続けるというのは、まさに近代個人主義的な人間観です。

それ以上分割不可能な存在という意味が込められています。この西洋近代的な個人とは…


「つながり」と「ぬくもり」

近代化」というかたちで、ひとびとは社会のさまざまなくびき、「封建的」といわれたくびきから身をもぎはなして、じぶんがだれであるかをじぶんで証明できる、あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。身分にも家業にも親族関係にも階級にも性にも民族にも囚われない「自由な個人」によって構成される社会をめざして、である。

近代都市生活とは、個人にとっては、社会的なもののリアリティがますます親密なものの圏内に縮められてゆく、そういう過程でもある


 これらを整理して比較する。比較のためには何らかの基準を揃える必要がある。

 ここでは「近代における〈個人〉とは…」と主語を揃え、述語を比較する。

 「ほんとうの『わたし』とは?」で述べられている「個人」とは、分割不可能な常に同一の存在だ。

 「『つながり』と『ぬくもり』」の「個人」とは、封建的な社会のくびき(コンテクスト)から解き放たれて「自由な個人」となり、かえって親密なものの圏内に押し込まれていくような存在だ。

 これらは共通した認識を語っているのだろうか?


 言い方の違いに惑わされないで、共通したイメージを抽象する。

 共通するのはやはり、独立した・孤立した・完結した「個人」というイメージだ。そういうイメージを心に留めながら上の一節を読み直してみよ。腑に落ちるはずだ。

 そしてこれは結局、全体の共通項である「人は他者とのつながりによって存在する」の裏返しなのだ。


 さらに発展して「近代」「個人」を語る上で、松村と鷲田が、それぞれもう一つ、「近代」「個人」を何の問題として語っているかを把握するためのキーワードを一語ずつ文中から挙げてもらった。

 松村の論では「西洋」、鷲田の論では「都市」が「近代」と「個人」についてまわる。

 これは何を意味するか?


 「西洋」「都市」は「近代」「個人」とどうつながるか?

 それぞれの対比をとろう。

 「個人」の対比は「社会」が普通だが、ここでは上で述べるとおり「他者とのつながり」。

 「近代」は「中世・近世」(「現代」が対比になることもあるが、今回は措く)。 

 あとは「西洋/東洋・アフリカ・アラブ」「都市/農村」という対比を考えておこう。

 これらの対比はすべて関連している。

近代/中世・近世

西洋/東洋・アフリカ・アラブ

都市/農村

個人/他者とのつながり

 近代といえば事の起こりは西洋における産業革命だ。

 工業化によって大量生産が可能になり、工場勤務の労働者が農村から都市に流入する。これが「社会的コンテクストから切り離される」という事態だ。

 松村・鷲田の文章に登場する「個人」という存在は、そうした近代西洋都市でできあがったのである。


 「個人」という言葉は日本でも明治に翻訳語として使われるようになった言葉だ。江戸時代までの人は「個人」ではなかった。コジンナニソレオイシイノ状態だったのだ。

 松村と鷲田の共通テーマである「私という存在」も、そのような「近代的個人」として捉えられる「私」であり、そのようなイメージに対抗するものとして、松村の文章ではパプアニューギニアの人々の考え方が示されている。それは西洋近代以前の人間のありようをイメージさせるものであり、平野啓一郎の「分人」は、それを現代版にリニューアルしたものだ。

 こうした「個人」のイメージは近代にできあがったのだ、という認識はこの先3年間、さまざまな文章で繰り返される認識なので、心に刻んでおきたい。


2022年5月6日金曜日

共に生きる 5 「つながり」と「ぬくもり」

 5つ目に読み比べる文章「『つながり』と『ぬくもり』」の筆者・鷲田清一(きよかず)は「真の自立とは」の筆者でもある。授業で読んだ文章の筆者の名を覚えておくことは有益だ。次に問題集であれ模試であれ、大学入試であれ、同じ人の文章が出題されたときに、読むための構えができる。内容的に重なっていることも少なくない。初めて読む文章でも、そうした構えがあることは有利だ。


 さて、この文章を「読み比べ」よ、と要求されるのは、かなり難易度が高い、と感ずるはずだ。

 今度は、単純に「同じことを言っている」では済まない。

 だがまずは「同じこと」を探さないと「比べ」ようがない。

 共通点は?


 題名に「つながり」とある。もちろん他者と、だ。

 ということは?


 そう、これも「他者とのつながりは大事だ」という認識が共有されているのだ。

 その上で読み比べるのだが、5編全てを共通させようとすると、語れることが薄くなってしまう。「他者とのつながりは大事だ」という共通性に基づいて、論点をもう少し限定して、「『つながり』と『ぬくもり』」と他の4編のどれかを比較する。

 さて、何を糸口に語ろう。


 あちこちから「できる/できない」を糸口にしているらしい声が聞こえる。なるほど「『つながり』と『ぬくもり』」にも「できる/できない」が出てくる。ということは「真の自立とは」と「共鳴し引き出される力」とつなげて考えることができるかもしれない。

 とはいえ「真の自立とは」は同じ鷲田の文章なので、ここは伊藤亜紗と鷲田が、「できる/できない」という対比を用いてどのような論を展開しているか比較してみよう。

 ここでもまずは共通点だ。その上で相違を語ってみる。


 伊藤・鷲田に共通するのは、雑に言えば、「できる/できない」で分けてしまうのは良くない、といったような認識だ。「できない」と言われて排除されるのはつらい。

 ではどうするか。ここからが相違点だ。


 伊藤・鷲田の主張を「できる/できない」というキーワードを含む形で端的に表現する、というだけでもまずは上出来。

 だが、単に「並べる」ことと「比べる」ことは違う。並べられても、だからどうだというのかわからない、ということもある。関連づける観点を示さないと、「問題」が見つからない。


 例えば、伊藤の主張は「できない」としても誰かの助けでできればいいのだ、という「行動」面についての主張をしていて、鷲田は「できる」ことを求められるとつらいので他人との「つながり」によって自分の存在を確かめたくなるといった「精神」面について論じている、とまとめたのはC組のSさん。「行動/精神」といった対比を用いて、二人の論の違いを示した。

 同じくC組のHさんは、伊藤の「できる/できない」は障害のある方が「できる/できない」ことを問題にしており、鷲田は若者や子供が「できる/できない」で悩んでいることを問題にしている、と対比した。論の対象となっている対象者の範囲の違いを示した。

 こうした、対比的な言葉をそれぞれの文章に対応させて比較するのも有効だ。


 ところで「できる/できない」を、それぞれの文章ではどのような言葉に言い換えているか?

 伊藤の文章では「能力」がそれにあたる。

 鷲田の文章ではそれが「資格・条件」という言葉で表現される。

 ここから「できる/できない」で分けるのは良くない、だからどうすると言っているのか、と考えてみる。

 伊藤は、「できる/できない」は、個人の「能力」のことを言っているから良くないのであって、他人との共鳴の中で「できる」ようになることもあるといい、そのような「能力」観を提示している。ここでは「能力」をめぐって「個人/他人との共鳴」という対比がある。

 鷲田は「資格・条件」で価値付けられるような社会の息苦しさから、若者は「他者による無条件の肯定」を求めるようになっている、と言っている。「できる/できない」という評価基準そのものからの離脱を述べているのだ。対比は「資格・条件/他者による無条件の肯定」だ。

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