「自立と市場」の松井と「交換と贈与」の近内の主張は、それぞれ逆方向のベクトルをもっているような感触がある。それは二人が何か、ある事柄についての見解が相違していて、直接会って話したら対立してしまうということなのだろうか?
その印象は間違っていないが、とはいえ逆ベクトルを強調するのはいささかミスリードだ。
交換/贈与
市場/個人的関係
まず上記のような対比が対応しているという把握が必ずしも適切ではない。
松井が「個人的関係」として挙げる熊谷さん親子の例は確かに「贈与」の関係かもしれない。
だがもう一つの小十郎と商人の間には「贈与」の関係などなく、そこには不均衡な「交換」の関係しかない。「個人的関係」が「交換」によって成り立っている場合もあるのだ。
つまり二つ文章の主たる対比は、正確には対応していないのだ。
「市場/個人的関係」の対比の要素は、人間関係の「多い/少ない」と「弱い/強い」だ。「交換/贈与」はそうした要素の対立ではない。
また松井彰彦は市場を全面的に肯定しているわけでもない。確かに市場が自立を助けると言うが、次のようにも言う。
市場は多くの場合、さまざまな選択肢を私たちに与えてくれるが、それとても絶対視すべき存在ではない。(略)市場に依存しきってしまうこともまた、脆弱な基盤の上に立った自立と言わざるをえない
一方「自由」の危険を近内は皮肉交じりに述べる。
ただし、その自由には条件があります。交換し続けることができるのであれば、という条件が。
交換し続けることができるのであれば、というのはお金があれば、という意味だから、お金がなくなったときには交換できなくなって困窮する。これは松井が言っている「脆弱な基盤の上に立った自立」だ。これらが好ましくないことにおいて、二人の認識は一致している。
また松井は次のようにも言っている。
特に精神的な満足感は多くの場合、市場以外のところで手に入れるしかない。
それこそ近内が問題にしている領域だ。
確かに我々は資本主義の市場経済システムの中で生きている。そこにあるのは「交換」の論理だ。
松井彰彦は、あくまでこの資本主義社会で自由に自立して生きるためには市場が必要になると言っているだけだ。だがその「交換」の論理を親子や友人にまで適用していいと言っているわけではない。
そして近内が問題にしているのはまさしくその点、友人や家族との関係における「信頼」の問題ではないか。
あるいはまた松井の言及する、大震災の時に活躍したボランティアはまさしく「贈与」の論理で動いているではないか。
こうして丁寧に見れば、二人は同じような認識を共有していて、その見解が全く逆転しているわけではないのである。